トルバドゥールと姫君 ―恋歌―





天上に無数の星がある。
漆黒に広がるその無数の星の屑を映す薄い琥珀にも似た色の瞳はどこか気怠そうに空を見上げている。
立てた膝に肘を付き、軽く傾げた顔に頬杖を付いた姿で先程からずっと窓に寄り掛かって空を見つめている。それは何かが心を迷わせている、とか、何かに心が囚われて思い悩んでいる、といった類の、色香が漂うような心の作用によるものでは無いと言う事を、彼女に付き従って来たその護衛はよく知っていた。
ただ彼女は面白く無いだけなのだ。
隣国の王子の婚礼の式典に、王の代理として出席する為にここへやって来て、如何にも姫らしい綺麗な衣装を着せられ姫らしい立ち振る舞いを強要され姫らしい話し方を求められる。
それが苦痛で仕方が無いのだ、と言う事を護衛である彼はよく知っていた。
黙ってそうしていれば結構姫君として様になっているのに、本人はそれが気に入らない。
拗ねるようなその横顔に、しょうがないなと護衛は内心苦笑しながらずっと空を睨み付けているその姿に声を掛けた。
「退屈そうですね」
「当たり前だ」
ご機嫌斜めな返事を予想していた彼はやんわりとそれを受け流し、柔らかな口調で話を続ける。
「さぞお疲れの事と思いますが、それも明日までの事です」
「あと一日もあるのかと思うと、気が遠くなる」
そう言って、袖に付いた装飾の美しい連珠をシャラシャラと鳴らして見せた。
「鬱陶しいんだ、こんなものが」
仇を見るようにそれらを怪訝な目で睨んでいる。
「ああどうして男に生まれなかったんだろう」
溜息と共に吐き出したその言葉に、護衛は軽く失笑して答えた。
「そんな事を言われると王が嘆かれます」
「お父様だってきっとそう思っているに違いない」
相変わらず頬杖を付いたまま窓から外に視線を移しながら姫君はそう小さく漏らした。
祝い気分に沸く城内では、人々が夜を徹して飲んだり踊ったり歌ったりと賑やかな宴が続けられている。
消えることの無い灯火が、夜空の星の下で明々と燃え続けていた。
「娘というのは父親にとって、特別な存在なのです」
静かに掛けられたその言葉に、姫君は視線の先を外の灯りから護衛へと映した。少し離れた床の上に方膝を立てて、彼は座っている。いつもの護衛の装束はさすがにこの場に相応しく無いとあって、オーブの正装に近い衣装を纏っている彼の姿は、他国の出身にしては意外に悪くは無い、と姫君は思った。
「男子は確かに世継ぎとして尊ばれますが、姫君は王にとっては何にも代え難い存在なのです。父親にとっては大切に護ってきた何よりも大事な宝なのですよ、娘というものは」
パチクリと目を瞬いて、暫く護衛を見ていた姫君が、やがて口を開いた。
「アレックス、――お前、…娘がいるのか?」
その真剣な姫君の表情に笑いを噛み殺しつつ、アレックスは答えた。
「娘はいませんが、――妹がいました」
「妹?」
「ええ。丁度貴女と同じくらいの年頃でした」
微笑が柔らかく変わり、瞳が優しくなったのを姫君は感じた。
「小さい頃から歌う事がとても好きな妹でした。いつも私のリュートに合わせて歌っていました。天使のようなその歌声と笑顔に、冷酷無比な王と言われた父が、唯一人らしい心を取り戻した時間でした」
今はもう消え去った幸せに過ごした時に遡るように、アレックスの瞳は姫君を通り越して向こうを見つめている。
彼は今、もう二度と戻らない時間の中にいるのだ、と姫君は思った。
「……その妹――は?」
その言葉に、アレックスの瞳が姫君に引き戻される。
「わかりません。城を脱したところまでは見た者がいますが――生きているのか死んでいるのか、それさえも……ようとして知れません」
静かに答えて、アレックスは微笑んだ。
その微笑みがこのアレックスと言う名の仮の姿にいつの間にか染み付いた盾である事を、姫君が知るのはもう少し後の事になる。
「――こんな湿っぽい話はもうやめにして、退屈凌ぎにどうです、一曲りましょうか?」
そう言うと、アレックスはリュートを取り出して手に持ち、シャラン、と掻き鳴らした。
「お前、そんなもの持ち歩いてるのか?」
「私の本業は一応、トルバドゥールですからね。今は護衛も兼ねていますが。どうかお忘れなく」
その言葉に姫君はフフン、とただ鼻を鳴らした。
「どんな曲がお好みですか?王族の方々は大概恋歌を好まれますが」
「そう言う甘ったるいのはご免だ」
そう言うと、姫君はまたそっぽを向いてしまった。
その姿に苦笑して、アレックスはまたリュートをシャラン、と鳴らした。
「では、こういうのは?」
部屋の中に弦が奏でる和音が流れ出して、それは窓を通って漆黒の夜空へと舞い登って行く。


ある国の騎士が国王の為に、隣国で開かれた剣闘士の大会に出場した。優勝者に与えられる褒美がその国の姫君だったので、騎士は姫を国に迎えて国王の妃とし、隣国との和平を強固なものにしようと考えた。望み通り騎士は優勝し、美しいと評判の姫君を国に迎えんと喜び勇んだが、その姫君の顔を見て驚いた。かつて国境で怪我を負った自分を、必死に介抱してくれた女性その人だった。最後まで名は明かしてくれなかったが、互いに心惹かれて再会を誓ったその人だったのだ。国へ帰る船の中で、姫は折角また会えたのに国王に嫁ぐのは嫌だと泣いて縋ったけれども騎士はどうしようも無い。生涯の忠誠を誓った国王に、背ける筈も無い。やがて船は騎士の国に着き、待ち侘びていた国王と姫は婚礼の儀をあげる。涙を浮かべながら儀式に臨む姫の姿を見ている事が出来なくなった騎士は、その夜から暫く放浪して歩いた。食べることも眠ることもできなかった。余りの辛さに国を離れようと国王に申し出たが、国王から絶大な信頼を受けている騎士はそれを許されなかった。そしてある夜、ついに耐え切れなくなった騎士と姫は過ちを犯してしまう。それからの日々は止まる事を知らない坂道の石ころのように、二人は国王の目を盗んで過ちを犯し続けた。しかしそれがいつしか裏切り者の手によって隣国の知れるところとなり、常々侵略の機会を窺っていた隣国の王の開戦の口実に利用されてしまう。二人の関係を知った国王は激昂し、騎士を詰って監禁してしまうが、騎士は問われても何も心の内を明かさなかった。姫が泣きながらずっと以前にたてた誓いの約束を告白し、初めて国王は全ての事の真実を知るところとなる。国王はただ黙って監禁していた騎士を解放し、夜、小舟を用意して姫と一緒に好きなところへ逃げるように計らった。その時隣国の王が攻め入って来て、城は敵に取り囲まれ、その様子が小舟の側に立つ騎士からも見えた。先に舟に乗った姫は泣きながら騎士が乗るのを待っている。


シャラン、と弦の奏でる音が響いてそこでトルバドゥールの手は動きを止めた。
いつの間にか彼の方に向けられ、釘付けられたように瞬きも忘れて見つめていた瞳がやがて一瞬きすると、
「――で、どうなったんだ?」
と、唇から掠れたような声が発せられた。
「知りたいですか?」
トルバドゥールが微笑してそう答えると、急に我に返った瞳は拗ねたようにプイとまた窓の外に向けられた。
「別に」
ぶっきらぼうに返された声に苦笑しながら、アレックスは答える。
「この先を作曲者は作りませんでした」
再び姫君の瞳が彼に向けられる。
「この先は、聞く人が結末を選ぶのです。二人で逃げて幸せになったも良し、騎士が戦場に戻って国王を助けて勝利した後二人で幸せになったも良し、それとも騎士は戦場に戻って勝利に導いたがそこで討ち果てて永遠に姫との思い出と共にそこに眠る、と悲劇もまた良し。――姫君は、どれを選択されますか?」
暫く無言でアレックスを見つめていた瞳はやや怪訝な色を浮かべて、やがてボソリと呟くように答えた。
「お前なら、どれを選ぶんだ?」
「私ですか?」
アレックスは柔らかな微笑を姫君に向け、そして答えた。
「わかりません」
ビン、と弦を一つ爪弾く。
「ずっと答えを探し続けていますが、答えはまだ見つからないままです」
ビン、とまた弦を爪弾くと、シャラン、と今度は和音を掻き鳴らした。
「何だ、それ」
つまらなそうに姫君はそう言い、けれど先程よりはいくらか退屈さが晴れた気分で、また空の星を見上げる。
側で今度は歌の無い曲をトルバドゥールが奏で始め、その音色が空の星に案外似合うものだ、と姫君は思いながらゆっくりと目を瞑った。



まだ恋の何たるかすら知らない姫君はこの時16才、そしてトルバドゥールは21才だった。

<07/06/03>

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恋歌の原典はわかる方にはすぐわかると思います(ていうかもうそのものですね)。
因みに私は映画しか知りませんが。