トルバドゥールと姫君 ―喧騒と埃の中で―





「旨いぞ、これ。食べてみろ」
目の前に並んだ皿の上の料理を指し示す細い指を、アレックスは見ていた。そしてゆっくり視線を上げてその主を見る。
「このソースの辛味がまた堪らなく合うんだ」
喜々として説明しているその顔は輝いている。こんな顔を今までに見た事があっただろうかとアレックスは考えた。
――恐らくは、無い。
「早く食べてみろって」
得意満面で覗き込んでいるその瞳に促されるように、アレックスは料理を一口含んだ。
「旨い、ですね」
「そうだろ?」
瞳は一層輝いた。
こんなに活き活きと笑う顔を目にした事は無い――宮殿では――とアレックスは思う。
ここは街中の雑踏。埃っぽいバザールの中の、食べ物屋だった。


話は少し前に遡る。
「出掛ける」
部屋から出て来た姫君はそう言うとチラリとトルバドゥールを見た。
「出掛けるって、どこへです?」
いつにも増して姫とは思えない、王子のような――と言うよりもまるで軽装のその格好は街の少年のように見えた――姿を眺めながらアレックスは問うた。
「街へ行く」
「街へ――ですか?」
驚いた表情のアレックスに、姫君はまたチラリと視線をやった。
「黙ってついて来い」
「――この事をお父上は御存知で?」
訝しげに聞いたアレックスに、姫君は僅かに首を傾げた。
「お前がお父様なら――」
にこりと笑う。
「こんな事を許すか?」
「――いいえ、決して――」
「なら、そう言う事だ」
爽快にまた笑うと、姫君は短い衣服の裾を翻して廊下を行く。その後姿を暫く呆然と眺めていたアレックスは、やがて我に返ると、急いで姫君の後を追った。剣を手に、しかしリュートは(勿論の事)そこに置き去りにしたままで。


「あんな抜け道、いつ見つけたんですか――?」
街中のバザールの食べ物屋で、二人は向かい合っている。
バザールは道の両側に狭い間口の店が立ち並ぶ市場だった。所狭しと言った具合に、それはひしめき合ってずっと向こうまで続いている。
そのバザールへ来るなり、心得たようにこの店へと入って行く姫君の後ろ姿を見ながら、アレックスは嘆息した。通い慣れた、と言う事がすぐに見て取れたからだった。
「まあ子供の頃だな。だけど宮殿に抜け道っていうのは普通付き物だろ――?」
座るなり料理の注文をし終えた姫君に向かって渋面で言ったアレックスに、姫君はそう答えた。
「……いいんですか、そんな事言って……」
「あ、お前誰にも言うなよ?」
「……言いませんけど別に――」
その言葉の先を、アレックスはげんなりして飲み込んだ。何だか論点がズレている。
「こんな事はもしかして『よく』あるんですか――?」
答えを聞きたくも無いようなその質問を、アレックスはげんなりした表情のまま投げた。この店へ入るまでの迷いの無い足取りと、入るや否や注文を始めたその行動からして、答えは火を見るよりも明らかだった。先程から俄かに頭痛がしているのをアレックスは感じていた。
「お前が来るまではしょっちゅうな」
店の他の客の様子を見ながら姫君は答えた。店はそこそこ繁盛しているようで、広いとは言えない店内に、他の客の賑やかな話し声が飛び交っている。
「――まさか、一人、で?」
「侍女や護衛を連れて歩くと余計に目立つだろう」
「―― 一応私もその護衛のつもりなんですが」
面白く無いと言った感じのその口調に、姫君の視線がアレックスに戻された。そして数秒見つめてから、また視線は賑やかな客達の方へと向けられる。
「お前なら、わかると思って」
今までとは違う静かな口調が、賑やかな声の間から聞こえた。
その言葉にアレックスが何かを言おうとした時、女が料理を運んで来た。
「あら兄ちゃん、暫く来なかったねえ」「ああ小母さん、久し振り」などと姫君は親しげに女と挨拶を交わしている。
――兄ちゃん?
「それに珍しいねえ、二人連れなんて」
「ああ、俺の友達」
――俺?友達?
内心驚きながら無言で二人を見交わすアレックスを他所に、二人は楽しげに世間話に興じている。そして女が去った後、姫君はアレックスに視線を戻した。
「――と言うわけだから」
肩を竦める。
――と言うわけ?
「お前、『俺』、の『友達』な」
にっと笑った。
「――」
「さあ、食べようかアレックス」
事の流れについていけないアレックスは無言で料理を見つめた。この国の庶民的な料理が並んでいる。
「旨いぞ、これ。食べてみろ。このソースの辛味がまた堪らなく合うんだ」
楽しげに、そして得意満面で説明する姫君にまた視線を移したアレックスは、促されて徐に料理を口に運んだ。
「旨い、ですね」
「そうだろ?」
姫君は一層瞳を輝かせた。
「なあアレックス、この野菜は今が一番の収穫時なんだ」
自分も料理を口に運びながら姫君は言う。
「この野菜の育ち方が良いって事は、今年は天候に恵まれてるって事なんだ」
アレックスはふと瞳を上げた。
「そうすると、これから収穫を迎える農作物も出来が悪くないか、豊作って事だ。今取れるこの野菜が育つ頃は雨季だから、その頃に丁度良い量の雨があったって事になる。その時に蒔いた農作物の種も良い具合に雨を含んでいるだろう。それから今の時期に日照りが強すぎるとこの野菜は弱いからすぐ駄目になる。それが目安になるから、日照りも強すぎないって事だ。だから、このまま行けば日照りも丁度良くて、これから育つ農作物にもいい環境だから、収穫率は良い筈なんだ」
そう言いつつも料理を平らげていく姫君にアレックスは視線を注いだまま、手を動かす事を忘れていた。
「それからこの魚はよく太っているだろう。て事は、川のずっと上流の方でよく雨が降ってるって事なんだ。雨が多ければそれだけ川に養分が沢山流れ出て、小魚の餌が沢山いる。だからそれを餌にする大きい魚もよく太るし数も獲れる。川が豊かだって証拠なんだ。何より、雨は人間にとっても大切な恵みだからな。豊かに流れる川のほとりに国は栄えると昔から言われているだろ?」
そう言い終わる内には料理を既に平らげてしまっていた。
「お前、食べないのか?」
動きを止めているアレックスの料理が全く減っていないのを見て姫君は言った。
「――その為に?」
「うん?」
「その為に姫――」
そこまで言ってアレックスは急いで咳払いする。
「いや、その――」
言い澱んでいるアレックスの心中を察して姫君は言った。
「友達なんだから『君』、でいいんじゃないのか?」
思い切り虚を衝かれた表情になったアレックスだったが、仕方無く言葉を続ける。
「その、……君――は、こんなところへ足を?」
それを聞いて机に頬杖を付いていた姫君はにこやかに笑った。
「俺、『あそこ』の料理よりもここの方が好きなんだ」
その活き活きとした表情は心からの言葉のように思われた。何より、この解放感に溢れた空気と熱気は、確かにあの閉じ込められた空間よりは人を活き活きとさせる、とアレックスは思った。
その時、果たして自分はどうだっただろう、と思った。かつて宮殿に縛られていた頃、願ったとしても所詮は無理な事と始めから諦めてしまっていた自分に、こんな行動を起こす勇気はあっただろうか――?
――『お前なら、わかると思って』
その時先程の言葉が甦って、アレックスは姫君を見た。また視線を他の客達へと向けた姫君の表情は、そこに生きる人々の活気に満ちた姿を見守るような優しさに満ちている。
その時アレックスの中で何かが大きく変化した。それは今まで見えなかったものに急に気付いて大きく音を立てて反転する、そんな心の動きだった。
「食べないんなら、食うぞ」
我に返ると、姫君の視線が再びこちらを向いている。
「――食べますよ」
そう言うと急いでアレックスは料理を口に放り込み始めた。よく実った野菜の歯応えと、魚の旨みが口一杯に広がって行く。一口一口が格別な味に思えた。豊かな国の味というものを初めて噛み締める思いがした。
「ところで――」
一心に食べるその姿を暫く眺めてから、姫君はふいに口を開いた。
「剣の稽古はこんな時の為にも役に立つと思うぞ。街で暴漢に襲われないとも限らないからな」
「私はその時の為の護衛であって、と言うよりも、こんな事が元々無茶な事でしょう。それに、あれから床磨きに3日で音を上げたのはどなたでしたっけ?」
「あれは考えたら無駄な事だとわかっただけだ」
「おや、打倒何とか、とかあの時に聞こえましたが」
「それは遣り方を変えただけだ――『闘わずして勝つ』――だろ」
アレックスの手がふいに止まって姫君を見た。
「何だ?」
「――いえ、別に」
他意の無いその瞳に、アレックスは再び料理の皿に視線を移して黙った。
「なあ、前に――」
姫君の静かな声がまた響いた。
「続きの無い歌ってあっただろ?騎士と姫君の話」
「――ええ」
「ずっと考えてたんだけど――やっぱり『待つだけ』ってのは嫌なんだ。私がその姫なら、共に闘う――」
姫君を見ていたアレックスは暫くしてから溜息を吐いた。
「騎士として、それは決して喜ばしい事だとは思えませんが」
「じゃあその姫は待つしか無いのか?選択の余地は無いのか?」
アレックスは暫く黙ったが、徐に口を開いた。
「――もしも姫がそれで命を落としたら……その騎士は死ぬより辛い地獄に墜ちるんじゃないでしょうか」
静かに紡がれたその言葉に、姫君は言葉を失った。
「共に生きられればいい、けれどもし共に生きる事が叶わないとしたら、共に死ぬ事よりも、ただ姫に生きていて欲しい、とそう騎士は望んだと思いますけれど――」
そう言ってから、アレックスはまた溜息を吐いた。
「とは言え、それはある種、男の身勝手と言うものかも知れません。もし騎士が死んで、一人残された姫君の気持ちを慮るのならば、やはり辛い気持ちは同等でしょうからね」
片手で頬杖を吐いて聞いていた姫君の眉間に、いくつかの皺が刻まれた。
「――何だか色々と複雑なんだな……」
やっと料理が姿を消したアレックスの前の皿に目をやりながら、姫君はぽつりとそう呟いた。


活気に溢れる市が建ち並ぶ通りを、人込みに紛れて護衛と姫君は歩いて行く。途中、いくつかの知った店に立ち寄っては姫君は店の者に声を掛ける。景気はどうかとか家族は元気かとか家畜は病気をしてないかとか、他愛の無い世間話をさり気なく繰り返す。
そうしている内に「さて、そろそろ戻らないとな」と姫君がアレックスを振り返った。
「アイツらがうるさいんだ」
「アイツ?」
「侍・女」と声を潜めて姫君は囁いた。
「『どこへ行ってらっしゃったのですか姫様――?』とかもうお父様よりうるさいんだ」
言い方を真似るその仕草に、アレックスは思わず笑った。
「それは急いで戻らないとマズイですね――では私と剣の稽古をしていた事にしましょう」
え?と言ったふうに、姫君はアレックスを見る。
「まあ今日から再開したと言う事で。……実際には明日からですけどもね」
姫君の瞳が輝いたのを見てアレックスは内心苦笑する。
「こんな事が続くようなら、せめて護身術くらい身に付けて貰わないと私の身が持ちませんから」
そう言いながら嬉しげに何度も頷く姫君を見て、「全く何て姫だろう」とまた心の内で微笑したが、その微笑が我知らず双方の瞳に表れていた事にアレックスは気付かなかった。
「帰りましょう」
そう言ってアレックスは先に立って歩き始めた。その背を姫君は追って歩いたが、増えてきた人込みの中で行き交う人に何度もぶつかりそうになって、小さな体はなかなか上手く進めなかった。
少し先で立ち止まって待っていたアレックスの側へと漸く辿り着くと、黙ったままアレックスは姫君の手を取り、そしてまた歩き始めた。
自分の手を包んでいるその手の大きさと力強さに、姫君は雑踏の中で初めて父親以外の男性と手を触れ合っているのだと気が付いた。けれども不思議とそれは嫌な気持ちではなかった。寧ろその体温に不思議な安堵感があった。その手が自分をずっと護っているのだと、今更ながらに姫君は思った。
そして、あのリュートを爪弾く手。
あの少し物悲しく美しい音色を作り出すその手が、今自分に触れている。
不思議と姫君の体の中にリュートの音色が流れ込んで来て、鳴り始めたように思えた。その音は街の喧騒の中で、何にも掻き消されずにずっと心の中で響いている。
姫君は自分の手の指に僅かに力を入れると、その大きな手を握ってみた。すると先程よりずっと安堵感が増して気持ちがふんわりと暖かくなった気がした。
――この人込みがもう少し続けばいい
ふとそんな事を考えた自分に、姫君は今までに感じた事の無い甘やかな気分が生まれている事に気が付いた。

雑踏が生み出す喧騒と乾いた埃の中で、その心は静かに始まっていた。けれども姫君がそれを知る事になるのは、もう少し後のお話。

<07/09/24>

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※補足説明
*話の中の剣の稽古についての話は「剣と姫君」を、騎士と姫君の話については「恋歌」を御参照下さい
*農作物云々の話は適当なのでサラリと読み流して下さい。ただ宮殿に届けられる食材はやはり上物が多いようです