第二幕 : 再開




それから二年が経った。
カガリが去ってほどなくしてから館の主人が急な病でこの世を去り、それに伴って嫡子のアスランが突然ザラ家を継いで当主となる事となった。
愛情の代わりに母親からはただ嫡子としての教育を、そして父親からはその教育のための養育費しか与えられなかった青年の心は、そのいびつさを証としてそこに留め置くかわりに、二年という歳月を鬱屈と変貌に費やさねばならなかった。
父親が若い愛人と過ごしていた屋敷からその愛人をすぐさま追い出すと、その屋敷を売り払った。その代価で都に近い場所に小さな屋敷を買い、今まで棲んだ館からそこへ移り住んだ。今までの人生というものの存在を焔に翳して全て灰にするように、それらは一切冷淡な感情のまま速やかに進められた。
家督の他に、父親の事業というものもアスランは継がねばならなかった。間接的にしか接しようとしなかった父親からはその方面に於いてはまだ何の教育も施されていなかった為、そんな彼につけこもうとした親族達が事業の引継ぎと援助を申し出たが、アスランはそれをことごとく退けた。そんな彼を訝しがり、そして何の期待も抱かなかった周囲の思惑に反して、しかし彼は目覚しい才を現し始めた。やはり血が為せる業かと世間では噂したが、それは以前のアスランという青年からは想像もつかない地道な努力の積み重ねと、そして彼の中にあって常に衝き動かしているある種の湿った感情がもたらした変化というものの結果だった。
事業で才を現し始めた年若い当主が社交界にデビューするや否や、瞬く間に周囲は持て囃し始めた。
年若い娘やその娘を持つ親達が、由緒あるザラ家の新しい当主の品定めに様子を窺い、そして噂に違わぬ秀逸な青年だと見定めると、忽ち何かと理由をこしらえては近付きになろうと躍起になった。
そんな言わば上流階級の人間の自分に対する反応の変化を、アスランは内心冷ややかに見据えていた。
まだ家督を継ぐ以前、館で放蕩した生活を送っていた自分を、『ザラ家の出来損ない』と陰で口さがなく噂していた者達が、まるで手の平を返したような態度ではないか。口の端に歪んだ笑みを湛えながら、そんな者達に彼は無言で会釈を返した。
興味は無い。
それが彼の全てだった。
何人かの近付いて来た女と遊びで関係を持った事もあった。
しかし寝た後、彼はいつもすぐに覚めた。
ある時自分の上で淫らに体をくねらせる事に夢中になっている年上の女の、上流階級とは思えぬ品の無い呆けた顔を冷ややかに見ながら、
「温室の花だな」
そう歪な笑みを漏らした。幸いにしてその呟きが聞き取れなかった不幸な女は、
「何?」
と行為を続けながら、ずっと締まり無く開かれている口で問い返す。
「いや」
冷笑を浮かべたアスランは、女の、下品な表情を覚めた目で眺めた。
そしてかつて自分を同じような表情でじっと見ていたあの目が、いつも行為の最中さなかにアスランの脳裏に浮かんでは、捉えるように離さないのだった。




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およそ社交界というものほど退屈な世界は無いとアスランは思っていた。がしかし、諸々のしがらみのせいでどうしても顔を出さない訳にはいかない。そこは事業を進める上での人間関係を構築する場でもあり、また様々な情報を収集する為の場でもあった。どうでもいいダンスやくだらないお喋りには興味も示さず、ただ必要な交流だけを得ると、出来る限り早急にその場を後にした。
彼に取り入ろうと声を掛けてくる女も男も後を絶たなかったが、適当な言葉でその場をかわす術もいつしか身に付けた。
お茶会の誘いや遠乗りの誘いを受けることもしばしばだったが、それも出来得る限りは多忙を理由に遠ざけた。冷めた感情でしか捉えることの出来ない彼には、そんな退屈極まりない集いは苦痛以外の何ものでも無い。
綺麗に着飾った腐りかけの花。
最早彼の目にはそうとしか映らないのだった。
ある日、顔を出した社交界の集いで壁際に立って人々の顔触れを眺めていたアスランは、その中の一人に目を止めた。
暫くその顔を見つめた後、何気ない調子で隣に立つ男に尋ねた。
「あのご婦人は?」
尋ねられた男はちらりとそちらを見やると
「ああ」
と含みのある返事を返した。
「あのご婦人は――」
急に密やかな声で、男は意味有りげに答えた。
「いや、これは噂ですがね――」


中の篭った熱気と密かに向けられる好奇の眼差しから逃れるかのようにその場を離れた婦人の姿を追って、アスランは広間から離れたテラスへと足を踏み出した。
冷えたテラスの石造りの床に歩を踏み出すと、そこに先程の婦人の後ろ姿があった。
上流階級の中でも裕福な家柄と知れる最高級の布地のドレスを身に纏ったその婦人は、新鮮な空気を吸うかのようにゆっくりと肩を上下させながら、庭に向かい佇んでいる。
近付いたアスランの気配に、静かにゆっくりと振り返った。
それがカガリとアスランの、二年振りの再会であった。
振り返ったカガリはアスランの姿を認めると、ただ黙ったままで側へやって来る彼の姿を無表情に見ていた。
「何をしている?」
如何にもさり気ないと言ったふうに問い掛けたアスランの言葉に、
「空気を吸っているのです」
動じもせず、また微動だにしない表情でそう答えたカガリを、アスランは立ち止まって興味深げに眺めた。
「こんな場所で一体何をしているんだ」
再び問い掛けたアスランに、カガリは今度は無言で返してまた庭の方を向いた。
宵の口の冷めた空気が辺りを包んでいる。
「アスハ家の養女になったと聞いたが。その高価なドレスを見るとどうやら本当のようだな」
口を閉ざしたままアスランに背を向けていたカガリが、暫しの後つとその身をアスランと対峙する方向に向けると、目を上げてアスランを見た。
「あれからアスハ家に奉公に上がった私を、先年亡くなられたお嬢様によく似ていると仰って、旦那様と奥様が養女にして下さったのです」
「しかしそれは異例の事だな。身分も何も持ち合わせず、孤児のお前を名門家が養女にするとは」
「その為に一度アスハ家の親族であるシモンズ家の養女となり、そこから正式にアスハ家に迎え入れられました」
「なるほど、卿と奥方は余程お前の事を気に入ったとみえる」
庭とテラスを隔てる瀟洒な彫刻が施された石造りの低い仕切り塀に凭れながら、アスランは腕を組んでカガリを見る。そしてヒタリと笑うと、手の指で顎を撫でた。
「温室の花だな」
その言葉にカガリの瞳が初めて動いた。
「いや、温室に紛れ込んだ雑草か」
「――」
「例えどんなに綺麗な服で着飾ろうが、雑草は雑草なのだ。温室の花にはなれない。それはお前自身がよく知っているだろう」
カガリは無言のままで聞いている。しかしその目はアスランを見据えたまま次第に険しい色を湛えつつあった。
「空気を吸いに来なければ窒息しそうになるほど温室には馴染めない。それはお前が雑草にしか成り得ない事の所以ではないか」
口の端に歪んだ笑みを浮かべてアスランはカガリをなぶるように言葉を突きつける。
その態度に一層険しい色を増したカガリの目は終にアスランから逸らされると、その場を立ち去らんと足を踏み出した。
「知人が探しています」
横を摺り抜けようとしたカガリの細い腕を、しかしアスランは捕らえた。
「会いたかったよ。お前には礼を言わねばならなかったからな」
暗く底光りのする瞳を湛えたアスランの顔を、カガリは初めて戦きと言う感情を宿して見た。そこには与えられなかった親の愛情の代わりに自分の体を弄ぶことで脆弱な精神を充足させていたかつての幼い青年の姿は無く、社交界で生きる術さえ身に付けた実業家と言うしたたかなまでの顔を合わせ持った一人の青年の姿があった。
「お前にとっては思い出したくも無い過去だろうが、俺は忘れた事は無い。いや、忘れられなかった。お前が最後に投げ付けたあの言葉がな」
掴まれた腕に加えられる力が、その言葉に潜んだ薄暗い感情を生温かい体温と共に体に注ぎ込もうとしているようで、その時カガリは淫靡な臭いのする怖れというものを知った。
「――離して下さい」
「だがあれ以来、どんな情況に陥った時にも常にあの言葉が俺の中で全てを衝き動かしてきたのだ。まるで俺を嘲笑うようにな」
アスランの瞳は闇の川底に映る妖しい月のように光を帯び、そして蒸れた雨上がりの空気のように湿気を含んでいた。
「感謝している、とでも言っておこう。だがこんな場所で再びお前に会おうとは――狭い社交界だ、いつかはこうなる事は知っていたはずだがな」
カガリは答えない。絡め取られた力に手も足も口すら封じられたように動くことが敵わない。
社交界に在る限り、いつかは出会うと思ってはいた。が、彼のそんな変貌と鬱屈を知る由もなかったのだ。
向けられた澱の黒く濁った感情の薄ら寒さに、体の中に沈んだ闇の薄暗い切れ端が今にも引き摺り出されそうで、カガリは微かに身震いした。
と、掴んだ腕を強引に引き摺るようにアスランが歩き出した。
「離して下さい――」
辛うじてそう抗うカガリには目もくれず、宵闇が迫る肌寒いテラスをアスランは暫く行くと、テラスに面したとある部屋の扉を開け、無理矢理にそこへカガリを引き入れた。
部屋は薄暗く、上り始めた月の光が僅かに大きなガラス窓から射し込んでいるだけで、他に灯りは無い。
漸くアスランの手から解放されたカガリはしかし追い詰められたように窓に背を付けて後退る。
「声を立ててもいいが誰も来はしない。ここはそういう事の為に用意された部屋だからな。お前はそれも知るまいが」
顔の半分を仄かに月に照らされたアスランが笑う。
「社交界とはそういうものだよ。腐った温室だ」
そう言うと首に絡まったタイを投げ捨てた。
窓伝いに後退っていくカガリは部屋の隅で終に逃げ場を失った。青白く月の光に照らされた顔は言葉も無くアスランを見据えている。
「ほう、お前のそんな感情を露にした顔は初めて見る」
嫌悪と怖れの入り混じった表情に、満足気な言葉を漏らしながらアスランは近付いた。
窓とそこに掛けられた分厚いカーテンの狭間で、カガリは追い詰められた小動物のように動かない。ただ目だけはアスランから逸らさずにいる。それを見てアスランは低く笑い、上着を絨毯に脱ぎ捨てた。
象牙色の上等な繻子のドレスに手を掛けると、裾を手繰って手早く持ち上げる。その下にあるかつてよく知ったドレスと同じ象牙色の肌を持った片足に触れると、アスランは唇に笑みを浮かべた。
「声を出しても誰も来るまいが――最もお前は声を出さなかったな」
カガリの瞳がピクリと動き、カーテンの襞を片手が強く掴んだ。
噛んだ唇と苦しげに寄せられた眉間の皺が淡い光に浮かび上がる。
薄闇の中、風の無い部屋で暫く揺らめいていた厚い生地のカーテンは、やがてピシリと音を立てると、その止め金を絨毯の上にいくつか弾き飛ばした。
その止め金の上に、冴えた月の色が青く灯っていた。



<07/01/21>

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