第八幕 : 間奏 オペラの幕が開く。 暗いホールの中に、舞台だけが光に照らされて浮かび上がる。 そこにあるのは光と、音と、そして人の体を震わして響き渡る、歌声。 その全てが合わさって生み出される芸術と言うものに人々は酔い痴れている。 舞台の上で繰り広げられる愛憎劇は人の世の縮図であり、そこに内包される人間の愚かしくも悲しい性の真実を歌いあげている。 その中に各々が見るものは自らの心の写し絵であり自らの心の声であるかも知れない。 紡がれていく舞台はそんな人々の心に深い余韻を与え、問い続けながら進んで行く。 そこにあるのは、光と音と歌声と、そして闇の中の、真実―― 舞台がよく見渡せる場所にザラ家の所有するバルコニー席はあった。 光の中に浮かび上がる舞台装置や人々の姿が手に取るように見えて、ラクスは恍惚とした表情でその世界に引き込まれている。ホールを震わせる程のテノール歌手の声量ある歌声と、メゾ・ソプラノ歌手の迫真の歌声がその場を圧倒すると、誰もがそこが狭いホールである事を忘れ、その歌劇の世界に引き込まれた。 『ある島の青年が兵役に行っている間に婚約者が別の男と結婚してしまい、帰ってきた青年はそれを知って嘆き、その悲しみを忘れるために別の村娘と恋仲になる。そして娘は青年の子を宿し、二人は婚約する。しかしそれを知った元恋人が嫉妬し、留守がちな夫の目を盗んで青年を誘惑して再び自分の虜にしてしまう。それを知った婚約者の娘は自分が捨てられるのではないかと大いに嘆き悲しみ、結婚前に貞節を失った罪で教会に入れない自分の代わりに、青年の母親に不義の事実を告げて代わりに祈ってくれるようにと頼む。そこへ青年が現れ、娘は元恋人との密通の真実を問いただすが、それを聞いた青年は激昂して娘を突き飛ばし、尚も縋る娘を振り払ってそこを通り掛った元恋人と共に教会のミサに行ってしまう。残された娘が嘆き悲しんでいると、そこへ元恋人の夫が通り掛り、恨みに心奪われた娘は夫に二人の不義の事実を告げてしまった。それを知った夫は激昂し、青年への復讐心に燃え上がる。その激しさを見た娘は、そこで初めて我に返って自分の行いを激しく悔い始める』 そこで一旦舞台を清めるかのように、美しくも切ない(歌の無い)間奏曲が流れ始めた。それは娘の愚かな行いを赦そうとする聖母の慈悲のように心優しい調べだった。 「素敵ですわ。特にあのメゾ・ソプラノの歌声と言ったら、なんて素晴らしいのでしょう」 ラクスが小さく溜息を吐いてアスランの方を見ると、アスランも微笑で答えた。 「ええ」 「オペラは、お好きですか」 唐突にそう尋ねたラクスに、アスランは暫くの後に答えた。 「実は好きだと言うほどではありません。偶に嗜む程度です」 「でもいい席をお持ちですわ」 「元々は父が所有していたもので、ただそれを譲り受けただけなのです」 隣り合って座る二人は舞台の光を互いの半顔に受け、淡く照らし出されるそれを見ている。その薄っすらと見える表情の中に光を灯す二つの瞳が、言葉が語られるたびに闇にゆらりと揺れ動いた。 「もしよろしければ、今後好きにお使いいただいても構いません」 「――何故?」 ラクスの半顔が淡く微笑んだ。 静かに流れる間奏曲が、二人の言葉の間を縫うように流れて行く。それは徐々に音の厚みを増してこれから舞台の上がクライマックスシーンを迎える事を物語っていた。盛り上がる切なく叙情的なメロディーが、次第に感情を動かして行く。 言葉を発せずに黙ったまま見つめているアスランに、ラクスはやんわりと微笑したままで言葉を継いだ。 「 やや間があってから、アスランが微かに笑ったようにラクスには見えた。けれどそれはひっそりと闇に隠されて行く。 その闇の中の真実を探り当てて光のもとに連れ出し、今まさにその罪を問わんとする舞台の上の娘のようにラクスは続けた。 「他の方々は何もご存知では無いようですけれど。そしてそのせいで随分お好きなように仰っているようですけれど――」 ゆっくりと首を傾げた。 「私をお誘いになったのは、何故?」 「――御迷惑でしたか?」 「いいえ。オペラは大好きですもの。でも」 花のように鮮やかに、そして艶やかにラクスは微笑んだ。 「貴方は私など愛してはいらっしゃらない――」 流れていた曲が盛り上がり、最高潮の部分に達しようとしていた。 「他の方にはそうは映らないようですけれど。知っていましたの、私」 そう言ってラクスはクスリと笑った。 アスランはただ静かに微笑を湛えて見ていたが、やがて落ち着いた声で答えた。 「――侮れない人だ」 そして別段動じる様子も無く、寧ろその遣り取りを楽しんでいるかのように今度はラクスに問い返した。 「知っていながら、では貴女も何故ここへ来たのですか」 ラクスの瞳に灯った光がその言葉に揺らめいた。それは彼女の心の移ろいを映しながら、間奏曲の切ない調べに似て哀しげな色に変わって行く。 「愚かなのです――あの登場人物達と同じように、愚かで浅はかで、それが本当の私なのですわ」 間奏曲が終わりに近付いて、同じフレーズを何度も繰り返している。 「――狡いのです」 哀しげに微笑み、そして小さな声で付け加えた。「貴方と同じくらいに」と。 繰り返していたフレーズが漸くゆっくりと終わりに近付き、始まりと同じように静かに、間奏曲は閉じられた。 静まり返ったホールに、やがてまた歌声が響き渡る。 『教会から出て来た青年と元恋人が居酒屋で友人達と酒を酌み交わして賑やかに騒いでいるところへ夫の男が現れる。青年が差し出した酒の入った杯を夫は拒否し、それに青年は腹を立て、その緊迫した空気を恐れた女達は元恋人をその場から連れ去った。青年は不義が夫に知れた事を悟り、(その島式に)耳に噛み付いて決闘を申し込んだ。決闘に向かう前、死を予感した青年は、母親に哀れな婚約者の娘を頼むと言い置いて決闘へと向かう。死を前にして青年は初めて娘に対して優しい思い遣りの気持ちを抱いたのだった。やがて決闘の場所から青年が殺されたと言う女の叫び声が響き渡り、それを聞いた娘はそこに気を失って倒れた』 幕が閉じた後、覚めやらぬ興奮と鳴り止まない拍手の中、何度ものカーテンコールが行われ、歌手達と演奏者達に惜しみない拍手が送られた。やがてそれも漸く終わりを告げると、席を立ち帰り支度を始めた客達のざわめき声がそこら中から聞こえてきた。 「本当に素晴らしかったですわ」 まだ席に座ったままで、アスランとラクスは帰り行く客達の姿を眺めていた。ラクスは未だその余韻に囚われて、席を立とうとしない。 「愚かですけれど、でもそれが人と言うものの根幹ではないかと思うのです」 ふとラクスが静かに言葉を紡いだ。 「人らしい、と思うのです」 そう言ったラクスの目は静かにアスランに向けられていた。 「私も、そして貴方も。人故に、過ちを犯すのですわ。人で在るが故に、罪深く、そして欲深い。でも――」 目が微笑して行く。 「それは独りでは生きてはいけないから」 互いを見遣った瞳には星のような光が瞬いていた。 「似ていますわね、私達――貴方を好きになれたら良かったかしら」 ラクスの表情にまた花のように艶やかで、そして静謐な微笑が広がった。 建物を出た二人は、オペラ座の前に待たせてあったザラ家の馬車に乗る為にそこへと向かった。 その間近まで来た時だった。二人の目の前に、突然一人の青年が立ちはだかった。 「待って下さい」 青年はアスランと馬車の間に立ち、その進路を阻んだ。 アスランは立ち止まって怪訝そうにその青年を見た。 年の頃はあまり自分と変わらない、茶色い髪に青紫の瞳のその青年に今まで見覚えは無い。一瞥したところ、その服装から都では無く、地方の出だと窺えた。 「待って下さい――」 もう一度その青年は繰り返すと、真っ直ぐに真摯な色を湛えた瞳でアスランを見据えた。何かを思い詰めたようにじっと逸らされる事無くアスランを捉えていたそれは、しかし別に危害を加えようとしているわけでは無いらしかった。 「君は誰だ?」 「僕は――」 一瞬言い澱んだ青年は、逡巡した後、それを振り払うような強い声で言い放った。 「僕は、彼女の婚約者です」 その時辺りに人影はまばらで、その声を耳にした者は馬車の上の御者以外にはいなかった。 青年はそう言い放った後、表情を緊張させてアスランの反応を待っているらしかった。まるで睨むように見開かれた瞳が、言葉の代わりにその心中を物語っていた。 「いつ、そういう事になったのですか――?」 静かな声音がアスランのやや後ろから響いた。 「いつ――?」 「いや、それは――」 感情を抑え込んだような静かな声がそう問うと、青年は狼狽し始めた。アスランを捉えていた視線が彷徨うようにその声の方に向けられる。 「ラクス、僕は――」 「だって貴方は」 青年の声を遮るラクスの声は、いつに無く感情の抑止を失って行く。悲しみとそして言い表わせない数々の感情が、その声音の中に混ざって響いた。 「貴方は逃げたのです、あの時に。私から、そして、クライン家から――」 「それは……」 青年はそこで口を噤んで目を伏せた。その表情が苦しげに歪められて行く。 やがてアスランと向かい合う位置にいた青年は、数歩左側に踏み出してラクスの前に立った。 「あの時、確かに僕は自分に自信が無かった。僕はただの田舎者で、それに引き換え君はあのクライン家の一人娘…とても釣り合うものでは無い、そんな思いばかりが胸の内を占めていた。約束はしたものの、それを果たすにはあまりに互いの立場が違いすぎる。このままでは君を幸せになどとても出来ない、と」 「でも私は待っていたのです。都へ一緒に帰って、貴方はお父様に会って結婚を申し入れると約束をして下さった…でもあの日――貴方は来なかった」 大きすぎる悲しみに耐えるように、ラクスの声は再び静かに、そして重々しく言葉を紡いで行く。 青年の瞳にも悲しみの色が深く滲み、それは言葉に出来ない多くの想いをそこに留めていた。瞼を閉じると、暫くの後それを開き、青年はアスランの方に向き直った。 「僕と決闘をして下さい」 「決闘?」 青年の瞳は真っ直ぐにアスランに注がれている。 「貴方とラクスの婚約の噂は知っています。一度彼女を裏切っておきながら、その噂を聞いて居ても立っても居られず、こうして不甲斐ない姿を曝しに来た卑劣な男だと思われてもいい。失ってからその存在の大切さに初めて気付いた馬鹿な男だと罵られても構わない。それでも、僕は、」 青年の瞳は大きく揺らいだ。留めていた想いが今そこに止め処無く溢れて行くようだった。 「僕は、彼女を愛しているのです」 その言葉は乾いた辺りの土や空気に溶け込んで、その場を浄化して行くように響いた。 「どうか、決闘を――」 「生憎だが」 口の端に薄く笑みを浮かべると、腕を組んでアスランは見下げるように相手を見た。 「君の田舎ではどうかは知らんが、ここではもうそういう歌劇のように古臭い風習は流行らないんでね。それに、死を覚悟した人間ほど厄介なものは無い」 「――」 「元より、そう言う 「え?」と小さく聞き返した青年の耳に、静かに紡がれる声が届いた。それは咽び泣くようにしっとりと湿気を帯びていた。 「馬鹿ですわ」 振り向いた青年の目に、微笑するラクスの姿が映った。その菫色の瞳から一粒、また一粒と、露の雫が零れ落ちていく。 「本当に来るなんて、馬鹿な人」 そして微笑したまま小さく首を傾げた。頬を伝う雫が流れる方向を僅かに変えてまた流れ落ちる。 「もしかしたら追って来てくれるかも知れないと、何度もそう思いました。でもあの時来なかった貴方に、そんな事が出来る筈も無い……けれど、もしもあの婚約の噂を聞いたなら、もしもまだ少しでも私を想って下さる心が在るのならと――そう私は願ったのです」 雫の粒が大粒へと変わって行く。 「でも本当はきっと来てくれると信じていました」 白い手袋を嵌めた片手を伸ばし、ラクスは青年の頬に触れる。そして微笑は心からの笑顔に変わった。 「私の心は 互いに二人はそれ以上の言葉は持たず、ただ暫く見詰め合い、そして長い抱擁が交わされた。その様子をアスランは腕組みをしたまま黙って見ていたが、やがてラクスが青年から離れて彼に瞳を向けるとやんわりと微笑した。 「成る程――これは気付かぬ間にとんだ役回りを振り当てられていたと言うわけですね」 「狡いのですわ」 花のような微笑がラクスの濡れた白い顔に咲いて行く。 それは慈愛に満ちた聖母のような微笑だった。 「そして愚かなのです。人が人を恋うると言う事は」 静かな瞳でアスランを見つめ、そして言った。 「貴方も、そして私も、互いに――」 ラクスと青年に自分の馬車を譲ってクライン家へ送り届けるようにと御者に指示すると、アスランは別に馬車を拾ってザラ家の屋敷へと向かった。 車中から外に向けられたその瞳には街の喧騒が映る。行き交う人々の交し合う笑顔や深刻な顔で話し合っている姿や悲しげに俯いて歩く後姿と、様々な人間の姿がそこには溢れている。それはまるで大きな、あの光を浴びた舞台だった。 その舞台を見ながらアスランは微笑する。 「とんだ茶番だな」 呟かれたそれは、しかし愉しげに響いた。 そして何かを思い出したようにふと笑うと、背凭れに頭を凭せ掛けて瞼を閉じた。 その瞼を縁取る長い睫が暫くの間微かに蠢いていたが、やがて静かになったそれは、馬車がザラ家の屋敷の前に着くまでの間動くことは無かった。 <07/07/16> ←七幕へ/九幕へ→ MEMO *話の中でアスランとラクスが観ていたオペラのモデルは「カヴァレリア・ルスティカーナ」というものです。話の筋はもうそのものですが。その中で演奏される間奏曲は、映画やCMにもよく使われているので、御存知の方も多いはず。ただここでそれを流せないのが残念です…。ドロドロの話とはかけ離れたとても清々しく美しい曲なので、興味のある方はMIDIサイトさんで聞いてみてください。「カヴァレリア・ルスティカーナ 間奏曲」で大概載っています。 因みに、私はオペラについては全くの素人ですので不適切な表現があれば御容赦下さい。 |