蕭条の館
第一幕 : 離別
「おいで」
差し出されたその手の指先の、美しく抓み整えられた白く細い爪先が、酷く薄く頼りなく、儚げな影を宿しているように薄闇の中に浮かんでいた。
昼となく、夜となく。
また夜となく、昼となく。
その部屋の扉は固く閉じられる。
「ああ、゛ また ゛?」
「ええ、゛ また ゛」
そんなメイド達の、淫靡な響きを含んだ囁きが密やかに漏れ始める頃、遮光された薄暗い空間の中では、無言の密約とも言えるその情事がまたひっそりと取り交わされる。
重厚な色の毛足の長い絨毯の上に点々と、散乱する着衣の波の間に浮かぶ仄白い寝台で、布に擦られた蠢きによって生ずる生々しい物音と、蒸気を発するような蒸した膚の擦れる音以外には何も聞こえるものは無く、淡々と、日常繰り返される定められた儀式のように、それは執り行われていく。
そこには何の空気も感情も存在はしない。
ただその儀式を弄ぶ、それだけが唯一の確かな理由として、その部屋には存在していた。
「カガリ」
散乱した着衣を拾い上げ、身繕いをしようとしているカガリの後ろから、寝台の上のアスランが方頬をついたままで問いかける。
「前から思っていたんだが」
カガリは背を向けたまま、下着を身に着けながら黙って聞いている。
「お前は初めてこの部屋に来た時も、そして今も、声一つ上げなければまるで抗おうともしない。媚もしなければ、誘惑するでも無い。かと言って、俺を愛しているという訳でも無いのだろう。まるで為されるがまま、ただ一点を見つめたままで身を委ねている。それは一体、どういう訳なのだ」
黙って身繕いを続けていたカガリは、メイドの服をすっかり着け終ると、上半身だけを寝台の方へ向けて、まるで何事でも無い、というように、平然とした声音で答えた。
「何も。ただ、生きて行く為に」
そう言うと、床からアスランの衣服を拾い上げ、寝台の隅に置いた。
「私には身寄りも何もありませんから、この身一つが生きる為の全てです」
そう答えると、踵を返して扉の方へと歩き始めた。まるで今し方の情事など、もう過ぎ去った過去だとでも言うかのように。
一瞬沈黙していたアスランが、口元に歪んだ笑みを浮かべてカガリの背に投げ掛けた。
「お前の、そんなところが気に入っている」
その言葉を聞いたカガリが扉の前で一瞬足を止め、そして振り返った。
「貴方こそ」
口元に不敵な笑みを浮かべている。
「こうして私を弄ぶ事で、先年お亡くなりになったという御母上に復讐をしておいでなのでしょう?」
アスランの口元からスウと笑みが退いて行く。
「とても厳しい御方だった、とお聞きしました」
そう言うと、後ろ手に扉を開けながら、クスリと微笑んだ。
「私も貴方の、そんなところが好きですわ」
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この辺りの実力者であるという館の主人と、16歳になるその息子が棲んでいるその館には然れども、主人はほとんど滞在する事は無い。別の館で若い恋人と過ごす事が多かった。従ってこの館には今、息子であるアスランという嫡子が一人棲んでいるに過ぎなかった。
幼い頃から厳しく情の薄い母親に育てられたアスランには甘えると言った子供の特権とも言うべき至極当然の行為の場さえ与えられず、ただ、当家の嫡子としての厳格で崇高な教育のみが施された。その禁欲を強いる日々は、彼の母親への隠された思慕を孕むと同時に、同等の、同量の憎悪とも言うべき感情を生み出した。儘なら無い想いと、募り行く憎悪との狭間で次第に歪み行く自分の感情の矛先を何にも見出せず、悶々と隠棲する日々を送るうちに、母親が死んだ。若い恋人の元に入り浸り、家庭を、そして自分をも顧みもしない夫の仕打ちに耐えかねて次第に精神を病み、それが肉体をも蝕んでやがて、命をも奪い去った。母親が死んだ時、アスランはしかし父親を憎いとは思わなかった。むしろ、あの、まるで自分を父親の代替のように縛り付けていた、母親の歪んだ愛情とも言うべき、ねっとりと自分に絡み付いてその棘で刺す荊のような視線から思わず解き放たれて、安堵した思いのほうが強かった。「お前は本当にあの人にそっくりね」そんな密やかに繰り返される、讐の言葉に見えない掻き疵を負う事も、今はもう無い。
カガリと言うメイドが館にやって来たのはそれからややあっての後――。
一度解放され、箍の外された自由というもの程、人を怠惰で甘美な混沌とした楽園に衝き墜とすものは無い。
アスランの精神は忽ちのうちに、自堕落と、快楽と、悦楽の支配するところとなった。
明るい光に満ち溢れた世界に目を奪われるうちに、ふと見た事の無い、若いメイドの姿が目に留まる。それは他のメイドとはどこか違う、凛とした空気を纏った撓やかな一輪の花の蕾のようにも見え、それは一瞬アスランの心を惹き付けた。
手折ってみたい、と興味を持った。
「後で部屋に来なさい」
擦れ違いざまに小声でそう告げた。
メイドはその部屋に足を踏み入れた。
着衣を一枚ずつ、ゆっくりと剥ぎ取られて行く間にも、泣きも喚きもせず、怯える様子すら無い。
初めて女体というものを目にするアスランに直視され、手で確かめるように触れられても、メイドは抗う事も無く、その様子は果たして事に熟れているのかと訝る程だったが、それもそうでは無い事が直ぐに知れた。
まだ固い蕾が心無い悪戯な手で手折られるその時にも、ただ天井の一点をじっと凝視したまま僅かに眉間を顰めただけで、事が果てた後にも言葉も涙も何も無い。
奇妙な女だと思った。
「名は、何と言う?」
「カガリ」
それが嫡子とメイドとの、初めて交わした言葉だった。
それからというもの、昼とはなく、夜とはなく、その悪戯な儀式は繰り返された。
カガリの姿が嫡子の部屋へ消える度、噂好きのメイド衆の口の端に、忽ちのうちにそれは掛かる事となる。
「一体どういうつもりかしらねえ?」
「子種でも、貰おうって肚なんじゃないのかしらね」
「まあ恐ろしいわ。あんなに大人しそうな顔をしている癖に」
謗る言葉の肚裏には纏わり付くような羨望と、妬みを孕んだ絡み付くような視線が潜んでいる事は、言うまでも無い。
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『こうして私を弄ぶ事で、先年お亡くなりになったという御母上に復讐をしておいでなのでしょう?』
寝台の側に飾られた薔薇の花の蕾が朝には花開き、そして夜には咲ききって、明日のうちにはもう散り終わっている。
そんな花の命などには全く無関心な、ただ日々を欲望に塗れて過ごす事にしか関心を示さない、幼い精神がやっと手に入れた自堕落と言う名のその楽園に、一投の小石の所為で生じた微かな罅割が、薄く脆い氷皮の上に気付く間も与えない速さで広がって行き、それは絡め獲る網の目のように、やがてアスランの心の闇を掴んでそこに繋ぎ止めた。
忘れ去られたかのように思えた記憶は再燃し、過去の言葉は甦って、またアスランを疵付ける。
密かに葬った筈の自分を蹂躙した面影が、思い掛けなく自分が手折った花によって齎されたのだ。
「お前は酷い女だ」
そう言いながらアスランは、また閉ざした扉の中でカガリの着衣を毟る様に剥ぎ取って行く。
その手はいつもとは比べ物にならない程に荒々しい。
――これが、俺の復讐なのか?………そうか、そうなのだ、俺はこうする事で、復讐を遂げているのだ……求めても、疵付ける事以外には何も与えようとはしなかった、あの情薄な母親と言う名の女に…。
それが誰に対する憎悪なのか、アスランにはもう判別がつかない程に、初めて昂ぶる感情というものがその儀式に添えられた。それは遣り場の無い、鬱屈していた積年の感情が、矛先を見出してしまった故に一気に濁流と化して出口を求めて流れ込む。
「なんて酷い女だ」
そんな罵りの言葉を繰り返し、アスランは感情に衝き動かされるままにカガリを陵辱する。
――そしてそんなアスランを、カガリは初めて凝視していた。
衣服を整えるカガリを、アスランは黙って寝台の上で眺めていた。
何とも表現し難い放心した心地で、空洞が体の芯に出来たような、その虚無感をまるで他人事のようにしか捉えられない自分の様子が可笑しくもあり、また空しくもあった。
「貴方とは、これでお別れです」
何の前触れも無く、振り返るとカガリがそう告げた。
余りに突然の出来事に、アスランは暫く耳を疑った。
「別れ……?」
「旦那様より、お暇を出されました」
「父上に……?」
まるで寝耳に水、とばかりにアスランは驚きの表情を見せる。
「何故、父上が…」
「さあ…」
そう言うと、カガリは俄かに微笑んだ。
「ただ、貴方に不都合な事があるようでは、この先困る、と言うような事を仰ったとメイド長からお伺いしましたけれど」
アスランは押し黙った。父に、この情事を知らせた者がいるのだ、と直ぐに知れた。
ならば、自分のしている事はどうなのだ、そもそもは、何もかもは自分の行いが全ての要因ではないか、と父に対する反感と侮蔑の情が初めて膨れ上がった。
「それでは、お暇致します」
そう言って背を向けたカガリをアスランが呼び止める。
「おい、待て」
カガリが振り返った。
「どこへ行く?」
「さあ…。旦那様が紹介状を下さいますから」
「……本当に、行くのか?」
カガリは微笑した。
「旦那様に逆らってはここでは生きては行けませんもの。私も、そして、貴方も」
そう言うと、つと、寝台の側の咲ききった薔薇の花に目を留めた。
「弱いものですわね。温室の花と言うものは」
その最後の言葉をアスランの胸の奥深くに残したまま、カガリが去った後の扉はまた固く閉じられた。
それが再び開かれるのは、数年の後の話となる。
<05/10/23>
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