第十幕 : 回顧 カガリは生まれてから救貧院で育った。両親は知らない。 13歳になるまでそこで育てられたが、就業可能年齢に達すると、すぐに外に出された。大抵の場合、救貧院の子供達は家事使用人として中流家庭以下の家に奉公に出されたが、カガリも例に漏れず、ある中流家庭に雇われる事となった。 最初に雇われたその家は商家で、身分こそ大した出身では無かったが、金にものを言わせたその暮らし振りだけは上流階級を真似た派手なものだった。主人は小太りの中年の男で、脂ぎった顔をしていつも出っ張った腹を揺すって歩いていた。カガリの働き振りは至って真面目なもので、商家の家族や他の使用人の評判も悪くは無かった。その無垢な少女の働く姿が主人の目に特別な意味を持って映った事は不運だったとしか言えない。寝所に忍んできた主人に押さえ付けられて上げた声を家族に聞きつけられ、罪の無いその無垢さが返って「誘惑した」と弁明の余地無く決め付けられてそこを追い出された。「馬鹿ね、それくらいで。反対に利用してやればいいのに」同僚の一人が冷めた口調でその時言い放った言葉は、カガリの心の澱となった。 戻されたカガリを養う余裕の無い救貧院はすぐに次の奉公先を探したが、その時たまたま下女を探していた品の良い未亡人があって、そこへカガリは行く事になった。未亡人は夫の遺産で慎ましやかに暮らす物静かな人だった。 上流階級と言うものを全く別世界のように知りもしなかったカガリが、始めて触れたのはその未亡人の白い手だった。子の無い彼女が殊の外、下女などに愛情を注いだのは、ただの気紛れによる身代り的な愛情では無く、カガリと言うその少女の、感情を露わにしない見掛けからはわからない、どこか秘めた直向さと言うものが、未亡人の心を捉えたからだった。上流階級という暮らしに於いての使用人に必要な知識は、その時全て未亡人から教えを受けた。通常救貧院の出身者がそのような知識を身に付ける事が出来るのは稀な事だと言えた。カガリにとって、恐らくその頃が最も幸せな時期であったであろう。しかしそれが、その後の彼女の運命を決定付ける事になる。 幸せな時期は僅か二年程しか続かなかった。亡き夫の後を追うように、ある日未亡人は静かに息を引き取った。カガリは家族に代わって白い手を取り、彼女の最期を看取った。 葬儀の後、未亡人と交友のあった人がカガリに声を掛けた。彼は未亡人からカガリの後の事を託されたと言う。 「ある館で使用人を探している。君を紹介しようと思うのだが」 カガリは黙ってその人を見た。至って善人面のその人は続けて言った。 「この辺りの権力者の館だよ。こんな働き口を得る機会は滅多に無いと思うのだが」 そして彼は付け加えた。――特に君のような子にはね、と。 その館はカガリが今までに見たどの屋敷よりも大きなものだった。 城というものをカガリはまだ見た事が無かったが、物語によく出てくる城とは、こういうものかと思った。 ただ建物は立派であるにも関わらず、どことなく物寂しい気がするのはどうしてなのだろう――。カガリは暫く館を見上げた後、その扉を叩いた。 「先年奥様がお亡くなりになった後、御子息のアスラン様がこの館にお一人でお住まいになっていらっしゃいます」 メイド長の中年の女が淡々と説明する。 「旦那様はいらっしゃらないのですか?」 カガリの問いに、メイド長はジロリと一瞥した。その視線にはある種の侮蔑があった。 「余計な口は慎むものです。お前は尋ねられた事にだけ答えれば良い」 そして侮蔑の視線のままに告げた。 「あの方の紹介で無ければお前など、 カガリにメイド服が与えられた。午前用と午後用の二着が与えられたのはカガリにとって始めての事だった。そしてその生地は、今までに与えられたどの服よりも上等な物だった。 全てが、カガリが触れる初めての「最高級な生活」だった。 家具や食器を始めとして、小さな装飾品に至るまで、それは見た事も無い贅沢さと豪華さを放っていた。 所々に飾られる沢山の花は日々取り替えられ、捨てられる。そうして館に花が絶える事は無かった。 「こんなに沢山の花をどうやって育てているのですか?」 毎日花を持って来る庭師に、カガリはある日尋ねた。 「温室があるんだよ」 一度見においで、新入りのお嬢ちゃん、と初老のその庭師は笑った。 広い庭のその奥に、大きな温室があった。その中ではこの季節に咲かない筈の花が、沢山の花を付けていた。 カガリが花を見つめていると庭師が笑いながら言った。 「綺麗だというよりもまるで同情している顔じゃないか」 「だってこの花達は無理矢理咲かされてたった一日で捨てられるのでしょう?」 「仕方が無いんだよ。ここで育った花は弱くてね。一日しかもたないんだ」 「…可哀相だわ」 それからカガリは捨てられる花の内の数本を毎日密かに貰い、壜に挿して簡素なベッドの脇に置いた。夜には美しく開いていた花が、朝起きる頃にはその花弁を散らしている。床に落ちた花弁を拾い集めてカガリはそっと土に返した。せめてその最期を見届けてやる事が贖いだと思った。白い花を見る度に、息を引き取ったあの未亡人の白い手が思い出された。 カガリがその館の嫡子を初めて見たのは、ここに来て十日程経った頃だった。 普段カガリの仕事場は炊事場や館の使用されていない部屋であったので、嫡子を見掛ける場所には立ち入らなかった。それがふと庭先で、その姿を遠くから見掛ける事があった。 一見、女性のように綺麗な顔立ちだった。繊細そうな面差しは、どこか脆そうで、その そう言えば他のメイド達がその嫡子について噂しているのをカガリはよく耳にした。それはほとんどが熱を上げているものだったが、時々陰口に似た言葉も漏れ聞こえた。「奥様が亡くなってから――」それは必ずそんな言葉で始まった。 その日は近付いた聖誕祭の準備の為に使用人の手が足りず、カガリは普段立ち入らない部屋へと足を踏み入れた。そこは館の主人が食事をする部屋だった。カガリは作られた料理を給仕係へと運んだ。その時始めて嫡子を間近に見た。 脆いガラス細工の花のようだと思った。 そして温室の花にも似ている、そう思った。 しかしいずれにしても、自分とは全く別の世界に棲む人間だった。 高価な陶磁器や銀の食器が並んだ食卓に、運ばれる高級な料理の数々。それをいとも平然と、当たり前の日常として受け入れている嫡子の存在に、カガリは初めてその時自分の不遇な生い立ちを知らされた思いがした。 生れ落ちた瞬間に、与えられたこの隔たりは何なのか。 同じ人間と言えども、自分は自身だけが全てであり、頼るものなど何も無い。 「後で部屋に来なさい」 食事を終えた嫡子が部屋を去る際に、扉の影にいたカガリに小声でそう告げた。 それはただ悪戯をしたくて堪らない子供の声に似ていた。 嫡子の部屋の前に立った時、カガリはそれが何を意味しているのか知っていた。 13歳で初めて奉公に出た時に、その家の主人にされかけた事を思い出した。心の底に眠っていた澱が甦った。 カガリはその扉を開けた。 メイド服が床に落とされる音を聞いた時、特に何の感情も起こらなかった。 どうせいつかは捨てるのだ。13歳の時に捨てなかったものを、ただ今捨てるだけだ。 それが何だと言うのだろう。 体の、ほんの一部が痛むだけではないか。 初めて横たわった羽のように柔らかな寝台の上で、天井の一点を見つめている内に、やがてそれは終わった。 薄れて行く体の痛みと引き換えに、失うものなどもう何も無い。 「名は、何と言う?」 嫡子が尋ねた。ガラス細工のような翠色の瞳がカガリを見ていた。その時初めてカガリはその色に気が付いた。 「カガリ」 初めて交わした言葉は、短い、たったそれだけだった。 それからしばしば嫡子はカガリが通る場所に待ち伏せるように現れて、初めての時と同じように耳打ちした。その度、数時間後にカガリは嫡子の部屋の扉を いつも同じだった。遮光された部屋と整え直された寝台とその脇に飾られた花。音を立てて落ちて行くメイド服と皺を寄せて投げ出される衣服の数々。羽のように柔らかな寝台は僅かな動きでも深い溝をその表面に作った。ヒヤリとしたそのシーツの上でカガリはいつも同じ一点を見つめる。天井の模様の中程にある僅かな染み。その染みがカガリのよすがでもあるかのように、それが終わるまで視線はそこから動かなかった。 嫡子の手はいつも冷えていた。その所作に、情愛など欠片も感じられないのはその冷たさのせいでは無いとカガリは思った。恐らく、この嫡子の心は心底冷えている。 その冷えた部分に何かを補うように、冷たい手はいつもカガリの体温を剥ぎ取って奪って行った。それは子供が何かを独占しようとする時の仕草に似ていた。 「亡くなられた奥様はとても厳しい方でね――」 温室の花を見つめていたカガリに庭師は言う。 「あの方の父親、つまりこの館の本来の御主人である旦那様が、若い恋人の元から帰って来ない鬱屈を、息子の厳格な教育と言う生き甲斐にすり替える事で、全て満たそうとしていたのさ、奥様は」 たった一日の為に咲かされる花。自分の意志とは無関係に、人の欲を満たす為だけに咲かされる花。やはりその物寂しげな姿はどこかあの翠の瞳を思わせる、とカガリは思った。 「若いあの方にはそれはあまりに禁欲的で酷な日々だったろうよ。この館と言う檻にずっと繋がれていたのだから。それが突然解き放たれたとあっては、人間、 放蕩したこの生活にもそのうち飽きなさるだろう、と庭師は言った。しかし彼は、カガリと嫡子の関係はまだ知らない。 それからほどなくして、使用人の口の端に、その噂は上る事となる。 「カガリ」 幾度目かの事の後、初めて嫡子が名を呼んだ。 身繕いをしていたカガリは背中で聞いている。 「前から思っていたんだが、お前は初めてこの部屋に来た時も、そして今も、声一つ上げなければまるで抗おうともしない。媚もしなければ、誘惑するでも無い。かと言って、俺を愛しているという訳でも無いのだろう。まるで為されるがまま、ただ一点を見つめたままで身を委ねている。それは一体、どういう訳なのだ」 寝台の上で頬杖を付いたまま嫡子はそう問い掛けた。その口の端には恐らく悪戯な笑みが浮かんでいるのだろう。 温室の花、とカガリは思った。大切にその為だけに育てられた、外の世界などまるで知りもしない可哀想な花。 きっと彼の認識の全てはこの部屋の空間程でしか無いのだ。 遮断されたこの物寂しい館が彼の世界の全てであり、温室だった。 「何も。ただ、生きて行く為に」 落ちていた嫡子の衣服を拾い上げて寝台の隅に置いた。上質な肌触りの布地にいくらか皺が寄っている。 「私には身寄りも何もありませんから、この身一つが生きる為の全てです」 そう言い捨てて扉へと向かったカガリの背に、嫡子の言葉がまた投げ掛けられる。 「お前の、そんなところが気に入っている」 扉の前で足を止めた。 心の底の澱に手を突っ込んで酷く掻き混ぜられたように、それはカガリの心を大きく揺さぶった。 誰かに対して何らかの激情を抱いたのは、恐らくこれが初めてだったろう。それは13歳のあの時でさえ抱かなかった感情だった。 屈辱の思いに唇を噛んだ。 瞳を強く上げて振り返った。 「貴方こそ」 口元に不敵な笑みを浮かべた。 「こうして私を弄ぶ事で、先年お亡くなりになったという御母上に復讐をしておいでなのでしょう?」 口元から笑みが消えていく嫡子の顔を見ながら、カガリは深夜にひっそりと散っていく花弁を思った。花は、散る時何を思うのだろう――? 「私も貴方の、そんなところが好きですわ」 微笑して投げた言葉の行方をゆっくりと見定めながら、カガリは小さく心の中で呟いた。 『この花を散らしたのは、――私……――』 時折嫡子の部屋へと消えるカガリの姿は、既に館中の知るところとなっていた。 しかし相手が嫡子故に、公然と噂をする者は誰もいない。「奥様が亡くなってから――」またそんな言葉が陰で囁かれた。そしてそれはカガリの周囲でわざと漏れ聞こえるように囁かれる事もあったが、顔色一つ変えないその姿に、またヒソヒソと そんなカガリではあっても、さすがに温室だけはもう足を運べなくなっていた。あの初老の庭師ももう知ってしまった事だろう。顔を合わせるのはやはり心苦しかった。密かに花を呉れたあの人は、ここに来て唯一優しい人だった。そして花の痛みを知る人だった。 そうして花の弔いからもカガリは遠ざかった。 メイド長に呼ばれたのはその頃だった。 「旦那様がお前にお暇を出されました」 淡々と冷えた声でメイド長はそう告げた。窪んだ目の奥で冷たい瞳が底光りしていた。 「次の働き口の紹介状を下さるそうです。…お前などには勿体ない限りですが。嫡子であるあの方にこの先不都合な事があっては困るのです――わかりますね?」 底光りのする瞳はまるで物でも見るようにカガリを見下ろしていた。そして独り言を言うように小声で言葉を吐き出した。 「この、身の程知らず――」 館を去る日の朝、カガリは廊下で嫡子と擦れ違った。それは偶然というには明らかに不自然な出逢い方で、他に誰もいない事を確かめると、嫡子はいきなりカガリの腕を掴んだ。 「部屋へ来なさい」 有無を言わせぬ強い語調でそう言い捨てると、そこを立ち去った。苛立った感情がその声音に滲んでいた。 あの言葉を投げ付けてから嫡子の呼び出しは暫く途絶えていた。ガラスのように脆いその心に、恐らくは幾筋ものひび割れが生じたに違いない。そしてそれが彼の心を蝕んでいる。そのひび割れを生じさせたのは自分なのだとカガリは思った。 この扉を潜るのもこれで最後だと、嫡子の部屋の扉の前にカガリは立つ。恐らく先程の様子から、 静かに扉を開けた。 遮光された部屋に寝台の白い姿が浮かび上がる。そしてその脇の、白い薔薇の花。 寝台の上に腰掛けたまま嫡子は静かにカガリを見た。数秒見据えた後、徐に立ち上がった。カガリが後ろ手に扉を閉めるのと近付いて来た嫡子がカガリの腕を掴むのが同時だった。腕を掴んだまま寝台まで引き摺って行った嫡子はそこにカガリを放り投げた。手荒に投げられたカガリは弾みながら寝台に横たわった。 華奢な体に覆い被さった嫡子の体は、寝台に手足をついたまま無言でその下のカガリを見下ろした。ガラス細工のような翠の色の瞳。僅かな光を吸い込んだその翠の二つの瞳は、泣き疲れた後のように憔悴して見えた。 「お前に何がわかる」 ゆっくりと唇から紡ぎ出された言葉は掠れてカガリの耳に届いた。 「お前に、何がわかる――?」 もう一度繰り返されたそれは、語尾を震わせて静寂の中に消えた。 真っ直ぐに下ろされた視線をカガリは見返して、そしてその言葉を心で繰り返した。 『お前に何がわかる――』 ゆっくりと瞬きをした。同じだった。自分が屈辱に唇を噛んだあの時の、それは心の声だった。 言葉無く見つめ返すカガリの視線に、嫡子は荒々しくその衣服に手を掛けた。紐を解くのももどかしいように引き裂かんばかりに剥ぎ取って行く。 「お前は酷い女だ」 呪文のようにそんな言葉が繰り返し嫡子の口から漏れた。それは泣いているようにカガリには聞こえた。 手荒く行為に及んで行く間、カガリは天井ではなく何故か嫡子の表情をずっと見ていた。どうしてなのか自分でもわからなかったが、初めて、この嫡子の深い心の根の部分を覗き見たような気がして視線は離れなかった。苦しげに歪められた表情に何も映らない瞳を彷徨わせて、荒い呼吸を吐き出すその姿をずっと凝視していた。体温を奪うような荒い手の動きに、時々ふと母親に甘える小さな子供のような仕草が混じるのをカガリは感じていた。それは我知らずに漏れた無意識の、嫡子の本当の姿だったのかも知れない。 身繕いをするカガリの姿を、半ば放心したように寝台の上から嫡子は眺めていた。その翠の瞳は虚ろに開かれて、今し方の激しさなど微塵も感じられない。まるで抜け殻のようだった。 その姿にカガリは宣告する。 「貴方とは、これでお別れです」 嫡子の表情が一変した。 「別れ……?」 「旦那様よりお暇を出されました」 「父上に……?」 「貴方に不都合な事があるようでは、この先困る、と」 その言葉に嫡子は一瞬押し黙り、そして次第に憤りの表情をその顔に浮かべた。瞳には次々と様々な感情が表れては移り変わって行く。 「それでは、お暇致します」 背を向けたカガリを嫡子が呼び止めた。 「おい、待て」 カガリが振り返った。 「どこへ行く?」 「さあ…。旦那様が紹介状を下さいますから」 「……本当に、行くのか?」 カガリは微笑した。先程のあの手荒い行為など、もう忘れ去ったかのような構えの無い言葉だった。 純粋に育てられたか弱い花。 「旦那様に逆らってはここでは生きては行けませんもの。私も、そして、貴方も」 寝台の脇に置かれた咲ききった白い薔薇の花が目に映った。今にも花弁を散らそうとしている。 「弱いものですわね。温室の花と言うものは」 それは無垢で傷付きやすく、そして孤独だった。 この花は散る時に何を思うのだろう。 何を思ったのだろう。 ふと翠の光彩が心を過ぎった。その寂しげな光彩は、カガリの心の奥底の、またその地下へと沈んで行き、そこで時が来るまで静かに眠りにつく。 嫡子の心の奥底にも大きな 閉じられた扉を翠の瞳は見つめていた。 いつか再びまたこの扉があの手で開かれる時が来るとしたら――? ――籠から逃げた鳥は、いつかきっとまた戻って来る。 どこかで見つけたら、その時は自ら戻りたくなるようにするまでだ。網を張って逃さぬように。 ――孤独故にその温室の花が併せ持った異常なまでの執着心というものを、カガリは知らなかった。 <07/09/16> ←九幕へ/十一幕へ→ *今回はカガリ視点の回顧編です。次の幕から前話の続きに戻ります。 |