トルバドゥールと姫君 ―剣と姫君―





ガキンと言う鈍い金属音と共に物体が回転しながら青い空へと向かって放り上げられると、それは陽の光を受けてキラキラと煌き、それから今度は放物線を描くように方向を変えると、地面へと真っ逆さまに落下して行く。やや回転速度を緩めたそれは相変わらずキラキラと光を振りまいて、やがて鋭利な先端が物を切り裂くような甲高い音を立てて地面に突き刺さった。
通常の長さよりやや小振りなその剣は、地面にしっかりと銜え込まれたように真っ直ぐに突き立っている。
「――」
先程までは確かにそこにあった筈の、剣の姿が掻き消えた手の平を、姫君は言葉も無くじっと見つめている。そして次に、弾き飛ばされ、主の元を離れた場所へと追いやられた哀れな用済みの剣の行方を目で追い確認すると、再び前を向いて、目の前の仇を下から強く睨みつけた。
「そうやって睨んだって、敵は勘弁しちゃくれませんよ」
手にした剣を肩に凭せ掛けながら、アレックスは淡々と言い放った。その剣先が陽の光を受けて時折キラリと瞬く。
そして姫君の体に付けられた防具を指し示しながら、アレックスは再び口を開いた。
「戦場ではそんなものは何の役にも立ちませんからね。自分を護るのは、所詮自分自身です。自分の力量もわきまえず闇雲に剣を振るったところで、こんな事になるのがオチです。そんな人間は真っ先に命を落とします」
睨み続けている瞳がその言葉に揺らめいた。
「この刃挽きした剣でさえ、私がその気になれば貴女は今日何回死んでいたか知れません」
畜生…!、と噛み締めた唇から呻くような声が漏れた後、言葉が叩きつけられるように吐き出された。
「絶対にお前からそのうち一本とってやる…!」
「ああ、それは――」
アレックスはそれを聞いて麗しく微笑んだ。
「無理です」
そして翠色の澄んだ眼差しは真摯な佇まいをそこに浮かべた。
「特に今の貴女には。そんな気持ちで剣を振っても所詮はまた同じ事を繰り返すだけの事。いっそ諦めてこれを機に大人しく花嫁修業でもしたらどうです」
「……」
更に激しく相手を睨みつけていた瞳は憤怒の色を浮かべると、プイと背を向けてその場を足早に去って行く。如何にも腹立たしさを露にしたその後姿を見つめながら、やれやれと言う表情を顔に浮かべたアレックスは、今居る中庭からそこに面した回廊の一つへ向かおうと自分も歩き始めた時、その柱の一本に凭れてこちらを見ている男に気が付いた。
「もうちょっと手加減してやりゃあいいのに」
面白そうにニヤニヤと笑っていた男はアレックスにそう声を掛けた。
アレックスは一瞬立ち止まったが、しかしまた歩き始めると、その男の横を摺り抜けざまに答えた。
「貴方方がそうやって今まで甘やかして来たんです」
「ただの剣戟の稽古なのに厳しいねえ」
「戦場ではあの思い上がった傲慢さが命取りです」
それに、とアレックスは相手を振り返った。
「だいたい、何で王子でも無いあの姫が剣の稽古なんてしているんです。それがそもそもの間違いでしょう?」
「さあ、性分じゃねえの?あの姫様の事だからよ」
そう言うと、男は凭れていた柱から身を起してアレックスに近付いた。
「まあ俺も他所者だからな、アンタと同じで。その辺の事情は知らねえよ」
「確か貴方は、軍の方でしたね。時々ここでお見掛けした事があります」
「ああ。今までは、俺たち軍の者が交代であの姫様の稽古の相手を仰せつかっていたからな」
そう言うと、男はアレックスの手にした剣に目を遣った。
「なかなかいい手をしてるねえ。それに、なかなかの太刀筋だ」
ニヤニヤと笑いながら、顎を手で撫でた。
「アンタの剣の師匠は?どこで習った?」
その問いにアレックスは視線を相手の顔に当てたまま、黙って答えない。
「それに戦場というものを随分とよく知っているようだが」
男は尚も微笑を浮かべながら問うた。
「どこで経験した?」
黙したまま男を見ていたアレックスの視線に俄かに緊張の色が走って、剣を持った手に力が加えられた。その急に強張った空気を感じ取って、男は慌てて手で制した。
「わ、ちょっと待て――」
一歩退いて急いで付け加える。
「別に詮索するつもりは無い。ただの興味本位だ」
その言葉に尚も暫く男にじっと視線を注いでいたアレックスはやがて緊張を緩めたようにやや力を抜いた。
「言いたくない事は誰にだってあるよな。俺にだってその、二つや三つはある――」
男はそう言うと、急に馴れ馴れしい笑いを浮かべた。
「悪かった」
そして今度は親しみを籠めた笑顔になって言った。
「俺は、ディアッカだ」
まだいくらかいぶかしんではいたものの、その笑顔に少し解きほぐされたようにアレックスも元の表情に戻って口を開いた。
「――私は――」
すると言いかけたアレックスを制して、ディアッカと名乗った男は言った。
「ああ、知ってるよ。『アレックス』だろ――アンタ、侍女の間じゃ有名人だからな」


翌日、アレックスは宮殿の回廊を歩いていてふと中庭に遣った視線の先が捉えたものに足を止めた。暫くそれをじっと見ていたが、短く溜息を吐くと歩を中庭に向けて踏み出し、数歩行ったところでそこにある後姿に声を掛けた。
「立ち木を相手に練習しても効果はありませんよ」
振り向いてアレックスの姿を認めた姫君は、ムッとしたように睨んだ。手には剣を持ち、一本の木に向かい合うように立っている。その木には複数の細い傷跡があった。
「相手は動かない木ではありません。心を持った人間ですから」
アレックスは木を見つめ、そしてそこに立つ姫君に視線を移した。
「姫君は、何故剣を学ぼうとするのですか」
アレックスの静かな声がそう尋ねた。不機嫌に黙っていた姫君はつと瞳を逸らして手に持った剣の先を見つめた。
「ただ待つだけは、嫌なんだ」
小さな声で呟かれたその声は、乾いた空気を伝わってアレックスの耳に届いた。
「小さい頃、一度だけ戦争があった。お父様は軍を率いて戦地へ赴き、何ヶ月も帰って来なかった。その間、女や子供達はただ無事を祈って待つしかなかった。やがてやっと戦争が終わってみんなが帰って来たけど、帰らない者もいた。侍女の恋人や家族がそうだった」
剣を見つめていた瞳はアレックスを見上げた。
「だから待つだけは嫌だ。私だけがここで安穏としているのは、絶対に嫌だ」
直向な眼差しがその意志の強さを物語っていた。暫くアレックスはその眼差しを受け止めていたが、やがて溜息を吐いた。
そしてある意味ディアッカの言った事は正しかったようだ、と心の内で呟いた。この姫の気性と言うものは、そう簡単に変えられるものではないらしい。
「護衛泣かせですよね」
「何?」
「いや全く。もうちょっと大人しい姫君だと楽だったんですが」
小声でそう呟くと、アレックスは姫君の手から剣を取った。
「剣は相手をただ倒そうとするだけでは勝てません。まず己を知る事です。それを知る事によって、自分がどう闘えば良いのかを学ぶのです」
「己を知る?」
「心を鍛錬するのもまた剣の道です。弱さも恐れも全て含めて自分と向き合う。それが大切です。そうする事によって自分の剣がわかるのです」
「へえ…」
「そして必ずしも勝つ事だけが剣ではありません」
「え?」
「相手の力を見極めて、無理な戦いは避け闘わずして勝つ、それも大切な事です」
「……」
「私は剣の師に、『敵に立ち向かう上で大切な事は何か』と尋ねたことがあります。師は、『死を恐れない心』とそう言いました。その言葉はずっと今も私の心の中で剣を振るう時に自身を律するものです。けれど、姫君にはそうであって欲しくない」
「え――?」
「『生きること』をまず考えて欲しいのです。『死』では無く、『生』を。どうやって『生き残る』のかを」
「アレックス…」
「生きる事もまた剣の道だと私はそう思います。でも今の貴女では、ただ死に急いでいるだけです」
「その、どうやったら己を知る事が出来るんだ……?」
姫君は瞳を輝かせてそう尋ねた。先程までの腹立たしい思いはもうどこかへ消え失せている。
「そうですね、では手始めに――」
「うん」
「宮殿の床でも磨いてみてはどうですか?」
「はあ?」
見当はずれなその答えに、姫君は不得要領な表情でアレックスをまじまじと見ている。
「床?」
「そうです。掃除は鍛錬の修行の大切な基礎ですから。……でも嫌なら別に――」
にこりとアレックスは微笑んだ。
「や、やる!」
「あ、そうですか」
「やってやるよ!」
「では明日から頑張って下さいね」
「何だ床掃除くらい」
「宮殿の床の総面積ってどれくらいでしたっけね」
「げ!まさか全部?」
「だって修行ですから」
「――」
眉間に皺を寄せてクルリと背を向けると、姫君は宮殿へと向かって歩き出したが、また振り向いて人差し指を指し示すと、「待ってろよ!打倒、アレックス!!」と言い残して去った。
「何だ、ちっともわかってないじゃないですか――」
一人そう呟くと、アレックスは手にした剣を見る。
「負けず嫌い」そう言って笑うと、瞳を上げて空を見た。
ただ青く、澄んだ空が頭上の視界一杯に広がって、そこに薄っすらとたなびくような一筋の雲が流れて行くのが見える。
暫くそれを見ていたアレックスは、やがて自分も姫君の後を追うように、宮殿へと向かって歩き始めた。


翌日から宮殿の床を磨く姫君の姿に人々は驚き、特に姫付きの侍女は泣いてそれを止めるように頼んだが聞き入れられなかったとか。


「己を知る」と言うその言葉が、後にこの姫に大きな意味を与えて行く事になる――

<07/07/22>

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