第四幕 : 混沌 薄いベルベットの天蓋布の影にその白い亡骸は横たわっていた。片手はベルベットの透けた布地を掴み、また片手は放心したように弱く指を開いて、薄青い月の光に曝される事を拒むように捩った下半身に慰みのように掛けられた白いシーツが、より一層その肢体をガラスのような脆い半透明の物質に見せていた。 つい先程まで酷くその肢体を弄んだ波濤の爪痕が、白いシーツに無数の掻き傷のような黒々とした影を作り出している。 放心していた指は時々何かを思い出したようにピクリと動くと、またゆっくりと元の位置に戻って静かになる。それは沈んでいた記憶の断片が時折浮上して、静まった波間を襲う小さな嵐のように遣って来ては悪戯に掻き乱し、傷付け、そして去って行った後の虚無な姿だった。 怠惰に澱んだ空気が床にうち捨てられた着衣の上を這い、壁を伝って部屋中の至る場所をその食指で侵そうとしている。 ――カガリがかつて知った 事に その姿に煽られるように果てを知らない欲望は更にカガリを虫食み、苛んで喰らい尽くすように深い烙印を与えて行く。 闇の中に かつてのあの儀式にも似た悪戯では無い。 自分の体の一部が血を流すだけで失うものなど何も無かったあの頃では無い。 掴んだ手の平のベルベットの感触が余りに頼り無く、今にもすり抜けて行きそうに思えて強く握り締めた。 しかし直ぐにその感触を奪い去る生々しい衝動が肢体を支配すると、やがて麻痺したように緩んだ手から布地が零れ落ちて行き、その最後の襞が落ちる寸前に漸く手はそれを繋ぎ止めた。 軋む音が部屋に満ち行くのを、それが自分の体から発する音のように感じながら、カガリは掴んだ布地が波打つのを視界の端で捉える。 寒々とした月の薄く青い光が、憐れみを投げ掛けるが如く、罪に染まり行こうとする手の平を弱く照ら出していた。 アスランには奇妙な性癖がある、とカガリは思った。 事の前に自分で解いたカガリのコルセットの紐を、事の後、また寸分違わぬ形で結わえ付けた。 背後のコルセットの紐は自分で結ぼうとすると時間と手間が掛かるが故に、必然的に成り行き上アスランが結んでやる事になった。カガリが屋敷に戻ってメイドに着替えを手伝わせる際、事の次第を気取られないようにとの配慮からか、それとも単なる癖なのか、元の結び方を記憶していてそれに違わぬ形で再び結び付けた。気に入らないと何度も遣り直す。それを几帳面と分類すべきなのか、神経質と取るべきか。何れにしても、そこに彼の母親が施した『教育』というものの影がある事にカガリは思い至ったが、本人は全く気が付いていない。母親を否定しようとしながらも、自分の体に沁み込み、潜んだその影に露ほども気付いていないアスランに、カガリは初めて人間性と言うものを見出した。 ――いや。かつて昔、自分の言葉で葬っていた母親の影を再び思い起こした時に、激情のままに自分を蹂躙したあの時、一度だけ迸る感情と言うものの中に確かな人間性を見たのだ、とカガリは思い出した。 その後の虚ろな目をしたアスランに、自分はあの言葉を投げたのだ。 『温室の花』、と。 自分が今その世界に身を置く事になろうとは何と因縁めいた事だろうか。 アスランが紐を締め付ける度に、カガリはその因縁を何度も思い出して、それが幾度も幾度も結び付けられて行くような錯覚を憶えた。 奇妙な光景はそれから何度と無く繰り返された。 疵付ける者と疵付けられる者、疵付けた者と疵付けられた者が一つの契約の元にコルセットの紐を解き、また丁寧に結び直す。それは終始無言で進められ、しかしどこかその紐の儀式によって形作られる妙な一つの関係として成り立って行った。 男女の関係と呼ぶには余りに希薄で無機質な、ただ肉体の結び付きだけによるその関係は、まだ互いの唇さえ知らない。 ある夜会でカガリは初めてその女性に出会った。 「ミス・ラクス・クライン」 彼女がホールに登場すると、そう名が告げられた。その名が響くや否や、その場に一瞬どよめきにも似た声が方々で起こった。 「いよいよ彼女もカミングアウト(社交界デビュー)と言う訳ですな」 「ずっと地方の別荘で静養中だったと聞きましたわ」 そんな囁き声がカガリのすぐ近くで聞こえた。 「ついに現れた名門家のお姫様を誰が射止めるのか見物ですわね」 「でも彼女は少し風変わりと言う噂ですわ」 別の場所からまた囁く声がする。 カガリは自分と年の頃がそう変わらないラクス・クラインと言う少女を柱の影から垣間見た。 真珠色の肌に美しい薄桃色の髪がまるで上等の絹のように掛かり、煌く二つの星を思わせる瞳と薄く色付いた上気した頬が、その真珠の肌の上にこの上も無い美しさで描かれている。小さな紅い花がそこに蕾を開いたような唇はそれが動く度に人の目を惹き付け、一歩踏み出す毎に揺れるドレスは肌の色を一層際立たせる艶やかさで彼女の身を覆って緩やかな光を放っている。 全てが気品に満ちて、毒された空気をも浄化して行くようにその場の光の具合さえ違って見せた。 完全なる美と言うものをカガリは初めてこの時目の当たりにした。しかしそれはただ美しいだけでは無い。生まれながらにしてその身に併せ持った『品格』と言うものが何の違和感も無くその全てから醸し出される様は、まるで神々しさにも似た耀きだった。 ホールに咲いた一輪の触れる事さえ叶わない程に高貴でしなやかな花を、魅入られたようにカガリはずっと見つめ続けていた。 紐の両端をゆっくりとアスランの指が引いて行く。余韻を残すようにハラリと紐は解けて結び目がその形を失う。 「ラクス・クラインを見ただろう」 そこで手を止めたまま、アスランの声が後ろから掛けられた。無言の交わりがそれまでの常であった為に、珍しい、とカガリは思った。 無言のまま頷くと、アスランは続けて言う。 「あれは本物のお姫様だよ。生粋のな。名門クライン家の一人娘だ」 そう言うと、コルセットの鳩目に通した紐を外し始めた。一目外す毎にカガリの体に紐の擦れる響きが伝わる。 そして最後まで外し終わると、耳元でアスランの声がした。 「彼女はお前の言うところの、『最高級の温室の花』だ」 声はそこで止み、唇は続けてカガリの肩を這った。 アスランの言葉に先程見たあの美しい姿が甦る。 あの手を触れる事すら憚られるような高貴な花。何者をも平伏させるような気高い花。その花の幻想がカガリの脳裏をずっと占め、事の 散り果ててそれでも尚、花を装う自らの白い体に与えられた契約の疵痕と、淡い光に生々しく照らし出された白いシーツの穢れが、事の果てたその後にカガリに残された唯一の真実だった。 ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞ 「お名前をお聞きしてもよろしいかしら?」 屈託の無い微笑が目の前に現れて、カガリは一瞬口を利く事が出来ずにいた。それをどう取ったのか、相手はまた微笑して言葉を継いだ。 「あらごめんなさい。まず自分から名乗るのが礼儀ですわね。私はラクス・クラインです」 すぐ目の前の高貴な花の姿に、カガリは俄かに今起こっている事が理解出来ず、「カガリ・ユラ・アスハです」と答えるのが精一杯だった。 ラクスはそれを聞くと気品に満ち溢れた笑みをその美しい顔に浮かべた。 「ずっと田舎で静養中でしたからまだこの世界に不慣れで、親しい方もほとんど無いのです。――貴女もお一人ですか?」 「ええ……私もまだ親しい方はそんなには…。こう言う場所にはなかなか馴染めなくて…」 「あら、では私と気が合いそうですわね」 予想もしないその言葉にカガリは驚いた。眩いばかりの光を纏ったこの女性に自分と類似する点があるなどとは到底思えない。 カガリの表情にラクスは柔らかな笑みを向ける。 「私、花が大好きで田舎の屋敷では色んな種類の薔薇を育てていましたの」 「薔薇を……?」 「ええ、自分で苗から植えるのですわ」 「御自分で?」 楽しそうに微笑むその美しい顔をカガリは信じられない思いで見つめた。名門家の令嬢が庭師の真似事のように自ら花を育てるなどと、未だ聞いた事が無い。ましてや泥や土で手を汚すなどとは以ての外、それは身分のある者のする事では無かった。 「自分で、ですわ。『御趣味は?』そう尋ねられてこう答え返すと、どなたも決まって妙な顔付きをなさるのです。そして笑って『庭師にでも嫁ぐおつもりですか』と」 カガリと並んで椅子に座り、ホールの真ん中で踊る人々に視線を遣りながらラクスは言葉を続けた。 「その種類によっては植える時期も違えば花を開く時期も違うのです。どの花がいつどんな場所に咲いてどんな香りでどんな色か。自分自身の手で知りたい、得たいとそう思う事がどうしてそんなにいけない事なのでしょう?」 そう言うとラクスの瞳は煌いてカガリの心を捉えた。 「ただ座ってお茶を飲んでいるだけでは求めるものは何も得られませんのに」 微笑みと共にしなやかな光を帯びた瞳が澱むところ無く真っ直ぐにカガリに向けられ、それは心を揺す振った。 ただ与えられた世界だけが至上のものと疑わないこのホールに存在する全ての価値観と言うものを、この華奢でたおやかに見える花はいとも容易く否定してしまった。ただ高貴なだけでは無い。そこに秘められ全てを突き抜けた人としての強い意志の耀きと言うものにカガリは次第に魅了されて行くのを感じた。 ラクスの美しい真珠色の肌がカガリの目を惹いた。すらりと伸びた腕の、袖と手袋の間の直に空気に触れる部分がすぐ側にあって、その匂うような無垢な艶やかさに目が奪われた。 その時向こうから近付いて来た青年がラクスに軽く会釈をして声を掛けた。 「一曲お相手戴けますか?」 青年はアスラン・ザラだった。彼は隣に居るカガリには一目も呉れず、ラクスに片腕を差し出した。 「ええ」 そう答えてラクスは手を伸ばしその腕に触れる。 ホールの中ほどに現れた一組の麗しいカップルの姿に、周囲の人々は囁き合った。 「ほう、お似合いじゃないかね」 「珍しい人が踊っていますわ。今まで誰の相手もなさらなかったのに」 「でもなかなか素敵な組み合わせではありませんこと?」 様々な憶測を孕むその囁き声を耳にしながら、カガリの視線は手袋に包んだ細いラクスの手に触れるアスランの指に注がれていた。 踊りが変化する度に、触れてはまた離れ、離れてはまた触れ合う。 繰り返しラクスの手に触れるその指を、自分は誰よりもよく知っている。 白く無垢な手袋を侵すように触れて行く指の姿を見ながら、カガリは背を這い登るゾクリとする感覚を初めて憶えた。 それが生まれて初めて知る『欲情』と呼ぶ感情であった事を、カガリはまだ知らない。 後ろで紐を解く音が聞こえると、カガリはゆっくりと目を瞑る。その閉じた瞼の裏に、先程見たあの白い手袋とそこから伸びるまだ穢れを知らないなよやかな腕が鮮明に映し出された。背後で動く指はその手に触れ、その感触を知っている。あたかもその手が指が、あの真珠色の肌に直接触れたような幻想をカガリは抱いて、アスランの指が体に触れられる毎に奇妙に高揚した。 その指と自分はラクス・クラインを共有している。 そんな眩惑的な幻覚が脳裏を始終支配して、かつて憶えた事の無い甘美な痺れがカガリを凌駕し、初めてその唇からか細い喘ぎを漏らした。 <07/04/15> ←三幕へ/五幕へ→ *上流社会の云々については何の知識も無く書いているので出鱈目もいいところです。もう別の星の話とでも思ってください…… 「カミングアウト」をああ言う言い方で使うのかどうかも不明です(オイ)ただ使ってみたかっただけなので… |