トルバドゥールと姫君 ― 花祭りの長い一日 ―





 乾いた風が吹きぬける、街角の日干しレンガの壁に凭れてアレックスは通りを眺めている。もうすぐここを花車が通るだろう。この国特有の花を溢れるほどに飾りつけた車に乗せられたカガリ姫が、嫌いな王族の姫君の衣装に身を包み、苦手な姫らしい慎ましやかな笑顔を浮かべ、手を振る国の民に向って花を投げるのだ。それが今日と言う日に姫君に与えられた役目だった。
「何をしているのだろう、俺は」
 日干しレンガに凭れながらアレックスは独り呟く。任務を解かれた筈の今日一日は姫君の側で護衛をする必要が無い。寧ろ、姫君からは「休暇だ」と申し渡されている。
 にも関わらず、こんなところで何を突っ立って待っているのかとアレックスは思う。
 する事が無いと言うのは返って体が休まらず、何だか妙に落ち着かない。宮殿の中を歩けば今日の為に忙しなく働く侍女や召使い達を目にして暇を持て余している自分の居場所が無い事に気付くだけだった。
 任務から解かれてみると、改めて自分にはこんなにも居場所が無いものかとアレックスは思った。長い時間を姫君の側で過ごしていた為に、こんなふうにぽっかりと空白の時間が空いた事は今まで無い。そうしてみると、自分と言う者は如何に姫君の側にいる事が当たり前になっていたのかと気付く。余所者である自分が、この宮殿の中で居場所があったのは姫君の護衛としての役目があったからに他ならない。
 吟遊詩人として宮殿にやって来た頃は、ただ王族の退屈凌ぎとして雇い入れられ、宮殿の片隅で寝起きしていたのが、今は姫君の住まう宮殿の中心に部屋を得ている。それが心ならずもこの国へとアレックスがやって来た目的を達するに十分な結果となったが、にも関わらず、今居場所が無いなどと感傷的な事を考えるのは奇妙な事だった。思いもかけず、姫君の存在に深く関わりすぎたとアレックスは思う。深く関わった事が目的に多いなる糧をもたらしているのに、それが予想外のところで奇妙な影響を及ぼしつつある。「何をしているのだろう」と言う彼の呟きは、その漠然とした奇妙な、正体のわからないものに対する呟きでもあった。
 通りに増え始めた人の波に目をやったアレックスの肌に、一目姫君を見ようと集まってくる人々の熱気が伝わる。民に慕われているのは姫君と彼らの距離が近い証拠だ。ふとアレックスは自分がかつての国で民にそんなに身近に感じられていただろうかと思った。いや決してそうでは無かったろう。この姫君のように民と直に接しようなどとは思いもかけなかった。そこには至極当然のようにどこかで線が引かれていた筈だ。
 ――カガリ姫と言うのは
 アレックスは思った。
 人にその居場所を与えそれを守ろうとする。
 それは生まれながらにして持った人を治める者としての天分であり、そしてまた彼女自身の人としての資質でもある。
 その為に対価を払っても厭わない。
 かつて同じ境遇にあった自分に、そんなものが少しでも備わっていたならば、せめて何かを変える事ができたのだろうかとアレックスは朧気に思う。
 その頬を、また乾いた風が撫でて行く。


 「花祭り」と言うものが行われるとアレックスが知ったのは数日前の事だった。
 この国特有の花が国中に咲き乱れるこの時期に、ただそれを飾ったり贈ったりするだけの風習だったのが、いつの頃からか王族の姫君が「花車」と呼ばれる車に乗って、街中に花を投げてまわると言う行事が行われるようになった。かつて戦から戻った兵士をある姫君が慰めるために始めたものだったのが、いつの間にかそれが花祭りの最も重要な儀式となっていった。
「去年までは何とか逃げ回って従姉妹の姫にやらせてたんだが」
 頬杖をついた姫君が渋面になる。
「今年はお父様の命で何としても私が乗らなければならなくなった」
 いい加減国の民に姫らしい姿を示せ、と言う事らしい、と姫君は溜息を吐く。当日は正式な王家の姫君としての衣装を身に付けねばならず、それは彼女の最も苦手とするものだった。
「見た目の姿が全てじゃ無いと思うぞ」
 唇を尖らせてそう言う姫君に、微笑を漏らしながらアレックスは言う。
「お父上がその姿を見たいと望まれているのでしょう」
 姫君が目を見開いてアレックスを見る。
「…そうなのか?」
「…だと思いますよ」
「ふーん……」
 暫くアレックスの顔をまじまじと見ていた姫君が「何でそんなことわかるんだ?」と聞いたのに対して、アレックスは答える。
「私ならそう思うと思うからです」
 一瞬微妙な沈黙が流れた後、アレックスは付け加えた。
「妹ならそう思うだろうと」
「……へえ」
 頬杖を付いた姫君の表情が僅かに気色ばんだ。
「お前ってほんとに妹が好きなんだな」
 腹違いの兄妹間での結婚が珍しくはない時代。特に王族の間では常習化している国さえあった。
「……」
 いつものように場をはぐらかす言葉を言おうとしたアレックスは今日に限って何も言葉が出てこず、ただ奇妙に沈黙で答えた。それが如何にも姫君の言葉を肯定したようになり、けれども別段否定する必要も無いだろうその言葉に、何故自分がそんなに拘っているのかとアレックスは妙な気になった。
 アレックスがそんな思いに囚われている間、姫君もまた何かを考えるような面持ちで視線を落としていたが、やがて口を開いた。
「アレックス、お前、花祭りの日は護衛しなくていいぞ」
「は?」
「当日、花車は軍の兵士が護衛する。だからお前は護衛の役目はしなくていい。一日休暇をやるから楽しんで来い」
 ――楽しむ?何を?
 アレックスの胸にそんな言葉が浮かんだが口にはしなかった。
 一日任務を解くと言うその思いもかけない言葉に、ただ釈然としない思いが広がった。自分はこんな時の為の護衛である筈なのに、その時に暇を与えられるとは一体どういう意向なのか。
「何か不都合な事でも?」
 珍しくはっきりと質問を投げ掛けたアレックスの言葉に、姫君は僅かに視線を合わせただけでふと逸らしてやり過ごしたように見えた。
「別にそんな事は無い。ただ軍の者だけで事足りると言うだけだ。折角の祭りだからお前も楽しむといい。街の広場ではいろいろと催し物もあるようだぞ」
 まるで畳み掛けるようにそう言った後、姫君は再びアレックスを見た。
「ああそうだ、いい事を教えてやろう」
 微笑してやんわりと向けられた目はいつになく少女らしい目をしていた。
「花祭りの日はな、好きな相手に花を贈る日でもあるんだ。受け取った男女がその日に縁を結ぶと言うのが花祭りに行われてきたもう一つの風習なんだ」
「花を、ですか?」
「ああ、ただ受け取るかどうかは自由だけどな」
「――姫君は」
 アレックスはそこで一端言葉を切った。
「花を贈った事はあるのですか?」
 らしくない真っ直ぐな質問だと思いながらアレックスはその言葉を口にした。どうも今日の自分は何か調子が狂っている。始めは僅かの狂いだったものが、どうにも止まらず口を開くほどにおかしくなる。
姫君の視線が一瞬アレックスを捕らえた後、ふいと違う方へと向けられる。そして立ち上がると、部屋の入り口へと向って歩き出した。
「ある――昔、一度だけ」
 遠ざかる足音に混じって微かに声が聞こえた。
「――お父様に」
 その声が耳に届いた時、狂っていた調子が漸く戻ったように、アレックスはハッと我に返った。


 花祭りの日の朝は早くから宮殿内が慌しかった。
 いつもより遅く起きたアレックスは朝食を済ませると、所在無げに宮殿の中を歩いた。いつもよりめかしこんだ若い侍女や召使達が忙しそうに往き来している。祭りの日の今日は仕事も最小限で放免とあって、仕事を終えた後街へと出掛ける者が多い。恋人に会いに行く者や祭り気分に浮かれて繰り出す者、花車や催し物を見物に行く者など目当ては様々だった。
 ただカガリ姫付きの侍女達だけは、姫君の準備に忙しく立ち回っているのでそんな暇も無いらしい――と言う話を召使いの男達がしているのを通りすがりにアレックスは聞いた。
 今頃不機嫌に苦手な衣装に身を包まれているだろう姫君の姿を思い浮かべてみたが、実感が湧かなかった。自分だけが違う世界に切り離されたように遠く感じられる。任務から解かれてみれば自分の居るべき場所がこんなにも不確かなものなのだと、今更ながらに気付いた自分に少なからず驚いた。いや驚いたのはそんな事に感傷的な気分になっている自分にだろうか。
 そんな事をつらつらと考えつつ歩いていた時、アレックスの目の前に突然花が差し出された。それはこの国特有の、花祭りの由来となった花だった。
「あ、あの」
 視線を上げると花の持ち主がアレックスの目に映る。まだ少女と思える、年若い侍女らしかった。けれどもアレックスには面識が無い。
「あ、あの……」
 少女は再び口篭ると、真赤な顔を更に真っ赤にして、次の瞬間決意したように花を更にアレックスの目の前に差し出した。
「この花を貰ってくださいっ!」
 暫く何の事か理解が出来ず、ただ呆けたように花と少女を見比べていたアレックスは、やがて先日の姫君の言葉を思い出した。――花を、祭りの日に特別な感情の印として相手に贈るのだと言う、あの姫君の言葉を。
「……え?」
 事態を飲み込むのにいくらか時間を要した後、漸くアレックスはその現実を理解した。そして次に混迷を来たした頭の中で口にするべく言葉を探し出そうとする。
「申し訳ありません――お気持ちは有難いのですが……」
 咄嗟に出た答えはそんなにべも無い言葉だった。
 その答えを聞くや否や、少女は体を震わせて泣きそうな顔になりながらそこを走り去った。
 後に残されたアレックスは何とも後味の悪い罪悪感に苛まれる羽目になる。
 その後も同じような事が幾度も繰り返されると、さすがに疲労が重なって、アレックスの足は自然と宮殿を抜け出して街へと向かった。


 街は祭り気分に沸いて人々の表情も活気に満ち溢れている。国の民の表情が明るいのはその国が豊かな証拠だと、アレックスは今までに見てきた幾つもの国の経験から知っていた。この国の人々は活きている。それは治める者の資質をそこに表しているのだ。国と言うのは一つの生き物なのだとアレックスは思った。どこかが病むとそれは全身に広がるようにやがて国全体を侵して行く。それは国の命をも奪う出来事へと繋がって行くのだ。一つの国を豊かにするのも滅ぼすのも、統べる者の才覚一つなのだと言う事を目の当たりにしている気がした。
 そんな思いに駆られながら道を往く人々の姿に目をやりつつアレックスは街角の日干しレンガに凭れている。するべき事が無いというのはこんなにも疲れるものなのか。そう思いながら自分が立っているその場所が、やがて花車が通る道だと気付いてアレックスは苦笑する。無意識にこんなところに立っている自分は何をしているのだろう。まるでこんな気分は捨てられた犬か猫のようではないか。
「何をしているのだろう、俺は」
 呟いたアレックスの側を乾いた風が通り過ぎていく。
 やがて通りに溢れ出した群衆にその姿は飲み込まれていった。

 馬に乗って先導する軍の兵士に守られた花車がやって来た。花車の周りを美しい民族衣装を纏った少女達が花を手に歩く。その真中を、馬に引かれた花で溢れんばかりに飾り付けられた花車がゆっくりと行く。そこに姫君の姿があった。通りに溢れる人々に向かい、たおやかな笑みを浮かべて手を振るその姿はアレックスの想像した不機嫌な姫君では無かった。頭に花冠を冠して王族の姫君の衣装を纏った姿は、生まれながらにして人を導く力を持った堂々たる統治者の姿だった。華やかな衣装とは反対に、その民衆に向けられた笑みには力強い輝きがある。人を導いていくにはそこに備わった、人を惹きつける力と言うものが大きな原動力となる。何よりそれは、その者の人間性の現れだった。
 姫君が手を振るたびに民衆は歓声を上げる。その大きさはそのまま民衆の姫君に対する親愛の表れだとアレックスは知った。人を惹きつける力、それは自分に欠けている要素だと、今もって思い知らされたような気がした。国というものはただ力だけで治められるものでは無い。人を従わせるものでは無く導くもの、この歓声はそう教えているような気がした。
 やがてゆっくりと進む花車から花が投げられる。姫君が人々の幸せを願って投げられる花は、群衆の上を舞った。競うようにそれを手にしようと手を伸ばす人々を目にしていたアレックスの頭に、何かが当たる気配がして髪に手を触れると、それは一輪の花だった。姫君の手を離れた花が今自分の手の中にある。
 暫く花を見詰めていたアレックスは、今正に目の前を行き過ぎようとしている花車に目をやった。
 沸き返る民衆の歓声と華々しいその行列が、遠い日の記憶を呼び起こして行く。かつてあった筈の、失った日々が夢のようにアレックスの胸に甦った。
 それは郷愁と言う、切なさの入り混じったほろ苦い感情だった。


 空に星が瞬き始める頃、漸く宮殿に戻って来たアレックスは人気の少ない廊下を歩いて部屋へと向った。まだ街から戻って来ていない者が多いのだろう。宮殿の中は閑散としていた。
 宮殿の中心にある広間から自分の部屋へと通じる回廊を歩いていたアレックスはふと足を留めた。一本の柱の影にそれとわかる人影がある。それは柱の腰掛けに座った姿で身を柱に凭せ掛けていた。まさかと思って近付いてみると、思った通り、それは姫君の姿だった。柱に身を預けたままでどうやら寝入っているらしい。それも今日纏っていたあの衣装のままで、頭にはまだ花冠さえ付けている。どう言うわけかと思っていると、姫君が気配に目を覚ました。
「――ああ、お前か」
 まだ眠そうな目を開けてアレックスを見ると、やんわりと微笑んだ。しかしその顔は余程疲れたと見えて、いつもより少しやつれて見えた。
「こんなところで何をしているのです?」
「――ああ」
 姫君は疲れた顔にまた笑みを浮かべた。
「侍女達が着替えを手伝うと言うのを断って逃げて来たんだ」
「逃げ……?」
「着替えぐらい自分で出来る。だからお前達はもう無罪放免だと言ってやったんだ」
 姫君付きの侍女は祭りどころでは無いと言っていた召使いの言葉をアレックスは思い出した。
「それで、どうしてこんなところで?」
「ああ、ここまで来たら風が気持ち良くてな。ここに座って風を楽しんでいたら、ついうっかり寝てしまったんだ」
「……なるほど」
 少々呆れ気味にアレックスは答える。この姫らしいと言えば成る程姫らしい。
 それにしても余りに無防備なその姿に、自分と言う役目を一体何だと思っているのかとアレックスは思わずにはいられない。
 柱に身を凭せ掛けた姿のままで、姫君はそんなアレックスを見ていた。まだ夢現から覚めやらぬ少しぼんやりとした眼で暫く見ていたが「アレックス」とやがて静かに呼び掛けた。
「今日は楽しんだか?」
 その言葉と共に向けられた笑顔は、あの花車の上の笑顔とは遠い、少女らしい笑顔だった。
「――ええ」
 それ以上の言葉はアレックスには見当たらない。
「そうか。――花は、たくさん貰っただろう?」
「……気持ちだけいただいておきました」
「何だ不甲斐ない奴だな。そんなんじゃ恋人の一人も出来ないぞ。吟遊詩人の癖に」
「いいんですよ。吟遊詩人はリュートが恋人なんですから」
「寂しい奴だな、お前」
 そう言いながら楽しげに笑う姫君の声をアレックスは聞いた。夜陰の中でそれは清々しい音を響かせる。
「弾いてくれないか、ここで」
 突然姫君がそう言った。
「ここで?」
「風が気持ち良いから」――ここで聞いてみたいと言った姫君の願いを叶えるために、アレックスはリュートを取りに部屋へと向かう。途中、大きな月が街の向こうから昇って来るのが見えた。長い一日だったとアレックスは思う。長くて、色々な事があった一日だった。そんな事を考えながらリュートを手に元の場所へと戻ると、姫君も月を見ていた。
「こんな月のある日は西方の音楽がいい」
 そう姫君が言ったので、アレックスは床に座り西方の歌の無い音楽を奏で始めた。姫君には半分西方の血が流れているせいか、その方の音楽をよく好む。
 暫くただ弦の鳴らす音だけが夜の回廊に響いた。他に音は無く通る者もいない。風も音を立てずに柱の間を行き過ぎていく。
 柱に凭れたまま音を聞いていた姫君は、やがてそれが止むとゆっくりと立ち上がった。床に座るアレックスの前まで来ると、頭に付けていた花冠を取り、それを差し出した。
「私からの気持ちだ」
 差し出されたそれをアレックスは黙って暫く見詰め、すると続けて声がした。
「――お前の、その恋人に」
 見上げると月の仄かな光の中、姫君が微笑する。たおやかなその笑みは、どんなに美しい衣装よりもより姫君を姫らしく見せている、とアレックスは思った。改めて思い知る事の多かった長い一日は、まだ終わってはいなかった。
 アレックスが花冠を受け取ると、姫君は静かな微笑を浮かべたままそこを立ち去りかけ、そしてその間際に少しだけまた月を見た。
 姫君が立ち去った後、アレックスは手の中の花冠をじっと見詰めていた。そして淡く微笑し、「お前にだそうだ」そう言うと、それをリュートの細い柄に掛ける。そうしてから服のどこかから花を一輪取り出した。それは髪に降った、あの花だった。
 その花を見ながらアレックスの胸にあったのは、今日と言う日に姫君がまるで自分を遠ざけたように思えた事の答えが、仄かにわかったような気がした事だった。それは恐らく彼女なりの優しさだったのだろうが、彼女らしい優しさでもあった。あの群衆の歓声が呼び起こした、あの苦い感情を思い出しながらアレックスは暫く花を見詰める。そしてそれにそっと唇を寄せると、リュートに掛けた花冠に挿し入れた。そして先程姫君が座っていた柱に凭れると、静かにリュートを奏で始める。それは漸く居場所を見つけた人のように安らいだ姿に見えた。
 その音色は花祭りの宵に少し切ない響きを添えて、乾いた風に彼方へと運ばれて行く。
 青白い月だけがその演奏をそっと夜空で聴いていた。

<08/05/06>

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