第六幕 : 蛹化 山へ行ってから数日の後の事。 アスハ家の庭に、お茶の招待を受けたラクスと、カガリの姿があった。 ガーデンテラスに設えられた白いテーブルの上に並んだティーカップを、二つの形の良い白い指が持ち上げては、その小さな唇へとゆっくりと運んでいる。 「素敵なお庭ですわね」 その広さと美しさで知られるアスハ家の庭の、今が盛りと咲き誇る薔薇の花に目を遣りながらラクスは微笑んだ。鮮やかな色合いの花が、手入れの行き届いた花壇に計算され尽くした美しさを描き出している。 「野の花が『無秩序の美しさ』なら、この庭は『秩序の美しさ』、と言ったところかしら。どちらもそれぞれに美しいのですけれど、そのどちらをより心地良く感じるか、それは見る者の心の有り様によると思いますわ」 かつてここを訪れたアスランが、「いい庭だ」と評したのをカガリは思い出していた。しかし彼は「美しい」とは口にしなかった。 その彼があの野で白い花を手に去って行った後ろ姿が、その時カガリの脳裏を過ぎった。 「最近ザラ様にお会いになって?」 その心中をまるで見透かしたかのように紡がれたラクスの言葉に、カガリの鼓動が瞬間跳ねた。 「いいえ、あれからは…」 微笑を取り繕って答えた。 「噂では、仕事が忙しくていらっしゃって、暫く地方へお出掛けになっているそうですわ」 山へ同行して以来、アスランは社交界の集いから暫くの間姿を消していた。カガリも夜会などでこのところ顔を合わせてはいない。 思えば何の約束事も無い関係だった。 ただその場限りで結ぶ関係は、顔を合わせなければそれきり他に何の接点も繋がりも無い。まるで希薄だった。 どこで何をしているかなどと言うアスラン個人の事情など、まるで知る由も無かった。 もしも。 もしもこれきり彼と顔を合わすことがこの先無いのだとしたら――この不確かな関係はここで終わりを告げるのだろうか――? その漠然とした考えにカガリはふと囚われた。 そうだとしたら。あの薄暗い闇の契約から自分は解き放たれて、繋ぎ止めていた枷の鎖から、自由になれると言うのだろうか。 『自由』 その言葉が心に浮かび上がった時、カガリはそれが何を示すものか全く感慨が湧かなかった。 自由と言う言葉が今の自分に与えられるとしたなら、それは何からの自由で、何を指して『自由』と呼ぶのか。 何が自分を縛り付けて、目に見えない鎖でここに繋ぎ止めているのか。 雲が落とす影が地面を緩い速度で流れて行く様を目に映しながら、カガリは初めてそんな自分の心の声を、鏡の中の姿をそっと暗室で垣間見るような思いで聞いた。 その鏡に映っていた姿は、一晩の内に枯れ萎んで項垂れた、あの白い花の姿だった。 「カガリさん?」 ふと顔を上げると、ラクスが首を傾げてカガリの様子をそっと見つめている。 「どうかなさって?」 屈託の無い柔らかな笑みを見せて尋ねた。 「あ、いえ、――花が……あの白い花が枯れてしまったのです、翌日に」 取り繕う様にそう答えると、ティーカップを持ち上げてお茶を一口含んだ。 「まあ、きっと水の吸い上げが悪かったのですわね」 首をまた傾げてそう言うと、ラクスは美しい薔薇の花がビーズで模られた小さなバッグから、一枚の紙を取り出した。 「栞を作りましたの、カガリさんに」 そう言って差し出した。 美しい曲線模様が縁に描かれた長方形の紙の上に、押し花にされた白い花が二輪、綺麗な形にして添えられていた。色はやや褪せてはいたが、紙の上に花開くその姿は変わらず可憐だった。 「――あの花ですか?」 「ええ、あの花ですわ。だからカガリさんに」 紙の上の二つの花の姿にカガリは暫く目を留めていたが、それをそっと胸に押し当てると目を細めた。 「嬉しい――」 ラクスも微笑みを返す。 「カガリさんの笑顔を見て私も嬉しいですわ」 艶やかな微笑を浮かべたラクスの顔をカガリはただ幸福な面持ちで見つめた。 心に湧上がった思いは純粋にただラクスの優しい思い遣りへの感謝と心遣いに感じる友情の念とも言うべき爽やかな想いであって、薄暗い闇の中で覚えた禁断の蜜の味はその時そこには無かった。 その蜜をカガリの口に含ませた、あの無慈悲で酷な手から遠退いて、久しい。 ラクスから貰った栞を部屋の机の上に飾り、カガリは朝に夕にそれを眺めて過ごした。 眺めたまま暫く物思いに耽るように見える時もあれば、手に取ってそっと花に触れてみる事もあった。 庭を歩いて小路の端の薔薇の花にふと目を留めていたり、また歩きながら心はそこに無いように虚ろに見える時もあった。ラクスの優しい心遣いとは裏腹に、皮肉にもその栞がカガリの心に何某かの影を落としつつあった。何かが、目に見えない場所でゆっくりと変化し始めていた。やがてそれはカガリの最も深い根底の部分へと手を伸ばそうとしていた。 幼虫が蛹となり、その蛹がやがてパリパリと音を立てて薄い皮膜に罅を入れて行くように、後戻りの出来ない変化はカガリの全身を捉えて罅を入れ始めた。その変化に気付いた時は既に己が身をどうする事も出来ず、カガリはただ花を見つめるしか術が無かった。 視線の先の花はその可憐な姿を永遠にそこに留め置く代わりに、受粉して種を付ける事も叶わなければ枯れて散る自由も無い。 ただそこに在ることだけが花に与えられた宿命であり運命だった。 生きることも死ぬことさえも儘なら無い。生きた屍と化して生きながらに死んでいる。 ふとまたあの後姿が脳裏に甦った。野に咲く花を持ち、ゆっくりと去って行く後姿。 その後姿があの日以来カガリの心に知らず深い印象を与え、残像のように焼き付いて離れなかった。花を見る度に思い出し、いつしか花とその後姿は一対の心象となって、カガリの心の中に住みついた。 久しく見ることの無い彼の姿が、いつしかあの場面の後姿に次第に置き換えられて行き、闇で行われた契約の睦み事の相手が実際には別の人間では無かったのかと思える程、その印象は余りにも遠く隔たっていた。 アスラン・ザラと言う人物について、カガリはこれまで自ら何の認識も持とうとはしなかった。 目に映ってはていも、認識しようとはしない――それが希薄すぎる関係の無言の了解だとずっと認識していたからだった。 そんなある時、養父のウズミとその夫人である養母、そしてカガリの3人が揃った夕食後の席で、ウズミが話を切り出した。 「お前もそろそろ結婚相手を探さねばならない歳だ。だが誰でもいい、と言うわけでは無い。この世界の結婚と言うものはただ個人同士の結び付きでは無く、それは家と家との結び付きを示すものだ。その家柄に相応しい相手を選ばなくてはならない」 「――はい」 結婚、と言う言葉を聞いてカガリは遠くで起こる出来事のように、まるで実感を得ない自分を感じた。 アスハ家の人間として、自分がいつか誰かと結婚と言う結び付きを持たねばならないのだ、と言う事は必然養女になった事で心のどこかで漠然と理解していた筈だった。 しかしそれが現実に目の前に突きつけられると、他人事のようにまるで実感が湧かなかった。 生まれながらにして身分も何も持ち合わせなかった自分が、この上流階級と言う身分階級に於いて婚姻を結ぶ、と言う事が一体何を意味しているのか。 そう考えた時、胸にあの花とそれを持つ後ろ姿が去来して、また消え去った。 「それで、誰か心に決めた相手でもいるのかね?」 俯いたままのカガリに、ウズミは問いただすようでもなく、ごくさり気ないと言った語調で尋ねた。 「いいえ――」 カガリは伏目勝ちにそう答えたが、夫人はそれを何か言いたげな表情でじっと見つめている。 「――そうか」 ウズミも思案気にそう言うと、そっと夫人と目を見交わせた。 「では私達が相応しいと思える相手を選ぶ事になるが…。いいかね?」 いつにも増して言葉少なな娘の様子を窺う様にしながら、ウズミは努めて柔らかな声音でそう話し掛けた。 まだこの世界に不慣れな娘に結婚話を切り出すのは酷と言うものかも知れなかったが、それでもその良縁が娘に幸福を齎すのならば、と信じているその心は義理ではあっても子を想う親心に相違は無かった。 ただその慮る基準があくまでも自分達の世界の定規であり、世に他の定規が存在するのだと言う事をこの夫妻が与り知らない事が、子にとって皮肉でありまた不幸だった。 「はい…」 何の感情も篭らない声でそう返事を返す自分の声をまるで他人のもののように聞きながら、カガリはまたいつしか心にあの後姿を思い浮かべていた。 もし自分が結婚することになったならば、あの契約はどうなるのか? そして彼は、……どうするのだろうか――と。 ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞ 久しく逢わなかったその姿を夜会で久方振りに見掛けた時、カガリは心にあるあの後姿とその人物が果たして同一人物であるのかどうか見定めようと目を凝らしたが、遠くにある姿は柱の影になってよく見えなかった。暫く振りに目にするその顔は記憶の中の彼そのもののような気もし、また全く違う人物にも見えた。奇妙な違和感と既視感のような感覚が交互に訪れ、カガリはずっとその遠い横顔を見続けた。 側にラクスが遣って来たのを感じてカガリは視線を外し、そしてラクスを見た。 「あら、帰っていらしたのですわね」 先程のカガリの視線の先を辿ってか、ラクスも彼に気が付いた。 「随分久し振りにお見掛けする気がしますわ」 そう言ってラクスが寄越した視線に気付いたように、アスランが二人の方を見た。 今し方まで話し込んでいた相手に軽く会釈をすると、二人の方へと人垣の合間を縫って近付いて来る。 次第に近付くその姿を見ても、カガリにはそれがあのよく知った筈の彼であるのかどうかさえ未だに実感が持てなかった。まるで知らない人間のようだとすら感じる。彼を彼として、改めて認識を持った事など今までのカガリには覚えが無い。 それでは今までのアスラン・ザラとは、一体何だったのか。 何者だったのか。 怪奇な思惑がカガリの心を廻り、答えの出ないその問答を繰り返した。 「お久し振りですわね」 ラクスが微笑みかけると、アスランも柔らかな笑みを返した。 「御無沙汰しています」 「お仕事で地方へ行っていらっしゃったとか?」 「ええ、湖水地方へ暫くの間。いいところですよ、あそこは。先日御同行した山の湖の何倍もの広さと美しさです」 「まあ、是非一度見てみたいですわ」 「よろしければ今度御一緒に。知人が別荘を持っています」 「素敵ですわ。ねえ、カガリさん」 ラクスは楽しげにカガリに微笑みかけ、カガリもそれに微笑み返す。 しかしラクスに注がれる二つの視線が重なり合う事は未だ無い。 「久し振りに一曲お相手戴けますか?」 そう言ってアスランが差し出した腕を、ラクスが取る。 二人がホールの中程に歩いて行くその後姿をカガリは一人見送った。ダンスの曲が流れ始めて華麗に踊るその姿がまた人々の目を惹いている。 「今度オペラにお誘いしたいのですが」 手を取り、踊りながらアスランがそう言った。 「私を?」 「ええ、お嫌でなければ」 微笑したアスランに、暫く考えてから後、ラクスは答えた。 「喜んで参りますわ。オペラは大好きですもの。私、小さい頃ディーヴァになるのが夢だったのですわ」 艶やかな微笑が大輪の花が咲くようにその美しい顔に広がった。 白い手袋が触れ合っては離れ、また触れ合う。 今まで何度も見たその光景を目にしながら、カガリはそこがあの野原で、二人が野の草や花に囲まれて円舞を踊っているような、そんな錯覚にも似た夢想に捉えられていた。自分は白い花になっていて、揺れながら踊る二人を見つめている。 やがてラクスは花を摘み、アスランは花を持って野をどこまでも歩いて行くのだろう。 あの日の光景が鮮やかに胸に甦った。 かつて覚えた欲情や薄闇で見た幻想はそこには無く、ただ広い野原ばかりがカガリの目の前に広がっていた。 その野の中を、向こうから彼がやって来る姿が見える。 ダンスの曲は既に終わり、ラクスの白い手を離れて、一人だけでこちらへと歩いて来る。 けれどカガリはここで野の花に彼が一目も呉れない事を知っていた。やがてあの時のように後姿を見せて彼は去るのだろう。 ここで咲ける筈も無い花にはまるで気付きもしないように去るのだろう。 目の前をかつてよく知った筈の横顔が素知らぬ顔で通り過ぎようとしていた。 その時恐らく初めて、カガリはアスラン・ザラと言う一人の人間に対して、自らの意志で自らの言葉を相手に投げ掛けた。 「花は枯れました。あの、翌日に」 誰に告げるとも無く語られたその言葉に、通り過ぎようとした足はそこで歩みを止めた。 一瞥も呉れる事の無かった視線が、初めて灯台の明かりに照らされた海に漂う小舟を見出したように、密やかにその姿へと向けられた。人の群れの片隅であまりに密やかに交わされたその視線の色濃さに、気付いた者など一人もいない。 唇にほんの小さく浮かべられた笑みは美麗な彫像を思わせた。その微かな、けれどもはっきりと相手を示唆したその笑みは、一瞬鮮やかに口元に浮かべられた後、向けられた視線と共にゆっくりとカガリの前から姿を消した。 その日、アスランは指の先すら、――カガリに触れてはいない。 <07/05/27> ←五幕へ/七幕へ→ |