第三幕 : 転身 門から続く道の脇に咲いた薔薇の花の、朝露に濡れた薄い花弁の先端を暫く指で弄んだ後、薄く微笑してアスランはアスハ家の広大な敷地の中を屋敷へと向かって延びる道を歩き始めた。 そしてやがて玄関に辿り着くと、扉から顔を覗かせた使用人に名刺を差し出し、告げた。 「御令嬢にお会いしたいのですが」 「約束も無く突然訪問した非礼をお許しください」 アスランがそう告げると、アスハ夫人は口元に優雅な微笑を浮かべたまま、メイドが淹れたお茶を上品な仕草で口に運んだ。まるでそれ以上のお茶の飲み方などこの世の中に存在しないとでも言うような、気品と品格に満ちたその優雅な仕草にアスランは密かに軽く口の端に微笑を湛える。 「主人は生憎と今出掛けております。娘に御用がある、とお伺いしましたが、娘はこのところ少し気分がすぐれず、どうやら今日も臥せっているようです」 いきなりカガリを訪ねて来た年若い初対面の青年に、夫人は懐疑的な眼差しを色濃く投げ掛けながら、しかし口調は穏やかさを装ってそう答えた。 娘に会うにはまずその親を通さねばならないのが上流階級の仕来たりであった。如何に名門家の名刺を差し出そうとも、いきなり娘と二人きりで逢う事は許されない。無論それを承知の上で、そしてアスハ家の当主ウズミが不在だという事を実のところ知った上での訪問だと言う事を、アスランはおくびにも出さない。 「ああ、やはり」 憂いを帯びた眼差しになり、テーブルに掛けられた白いクロスの上に視線を落としながらそう呟いた見目麗しい青年に、夫人は怪訝な表情で鸚鵡返しに尋ねた。 「やはり――?」 「ええ」 沈痛な面持ちをその端正な顔に浮かべながら、アスランはゆっくりと視線を夫人に戻すと、躊躇いがちな口調で語り始めた。 「実は先月の夜会で初めて御令嬢とお会いし、思わず話が弾んで庭にお誘いしたのです。その時に少し寒いと仰られたのですが長く引き止めてしまい、帰りの馬車に乗り込まれる時の顔が余りに白かったものですから、風邪でも召されたのではと案じておりました。そうしましたらそれから夜会や舞踏会でお目に掛かる事が出来ないでいたので、もしやあれ以来体調を崩されているのでは、と気が気ではなかったのです」 如何にも誠実そうなその言葉と沈痛を表す眉間に寄せられた美しい皺に、夫人はその青年の人柄をすっかり信用の置ける人物として思い込み、抱いていた疑念を取払って顔に安堵の色を浮かべた。何より、身元はしっかりとした家柄であり、近頃何かと話題になっているこの青年の評判を夫人も耳にしていた。 「そうでしたの、でも心配はありませんわ。少し疲れが出ただけで、このところもう大分と体調も良いようですのよ」 先程とは打って変わったその言葉と態度に、アスランは微笑した。 「ああ、そうでしたか」 そして視線を落として「良かった」と胸を撫で下ろしたようにそっと呟いたその青年に、夫人はすっかり好印象を抱いた。 先月の夜会から戻ったカガリの顔色が余りに白く、少し疲れたように見えたのは事実であって、慣れない社交に疲れが出たのではとそれ以来大事をとって招待を全て断っていた。今まで違う世界に住んでいた者が、いきなり煌びやかな世界に連れ出されて、周囲に認められるまでに時間を要するのは当然であり、そして何より、それに伴って本人の精神的疲弊による衰弱が心配だった。 しかしこうして娘の身を案じて訪れて来る青年の誠実そのものの姿を見ると、夫人は嬉しさの余り、警戒心と言うものをすっかり忘れ去ってしまった。 「それを聞いて安堵致しました。少しでも早くお元気になられるといいのですが」 柔らかな微笑をその美しい顔に浮かべると、アスランは暇を告げた。 「御令嬢によろしくお伝えください。では私はこれで――」 「お待ちになって」 夫人が呼び止めた。 「娘をお呼び致しますわ」 「いえ、でも――」 「折角こうしてお越し下さったのですから。娘もお会いしたいでしょう」 優雅にそう微笑むと、夫人はカガリを呼ぶようメイドに申し付けた。 程無くして、ドアをノックする音がする。 開かれたドアの向こうに立つカガリを認めると、アスランは席を立ってレディに対する敬意を表した。 ドアの向こう側で顔から血の気が失せて行くカガリの姿を、アスランは立ったまま微笑を湛えながら迎えた。 アスランの訪問の 自分や青年の問いかけに口数少なく答えるだけの娘の様子を益々恥じらいから来るものだと思い込み、そして時折青年が娘に対して投げ掛ける意味有り気な眼差しを察して、機を見計らい席を外そうとしたその時に、 「御令嬢を庭にお誘いしても?」 との青年の言葉があり、断る筈も無く快く承諾した。 その時カガリの肩が微かに戦慄いたのを、終に夫人の目は捉えることは無かった。 「気分を変える事も必要ですわ。外の空気を吸えば心地も良くなりましょう」 そう言って優雅な仕草で上品な装飾のティーカップを持ち上げた。その仕草を、優美な笑みを浮かべたアスランの朝の空気のように冷えた眼差しが、静かに見つめていたのを夫人は知らない。 屋敷に違わず、その庭も広大でまた美しい。 手入れの行き届いた見事な造りの庭が、アスハ家の誇るものの一つでもあった。王宮の庭を模して造られたと言うその美しい庭の、幾何学的な模様を描くように植えられた低い木々の間のアール状に造られた優美な小路を、アスランと少し間を置くようにして歩いて行くカガリの姿を夫人は窓から認めると、またティーカップを寸分違わぬ仕草で口に運んだ。 「いい庭だ」 アスランは誰に言うとも無くそう言い、小路を歩いて行く。 数歩後からついて行くカガリは硬い表情のまま俯き加減で口を閉ざし、答えない。 「さすがは伝統あるアスハ家の庭だ、――と言う所だが、しかし伝統だけでは今これほどのものは保てまい。アスハ卿の政治に於ける力は今や甚大だからな」 そう言うと、足を止めて脇に咲いている紫色の花に目を遣った。 「夫人を見ていると母を思い出すよ」 乾いた声で告げたその言葉に、カガリは初めて顔を上げた。 「品位や品格だけが何より大切だと言う人種だ。ドレスの下が例え裸だろうと、優雅な仕草でお茶を飲む。それが彼らの誇りの 花から視線をカガリに移すと意味有り気に笑った。 「最もあの その言葉に体まで硬くしたカガリからまた視線を庭に戻すと、アスランは歩き始める。 その場に佇んだままのカガリは、アスランの後姿を暫く見つめていたが、やがてそれが高い生垣を折れて見えなくなると、その後を追ってまた歩き出した。 一体何の目的でやって来たのか? 平然とここまでやって来たアスランの予想もしなかったその行動に、カガリの心は不安と怖れで一杯になった。屋敷という最も身の安全を確保されていた筈の場は、今やその砦がすっかり取払われて身を剥き出しに晒そうとしている。庇護者であった筈の養母ですら、既に取り込まれて生贄とは知らず、娘を差し出そうとしているのだ。 両手で身を護るように腕を抱き、硬い表情のまま小路を進んで行ったカガリは考えに没頭するあまり、情況を見極める事を忘れていた。高い生垣が続く道へと小路が折れ曲がるその角に差し掛かった時、横から伸びてきた腕に声を上げる間もなく体を引き摺り込まれると、気が付くと生い茂る生垣の壁に張りつける様に体を押し付けられて、その押し付けているアスランの顔が間近で薄く微笑していた。 「死角だな」 その言葉の意味するところを悟ったカガリは体から血の気が引いていくのを感じた。 よもや、屋敷の敷地内でまで事に及ぼうとするとは――。 薄く笑ったままでドレスの襞に手を掛け、手繰ろうとするアスランの腕から逃れようとカガリはもがき、 「人を、呼びます――」 やっと口から出た声でそう喘いだ。 その言葉を聞いたアスランの手は瞬間止まると、名残惜しそうにゆっくりとドレスから離れて行く。 「流石にここでは出来ない、か」 そう悪戯げに微笑むと、荊に囚われた小鳥のように、茂る枝葉の狭間で虜になっているカガリの体を引き起こしてから、その白い 「卿と夫人は、――知らないのだろう?」 ビクリと震えるカガリの反応に、満足気な微笑を湛えてアスランは離れて行く。 「そろそろ社交界に顔を出した方がいい。そこにいない者の噂をする事が何より彼らの生き甲斐だからな。餌を与え続けると、風評は命取りになる。――無論、家にとっても、だ」 微笑を湛えたままでそう言い、踵を返して来た道を戻り始めようとしたアスランは、脇に植えられた薔薇に目を止めた。そして開きかけた花の蕾に手を伸ばすと、その先を指でなぞるように触れ、カガリを見た。 言葉も無く暫く見つめると、謎めいた微笑を残し、また屋敷へと向かって歩き出す。 その後姿を、瞬きも忘れたように動かぬ表情でただずっと見据えたまま、カガリはそこに長く佇んでいた。 ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞ 久し振りに夜会用のドレスに身を包んだカガリが馬車から降り立った時、夜空に掛かった月を雲が覆うように隠した。その様を見上げたカガリの瞳にも、暗く重い雲が覆うように映っている。暫く空を見つめた瞳はやがて、重い扉を閉じるようにその瞼を閉じ、暫くしてまた開かれると、そこには先程は見えなかった灯火のような密やかな光があった。月の無い空を灯す星明りのような微かなその灯火は、 胸に隠し持った秘め事を護るかの様な仕草でカガリはコートの襟を掻き合わせると、意を決したように夜会が行われる建物の中へと入って行った。 ホールは煌びやかなシャンデリアの光で溢れ、人々の熱気とその底に沈んだ様々な感情を孕んだ空気が、久々に足を踏み入れたカガリの肌にねっとりと絡むように纏わり付いた。 遠くから姿を見て密やかに扇の影で噂をしている者もあれば、言葉を掛けながら探るような好奇の視線を当てて来る者もいる。 色鮮やかに見える美しい花ほどそこには多くの毒を潜ませている、とカガリはここで知った。 特に温室の花は――艶やかで優雅なほどにそれは毒々しい。例えそれが朽ちかけた花であろうと、その毒を含ませる相手を、常に食指を伸ばして追い求める事を止めはしない。 その刺すような空気の毒気に、心の中をまで次第に侵されて行くような、そんな錯覚に陥りかけたカガリの背に、投げられた一条の視線を感じてカガリは振り返った。 人垣の向こう、壁際に凭れてこちらに向けられた視線が、篭った熱の中でそこだけ夜気に晒された青い月の温度のような冷えた空気を放っている。注がれた視線に、カガリは乱れそうになる呼吸を抑え、その視線の先を手繰るように相手を見据えた。 口元に浮かべられたその仄かな微笑の意味をカガリは知っている。 笑みを浮かべたまま、アスランはその場を離れると、知人の輪の中へと入って行った。 そして何食わぬ顔で、尚視線を外そうとしないカガリの存在などまるで忘れ去ったかのように、背を向けて世間話に興じ続けた。 やがて音楽が始まり、其処彼処に集っていた人々は、やっと退屈な話から解放されたようにそれぞれパートナーを得て踊り始めた。 誰も誘う者も無く、また話し相手もいないまま、ただ壁際で踊る人々の姿を見ていたカガリは、いつの間にかそこにアスランの姿が無い事に気が付く。 ホールを見渡してもその姿は無い。 そこへ一人の給仕が近付いた。 「シャンパンを」 グラスの載ったトレーを差し出しながらそう言った。黙ってカガリがグラスを取ると、その下に敷かれた小さなカードが見えた。 目配せするような給仕の仕草に、そっとカガリはそれを取ると、すぐにドレスの襞に見えないようにそれを隠した。そしてシャンパンをゆっくりと飲み乾すと、身を隠すように密かにホールから退出した。 薄暗い廊下の隅でそっと手の中のカードに書かれた文字を目で追うと、カガリは顔を上げて微かな灯りだけの廊下を仄暗い方向へと向かって歩き出した。そして暫く行った後、一つの扉の前で足を止めると、左右を見渡してからその扉を静かに押し開いた。 そこに有るものの輪郭だけが辛うじて浮かび上がる薄墨を引いたような闇の中で、中央に置かれた長椅子に足を組んで座る人影が、窓を背に仄白く浮かび上がって見えた。 カガリはそれを無言で確認すると、部屋に入り音を消すようにゆっくりと扉を閉じた。 人影に向き直り、その朧に浮かぶ輪郭を見つめながら、細い肩を微かに上下させてただ浅い呼吸を繰り返す。その様子は人影から見えない筈だったが、 「肩が震えている」 と声は愉し気な気配を含んでそう告げた。 「お願いがあります」 その言葉を無視するように、カガリは言葉を発した。 闇の中にただ二つの声だけが響いて、それは融け入るように宵闇に吸い取られて行く。 「どうか――あの頃の事は旦那様と奥様には――」 息を吐くと同時に、低い声でそう言ってカガリは黙った。 そして一呼吸置いて後、決したように告げた。 「その代わりに――体は好きになさって構いません」 言葉が闇に消え去った後、暫くの静寂が訪れた。飲み込まれそうな闇の底知れぬ深さに、カガリは足元から崩れて行きそうな錯覚を覚えたが、それでも麻痺したように足は床に張り付いて動かない。浅い呼吸を繰り返しながらただ闇の一点を見つめ、相手の反応を待ちながらそこに立ち尽くした。 人影は動く気配も見せず、また言葉すらも無く、足を組んだまま何の反応も示さない。 窺い知る事の出来ないその表情に、カガリは次第にジリジリと追い詰められて行き、いつの間にか我知らずその両手でドレスを強く握っていた。僅かな時間が途法も無く長く感じられ、その時の長さに気が遠くなりそうになった。 やがてその場を支配した闇はユラリと音も無く動き、伸ばされた片腕のその優美な輪郭を薄墨の中に淡く描き出した。カガリに向かって差し出されたその腕は、闇の中に投げられた網にも似てカガリをそこに絡め取り、一切を奪い去って繋ぎ止める枷のように鈍い色を帯びていた。 その腕に自ら囚われるように、底の見えない闇の中を辿るような足取りでカガリは影に近付いて行く。 伸べられた腕に抗って生きて行くには自分を護る術は何も無い。 その闇の中に何を捨て去り、そして何を得ようとしたのか、その本当の正体をカガリはまだ知らずにいた。 闇に浮かぶしなやかな腕の先の細い指だけがその真実を知り、やがてそこに触れる柔肌を待つ仄白い花のように薄闇の中にその花弁を広げていた。 <07/02/11> ←二幕へ/四幕へ→ |