第十二幕 : 弧状




「私はアスラン・ザラ氏に申し入れようと思う」


その言葉が空気を伝わって耳に届いた時、カガリの心に張りつめた糸がぷつりと音を立てて切れた。そしてその音はやがて警鐘のようにカガリの心の奥深い場所へと大きな音となって響き渡って行く。
予想もしない名だった。
まさか義父の口からその名が漏れようとは思いもかけなかった。
そんなカガリの反応を窺うように、そこで言葉を一端切ったウズミは口を閉じて目の前の娘を見ている。半ば呆然と白い顔で視線を彷徨わせている娘の心中が一体どこにあるのかを見定めようとするかのように、その視線はカガリの表情に注がれていた。その視線を感じながらカガリの瞳は逃れる場所を探すように彷徨い、そうしているうちに、やがて隣に座る夫人の視線とかち合った。夫人の控え目な、けれどもある種の情に満ちたその表情を読み取った時、カガリは頭の芯が痺れるような目眩を覚えた。
それは自らの価値観が導き出すものを何より至上のものと信じて疑わない、品位と品格に満ちた、優雅なまでの微笑だった。
夫人は――かつて彼に会ったではないか、とカガリは悟った。
アスランがこの屋敷を訪ねて来た時に、何も知らない人の好い夫人は憐れな娘を彼の前に差し出したではないか。それが娘にとってどんなに残酷な事であったか知りもせずに、寧ろ娘を思い遣るが為の行為であると信じ、蒼白な顔色の娘を差し出したのだ。
その時の微笑と同じ微笑を今夫人は湛えている。
恐らくは、それが娘の幸福に繋がるのだと信じて疑いもしないのだろう。夫に何かしらの助言を呈した事は明らかに思えた。
――彼はカガリを気に入っているようですわ
そう言ってさり気なく夫にアスラン・ザラという存在をほのめかしたに違いない。
かつてラクスと噂になった頃、ウズミが結婚についてカガリに一度問いただした事があった。「誰か心に決めた相手でもいるのかね?」と。その隣で物言いたげな瞳でカガリの方を見ていた夫人の姿があった。実際のところ、あの時もし『アスラン・ザラ』と言う名が娘の口から漏れていたならば、夫妻は世間の噂などに囚われる事無く、もっと早くに動いていたに違いない。はっきりしない娘の気持ちを慮り、様子を窺っているうちに、世間ではラクスとアスランの婚約が間近いと噂され、けれどもその後、ラクスは他の青年との婚約を発表してアスランとは結婚しない事がわかった。
その時に夫妻はアスラン・ザラと言う名を娘の相手として明確に候補に掲げたのだった。
ザラ家はアスハ家程の歴史は無いが、家系は由緒のある家柄であり、その一族からはかつて名の知れた雄も輩出している。相手としては申し分無かった。ただその家督を継いだばかりである嫡子がまだあまりに若く、評判の良い青年ではあっても強い後ろ盾がまだ無い事が憂慮される点ではあった。
ウズミは思案気な面持ちでカガリの表情を見ていたがやがて口を開いた。
「どう思うかね?」
どう思うか、と聞かれてカガリは咄嗟に返答する事が出来ない。
否、と言う言葉が自分には用意されていない事を知っていればこそ、「どう思うか」と問われるその言葉が重く圧し掛かって来る。選ぶ自由など自分には始めから与えられていないのだ。
何より、相手がアスランだと言うその事実が、カガリの心を混乱に突き落とした。
アスハ家の人間としてザラ家と結び付きを持つなどと、考えもしなかった事だった。今までアスハ家とザラ家とはほとんど接点が無いと言って良かった。政界に強い影響力を持つアスハ家と財界で高い地位を占めるザラ家。この両家が結び付く事は無いものと、何故今まで自分は思い込んでいたのだろうとカガリは思う。両家が今まで持たなかった関係を結ぶ事によって、互いに得る利益は計り知れないだろう。政界と財界を一手に握る地位を得る事も不可能では無いように思われた。
「彼はまだ若いが有能だと聞いている。しかし今の彼には強い後ろ盾が必要だ。私にはそれに応える用意がある」
「――はい」
カガリの心に既にウズミの言葉は響かない。遠くで聞く声のようだった。
「ではこの話を進めるが、いいかね?」
また問い掛ける形の言葉がカガリを追い詰めるように漏らされた。
膝の上に重ねた指を見つめながらカガリは用意された科白を唱えるようにその言葉を口にした。自らの意志など微塵も含まない、まるで選ぶ余地の無いその言葉を。
「……はい、お義父様」
変わらず微笑する夫人の満足気な視線が自分に注がれるのを感じながら、カガリの心は既にその場には無く、連なる山の向こうで風に揺れるあの白い花の姿へと、想いは遠く馳せていた。


自室に戻ったカガリは心を失ったまま椅子に座ると、机の上をじっと見つめたまま暫く動かなかった。やがて無意識のうちに栞の入った額を手にすると、押し花にされた白い花を見つめてその表面にそっと手を触れた。
感情が入り混じりすぎて一体自分が今何を感じているのか、自分の心すらわからない。
いろいろな気持ちが明滅しては去って行き、それは過去の記憶からつい先日の生々しい出来事までをカガリに再認識させるように心に入れ替わり訪れた。
その中で次第にカガリはこの現実を実感あるものとして漸く捉え始める。
『この世界の結婚と言うものはただ個人同士の結び付きでは無く、それは家と家との結び付きを示すものだ』
かつてウズミが言った言葉が思い返された。
アスラン・ザラと言う個人と繋がりを持ったあの関係が、家同士の結び付きと言う大きすぎる意味合いを持ったものへと姿を変えようとしている。
けれども、とカガリは思う。
あの薄暗い余りに淫靡な関係を養父母は知らないのだ。
それは取引と称して行われた闇の中の淫売行為だった。
理由はどうであれ、それは自分が持ち掛けた関係であり、結果自らすすんでその関係を保ち続けたと言っても過言ではないのではないか、と今になってカガリは思う。受け入れた時点で既にそこには合意の関係が成立しているのだ。
そんな淫らな匂いに咽るようなあの関係が、名の有る家としての結び付きに繋がっていく事をカガリは恐怖した。身も心も全て偽りに塗れすぎている。闇から生まれたものが光りあるものの下であたかも平然と装い祝福など得られる筈も無い。神が見過ごす事など有りはしないとカガリには思えた。
何より。
彼はどう思うだろうか。

――野の花は野にしか生きられない

あの言葉がカガリの胸に去来する。
否定したその生き方を共にする事を彼は受け入れるのだろうか――
自覚し始めた自分を捉えて離さない感情に連鎖するように蠢き始めた環境は、夫妻の思惑とは相反するように皮肉にもカガリを追い詰めて行く。



――しかしそれがカガリの自覚をやがて狂気染みた変貌へと導いて行く事へと繋がって行く……



数日後、夫妻は揃って出掛けて行った。行き先はザラ家である。
まず夫妻だけが訪問し、こちらの意向を伝えた上で、承諾を得る事と成れば婚約の運びとなる。
カガリはエントランスで夫妻を見送った。
複雑な感情が廻っては去り、居たたまれない想いに部屋でじっと座っている事も出来ず、カガリは庭に出た。
鳥の囀る声が静かな庭のあちらこちらから聞こえたが、カガリの耳には入らない。
――このままアスハ家の娘として結婚するのだとしたら
その想いに全ての神経が囚われて、庭の中ほどで立ち竦む。
――そんな生き方が自分にとって何の意味があると言うのだろう
今まで真っ直ぐに見ようとしなかった心の部分にカガリは初めて刃を突き立てていく。
この世界に身を置いた時からわかっていた筈だった現実は、しかし煌びやかな光の影になって自分の眩んだ心の目には映ってはいなかった。孤児として生きてきた過去、ザラ家で使用人として生きてきた過去、それは紛れも無い自分の『生きた証』だった。けれどもその不遇な日々の中で、自分は課せられた宿命と言うものを正面から見据えていた。
どんなに蔑まれようともそれが自分にとっての『誇り』だった。
何も持ち合わせず頼るものも無く縋るものも無い。けれども自分の生き方に躊躇いなど無かった。強さを支えていたものは誇りだった。
けれどもどれ一つとてして今の自分には無い。
代わりに与えられたものは裕福さと特権階級という甘美な響きの呪縛だった。
俯いたカガリの視界に、今は花を落とした薔薇の木々が目に映る。
――お前に何がわかる
温室で育った花の苦しげな叫びがふいに過去から甦ってカガリの心に爪を立てた。
――お前に何がわかる
かつて自分の心の声でもあったその言葉が今カガリの心の中で何故か深く木霊した。
見えない繋がりというものがあるのだとしたら、とカガリは目を上げて虚ろに考える。
それは恐らく、あの時既に始まっていたのだ……――と。


程無くして屋敷に戻って来た夫妻はカガリを呼んで事の次第を伝えた。
アスラン・ザラ氏は申し出を考慮の上、「数日後にご返答を申し上げる」との事だった、と。
恐らく既に十分な情報を収集した上で会ったのだろうアスラン・ザラと言う青年に、ウズミもまず好印象を抱いたようだった。
「あの父親も財界人としては有能だったと聞いているが、家の主としてはいささか問題があったようだ。しかし彼は父親に似ず、実直そうな青年だ。何、若いうちの女遊びは少なからず誰にでもあるものだよ」
帰りの馬車の中でウズミは夫人にそう語った。かつてアスランが関係を持ったと思われる婦人の名までその調べは付いていた。
がしかし、自分の養女とその実直に思えた青年との間に交わされた、数々の薄闇に紛れた儀式は知る由も無い。
カガリはウズミからアスランの意向を聞いた後、自室に戻って考えに耽った。
そして顔を上げると、窓際に寄って沈みかける陽を眺める。茜色から紅へと変化して、雲を染めて行く最後の光が山の端に消えて行くところだった。
――会わなければ
カガリの胸をその想いだけがずっと占め続けていた。
空に残る光はその消え行く最後に、カガリの心にも紅い痕を残した。
それはこれから大きく弧を描こうとしているカガリの宿命というものを標す予兆だったのかも知れない。


       ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞


その日は朝から雨が降っていた。低い雲が立ち籠めてしっとりと降る雨はまるで止む気配も無いように思われた。
午後になって、ある婦人のお茶会に招かれていると養母に断ってから、カガリは馬車でアスハ家を出た。ウズミはその日朝から不在だった。
馬車はアスハ家を出る時に告げた目的地へと向っていたが、屋敷から離れて程無くした後、カガリが突然御者に行き先の変更を告げた。不審な顔をする御者に、カガリは幾らかの金を握らせて「他言は無用です」と有無を言わせぬ口調で告げた。暫く思案している御者に更に金を握らせると、漸く馬車は動き出した。行き先を変えた馬車は今までの道と違う道を辿り始める。
雨は上がる様子も無くずっと朝と同じ調子で降り続いている。車の窓を伝う雨だれをカガリは眺めていた。こんな大それた行動に出た事は養女になってから一度も無い。――いや、それでは闇に紛れたあの行為はそれでは何だったのか、と思うが、こんな陽のあるうちに人目に曝されながら行動を起こしたのは初めてだった。
既に後戻りの出来ない道を辿っているのだ――過ぎる景色を目にしながらそんな想いがカガリの心を過ぎった。
けれどそれでも行かなければならない。
膝の上で固く握った指がその決意を物語る。
雨でぬかるむ道を進みながら、それでも漸く馬車は目的地へと辿り着いた。
カガリがそのザラ家の屋敷を訪れるのは初めてだった。
かつて使用人としてカガリが奉公していた館は今は使われず、この都に近い小さな屋敷が今のアスランの居城だった。
馬車から降りたカガリは御者に暫く待つように言い残し、その扉を叩いた。応対に出た使用人に名前と主に会いたい旨を告げる。もし不在なら戻るまで待つつもりでいたが、エントランスで暫く待たされた後、執事が顔を見せた。
「主人がお会いになるそうです。どうぞこちらへ。馬車は使用人に見させましょう」
そう言う年老いた執事の顔には見覚えがあった。ザラ家で使用人として雇われていた時に、彼は執事としてあの館に居たのをカガリは覚えている。ただ顔を合わせた事はほとんど無かった。数多く居る使用人の中の、それもほとんど顔を合わせた事の無いメイドの事など覚えてはいないだろう。ましてや、今自分は名門アスハ家の養女となっている。そんな人間が以前自分の下で働いていたなどと彼は夢にも思わないだろう。
「こちらへ」
執事の導きで廊下を行く。豪華に飾り立てたあの館とは違い、色を押さえた落ち着いた調子の家具や装飾品が目に付く。無駄な物は多くは置かずより実用的な物を配した屋敷の雰囲気が、あの館との明確な違いを打ち出していた。
暫く廊下を歩いたところで執事が立ち止まり、ある部屋の扉を開ける。
中へ、と言う執事の仕草を受けてカガリは足を踏み出した。
部屋へ入ったところで後ろの扉が閉まる音がして、予め執事にすぐ下がるよう言いつけてあった事が知れた。
やや広い部屋はやはり落ち着いた色調の家具で纏められ、小振りの窓から入る曇天の薄い光の中でひっそりと息衝いて見える。
その窓の際に、後ろ手姿で外を見ている主の影があった。
変わらず降り続く雨の雫が、幾筋も窓ガラスを濡らして行く。向こう向きで表情は見えないが、主はその雫の筋を眺めているのではないかとふと何気なくカガリは思った。
「こんなところへお出でになるとは」
ゆっくりと振り返ったその表情は仮面のように優雅な笑みを湛えていた。
「随分大胆な事をなさる――カガリ嬢」
そう言いながらもその表情は特に驚いた様子も見せず、寧ろ芝居がかったその科白を愉しんでいるように見えた。
「貴方にお会いしたかったのです」
ただ素直な言葉がカガリの口から紡がれると、主は微笑したまま暫くカガリを見た。微笑はしていてもその瞳の奥は笑ってはいない事をカガリは知っている。強い意志を秘めたその瞳にこれから相対するのだと思うと、カガリの心は気圧されそうになる。けれどもここで退くわけにはいかなかった。
「先日のお話ですが――」
一つゆっくりと呼吸をして切り出したその言葉を告げる声が微かに揺らいだ。
返される返事がわかっていても、口にしなければならなかった。
答えを確かめる為に自分はここへやって来たのだ。
「旦那様と奥様にどう返事をなさるのかをお伺いしたいのです」
そう言うとカガリは真っ直ぐにアスランの瞳を見た。
見据えられた瞳は変わらず仮面のように微笑していたが、やがて冷めた色をその上に浮かべていく。カガリを見たまま沈黙していた唇は薄く笑うように歪められ、述べる言葉を吐く時を見定めているようだった。
そして時を得たように徐に唇は開かれる。
「『私は君の後ろ盾になりたいのだよ』――氏はそう言った」
アスランはゆっくりと言葉を紡ぐ。その後ろで窓を伝う雨の雫が次第にその数を増していた。
「『君がもし娘との結婚を承諾するなら、私は惜しみない助力を約束しよう』と」
そこまで言ってアスランは雨の叩く音が激しくなった窓ガラスに目を移した。
「一種の脅しだよ」
薄くまたアスランは笑い、その横顔にカガリの瞳が揺らめいた。
「承諾しなければ後ろ盾の無いお前など潰すのは簡単だ、と言いたいのだろう、氏は。脅迫めいた行為に出るほど娘を思っているらしいその親心に敬服するよ」
皮肉めいたその言葉はカガリの胸を深く抉った。無論この取引にそんな生温い感情を抜きにした多くの打算が含まれている事をカガリも知っている。しかしアスランはカガリの最も痛みを伴う部分を衝いたのだ。
ゆっくりとまたアスランはカガリを見る。
先程の仮面に似た微笑の代わりに静かな、深い眼差しがカガリを捉えていた。
強い意志の表れは答えを聞かずとも既にそれと物語っている。意志は自尊心と言う強い灯をその瞳の奥に宿していた。
ああやはり、とカガリは心のどこかで思った。知っていた筈ではないか、と。
予期したその言葉がアスランの唇から吐き出されるのを、カガリは雨音と共に聞いていた。
「俺はアスハ家を欲しいとは思わない」
静まった部屋に響く雨音がその一瞬遠くに聞こえた。
カガリは瞼を静かに閉じるとその雨垂れの音を感じるように心を澄ませる。
全ては結審したのだ。……――あと一つ、ここへ来た大きな掛けの答えを残して。
「――わかりました」
静かに答えると瞼をゆっくりと開く。弱い光が目に広がって目の前の人影が一層濃い暗色に塗りつぶされる。
ドレスを翻すとカガリは扉に向って歩き始めた。敷き詰められた絨毯がその足音を吸い取って部屋には雨音だけが響いている。やがて扉の前に辿り着いたカガリが取っ手に手を掛けようとしたその時に、別の手がそれを阻んだ。
その手を見た時、カガリの心の底で生まれたある感情が生まれて初めて体を支配した。
それは『狂喜』と言う感情だった。
それは足の先から忽ち全身を這い登り、手の指先から髪の先まで伝わって行く。
視線はその手に釘付けられたようにただ貪り見ていたが、やがてその感情に支配された瞳は欲望に屈して、辿るように手から視線を上げる。
色めいたその視線がはっきりと望んだものは、果たしてそこにあった。
行く手を阻んでそこにある、翠の光彩を持った瞳は頑なな意志を湛えて見下ろしていた。絡みつく荊のような視線がカガリの胸を締め付けるように刺す。
しかしその痛みでさえ既にカガリには狂喜と言う魔物に摩り替わった。
狂信者のように熱に浮かされた瞳は狂気を呼び寄せる。
狂気はカガリの望むままにそこに訪れた。熱に侵された瞳が見上げた時、阻んでいた手は突然意志を持ってカガリの腕に喰らい付いた。両方の腕に喰らい付く魔物を待っていたかのようにカガリの体は弓なりに反ってその狂気を迎え入れて行く。かつて無慈悲に突きつけられた選択が、今は自らそれを享受するかのように花のような唇は緩く開かれる。魔物は手荒く花を喰らうと、それでも足りないように、その体を側のテーブルの上に押し付けた。
狂気だけがそこにある真実だった。
カガリの瞳の奥には満たされようとして行く狂喜だけがあった。
白い喉元を曝して伸ばした手に感じた温もりに爪を立てた。
どんなに傷付けられてもそこにある縋るような生々しいほどの狂気が悲しいくらいに愛おしかった。
体を裂いて押し入ってこようとする魔物の瞳と一瞬目が合うと、カガリは目を細めてその瞳に手を伸ばした。けれどもそれは触れる前に途中で空を掻き、欲望の赴くままにカガリは狂気と戯れ始める。テーブルの上に花が開いたように薄桃色のドレスが襞を作って広がった。
まるで標本にされた虫のようにテーブルの上に押さえ付けられたまま、狂気と狂喜の狭間でカガリは激しさを増した雨音に掻き消される自分の吐息を聞いた。悦楽と言う名の虜になりながらも、心の隅では自分の謀った答えを今手にしたのだと言う想いが募って行く。その想いにまた手はそこにある温もりに触れたくて伸ばされる。まだ躊躇いがちにぎこちなささえ伴って。
やがて狂気はカガリの脳裏に一瞬の紅い残光を引いて去った。
白い喉元を見せたカガリの肢体は薄桃色の花弁に埋もれて眠る美しい屍のようだ――そうアスランは乱れた吐息に霞む思考のどこかで思った。
手の中の屍はそれほどまでに艶やかな蝶のように息衝いていた。


扉に手を掛けたカガリはそれを開こうとする前に一度だけ振り返った。
暫く唇を開く事を止めていたように見えた表情は、やがてゆっくりと、静かに言葉を紡ぎ始める。
「貴方は気付いていらっしゃらないのです」
悲しげに、けれど明確な感情の篭もった声でそれは告げられる。
「執着する事……それが貴方と――そして貴方のお母上の……愛し方なのですわ」
揺らいだ瞳は切なげに微笑する。
「――そうわかったのです」
微笑に入り混じった一つの感情がカガリの胸を覆っていく。

それは、――恋だった。



言葉も無くただ見つめるアスランの視線を遮るようにカガリは扉を閉じた。
部屋に響く雨音と共にそこに残されたアスランの耳には、カガリの告げた言葉だけがずっと叩きつける雨音のように響いていた。



<08/01/14>

←十一幕へ十三幕へ→