第十一幕 : 螺線




スープを掬っていた銀のスプーンが手から滑り落ちると、カシンと言う甲高い金属音を立てて机の上で跳ねてから、床の上へと落下して行く。
「あ――」
短い声を上げてカガリはそのスプーンの行方を目で追った。
そして鈍い光を放ちながら床に横たわるそれに思わず手を伸ばそうとすると、横から伸びて来た別の手が素早く掠め取った。
その手の主はメイド服姿の給仕係で、スプーンを取って体を起こす時に、チラリとカガリに視線を向けた。それは微かな蔑みの色の入り混じった視線だった。彼女はカガリがこのアスハ家にメイドとして初めて来た時、指導役になった人だった。それが今では主人と使用人の関係に転じている。
ウズミが食事をしていた手を止めて、カガリを見た。
「どうかしたのかね?」
「すみません――手が滑って――」
「近頃時折、心ここに有らずと言う感じに見受けられるが――」
カガリがはっとしたように顔を上げると、夫妻の案じるような視線が自分に向けられていた。
「いいえ、――何でもありません」
カガリはその視線から逃げるように目を逸らした。
そしてそれほど無意識に心中を露にしていた自分に、その時初めて気が付いた。夫妻に気取られるほどに、それは色濃く顔色に表れていたのだ。
「何か、あったのかね?」
視線を向けたままでウズミは尚も問う。
「――いいえ、お義父様」
かつて主人であったウズミを、父と呼ぶ事にカガリはまだ馴染めない。無理矢理に作ろうとした微笑は途中で奇妙に固まってしまった。
「…そうか」
そう言うと、ウズミは何か問いたげな瞳のまま暫くカガリを見た後、また視線を目の前の皿に移して食事に戻った。夫人も黙ってそれに従う。
カガリはメイドが新たに持ってきたスプーンでスープを掬い、それを口へと運んだ。そして喉の奥へと流し込んでいったが、またいつしかその味を感じなくなっていた。ともすれば意識は違う場所へと飛んで行き、目は捉えているものを映してはいるが、鏡のようにただそれを反射しているだけだった。
心に浮かぶのはただ一つの事であり、それが今まで自分を構築していたもの全てを覆して行く。しかし反転する全てを受け入れるには、まだカガリの中に戸惑うものが多すぎた。
あまりにも唐突にそれは訪れた。突然過ぎる程に。
けれども――
カガリはいつもそこで考えが立ち止まる。
『――疾うに心のどこかでそれを知っていた』
彼の言葉が思い出された。
はっきりと、カガリの中にあるそれを指して告げたのならば、彼はそれを知っていたと言う事だ。
いつからそこにあったのか自分でさえ知りえなかった感情を、彼は知っていた――と言った。『見ないように目を逸らしている』のだとさえ。
その感情を知りながら自分とのあの関係を続けていたアスランの思惑は一体何処にあったのか――?そして彼の言う『見えない繋がり』があるのだとするならば、それは一体何なのか。
カガリの思考はそればかりを繰り返す。
しかし今カガリの中で最も大きく心を占めているものはその事では無かった。
この感情を何と呼ぶべきか。――それを『恋情』とただ単に名付けてしまうには、過去の記憶があまりに生々しくカガリを苛んで、まるで「裏切り者」とさえ叫んでいるように思える。
それでも最早気付かなかった頃の自分には立ち返れない。
『断ち切ってみろ』と試され突きつけられたあの時の痛みがずっとカガリを捉えて今も離さない。それは大きく反転して行く自分自身が殻を破って変化しようとする時の痛みでもあるのだ、と言う事をカガリは知らなかった。


白いシーツの上で目覚めると、カーテンの隙間から漏れ入る朝の光が仄かに汗ばんだ体を照らし出していた。
ああ、また夢を見たのだ、とアスランは暫くシーツの上で天井を見上げていた。
額や胸に薄く浮かんでいた汗はやがて空気に冷やされて乾いていく。しかしアスランの表情はずっと物憂げに天井に向けられていた。やがて寝台の上に上体を起こすと、片手を額に掛かる髪の中に突っ込んで暫く白いシーツを見つめる。
夢の中でまで自分を虫食むものの正体を、その白いシーツの上に見ているようだった。朝の清浄な空気とは裏腹に、それはどす黒く粘りを帯びて自分の体に纏わりついて来る。思い出す度にねっとりと絡み付くような視線は、夢の中でさえ自分を捕らえようとするようだった。
どんなに断ち切ろうとしてもその血故に断ち切れるものでは無い。
寧ろ時が経つにつれてそれは自分の体の一端として確実に形を成しつつあった。
自分の中に流れる血というものが、逃れようの無い絆をそこに主張して嘲笑っているかのようだ。それを思い知らすかのように全身を廻る血は体の隅々まで行き渡って体中を侵して行く。
アスランはまた天井を見上げると自嘲するような笑みを浮かべた。
『断ち切れない繋がり』に繋ぎ止められている自分が、『断ち切ってみろ』とは随分矛盾した事を言ったものだ。――あの時の困惑と怖れに満ちた琥珀色の瞳をアスランは思い出していた。追い詰められた瞳から溢れる涙を初めて見た。
かつて事が終わるまでずっとこうして天井を見ていたあの感情の宿らなかった瞳が初めて涙を流した。
頑なだった砦が瓦解した瞬間だった。
それは恨みの雨の雫のように頬を伝って流れ落ちた。
――繋がりは見えないところにある
そう言った自分の言葉が甦って、アスランは天井を見つめて淡く微笑した。
そしてふと寝台の側の花瓶に挿されている花に目を止めた。手を伸ばしてその一輪を取ると、その花の芳しい香を嗅ぐように白く薄い花弁の中にひっそりと覆い隠された花芯を求めて鼻先を埋める。そして口先にその薄い絹のような花弁が触れると、まるで身代わりのようにその唇で艶やかな膚を噛んだ。


机の上に飾った額に収めた栞の花にカガリの目は自然と吸い寄せられる。一日の内に何度と無くそれを手に取って眺めた。それと共にあの日の記憶が心に甦り、カガリは思いに耽る。
あの時真実を告げた瞳が思い起こされた。彼は言ったのだ。白い花を持って。
――野の花は野にしか生きられない。ましてや温室には咲ける筈が無い
その言葉が深い意味を伴って今のカガリに降り掛かる。
自分の本質を誰よりも知り、そして見抜いていた、あの時去って行った後姿が脳裏に甦った。手には花を――あの花を持っていたではないか。ラクスが自分のようだと言った花を。
カガリは栞の花にそっと触れた。
何も見ようとしなかった。目を逸らしていた。受け入れられなかった。
全ては傷つけ合う事から始まった。心と体を傷付け合い、その傷から互いに血を流した。
それを繋がりと呼ぶならば、なんと痛みの多い繋がりか――。
――けれども、とカガリは思った。
その傷を知っているからこそ全てを知り得るのだと。
それもまた人を結び付けるひとつの繋がりと言う形なのだ――と。



――そしてその繋がりは時を待っていたかのように二人を引き寄せて行く。急速に、運命的に。まるでそれを試すかのように。


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静寂に満ちた中、足音だけが響いた。一歩足を踏み出すごとにそのカツンと言う音が、清浄化されて周りの柱や壁に吸収されて行く。そして教会の高い天井にもそれは染み込んで行くようだった。
その静けさの中に身を置きたくてカガリは一人ここを訪れた。屋敷を離れ、清浄なこの空気の中でなら自分と向き合えるだろうかと思った。ひっそりと誰にも干渉されずに自分と向き合いたかった。
広い教会の中は窓から射す光に照らされてその白い壁や柱を浮き立たせている。厳かな空間はその光の作用が織り成す一つの芸術のようだった。光が浄化する、一枚の絵。その清浄で静寂に包まれた絵の中をカガリは進んで行く。モザイク画の描かれたヒヤリと冷たい床が、その度に乾いた音を立てた。
やがて祭壇の下へと辿り着く。祭壇はそこから更に緩やかないくつかの段を昇った場所にあった。
ほんの数人の人が祭壇の近くで祈りを捧げていた。カガリは立ち止まって彼らを見る。そしてその視線は祭壇の脇にある絵の前に立つ人へと向けられた。数段高い場所にあるその絵の前に立つ人は、先程から後ろの低い欄干に凭れるようにしてずっとその絵を見つめている。
次第にカガリはその後ろ姿が見覚えのあるものだと言う事に気が付いた。――何故、こんな場所で出逢ってしまうのだろう――?悪戯に天が定めた運命か?
カガリの視線に気付いたように、その人が振り返ってこちらを見た。翠色のよく知る瞳だった。
数段高い場所から見つめる瞳はこの偶然の出会いに動じる様子もなく、寧ろただその奇遇さを静かに受け止めるようにひっそりとカガリに向けられていた。そして暫くの後に目で淡く微笑した。
絵の前から離れると階段の上に立ち、そこからカガリを見降ろす。
あの日以来の出逢いは静けさの中で訪れた。
側で祈りを捧げる人々がやって来てはまた去って行く。
ただ言葉も無くアスランは見下ろし、カガリは見上げる。アスランの瞳には密やかな微笑が浮かび、それを受け止めるカガリの瞳は切なげに揺れ動く。
やがてアスランは緩やかな階段を降り始め、そして降り切ったところに立つカガリの横をゆっくりと通り過ぎた。
それは誰の目にも触れないほどの密やかさで行われた。
通り過ぎざま、ドレスの影でアスランの手がカガリの手を捕らえ、一瞬僅かに柔らかく握るようにそれに触れると、細い指の先まで確かめるように辿り、そしてゆっくりと離れて行った。
カガリの体はそこに張り付けられた様に動けなかった。全身の機能が瞬時の行為によって麻酔されたかのように反応を起こさない。停止した思考の中で、漸く思い出したようにカガリが振り返ると、よく知った後ろ姿は教会の背の高い扉の向こうに消えて行くところだった。
振り返りながらカガリは触れた方の手をもう一方の手の上にそっと重ねる。そしてそれを無意識に胸の辺りに引き寄せた。後ろ姿が見えなくなるまで、カガリはそっとその方向を見遣っていた。
ふと、先程までアスランが立っていた場所に視線を向ける。そこには小さな一枚の絵があった。カガリは目の前の緩やかな階段を昇り始める。
絵の前に立った時、カガリはそれが何を物語るのかを知った。記憶の底から幾多の断片が甦った。それは翠の光彩を伴って緩やかにカガリの胸の中へと流れ込んで行く。
『聖母子像』
幼子のイエスを愛情に満ちた表情で抱く聖母。その美しい顔には優しく穏やかな微笑が浮かび、それは見る者の心をも抱くように包み込む。そこに描かれた暖かい色合いの光が、木々の間から零れる陽のように、心を融かしこんで行くようだった。
心が奪われたようにその絵から視線を外せずにカガリは立ち尽くした。しかしそれはその絵自体に心が惹かれたのでは無く、その絵が齎した真実に心を奪われたからだった。
ああ、そうなのだ、とカガリは思った。
数々の記憶の断片が繋がって行く。――あの何かを欲するような仕草の手。いつも冷えていた手は体温を探して彷徨っていた。けれども儀式的に重ねられる体温は直ぐに冷えてまたその手は凍えていたに違いない。
そして今もそれは恐らく変わっていないのだろう。
彼の手は体温と言う温もりに枯渇した孤児だった。――カガリは先程体温を求めて縋り付いた手を思い出して、また無意識にその手を胸に引寄せた。
「その絵がお好きですか?」
ふいに声を掛けられ、すぐ側にいつの間にか司祭が立っていた事に気が付いた。カガリは答える代わりに静かに微笑を返す。
「この絵はルネサンス期の有名な画家の手によるものですが、最も人々から愛されている聖母子像のひとつです」
「あの、――」
カガリは躊躇い勝ちに司祭に尋ねた。
「先程この絵を見ていらした方はよくここへ?」
「ああ、あの方は」
司祭は答えた。
「よくここへ見えられますよ。この教会に寄付をして下さっているのです。この絵をいつも暫く眺めて帰られるのですよ。貴女はお知り合いで?」
「……いえ、時々夜会でお見掛けしますので」
言葉を濁してカガリはそう答えた。咄嗟にそう嘘を付いたのは、教会と言うこの場所の持つ厳かな雰囲気のもとで、アスランと自分との関係をただの知り合いだと偽って答えるのは、あまりに心苦しい事に思えたからだった。窓から射す穢れの無い白い光が目に眩し過ぎた。
その後司祭はその絵の素晴らしさについてまた二、三語ったが、カガリは相槌を打ちながらしかしよく聞いてはいなかった。漸くそれから司祭が去って行った後、また暫く絵を見つめてカガリはそこに佇んでいたが、やがてその唇から呟くように言葉が我知らずそっと漏れた。
「――お母さん……」
高い窓から射す光はいつの間にか移り行き、絵とカガリをその清浄な白い光で包み込んでいた。


外出から戻ったカガリは自室で椅子に座り、窓の外に広がる庭の景色に目を遣っていた。
もうすぐ冬がやって来る。
ザラ家にメイドとして雇われたのは丁度今頃の季節だった。あれからもうすぐ三年が経つ。
この三年と言う間に自分の人生はどれほど変わってしまったのだろうとカガリはぼんやり考える。ザラ家に奉公に上がった時から、自分の運命は音を立てて大きく方向を変え始めた。全てはアスランと言うその存在が大きく影響を及ぼしていた。自分にとって、アスラン・ザラとは一体何なのか。――また廻り廻ってカガリの思考は同じ場所へと立ち戻る。
机の上の栞を手に取ってまた眺めた。
――道は選ぶものですわ
ふと、その時ラクスが別れ際に言った言葉が思い起こされた。何かに衝き動かされたようにカガリは顔を上げる。
この三年の間、自分で選んだ事が一つでもあっただろうか?
全ては運命に流されるまま、為される儘に生きてきたのではないか。時として選ぶ自由を与えられなかった事も事実だが、それでもそこに自分の意志と言うものはどれ程あっただろう。
頼るものが何一つ無かったあの頃の自分の強さをいつの間に失ってしまったのか。
その行き着いた先が、今の自分ではないか。裕福で何不自由も無い豪華な暮らしと引き換えに、その実自分に選べる自由など一つも無い。いつも綻びが無いか、常に神経を張り詰めていなければならない暮らしが、どうして幸せなどと言えるだろう。
――それに……。
今更自分の気持ちに気付いたところでそれをどうしようもないのだ。自分の意志で選ぶ自由の無い限り、持て余す心の在り処に苦しむだけでは無いか。
はっきりと自分の中にある感情を指して自問し、カガリの瞳は彷徨うように陽の傾いた空へと向けられる。紅色を濃くして行こうとしている空は近付いた冬の空気に澄んでより透明度を増していた。心に焼きつくような紅い色だった。
――彼は……何を求めているのだろう?
漠然とカガリの心にその問いが広がった。
完全に縛り付けるでも無くかと言って解放するわけでも無い。この世界に身を置くカガリを否定しながらそれでいて繋がりを求めて来る。
握った手を離さない小さな子のように、カガリとの接点を決して離そうとはしないのだ。
そこから導き出される答えと言うものに、カガリの心は次第に囚われて行く。
――けれども、……――
その時、ドアをノックする音がして、続いてメイドの声がした。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
その声でカガリは深い思考の淵から現実に引き戻され、我に返った。


リビングルームのドアを開けると、ウズミと夫人がソファに座って待っていた。
カガリが部屋に入って行くと、向かいの席に座るようにウズミが促す。その改まった雰囲気に、カガリは何かを感じて俄かに体が緊張して行くのを覚えた。
メイドに命じてウズミが三人分のお茶を淹れさせてから、人払いをした時に、カガリは自分の運命に大きく関わりのある事がこれから告げられるのだと確信した。
部屋に三人だけになった時、ウズミはティーカップを持ち上げて一口お茶を含み、そして言った。
「どうかね?体調の方は」
「――ええ、大丈夫です、お義父様」
ウズミがそう切り出したのは、先日からのカガリの様子が気に掛かっていた所為でもあった。別に体調が悪いわけでは無いとわかってはいても、ウズミとしては他に聞きようが無い。そしてカガリが自分から話そうとしない以上は、無理に聞き出すのも躊躇われた。それはまだ親子の縁を結んでから日が浅い二人の距離でもあった。
しかし何よりも、これから話される重要な用件のその前に、僅かでも和んだ空気を作っておきたい、と言った配慮にもそれは見えた。その隣で夫人はただ黙って夫に従っている。
「カガリ」
ティーカップをソーサーに戻し改めてウズミが名を呼んだ時、そのやや重々しい空気にカガリの心にもピンと糸が張りつめた。
「以前話したお前の結婚の事だが――」
ウズミはそこで一拍間を置いて、そして言った。
「私はアスラン・ザラ氏に申し入れようと思う」
その言葉が部屋に響いた時、張りつめていた糸がどこかでぷつりと音を立てて切れて行くのをカガリは感じていた。



<07/11/04>

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*作中の絵のモデルとしたのは、ラファエロ・サンツィオ作『小椅子の聖母』と言う絵です