第九幕 : 萌芽 ラクスが地方の出の青年と婚約をしたとの噂は瞬く間に社交界に伝わった。 相手がアスラン・ザラで無い事に人々はまず驚いたが、当のアスランは飄々とした態度でいつもと変わらず社交界に姿を見せ続けた。その平然とした様子に、人々はそのうちにあれはただの根も葉もない噂だったのでは無いかと思い始めた。それとも彼らによるただの演出で、それに自分達が上手く乗せられていたのではないかと。その目的とするところはラクスの婚約の相手が地方の小さな村の出身で、とても家名が釣り合わない事から、婚約の間際まで口さがない人々の目から隠す為の芝居にアスランが一役買っていたのだ、いやいや、ラクスが青年との仲を隠し世間を欺くためにアスランを一方的に利用したのだ、彼もとんだ目に遭ったものだ、と勝手な憶測があちこちで流れた。 ただそれらの噂は全くの誤りとも言えず、当たらずとも遠からず、と言うところであったのだが。 ラクスがその結婚に際してどのように父親を説得したのか、そして父親が一人娘を家柄の釣り合わない青年に嫁がせる事に何故承諾したのか、噂の焦点は次々と移って行ったが、その内に人々の目は次第にアスランへと向き始めた。そしてラクスとの婚約が無くなった今、誰もがその地位を得られる好機とばかりに、密かにまた周りが色めき始めた。 その空気を感じ取りながらもアスランはその事に関して一言も口を開かない。周りがざわめく中でただ黙って静観していた。 それは胸の奥深くにある彼の住処で、ゆっくりと静かに眠っていた蛇が冬眠から覚めてそのとぐろを解き、そこから漸く外の世界へ這い出して行こうとする前の ラクスが突然アスハ家を訪れたのは、婚約の噂が流れてから間もない頃だった。 カガリはラクスと暫く会ってはいない。アスランとラクスが最後に踊ったあの夜以来、カガリは夜会には訪れていなかった。正確には知り合いの夫人の屋敷でアスランと再び関係を持ったあの時以来、どんな集いからも遠ざかっていた。 今は誰とも逢いたくは無かった。 あの出来事がカガリの精神のバランスを大きく狂わせ、平静さを保ち続けていた筈の心の 心苦しい思いにラクスに逢う事も憚られ、特にアスランの前で尋常な精神状態を保てるとは思えなかった。今まで何度と無く関係を持ったではないかとカガリは自分に問うが、あれは、あの時の交わりと言うものは、それまでの希薄なそれとは明白に何かが違っていた。 その場を支配する空気は互いの何かをそれまでとは異なる形にして行った。それは目には見えない、けれど明確に存在する、何か。 けれどもそれを思い出す度にカガリは胸の辺りが締まるような息苦しさを覚え、踏み超えてはいけない場所に足を踏み入れる思いがして、その内に思い出す事さえ拒否し始めた。このままそれを見ないでいれば、傷が癒えるようにいつかはゆっくりと消えて行くのではないか、そう思った。 そんな時に、ラクスの婚約を養父のウズミから知らされた。 ――相手はアスランでは無かった。自分の知らない青年と婚約したと知った。 その時の感情はまるで心から抜け殻が剥がれ落ちて行くのを見るような、虚ろな思いだった。 なんだと言うのだろう、この虚無感は?いや、虚無感と言うよりは――喪失感と言った方が良かった。 あの二人は婚約するものだとばかり、カガリはいつしか信じて疑わなくなった。 それなのに、二人の婚約は始めから何事も無かったように行われなかったと言う。 では、あれは一体、何だったのか? ダンスは、野花摘みは、湖水地方の別荘の誘いは、そしてオペラの誘いは? あれは、自分の目の前で行われた全てのそれらは、一体何だったのか? 全くの思い込みだったとでも言うのだろうか? ではそれ故に、その間で揺さぶられ続けた自分は――? 罪悪感を覚え、あれこれと思い悩み、呵責の念に苛まれ続けた自分は、何だったのか? 二人の間に存在し、介在した、あの自分は一体――? そう思った時、カガリは自分の存在し得た場所と言うものを改めて知った。二人の間に在ったその場所。常に微妙なバランスで保たれたその場所が、自分の存在し得る場所だった。その場所で自分は揺れる波間の小舟のように、風に揺らぐ野の草のように、常に二人の間に存在し続けた。その両方の存在が互いに肉体と精神を分かち合い、凌駕していた。 そのバランスこそが、自分をそこに存在せしめたものだったのだ。 『――あの時、それが失われるまでは』 その心の声をその時カガリは聞いた。 『――では何故、それは失われたのか?』 その問いに、カガリは答えず沈黙した。答えるにはそれは、あまりに痛みを伴う投げ掛けだった。 「もうお聞きになったと思いますけれど…」 アスハ家を訪れたラクスは、カガリにそう話し出した。 整然と手入れされたアスハ家が誇る庭の、特に薔薇の木が多く植えられている小路を、カガリはラクスと並んでゆっくりと歩いている。それはいつかアスランと歩いた路でもあり、その時彼が薔薇の蕾に触れていた事をカガリは何気なく思い出していた。 「私ある方と婚約しましたの。もうすぐ彼と一緒に、彼の故郷へ参りますわ」 その言葉にカガリは黙ってラクスの美しい横顔を見た。ラクスもカガリの方を見ると、ふっと微笑した。 「……驚いたでしょう?」 小さな声でそう告げたラクスの微笑は、いつしか憂いを含んだ眼差しになっていた。 「ええ、少し…」 そこで少し会話が途切れ、その合間を埋めるようにすぐ近くで小鳥達が囀り始めた。 「ねえカガリさん、以前、私が賭けをしていると言った事を覚えていらっしゃる?」 花の季節を過ぎて今はただ緑の葉だけをその枝に纏わせた薔薇の木々に目を遣りながら、ラクスはそっと言葉を紡いだ。 「ええ」 「それが彼だったのです」 「――」 ラクスが小路の途中でその足を止め、続いてカガリも歩みを止めた。 「薔薇の花の植え方も、いつどの時期にどの花が咲くのかも、教えてくれたのは彼でした。華やかに見える世界の外に、穏やかで優しい生活があると始めて知ったのです」 薔薇の木々に注がれていた静かな瞳は、やがてカガリに向けられた。 続く言葉をカガリは黙って待ったが、静かな瞳が向けられたままラクスの唇は動かなかった。 そしてやがてその唇から漏れた小さな声に、カガリは言葉を失った。 「カガリさん――ごめんなさいね」 そう告げたラクスの表情は憂いに満ちてカガリを見つめている。 「――」 思いも掛けない言葉に虚を衝かれ、カガリは答える言葉が見つからなかった。それは何を意味しているのか、何を指しているのか。隠した心の内をまるで見透かされたようなその言葉に、俄かにカガリの胸が騒いだ。 またどこかで小鳥の囀りが聞こえている。その声が再び途切れた会話の合間を埋めた。 やがて何か言葉を発しようとカガリが口を開いた時、しかしその言葉は声にはならず、ただ息だけが唇から漏れた。 ラクスの、柔らかな体の感触が自分を包んでいた。細い腕は体に添うように背に回され、胸の辺りに互いの体温を感じるほど体はしっかりと合わさっている。カガリの顔を埋める細い肩から続く白い 「ごめんなさい」 もう一度小さく繰り返されたその言葉がカガリの耳に囁くように聞こえた。 白い項の甘く鼻腔を衝く香りがカガリを捉えると、その心地良さにカガリは目が眩んだ。かつて焦がれたその白い肌が今自分に触れている。アスランを通してその肌の甘さを求めた日々が甦った。 かつてそこが自分の居場所だったのだ、とカガリは思った。 今は失ったその場所が、自分に全てを与えた場所だった。 カガリは目を瞑り、芳しいその香りを記憶に留めるように仕舞い込んだ。 柔らかな肌の息遣いが、呼吸の度にカガリの体に伝わって行く。 ラクスはそれ以上何も語らず、ただカガリを抱き締めた後、そっとその体を離してからカガリの両手を取った。 「お父様は許して下さいました。私の幸せが彼と共に有るのならそれでいいと。小さな頃からお父様は私のよき理解者でした――ですから私は行きます」 静かに、微笑んだ。 「――幸せを祈ってくださる?」 そう語ったラクスの瞳は思わず潤んで、言葉にする事の出来ない多くの想いがその奥に潜んでいるのをカガリは知った。 静かにラクスの瞳を見つめ返すと、微笑してカガリは頷き、両手を強く握り締めた。 その細く白い手は頼る場所を得て、遠く離れて行くのだ。 手を離すとカガリはラクスの体を緩く抱き、頬に初めて唇を触れた。甘い香りが体中に広がって行く。 ――最初で最後の口付けだった。 「カガリさん――」 別れ際にラクスはもう一度カガリの手を取り、瞳を覗くようにカガリを見た。 真摯な眼差しだった。 「道は、選ぶものですわ――与えられるものではなく。どうかそれを忘れないで下さいね」 そして咲き綻ぶ花に似て、たおやかに微笑した。 「カガリさんをとても好きでした、私」 美しい花は甘やかな思い出と共にカガリの心の奥深くに忘れ得ぬ言葉を残し、自ら決めたその道を旅立って行った。 その日ラクスから貰ったあの花の栞を、カガリは小さな額に入れて大切に机の上に飾った。 カガリがその舞踏会に赴いたのはラクスが去ってから数日後の事だった。 屋敷に閉じ篭ったきりの娘を案じた養母の勧めで、久し振りに社交の場に出る事となった。気は進まなかったが、いつまでも理由も話さず両親に心配をかけるわけにもいかず、止むを得ず承諾する事になった。 舞踏会というものにカガリはまだ参加した事が無かった。 夜会でも誘う者など無かったせいで、ダンスは未だに不慣れだったし、場の雰囲気もよくわからない。 そんな状態で出掛けるには余りに気が重かったが、いつもの夜会とは違い、見知った顔が少ないであろう事が幾分カガリの気持ちを軽くした。ラクスがいない今、いつものあの夜会には一人訪れる気にはなれなかった。 ――いや、本当は。 アスランに逢う事を怖れていた。ただ逢う事が怖かった。逢った時に自分がどうなるのか、それを知る事が怖かった。 まだ冷静に考えられるようになるまでには時間が必要だと思った。 だからそれまでは出来るだけ避けようと思っていた。 舞踏会のホールは高い天井を持つ建物で、真中に吹き抜けになった空間があり、それはアーチ状の天井へと伸びていた。大きなフロアーが一階には広がっていて、そこから上へと続く階段を昇るとそれは途中で両サイドに別れて二階へと続いている。二階にはそれぞれ男女別の控え室が設けられていた。階段下にある僅かなスペースには暗幕が下げられていて、そこは使われない資材を一時的に置くための場所になっていた。 カガリはまず二階へ上がってそこでコートを預けてから、もう一度身形を整えなおし、再び階下へと向かうために控え室を出て短い廊下を抜けた時、そこに広がる吹き抜けの広い空間を目にした。既にそこに集った人々の熱気がカガリのドレスの間から露になった肌を撫で、その場の蒸した空気を伝えている。階段上から見る明るいフロアーは燕尾服と様々な色合いのイブニングドレスを着た人々で一杯で、その色取り取りな様子が、フロアーに咲いた沢山の花を見るようだとカガリは思った。オリーブグリーンの光沢のあるドレスの裾を揺らしながら、カガリはその煌びやかなフロアーを見下ろしてゆっくりと階段を降りて行く。そして階段の中程へと差し掛かった時、踏み出そうとした足が突然止まった。足だけで無く、体全体が硬直したように動かなくなった。 フロアーの一点に、避けていた筈の姿を見た。 それに気付いたカガリの瞳は見開かれ、凝視したまま動かない。 そしてその人は、視線に気付いたように顔を上げて階段の方を見た。 一瞬にしてカガリの全身が凍りついた。手摺に遣った手が俄かに震え出す。 瞬間、身を翻して二階へ戻ろうと思ったが、振り返るとすぐ後ろに続いていた婦人の列がそれを阻んだ。戻ることが叶わず、残された選択は降りるしかなかった。カガリは強張った足取りで俯いて階段を降り始めたが、頭の中は予期せぬ事態に真っ白になり、いつ階下に辿り着いたのかもわからなかった。気が付くとフロアーに降り立って、舞踏会の始まりを待つ人々の群れの中にいた。 先程姿を見た方向に恐る恐る目を遣ってみたが、背の高い人垣が視界を遮って再びその姿を見つける事は出来ない。辺りを見回してみてもそれらしい姿は近くには無かった。 「君、一人かい?」 突然まだ若い青年が馴れ馴れしい態度でカガリに声を掛けてきた。 「あの、ええ…」 動揺がおさまらないカガリは上の空で返答する。 「じゃあ僕とパートナーを組んでくれないか」 青年はそう言い、カガリが返答に躊躇していると、それを焦らしているととったのか、「いいだろう?」と意味ありげに笑って強引にその手を取った。 「いいえ、あの――」 カガリがハッとしてそう言い掛けた時、舞踏会の開催を告げる言葉が述べられた。そしてその言葉の後にすぐに音楽が流れ始め、フロアーにいた人々はそれぞれのパートナーと組んで踊り始めた。曲はワルツだった。 「踊ろう」 青年はそう言って戸惑うカガリの手を取り、リードして踊り始めたが、カガリとしてはそれどころでは無い。気もそぞろで上の空に踏むステップなど始めから上手くいく筈も無く、何度も危うく青年の足を踏みそうになった。始めは笑顔を保っていた青年だったが、その予想外のぎこちなさにさすがにその表情から笑顔が消えて行く。 その時カガリの視線が一点で静止した。 壁際に立つアスランが自分を見ているのを知った。 やはり気付いていたのだと、青年と組んだ手がまた震えそうになった。 途端にステップが全て頭の中から消え去った。突然動きを止めたカガリに、「どうしたんだい?」と青年は怪訝な声を上げる。 「ごめんなさい、気分が悪くて」 顔を上げてそう告げたカガリは青年の手から離れて踵を返し、フロアーでクルクルと舞う人々の間を幾度も摺り抜けて、階段の方へと足早に向かった。これ以上ここにはいられないと思った。 まだ幾日とは経っていないのだ、あれから。 自分を保てる自信は到底無かった。 ただ怖れだけがカガリを覆っていた。 「どこへ行く?」 階段の手前でよく知った声が後ろからしたと同時に、腕に衝撃を感じた。 一瞬にして凍りついた足はそこで動きを止めた。 振り返らずともそれが誰の声であるかカガリは知っている。 知っていて振り返った。 腕を掴んでいるアスランを強く射るように見た。 「帰ります」 「まだ始まったばかりなのに?」 その冷静な声に負けまいとして、平静な声を絞り出した。 「ええ、帰ります」 平静だった筈の声はしかし上擦って響いた。 自分のその声を聞いた途端、カガリは絶望の淵に落ちた。 絶望し、そして失望して行くように瞳は力を失って行く。 それを見て取ったように、アスランはカガリの腕を捉えたまま側の階段下に下げられた暗幕の中へと引き入れた。階段下のそこは厚い幕で仕切られて隔離された、狭い空間だった。隅のほうに椅子や燭台らしき物の影が薄っすらと見える。暗幕越しに流れ込むワルツの曲が、薄暗い中に響いた。 その空間に押しやられたカガリは慄きのあまり口を利く事も出来なくなって、目を見開いてアスランを見た。暗幕を背にして立つその姿は輪郭のぼやけた影となって、表情は窺えない。カガリは僅かに後ずさったが、すぐ背に壁を感じてそこが限界だと知った。 体を硬くして呼吸をする事も忘れ、カガリはアスランとの間にある僅かな空間を睨んだ。その薄暗さがかつての記憶をカガリの心に呼び覚まして行く。――何度自分はこんな闇を見たのだろう。 カガリが睨み続けるその空間は、しかし暫く経っても縮まる気配は無かった。影はそこに佇んだまま、ぼやけた輪郭をただ曝している。 ワルツの曲がやがていつの間にか途切れて、一曲目が終わった事を告げるように、人々のざわめく声が聞こえて来た。 二人の距離は保たれたまま、そのざわめきだけが暗幕の中の世界に音をもたらしている。 いつだったか、これと似た沈黙があったとカガリはどこかで思った。薄闇に影だけが浮かび、相手の表情が窺えないままにカガリはジリジリと追い詰められて行った。あれは――あれは、自分がこの関係を自ら選択した時だったと思った。 自分が選んだ取引の末に、今こうして慄き怖れている自分がいるのは何と馬鹿げた事か。全てはあれから始まったのではないか。自分が蒔いた種ではなかったか。 蒔いた種がどう成長するか、どんな花を咲かせるかなどとはあの時まるで思いもしなかったのだ。 自分を捨て去って引き換えに手にしたものは煌びやかな世界でも華やかな生活でも無く、今こうして追い詰められている自分自身だと思い知らねばならないのは何と言う皮肉だろう。 あの時自分に向かって伸べられた白い手をカガリは取ったのだ。その手は無慈悲に神経質に眩惑的にそして衝動を以ってカガリに触れ続け、また与え続けた。その手を通して全てを知り、知らされたのだ。 影となったアスランの、細い手をカガリは見た。しかしそれは暗幕に描かれた一枚の絵のように今は動かない。 ざわめいていた外の気配がまた始まった音楽によって掻き消された。 先程より少し遅いテンポの曲が流れて来る。 「人の繋がりは見えないところにある」 ――声がした。 静かなその声は、薄闇に流れる音楽の間ではっきりとカガリの耳に届いた。 感情を抑えた口調で述べられたその言葉が、始めアスランから発せられたものだとはカガリには思えなかった。 「見えている繋がりなどその一部にしか過ぎない。本当の繋がりは見えない場所でその根を張っている。しかし見える繋がりにしか気付かなかったお前はラクスに惹かれていた。心の繋がりをラクスに求める事でそのバランスを保とうとしていた」 影が語るその言葉に、カガリは目を見開いた。 戦慄が背を這い登った。 ――何? ――何を言っている? 闇の中の空気は一変した。 相手の表情は見えず、ただ声だけが淡々と告げるその言葉は、カガリに不意打ちの矢を放った。 混乱がカガリを襲い、今何が起こっているのかよくわからなかった。 ひたすら目を見開き、相手の影を凝視し続けた。 「だがそのうち次第に気付き始めた。目に見えるもの以外の、存在する何かを感じ始めたのだ」 ――これは、悪い夢だろうか? 「感じ始めたがその正体まではまだ知らなかった。その底に有るものが見えていなかったからだ」 淡々と告げて行くこの影の正体が、本当はアスランではないのではないかとカガリはどこかで思い始めた。違う人物だと思いたかった。これは、誰なのか? 「見えないそれを受け入れられずに拒んでいる――見ないように目を逸らしている。本当は――」 ジリジリと大きな闇が迫ってくるように思われて、カガリは思わず壁に強く背を押し付けた。 「本当はずっと 「何のことだかわかりません」 殆ど反射的にカガリは強く 「何を仰っているのかよくわかりません」 「知っている筈だ」 「いいえわかりません」 息も絶え絶えに答え続けるカガリの震える声が痛切に闇に響いた。 一瞬訪れた静寂に、隙間から侵入するワルツの曲が二人を取り巻いた。 それはアスランの声で破られた。 「ならば断ち切れる筈だ」 静かな、しかし抑揚を微かに含ませたその声と共に、ゆらりと影は動いた。保たれていた距離は縮まって、すぐ目の前にそれはあった。 気付いた時にはアスランの片腕が腰の括れと壁の間に入り込み、カガリの両腕を壁に押し付けていた。瞬時に両腕をもがれてカガリはそこから一歩も動けなくなった。何より恐怖が体を竦ませ、動けなくしていた。 恐らく今までのどんな時よりもアスランをこれほど怖れた瞳で見た事は無かっただろう。 その時薄闇の中に隙間から漏れ入って来る弱い光が、翠色の瞳を淡く照らし出した。疑ったそれは、紛う事無くよく知ったあの瞳だった。 「知らないと言うのなら繋がりを断ち切るのは簡単な事だ。ただ舌を噛み切ればいい」 瞳は光を帯びて緩やかに微笑した。その時に見た光彩がカガリの胸の奥深くにあった何かを一瞬思い起こさせようとした。 しかしそれを思い起こす前に、カガリはアスランの言葉の意味を身を以って知らされた。 小さなカガリの体はその衝撃で跳ねたが固定された腕はビクとも動かなかった。 繋がりを否応無く認識させるそれはカガリの蕾のような唇を裂いて押し入った。まだ咲く前の花弁を無理矢理開いていくその舌先の動きが伝わると、カガリの背を怖気が襲った。逃れられない花の蜜をゆっくりと絡め取って行くようなその蠢きは、慄くカガリの神経を伝って心の表面にあった殻を突き破り、その底に在った未だ触れ得ぬ感情に突き刺さった。やがてそこから流れ出る赤い血潮が一杯に溢れてカガリの体を這い登り、それは透明な水となって琥珀色の瞳を満たした。 残酷な宣告は体が血を流したその時よりもカガリの心に多くの傷を負わせながら、何一つ逆らう事の出来ない仕打ちを繰り返す。その度にカガリの感情から流れ出るものがやがて瞳を一杯に覆い尽くすと、それは目尻から頬を伝わって落ち始めた。 その時カガリの胸の奥で甦ったのは先程見た光彩だった。翠色を帯びたその光彩は、ずっと以前からそこにあった光のような気がした。かつてまだ何の感情も知らなかった頃に、仄暗い場所で見続けた虚無な光彩だった。 その虚無で傷付いた孤独な光彩はいつしかカガリの気付かない間に心の奥底深くひっそりと根を下ろした。眠るように静かに、その奥底で根を張っていた。 断ち切れない繋がりはカガリの体の奥底から真実を引き摺りだして尚も触れ続ける。 目に見えるものも見えないものも今は瞳に満ちるものに全て掻き消されてカガリは瞼を閉じた。 そして自分の舌先に触れているその湿った体温を知った時、強張っていた体から その体をいつの間にか拘束を解いたアスランの片腕が支えていた事をカガリは知らなかった。 <07/08/15> ←八幕へ/十幕へ→ *今回(特に)非常にわかり辛くてすみません…完全に技量不足です…。 *アスランが舞踏会にいたワケ=あるワケありのご婦人(笑)の相手を仕って仕方無く来たところが、ドタキャン食らわされたので(と都合のいい展開) *いつもながら時代考証とかもう適当ですみません。ダンスホールがどんなものかわからないので完全妄想です。 |