第五幕 : 変調 欠けていた月がまた徐々に満ちて行き、青い裾を地上に降ろし始めた。 その月に呼応するかのように、事の度、次第にカガリの体は変化をみせた。 板のように頑なだった白い体は時に熱を帯びたように色付いてしなやかな弓のように反り、拒むように触れさえしなかった手は、暫くシーツの上を這った後、何かを探すかのように時折アスランの体に僅かに触れた。そしてやがてそれが満ち足りると、齎される波の揺らぎに逆らわず、そのまま身を預けて漂わせた。何の感情も灯らなかった瞳は見えない何かを見ているように潤んで宙に向けられ、時に瞑られると、また薄っすらと開かれて宙の幻想を見る。 アスランがラクス・クラインと踊る度に、その変調は著しくカガリの上に訪れた。 アスランの手がラクスに触れ、そしてそれはまたカガリを陵辱する。 その繰り返しの中で、カガリは月が満ちるようにある種の感情が、鬱屈され閉じ込められた部屋からどこかを求めるように、天に向かって枝葉を伸ばし始めたのを感じた。 それが何であるかはわからない。 それは密やかな蜜の味のようでもあり、芳しい花の香りのようでもあり、禁じられた果実の肉のようでもあった。 そのアスランと言う媒体を通して与えられる幻想の媚薬が、次第に自分を魅了して虜にして行く事に、カガリは抗えない。 「ラクスを見ていただろう」 事の 瞼を開けたカガリの目に薄い微笑が映り、しかしそれはまたすぐにカガリの視界から消え去って、それきり言葉は発せられなかった。 宙の薄闇に花の 夜会で逢う度に言葉を交わすようになったカガリを、ラクスがお茶会に誘うほどの仲になった。 ごく親しい知人だけを招いたそのお茶会は、ラクスの屋敷の庭で開かれた。 季節の薔薇の花が、庭一杯に咲き誇って芳しい香りがその辺り一面に満ちている。 「この薔薇も植えられたのですか?」 「いいえ、これは庭師が植えたものですわ。この庭はお父様のものですから」 まるで一枚の絵のように麗しい二人の少女が、薔薇の間の小路を並んで歩きながら会話を交わしている。 上質のドレスの布地が、二人が歩む毎に揺れて薔薇の木々の間に美しい彩を見せている。 「でもこの庭の花を切る事は許して下さいますの。毎朝庭師が切った薔薇の花を、私の部屋に届けるようにして下さるのです」 「温室は……?」 そう言ってからカガリは自分の言葉に気が付いた。 「温室?」 「あ、いえ…」 「ありませんわ」 そう言ってラクスは微笑んだ。 「その場所でその季節に咲くからこそ花は美しいのですもの。無理に咲かせるのは、可哀想ですわ」 その言葉はカガリの心の陰りのある部分に、微小の、しかし深い穴を穿った。 薔薇の棘が刺さったようなその小さな、けれど鋭い傷みが、何を意味するものかカガリは実のところ知っているような気がしたが、不安な気持ちに支配されそうになり思わず目を逸らした。 「カガリさんは何色の薔薇がお好き?」 「え?」 自分の思考の淵に呑まれそうになっていたカガリは、その言葉に顔を上げた。 ラクスの、真珠色の肌が目を惹いた。 「――白、が……」 嬉しそうにラクスの瞳が瞬いた。 「白は、私も大好きですわ」 蕾が綻んだような美しい笑顔に、カガリは闇の幻想の中で見た花の姿を思い出して胸の辺りがざわりと騒ぐのを覚えた。 同時に罪悪感にも似た感情が胸を過ぎり、目を伏せると足元の白い薔薇の花が目に映った。 思わず、その花に手を伸ばす。 「あ…――」 棘が指を刺した。 白く細い指の先から、鮮やかな紅い珠が見る間に溢れ出て、今にもそこから零れ落ちそうになっている。 まるでその鮮やかさに目を奪われたようにただ呆然と見つめていると、横から伸びて来た美しい手がそっと指を包み込み、そのまま小さな紅い唇の中へと ラクスの、紅い小さな花を思わせるその唇に銜えられている指を、カガリは始め自分のものでは無いように眺めていたが、次第に柔らか過ぎるその唇が与える生々しい体温と、微かに指先に生じる小さな歯と舌先から与えられる擽ったいような感触に、立っていられないような目の眩みを覚えた。 鼓動が忙しく打ち、息が震えた。 吸われた指先が痺れたように次第に感覚が薄れて行く。 午後の陽射しの中、その白昼夢を思わせる光景は、やがて唇から指がゆっくりと離された事で終わりを告げた。 半ば恍惚とした思いでその指先を見つめていたカガリに、ラクスが心配気な声を掛けた。 「戻って手当てをいたしましょう」 その言葉にやっとカガリは夢から醒めた人のように答えた。 「大した傷ではありませんから」 「いいえ、いけません。棘の傷が元で、破傷風になって亡くなった方もいらっしゃるのですから」 いつもには無い強い口調でそう告げると、カガリを促して歩き始める。 歩きながらカガリは先程の、あの体の芯が融けるような、甘美な、恍惚とした痺れを伴った、えも言われぬ夢のような時間を思い起していた。この指が彼女の、あの唇に触れたのだ。 その時を思い出すとカガリは体が打ち震えるような感慨を覚えたが、しかしそれは、アスランを通して得られるあのゾクリと背を這い登る、眩惑的で魅惑的な欲望を伴った幻想では無かった。 夜会の度にアスランはラクスをダンスに誘い、二人はホールで麗しい姿を披露して周囲に様々な憶測を抱かせた。 家柄も身分も申し分の無いこの組み合わせは社交界で忽ちの内に取り沙汰されるところとなり、密やかにその関係の顛末についての勝手な噂が囁かれた。 「ダンスがお上手ですわね」 何度目かの誘いを受けたある夜会で、ラクスは踊りながらアスランに話しかけた。 「貴女程ではありませんよ」 「ご謙遜ですわね」 花のような微笑をアスランに向け、軽やかに身を踊らせる。 「あの方はお誘いになりませんのね、一度も」 言いながらフワリと回転したラクスの手を、微笑したままでアスランは取った。 「あの方?」 「あの可愛らしい、壁の花ですわ」 ちらりとアスランは壁際を見遣ると、また視線をラクスへと戻した。 「ああ」 そう言うと交差してラクスと立ち位置を入れ替わる。 「花は花でも、あれはこの場にそぐわない」 「あら、同感ですわ」 ラクスの思わぬ言葉にアスランが一瞬動きを止めた。がしかし、すぐにまたダンスに戻った。 「野の花のように可憐で可愛らしい花にはこの場の空気は似つかわしくありませんもの」 「――そう言えば、花にお詳しいと」 「ええ、好きですわ、花は。見ているだけで心が和みますもの。花は、お好き?」 「特に好きだと思った事はありません――手折ってみた事はありますが」 「何故、どうして手折ってみようと?」 「また随分と変わった事に興味を持たれる方だ」 「よくそう言われますわ」 ラクスが微笑んだ時にそこで曲が終わり、次の曲が始まるまで暫くの間休息の時間となった。 「野の花を摘みに今度山手の方へ行きますの、あの可愛い方と。御一緒して下さる殿方がいらっしゃると心強いのですけれど」 アスランは微笑した。 「それではお供させていただきましょう」 「何だかピクニック気分のようで楽しくなりそうですわ。ランチも運ばせて、向こうでいただきましょう」 幼女のようなあどけない微笑を浮かべ、ラクスは胸に手を当てた。 「先程の答えですが」 その場を辞そうとしたアスランが思い出したように告げた。 「ただ手折った、それだけの事です」 その言葉に静かな声音になってラクスが答えた。 「ただ手折った、それでもそこに、花によって動かされた心があった、と言う事ですわ」 答えを返さず無言で暫くラクスを見たアスランは、軽く会釈をした後その場を立ち去った。 その二人を壁際で見ていたカガリの姿も、いつの間にかそこには無かった。 ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞ 真っ青な空は雲一つ浮かばずどこまでも晴れ渡っている。 木々の間を馬で行くと、鳥の鳴き交わす声が森のあちらこちらから聞こえてくる。 緑の合間を縫って降り注ぐ木漏れ日が、森を行く一行の上から時折射した。道の上にそれは光の綾を紡ぎ出し、そこを馬の列がゆっくりと通り過ぎる。 先頭を案内人の馬が行き、続いてラクス、その後にカガリとアスランと言う具合に列が続く。 馬は何れもクライン家が用意したもので、よく調教されていた。物心がついた頃から乗馬というものがごく身近にあったラクスとアスランとは違い、何かと不慣れなカガリでもクライン家の馬は大人しくその背に乗せている。 ラクスが時々振り返り、カガリに何かを話しかけると、カガリもそれに答えを返す。時にそこに楽しげな笑い声が混じり、それは後尾のアスランの耳にも届いた。アスランの視界には森の木々と、その木々の隙間から射す光が時折照らすカガリの黒い乗馬服の後ろ姿があった。その後姿をアスランは馬の背に揺られながら目深に被ったハンチングの影で見ている。 森を行く一行がやがて小さな湖の側を通り掛かると、その碧い湖水の表面がきらきらと陽を照り返して美しく輝いていた。その絵のような光景に、一行は暫しの間馬の足を止めてその景色に見入った。 街の喧騒から離れ、何の煩わしさも無い静けさの中に身を置くのは一体どれくらい振りかとカガリはその景色を見ながら思う。ふと少し離れた場所に馬を止めているアスランが湖面にじっと視線を注いでいる姿が映った。普段底の読み取れないその視線が、目深に被ったハンチングの所為かより読み取れない視線で、ただじっと湖面の光を見つめている。 ラクスがアスランをこの花摘みに誘った事に対して、密かにカガリの胸中を複雑な気持ちが強く占めていた。闇の契約で繋がった者同士が、こうして明るい陽の下で、爽やかな空気に囲まれて共に在るのは何とも皮肉で滑稽な事にしか思えない。それもラクスを前にしてアスランと平静に接しなければならないと言うこの状況下が、カガリの心に疲労と苦痛を与えた。 太陽と月が共にあるような違和感に苛まれながら、カガリは再び湖の方へと目を移す。 一行は再び歩き出し、湖を暫く横目に見ながらまた小道を行くと、やがて草原のような小高い丘に出た。 「ここですわ」 そう言うと、ラクスは馬を止める。 続くカガリとアスランも馬を止めると、眼下に遠く街並みが望めた。 なだらかな丘陵がずっと裾の方まで連なり、その緩やかな勾配のあちらこちらに野花や野草の群生地が見える。 一行はそこで馬を降り、それから従者が設えた簡易なテーブルと椅子でランチを共にした。 「こんな場所で食べるランチはまた格別ですわね」 楽しげなラクスを前に、カガリとアスランはただ微笑を返す。 視線を合わすことも無く二人はそれぞれに食べ物を口にし、ラクスの話を聞きながら時々芝居染みた相槌を打つ。尋ねられればそれに答え、しかしカガリとアスランが自ら必要以上に会話を交わす事は無い。 ラクスを囲んで和やかに進んだランチはやがて終わり、その後二人の淑女は野花を摘みに出掛け、アスランは一人散歩に出た。 野に咲く花の一つ一つを見てラクスとカガリはその愛らしさについて語り、また花言葉を考えたり栞にする楽しさを語ったりして、自然の中での一時を少女らしい観点で楽しんだ。 「カガリさんは好きな方はいらっしゃる?」 突然投げ掛けられたその年頃らしい質問に、しかしカガリは戸惑ったように口篭り、ラクスを見た。 そして屈託の無いその微笑に出くわすと、思わず目を伏せて「いいえ」と小さく答えた。 「私、今賭けをしていますの」 そう言ってラクスは艶やかに微笑んだ。その余りの色めいた艶やかさに、カガリの胸の鼓動が俄かに早く打った。 「賭け?」 「ええ。いつか、カガリさんにもその事をお教え出来る日が来ると思いますわ」 艶やかな笑みを湛えたままラクスは言い、そして足元の小さな白い花に気が付いた。 「なんて可愛らしい花。まるで、カガリさんのようですわ」 そう言うと、そっとその花に触れた。 「花篭を取って参りますわ。もう手には持ちきれませんもの」 手に一杯の花を持ったラクスが、従者のいる方向へと向かって歩き出したのを見届けて、カガリはその白い花に手を伸ばし、数本を摘み取った。 そしてその花を顔の側へと持って行き、そっと唇で花弁の先に触れてみた。 甘やかな香りを伴う擽ったいその感触に、いつかのラクスのあの紅い唇が思い起こされた。 「嬉しそうだな」 ふいに後ろから掛けられたその声が、カガリの恍惚とした時を破った。 ハンチングを手にしたアスランが、いつの間にそこに居たのか少し離れた場所に立っている。 ブーツをゆっくり踏み出すと、カガリの方へと近付いた。 「いけませんか?」 ちらりとアスランを見遣ると表情を硬くし、また花へと視線を戻したカガリは感情を殺した声でそう答えた。 側に歩み寄ったアスランはそれには答えず、カガリの手の内にある白い花を見る。 「その花に別の場所を与えても長くは持つまい」 低く、静かな声でそう言うと瞳はカガリを見た。 「野の花は野にしか生きられない。ましてや温室には――」 そう言うと、手を伸ばしてカガリの手から花を一輪抜き取った。 「咲ける筈が無い」 白い陽の光の下で闇の共犯者がそう告げた時、カガリは顔を上げてその目を見た。そしてそれが何の偽りも無い、ただ真実だけを告げている目だと気が付いた。その目は心の奥にある何かを捉えるように深く入り込んで直視し、カガリは楔が打たれたようにその目から視線を外せなかった。 どれくらいそうしていたのか、或いはただほんの短い時間だったのか、初めて深い場所を覗き見るような視線の交錯があった後、アスランはやがてそれを逸らし、また別の方向へと片手にハンチングを、そしてもう片方の手に花を持ったまま歩いて行く。 カガリはラクスがそこに戻るまでの間、その場に佇んで手の中の白い花を見続けた。 屋敷に帰り着いた後、カガリは部屋のベッドの脇に、その花をガラスの花瓶に挿して置いた。 そして夜、花を見つめながら眠りにつき、翌朝目覚めて花瓶を見ると、項垂れて萎み、色さえ変わり果てた花の姿がそこにはあった。 <07/05/05> ←四幕へ/六幕へ→ |