トルバドゥールと姫君 ―春の陽の君に―宮殿の中庭に面した回廊の、一本の柱に凭れながら少年は雲が流れ行く空を眺めていた。 冬が終わって春が訪れた空は、穏やかな陽射しのせいで優しい色をしている、と少年は思う。その空の色を眺めているのが彼は好きだった。その時間だけは心を解放して、いつも気持ちに影を差す様々な事柄から逃れる事が出来た。 何故こんな身の上に生まれたのだろう、と何度もそんな問いを繰り返しては、詮無い事だとまた思う。 もっと自由な身分に生まれていたならば、あの雲のようにどこまでも見知らぬ国を求めて旅をしていただろう。この地の向こうに何があって、どんな国でどんな人々がどのような暮らしを送っているのかを少年は自分の目で見てみたかった。世界というものを知りたかった。 父がまた何事か良からぬ それによってまたどれだけの血が流され、そして何人の人生が奪われるのだろう。 雲を眺めている内にそんな思いがまたふと胸を締め付け始めて、少年はその痛みに瞼を閉じる。薄い皮膚を通して、春の柔らかな陽射しが閉じた瞼の裏側一杯に広がって行く。それは金色に似た、優しい光だった。 その光に包まれている内に、眠ってしまったのかそれとも起きているのか、自分でもわからない感覚に陥って、いくらかの時間が過ぎた頃、そっと瞼を開けてみると、変わらず春の陽射しがそこにあって、雲が滔々と流れている。 何故かとても安心した気持ちになって、ふっと息を漏らした。 その時すぐ近くで人の気配がしてその方向へ目を遣ると、2本向こうの柱の影から小さな二つの瞳が覗いている。 それは丁度上に広がる春の空に似た瞳の色だった。 「いつからいたの?」 少年がそう尋ねると 「ちょっとまえから」 と愛らしい声がした。 「おいで」 そう少年の声が優しく語り掛けると、待っていたように柱の影から小さな体が現れて、少年の側へ走り寄るとその隣に嬉しそうな顔で座り込んだ。 「おにいさま、なにをみていらっしゃったの?」 まだあどけない少女の口から妙に大人びた口調の言葉が漏れると、少年の口元に微笑が浮かんだ。 「うん……雲のようにどこまでも行けたらいいなって思って」 そう言ってから、何だかとても気恥ずかしい言葉を口にしたような気がして少年は少し黙った。まだ幼い少女にそれは理解できない事であったが、少年はそんな夢見みがちな想いを抱いている事を言葉に出してしまった自分に対して、どうしようもない気恥ずかしさを覚えた。 「いけたらいいわね」 愛らしい同意の声がして隣を見ると、菫色の瞳がにこにこと少年を見上げている。 その無垢な笑顔につられて、今ほどの恥ずかしい思いも忘れ少年も少女に笑い掛けた。 桃色の長い髪が柔らかい春の陽射しに透けて、その色は少年の心を和ませた。手を伸ばして髪に触れて頭を撫でてやると、少女は嬉しそうに少年の体に抱きついた。 「ねえまたこんど、リュートをひいてね。おにいさまのリュート、だいすきなの」 「うん、ラクスは歌が上手だから、今度歌ってごらん」 少年がそう言うと、少女は菫色の瞳を嬉しそうに瞬かせた。 「ほんとう?じゃあ、おとうさまにおきかせしたいわ」 無邪気な少女の声に、少年は微笑してまた髪を撫でた。 母親違いのこの小さな妹が、父にとって唯一の陽だまりであるように、少年にとってもまた救いの場所だった。向けられるあどけない笑顔が何よりも安らぎだった。 「ほんとうはね」 少女がウフフと笑って抱きついた少年の体にまたしがみついた。 「リュートよりもおにいさまがいちばんだいすきなの」 その可愛らしい仕草と言葉に少年は目を細める。 「ねえ、ラクスおにいさまのおよめさんになってもいい?」 菫色の瞳がふいに見上げてそう尋ねた。 まだ幼いながら、それは真剣な色を湛えている。少年はその愛らしい瞳に、そっと頬に手を遣って愛おしそうに撫でた。 吸い付くような手触りの良い頬の感覚が、手の平を通して伝わった。 それは少年の心にも心地良く伝わって行く。 他国では王族で兄妹(姉弟)間の婚姻が行われる事も珍しくは無いと聞く。けれどこの国ではそれは禁忌だった。 まだ無邪気な愛らしい菫色の瞳に、それをどう諭したらいいだろうかと少年は考えながら、やがてこの小さな妹も成長して美しい少女になるのだ、と改めてそう思った。そしてその姿を連想して、思わず父親のように目を細めた。その時、一体どんな娘になっているのだろう。 一心に見上げる瞳に、どんな言葉で説明しようかと少年が空を見上げた時、その瞳と似た空の色から降りて来た陽射しが眩しく目を射た。金色の光は辺りに満ちて、そこを優しく照らし出している。 こんな幸せな時間がずっと続けばいい、と少年は願った。 側にある愛しい温もりもこの光もこの空も、ずっとそこに在るように、失ってしまわないように、ここから離れて行かないように、ずっとこんな時間が続けばいい、と。 「おにいさま?」 体に伝わる温もりから響いた小さな声に、少年は空を見ていた翠の瞳に有らん限りの優しさを湛えて視線を降ろす。そして、両の手で少女の頬を包み込んだ。 「あのね、ラクス……」 見上げる菫色の瞳に、春の陽射しが一杯に満ち溢れていた。 「お前、また思い出し笑い」 いつの間に眼前に現れたのか少年のようなその姿は、胡坐を組んで頬杖を付き、下から見上げるような格好で見つめている。 「口元が締まりなく緩んでたぞ」 「人の素顔を黙って覗き見るのは悪趣味だと思いますが」 「何だ、昔の女の事でも思い出してたのか?」 その 「まあそんなところです」 否定すると思っていたのか、聞いた本人が一瞬驚いたような表情を作って口を噤んだ。 その様子に、吟遊詩人は思わず微笑する。 「何です、気になりますか?」 一瞬素顔を曝してしまった不覚に機嫌を悪化させた少女の顔が、下から小さく睨むようにして低いトーンで答えた。 「――ならない」 「何だ、面白く無いなあ」 つまらなさそうに答えて彼は、しかしそんな少女の手に取るような素直な反応に、心の内で小さく微笑する。 そしてふとその小睨みする瞳が、あの色にとても似ている事に気が付いた。 「そう言えば――」 心にあの色が広がって行く。 「姫君の瞳の色は故郷の春の陽射しを思わせます」 想いを馳せるようにそう言うと、機嫌を悪化させていた表情がふとまた元に戻って、じっと視線が注がれた後、どう反応していいのかわからないような困惑した表情が現れた。 「それはとても優しい色で――」 更に続く言葉に、視線は益々困惑の色を深める。 「私は大好きでした」 最後の言葉に優しい微笑を含ませて少女に差し出すと、困惑した視線は瞬きも忘れて貼りついたように硬直して動かなくなった。 余りにその顕著すぎる素直な反応に、吟遊詩人は今度は大っぴらにしたり顔になって、ニタリと露に笑みを浮かべた。その表情に、少女の顔が次第に険しくなって、自分が罠に墜ちた事を知った。 「お前――」 低く唸るようにそう言うと、そこで口を噤み、そのまま黙り込むとやおら立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。 怒らせすぎたのか、それとも違う何かの感情に囚われたせいなのか吟遊詩人にはわからなかったが、その愛らしい反応に思わず頬を緩めた。 あの小さな妹がどこかで成長していれば、同じくらいの娘へと成長しているだろう。 一目逢えたらとどんなに願ったかわからない。 互いに生きている限り、いつかどこかでまた逢えると信じるよりは他に無い。 あの時体に伝わった小さな温もりが甦って、手の平を広げてみた。 失ってしまった光も空も、そしてあの温もりも今はここに無い。けれど、今また見つけた春の陽射しに似た優しい色が、心を潤すように徐々に広がって行く。 その色を心一杯に感じながら、アスランは目を細めて広げた手の平をじっと見つめ、そしてまたゆっくりとそれを閉じた。 <07/06/24> ←「恋歌」へ/「織女と姫君の夜」へ→ |