トルバドゥールと姫君 ―吟遊詩人と姫―シャラン、と腕輪が鳴る音が回廊に響いた。 「おい、お前」 呼び止められた男は振り返る。 「お前、何者だ――て、トルバドゥール(吟遊詩人)か?」 腰に腕輪を嵌めた手を当ててそこに立つ声の主が男の持つリュートに気付いてそう言うと、男は腰を低く屈めて答えた。 「そうでございます、姫君」 「見かけない顔だな?」 「先日宮殿に召抱えられたばかりでございますから」 「ふん――」 姫君と呼ばれた少女――と言うには少年のような勝気な瞳をして唇を硬く引き結んだ少女だったが――は薄絹の肩から腕が露になった衣装を纏い、胸から腰、そして足を覆う布が途切れる膝下十数センチのところから見える素足にサンダル履きと言う、まるで男装のようないでたちでそこに立っていた。 姫と言うより王子と言ったほうが似つかわしいその姿に、身に付けた女物の装飾品が辛うじて、彼女が女である事を物語っている。 そしてこの国には珍しい金色の髪が、彼女の母君が遠く他国より嫁いで来た事を示していた。 「お前、この国の者では無いな。その髪と瞳の色は」 男の藍色の髪と、翠の瞳の色を指して姫君は言った。 「はい。遥か遠く、東方より参りました」 「東方?国は?」 「――今はもう、滅して在りません」 男は静かな声で答えた。 石造りの太い柱が並んだ回廊を、熱い風が吹き抜けて行く。この国特有の乾いた匂いのする風だった。 その風が少年のような姫君の金髪を緩く弄っている。 「トルバドゥール、聞かせてもらおう」 姫君のその言葉に、男は僅かに瞳を上げる。 「歌って聞かせろ。その滅した故郷の話を」 「ここで、ですか?」 「そうだ」 そう言うと、姫君は一本の柱の下の出っ張りに足を組んで腰掛けた。 男は思案気にその場に暫く立っていたが、やがてそのままリュートを抱えて床に座ると、シャラン、と弦を掻き鳴らした。 「調弦もせずに鳴らすのはいささか心苦しいのですが」 「構わん」 その言葉に意を決したように、男はまたシャラン、と弦を弾くと、その音に合わせて語り始めた。 昔ある国が東方に栄えていた。その国は豊かで美しく、幸せに満ちた国だった。東と西を結ぶ交通の要所として旅人も多く立ち寄り交易も盛んだった。その為にその国を付け狙う近隣諸国も多く常に危機に曝されていたが、歴代の賢主により国は堅固に護られていた。しかしある王が即位した頃からその国は乱れ始めた。欲深なその王は護る事よりも、領土を広げる事を選んで他国を侵し始めた。しかし王の余りの身勝手な振る舞いとその暴挙に、次第に臣下や国民の心は離れて内乱が起きた。そしてその内乱を鎮めようとした矢先に、それに乗じて一気に攻め込んで来た外国勢によって、一夜の内に国は滅んで王は殺され、内乱を鎮めようとしていた王子やその側近の行方もわからなくなって、今はもう国も無い。廃墟を乾いた風が渡って行く音がするばかり―― シャラン、と回廊に弦の物悲しい音色が響いて風に消えて行く。最後に爪弾いた音が柱に吸い込まれるように聞こえなくなった頃、姫君が口を開いた。 「それがお前の国か」 「はい、姫君」 「そうか。お前、名は何と言う?」 「アレックス、と申します」 「そうではない」 姫君は口に微笑を浮かべた。 「本当の名があるだろう」 その言葉に男は一瞬口を閉ざして姫君の顔を見た。 「生まれ持った品性というものは隠し果せないものだな。ただのトルバドゥールの物腰がそんなに優美であるはずはあるまい」 男は暫く黙って姫君の微笑する顔を見ていたが、やがてゆっくりと静かに微笑んだ。 「オーブの姫君は少年のように勇猛果敢、と噂にお聞きしましたが」 「それは光栄だ」 「それだけでは無く聡明でもいらっしゃるようだ」 男は翠色の瞳で真っ直ぐに姫君を見た。 「――アスラン、と。それが本当の名です」 かつてその名を姫君はどこかで聞いたような気がして記憶の底を浚ってみたが、遠い国で起きた出来事の話だったか、あまりよく覚えてはいなかった。 「アスラン。お前は今から私に仕えろ」 「失礼ながら、私はトルバドゥールですが――」 詩人を側に置くような感傷的な姫では無いはず、と言う意味合いで男は言った。 「リュートよりも本当に得意なものがあるはずだが?リュート弾きにしてはやけに指が節くれ立っているな」 そう言うと、姫君はにやりと少年のように笑った。 「ではアスラン、――いや。皆の前では『アレックス』とお前を呼ぶ事にしよう」 そう言うと、姫君は立ち上がって薄絹の衣をひらめかせて立ち去りかけ、ふと振り返った。 「ああ、いい声だったぞ、なかなか」 そう言うと、また少年のようににやりと微笑した。 去って行く姫君の後姿を見ながら男は暫くそこに留まっていた。 そして手に持ったリュートをシャラン、と掻き鳴らすと、口に微かに笑みを浮かべた。 「オーブのカガリ姫か――面白い」 そしてまたシャラン、と弦を爪弾くと、乾いた匂いの風が吹いて来てその音色を回廊の向こうへと運んで行った。 熱い空気と共に。 <07/05/17> 「恋歌へ」→ |