第七幕 : 蠱惑こわく




社交界ではアスランとラクスの婚約が間近いのではないかとの噂がまことしやかに囁かれていた。
家柄も身分も申し分の無いこの取り合わせに、異論を唱える者は誰一人としていない。名門であるザラ家とクライン家の結び付きにより、両家の社交界及び政界に於ける力が一層強まるその影響力と言うものについて、人々は様々に噂し合った。特にアスラン・ザラと言うまだ年若い青年の台頭に於いて、この婚姻は大いなる資と富を与えるだろう、と。
その噂は都だけに止まらず、地方の社交界にまで及んで行った。
それ程までに、この両家の結び付きと言うものが、世間から注目され、そして関心を集めた。
未だ行方のわからない真意の在り処を置き去りにして、しかしそれは確実に、雨が絡んだ蔦を伝うようにその先に見えない雫を滴らせて、ある者の心に波紋を広げた。
その波紋が幾重にも描いた輪がやがて一つの形となり、その者の心を動かすに至るのはもう少し後の事になる。


「オペラに誘われましたの」
クライン家の一室で、ピアノの前に座ったラクスがそう言ったのを、カガリは緩慢な動作で顔を上げて見た。
先程までラクスが弾くピアノの音を聞きながら、そのひやりとしたピアノの肌に凭れてぼんやりとその黒い表面に映る窓外の景色を眺めていたカガリは、曲が終わった後唐突にそう告げたラクスの言葉に、突如現実世界に引き戻された。
話をする時に少し小首を傾げるのがラクスの癖だったが、今もその姿でカガリの方を見つめている。
「誰に」と言う事は、聞かずともわかる事だった。
「そうですか」
他に返す言葉も無く、曖昧な笑みを浮かべながらカガリもラクスを見返す。そして何となくその視線の持続に耐えかねて、そっと目をまた黒光りのするピアノの表面に戻した。
専ら噂になっているアスランとの関係について、自分は何も知らされてはいない。自らその真相を尋ねるのも何となく憚られる思いがして、結局何も聞けずにいる。けれど彼女の結婚相手がもし本当にあのアスラン・ザラであるとするならば、自分にとっても無関係な事では無くなってくるのだった。
彼女は、知らないのだ。あの薄闇で行われた後ろ暗い取引の数々を。
友人と夫となるべき男が過ごした怠惰で自堕落な罪の日々を。
その真実がある限り、カガリは今後ラクスの瞳を永劫に真っ直ぐ見返す事が出来ないような気がした。
自分とアスランが秘めている限り、その事実が彼女に知れる事は無いだろうが、それを心に隠し持ったまま今後もずっとラクスと何の変わりも無い関係を保ち続けていくのは、余りに心苦しい事に思えた。
夫妻となった彼らを前にして、自分は一体どんな表情を顔に浮かべればいいのか――?
お茶に招かれれば平然とした顔で談笑してお茶を飲み、その内に子供が生まれれば仲睦まじい夫妻の屋敷へと出掛けて行って我が事のように喜びながら祝いの言葉と品を送る。そして夫妻によく似た美しい子を見ながら賛辞の文句を二人の前で並べ立てる。
心の中にあの薄闇の記憶を刻んだままで、そんな偽りの日々を過ごして行く事は想像出来ない程徒労な事に思えた。考えただけで、カガリの心は重苦しい水底へと沈んで行きそうになる。
何より――
アスランとラクスが夫婦となって契りを結ぶ、と言うその事実が全く実感を伴わず、今までアスランとは肉体を、ラクスとは精神を通して交わってきた自分の世界を通り越して、かの二人が直接交わりを結ぶという事が、カガリに説明の付かない複雑な感情を抱かせた。
自分でも理解し難いその感情は、自分の存在そのものをどこか遠くへ追いやってしまうような、まるで奇妙な感情だった。彼らの間に自分は確かに存在したのだと、忘却されようとしている物語の頁の一部分を、消えないように鋭利な物でしっかりと刻み付けたいと欲するような、今まで覚えた事の無い執着した想いだった。
「あの――」
思わず口から零れたその言葉は、続く筈だった言葉の先を途中で見失った。
――本当に彼と、結婚を?
永遠にその先は失われてしまった。ラクスが、真摯な瞳の色でこちらを見ていた。
「どうしましたの?」
「あ――いえ」
その瞳に行き当たるとそう言ったきり、カガリは口を噤んでまた視線をピアノに戻した。何も言えず、また何も聞けなかった。
「ねえカガリさん」
ラクスの、初めて耳にする声音がカガリの元へ届いた。
しんと静まった水面に、一枚の落葉がおこした微かな水紋が広がって行くように、その声はカガリの心に広がって行く。目を上げると、密やかに物哀しさを含ませたその声は、いつもの小首を傾げる姿ではなく、真っ直ぐに向けられた視線で、カガリに手向けられていた。
「私以前、賭けをしている、と申し上げましたでしょう?」
その思わぬ深閑とした直向な視線に、カガリは心を見透かされたのかと思わず心が騒いだ。
「ええ」
「想うままにならないものですわね、人って」
そう言って淋しげに微笑んだラクスの顔は、初めて見る弱々しさを含んで向けられ、それはカガリの胸を衝いた。
けれどもその理由を訊く事が躊躇われて、カガリはただ視線をラクスの美しい顔とピアノに映り込む窓の景色の間を彷徨わせた。何かの言葉が糸口となって、真実が白日の下に曝し出されるのでは無いかと言う慄きがカガリを捉えていた。
やがてピアノから静かにまた流れ始めたノクターンの調べに、移ろったカガリの視線がラクスに向けられると、どこか遠くに想いを馳せるような表情でピアノの鍵盤に指を辿らせるラクスの姿が映る。
その調べが止むまでの間、カガリもまた物思いに囚われて、それぞれ心をどこかに預けたままで、午後の柔らかな光が射し込む部屋の時間はゆっくりと行過ぎて行った。


夜会で逢った後、カガリがアスランと顔を合わせたのはその数日後の夜会での一夜だけだった。
その日も彼は僅かな時間をそこで過ごしただけで(勿論ラクスとも踊り)足早にそこを立ち去って行った。それが如何にもラクスに逢う為だけにその場を訪れたように人々の目には映り、また勝手な憶測が囁かれた。
「オペラに行く日が決まりましたの」
踊りながら二人が交わした話をラクスがさり気なくカガリに伝えた。
「オペラ座でザラ家がお持ちのバルコニー席に招待されましたわ」
そしてにこやかに微笑んでラクスは言った。
「カガリさんもいらっしゃる?」
その誘いに、カガリはやんわりと答えた。
「せっかくですけれど、オペラはあまりよくわからないので…」
「そう、残念ですわね」
微笑んだままラクスは小首を傾げてそう言うと、「カガリさんにはオペレッタのほうがいいかも知れませんわね」と付け加えた。
招かれざる客である自分に与えられる席などある筈も無い、とカガリは思った。
最早彼は自分に興味を失ったように、その存在すら忘れ去ったように、触れる事はおろか、視線を呉れることも無い(最もそれは人目のある場所では先から無い事であったが)。それは既に用無しだと言わんばかりの態度では無いのか?
その時、数日前一瞬彼の口元に浮かんだ鮮やかな笑みの記憶が胸に甦った。
その笑みの意味するところが何であるのか、カガリにはよくわからなかった。ただ、良く似た笑みをかつて見た記憶があった。
アスランがアスハ家を訪れた日。カガリを庭の垣根の影で弄んだ後、去り際に薔薇の蕾に指先で触れながら漏らしたあの微笑。その時の笑みがカガリの心の中で重なって行く。
謎めいた美麗な微笑。
その笑みの正体をカガリはまだ知らなかったが、本能、と言うものの為せる業であろうか、その笑みが心から消え去る事は無く、常に心の一端を占め続けていた。


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それは悪戯であるかのように、意外な場所でカガリはアスランと出逢う事となった。
養母の知人であるさる家の夫人が、親しい知り合いだけを招いて自分の屋敷で小さな音楽会を催した。
少人数で構成された弦楽団の演奏を聴きに、カガリはその日、体調が思わしくない養母に代わって招きに応じるべく、その屋敷を訪れた。
そこに、思い掛けなくアスランが居た。
彼の亡くなった父親はその屋敷の夫妻と昔から懇意であり、その繋がりで彼はそこに招かれていた。こういう集いを彼は好まず、何よりその夫人のこうした派手な振る舞いを好きではなかったが、父親が亡くなった後に何かと世話になった事もあり、仕方無く何度かに一度の割合でこうした集いに訪れていた。
まるで仕組まれた事であるかのように、そう言った経緯で夜会以来、顔を合わせていなかった二人は偶然と言う名の悪戯のもとに、ここで出逢う事となった。
始めカガリは気付かずに、席に座って隣の婦人と他愛の無い世間話を交わしていた。その内に楽団がその部屋に現れ、夫人の挨拶と楽団の紹介があった後に、やがて演奏会が始まり、静かにカノンが奏でられ始めた。
人の視線と言うものは説明の付かない不可思議な現象を引き起こす力がある。
それは直感であったと言っていい。
カガリはある方向から自分に向けられた、固執するような強い意識を感じ取った。
無意識の内に、斜め後ろのその方向を振り返った。
目が合った瞬間、ザワリと神経を侵すような激しい衝動が視覚を通して体に伝わった。
一瞬だけ目を合わせた後、カガリは徐に視線を前に戻して演奏する楽団を見たが、目はそれを映しているだけで心は見ていない。
動悸がして、知らず足の上で重ねた両手の指に力が入っている。
――こんな不意打ちがあるだろうか?
弦楽団の奏でるカノンが、徐々にその音の厚みを増して行く中、カガリの心もそれにつれて大きく騒ぎだす。
不意打ちの出逢いは精神的な余裕を奪い去り、理性を掻き乱して、いつもは用意出来た筈の平然とした面の皮を付ける事を忘れさせたが、何よりカガリの心を本当に見失わせたのは、その視線だった。
視線の先が自分に向けられている事実そのものが、カガリの全身を硬直させ、神経をまで侵した。
演奏が続く間中それはカガリの背から逸らされる事は無く、カガリは体中の感覚でそれを感じ取っている。
そして楽曲が最高の盛り上がりを迎える部分に差し掛かかった時に、ゾクリ、とする感覚が背筋を這った。
それはかつてカガリが覚えた事のある、よく知ったあの感情だった。


喝采を浴びてやがて演奏会は一区切りを終え、暫く休息の時間となった。
別室に用意されたお茶やお菓子が客人達に振舞われ、それを口にしながら人々は夫人に演奏の素晴らしさを称えたり、またそれぞれに感想を述べ合ったりした。
カガリも黙ってその席に同席していたが、視線はおのずと彷徨って誰かを探している。
が、先程からその姿が見当たらない。
50人程の招待客の顔触れを見回しても、その席の中に彼の姿は無かった。
何故そんな事をするのか、と自分に問いかけた。
しかしその時体は既に席を立ち、足は部屋のドアへと向かっている。
そんな事をしてどうするつもりなのか、何になるのか。
問いかけはずっと続いていたが、足は部屋を出ると、そこで暫く迷い、両側に伸びる廊下の左側を選んで歩き始めた。
部屋から歓談の声やそれに混じって時折大きな笑い声が響いていたが、それも暫く廊下を行くと、次第に遠ざかった。
やがてその頃廊下は突き当たり、その左側に、上へと向かって伸びる階段が現れた。
ふと既視感を覚えた。どこかで見た事のある景色のような気がした。
そしてそれがザラ家でまだメイドをしていた頃の、あの屋敷にあった階段をどことなく思わせるのだと気が付いた。
何故そんな事をするのか、と再び問いかけがした。
しかしカガリはその問いかけを聞きながら、ゆっくりと階段を昇って行く。
階段は昇り切ったところで右に折れる廊下に連なっていた。
その廊下の端に立った時、伸びる道の中程に、果たしてアスランは、居た。
廊下の壁に設えられた窓の前に立ち、ガラスの向こうをただじっと見つめている。
その姿が思わず儚く、無意識の内にカガリは静かな足取りで歩き始めた。ドレスの衣擦れの音と小さく響く足音が、廊下を進んで行きやがて立ち止まる。
アスランは振り向くことも無く窓の外に視線を遣ったまま動かない。
いつもには無い程の無防備な姿だった。その姿に、カガリも心の構えを忘れている。
「苦手なんだ、こういうのは」
外を見ながらやがて口から漏れた言葉は、そこに誰が居るのかを知っていた。気取るわけでも飾るわけでも無いその素直な口調は、カガリの心にすんなりと届いた。
「仕事だと割り切れればまだ楽だ。が、あの夫人は、昔から苦手でね」
そう言って、更に窓の外を見続ける姿はいつも夜会で見る実業家と言う仮面を付けたアスラン・ザラでは無く、感じやすい心を持ち合わせた、ただの繊細な青年に見えた。
その場の空気に先程からカガリの胸を騒がせていたものは次第に穏やかになって、心の中は波立ちがおさまりつつあった。
こんなふうに普通に彼と話をするのは初めてでは無いか、とカガリは思った。
主人とメイドでも無く、取引の契約を交わした者同士でも無く、実業家と名門家の令嬢でも無い。
何かを前提としない、ただの普通の人間として、またただの普通の男女として。
それはそれまで、二人には与えられないものだった。
歪な関係だけがずっと彼らを縛り、そして支配していた。
その歪だった繋がりが、今この空間で一瞬薄らいだようにカガリには感じられ、思い掛けなく、心をずっと占め続けていた言葉が理性の問いかけを振り切って、口から零れた。
「あの――」
アスランの視線が動く気配がした。
「本当に――彼女と、結婚を?――」
振り向いたアスランと視線が合った。
突然の投げ掛けに、ただ黙ってカガリを見つめている。その視線は先夜、カガリが投げ掛けた言葉に対してアスランが送った、あの色を含んだ視線と似ていた。あの時一瞬にして消え去ったそれが、今は憚る事も無く、じっとカガリに注がれている。
長い沈黙がその場に訪れた。
余りに長い時間に思われたその沈黙に、カガリは次第にまた胸が騒ぎ始めるのを覚えて、視線をそれ以上受け続ける事で心の動揺が曝される思いがして再び口を開いた。
「あの――」
その時、階段を昇って来ようとする人の足音が廊下の向こうから聞こえた。
ゆっくり昇って来ようとするその足音は次第に近付いて、もうあと数段で昇り切るように思われた。背後にある階段を振り向いていたカガリは、突如腕を引かれると、すぐ側にあった部屋のドアの中へと押し込まれた。
ドアが閉じられた直後、足音の主は階段を昇り切って何かを探すように少しウロウロとその辺りを歩き回ったが、「あれ?方向を間違えたかな?」と独り呟くと、またゆっくりと階段を下り始めた。
その間、壁を隔てた部屋の中で何が行われていたのかをその足音の主は知らない。
壁際で体の自由を奪われたカガリは、初めて感じる唇を圧迫するものの感覚に慄きながら、壁に押さえつけられた手首を動かそうともがいたが叶わなかった。もがこうとする程に力で押さえつけられる体は益々自由が利かなくなり、その内に唇を離れたそれは、カガリの首筋を執拗に追い始めた。
やがて手首を開放したアスランの手はカガリの体の線を辿って思いのままに動き始め、それは返ってカガリの動きを封じて自由を奪って行く。理性はまだ何かを問いかけていたが、それに辛うじて耳を傾けようとしたカガリは背筋に這い登る、あのゾクリとする感覚に既に囚われて、次第に考える力を失った。
アスランの手がドレスの裾を絡め取り、いつかのように壁際で翻弄し始めてもそれに逆らおうともしなかった。
暫く水を与えられなかった花が雨を得たように、体中に伝わっていくそれが、カガリの体の全ての神経の末端にまで達して潤して行く。
それは快楽、と言う名の雨の水だった。
体が動きを生み出す度に与えられるその水は、カガリの理性の最後の破片を砕いて、自らアスランの背や肩に手を回して強く握り締めた。不規則な呼吸を繰り返して何度も擦り付けられた体はやがて大きく撓んで、初めて魚が水を知った日のように体に行き渡って行く瑞々しいまでの快い感覚に、我を忘れ去ってカガリは唇から艶やかな声色を漏らし出した。


再び静寂に包まれた部屋に、アスランの姿は無い。
ドレスの裾を広げて床に座るカガリが一人残されていた。
まるで抗おうともしなかった自分に、呆然と自分を失って座っている。
抗うどころか、自ら受け入れたではないか。
そしてこの手で、自ら要求したではないか。
その求めた手の平でドレスの裾を握ったカガリは、やがてそれを離すと、両の手で顔を覆って暫く動かなかった。


夫人に急用が出来たと告げて謝罪し、その場を辞したアスランは、屋敷を出ると馬車に乗り込んだ。
それが嘘であった事は言うまでも無い。
動き始めた馬車の揺れに身を預けながら、アスランは遠ざかる屋敷に視線を遣る。
そして暫くしてその視線を外すと、今度は外を流れる景色に目を遊ばせた。
その口元に、あの美麗な笑みが浮かんでいたのを、カガリは知る筈も無い。


それが初めて男女の睦み合いと呼ぶに相応しい、二人の交わりであった。



<07/06/17>

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