第十三幕 : 回帰




雨は降り続いた。
人の心に垂らした雫はそれぞれの胸に滲み込み、その心の内を濡らして行く。それは乾いた大地に落ちた一滴の雨が、その隅々までを侵食して湿らせて行くように、曝されたあらゆる想いをしとどに濡らした。
無機質な土のその表面の底に隠れるように伸ばされていた根は、湿り気を帯びた土によって与えられた潤いに目覚めよとの声を聴く。
その底にあるものを、封じ込めたものを、目を逸らしていたものを、全てが回帰する時が来たのだと。
雨が告げる言葉は全ての澱を融かすかのように地に滲み続け、やがて降り止んだ。

そこに残るのは一欠けらの真実と言う果実。
然れどもそれを口にした者は楽園を追われると言う。

果実を口にした者に回帰せよと呼ぶ声あり。

回帰せよ――されば失われた楽園の、真のその存在に気付くだろう。

……。






寝台に横たわったままアスランの目は長い間天井に向けられていた。
その瞳は映しているものでは無く別の世界を垣間見ているかのようにずっと見開かれている。片手をシーツの上に投げ出し、もう片方の手は半分はだけた衣服の端を掴んでいる。その姿と同じくまるで何かに心を掴まれたように、天井を見据えたままで彼の体は動こうとしない。正確には体と言うよりも、心を縛られた人のようにそれは見えた。
ただ時々衣服を掴んだ手を無意識に、何かを確かめるような仕草で動かしている。
それは彼の癖だった。
確かな何かが側にある事を感じようとする為の、無意識に表れる癖だった。しかし本人はその癖に全く気付いてはいない。ただ一人、かつてその癖の表そうとするものを知っている人間がいた、と言う事にも彼は気付いてはいなかった。
その冷えた手が、何度その人間の温度をその癖で無情にも奪い去ったのか。
しかし皮肉にも今、彼の心はその人間の事で占められていた。
正確には、彼女の言い放ったあの言葉と、そしてその姿で。

『執着する事……それが貴方と――そして貴方のお母上の……』

繰り返し響くその言葉が彼の開かれた瞳に映るものの上を通り過ぎて行く。薄闇に支配された部屋の天井は、微かにその模様の輪郭だけを薄く浮かび上がらせていた。ふいに、その輪郭に白い喉元が重なり、喉元から肩にかけての細い線が、儚い生き物のようにしなやかに仰け反る姿が甦った。羽化したばかりの柔らかな蝶はそのはねを広げようと艶かしく蠢いていた。細い腕は絡み付く場所を探す蔦のように縋って這い登る。
それはかつての頑なな魂の宿らない人形では無かった。無言のうちに弾いていたあの低い温度の眼差しは、何かをそこに含ませて熱を持っていた。熱を吹き込まれた人形の生々しい肌の記憶は、アスランの肌にそれを再燃させて思考を奪って行く。
「繋がり」を示す名を告げた言葉が、奪われて行く思考の中でまた繰り返された。
闇の中でのあの数々の儀式は、一つの繋がりという形だった。例えそれが心を伴わないものだったとしても、繋がりと言うものには違いは無かった。それぞれに何をその闇の中で得ようとしたのか、互いに向き合った事など一度も無い。けれども、それが全く添わないものであったとしても、その根がどこかで歪に絡み合っていた。
その歪に絡んだ根を、アスランはうに知り、故にカガリと言うもう一方の根を解き放ちはしなかった。
それは自分が存在する為に存在するもう一つの根であり、不可欠なものを解き放とうとしないその感情は、それがどう言う名のものであるかを知ろうとはしなかった。
ただ、彼にはその根が必要だった。
何故必要なのか何故固執するのか。
そんな問いは彼の中には存在しない。
全ては繋がりと言う真実だけが、孤独な心の孤児であったアスランが見出した答えだった。
甘さの入り混じった感情などでは癒されないもっと深い場所で、飢え死にそうになっている孤児が掴んだその細い繋がりに、名前を付ける意味など無かったのかも知れない。それ故に彼はただそれを『繋がり』と呼んだ。
しかし『繋がり』という名のそれは、その底に真実の名を持っていた。
それは本能を以って知る名であり、けれども幼い頃からその名より閉ざされていたアスランには遠い名だった。

『愛し方なのですわ』

白い喉元を曝した幻影がアスランに告げる。その目はあの無機質な目では無い。明確な何かを灯した瞳だった。
その名を明かした幻影は、やがてしなやかな白い肌をアスランの脳裏に鮮明に焼き付けて去った。
衣服を握っていた手はいつの間にか我知らず、衣服の下の温度を持つ肌に触れている。そこにある確かなもの。その体温を感じながらアスランは身を僅かに仰け反らして瞼を閉じ息を吐く。
投げ出していた手の平は冷えたシーツを掴んで、その表面に細やかな皺を作った。
微かに身を戦かせて再び開いた目には、叶えられなかったもう一つの繋がりの対象が、彼を見降ろすようにそこに浮かんでいた。
それは断ち切りたいと願いながら、それでも決して解き放たれる事の無い、絆と言う繋がり。求めても手を伸ばしても蜃気楼のように彼を苦しめ続けた幻影の、絡み付く荊のような視線を感じながらアスランは自分の体温をひたすらに求め続けた。朧げな意識のはざまでそれは時折カガリを弄んだ儀式と重なって行く。
そうして長い夜の間彼を苦しめた幻影は、闇が薄れる頃にやがて去り、抜け殻のように虚ろに横たわったアスランの上に漸くひと時の眠りが訪れる。
薄れ行く意識の中で、カガリの言葉が再びアスランの耳の奥に囁き掛けた。

『――貴方のお母上の……愛し方なのですわ』


伸びて来た荊が自分の体に絡み付いて行くのを、アスランは無表情に見ていた。やがてその荊が完全に自分を包んで呑み込んでしまうのを彼は知っている。いつも夢は同じだった。
けれどその荊に包まれた時、何故か妙に安堵した気持ちにもなるのだった。もう何も見ず、そして聴かなくてもいい。何も考えずにここにいればいい。体中に立てられた棘からは所詮逃げられはしないのだ。それならここでいっそ眠ってしまえばいい。疵付くことも穢れることも無く何からも閉鎖されたこの世界の中で。
抗う事を忘れたアスランに、どこからともなく伸びて来た一本の荊が添うように頬を撫でる。
それは掻き傷を作っても尚、その頬を撫で続けた。
傷付ける程に執着するそれはやがてアスランを抱くように体に纏わり付いて行く。それが『繋がり』と言うものの、また一つの形なのだと言う事を傷の痛み故にアスランは知る事はない。
ただ血を流す痛みと引き換えに、荊に身を庇護されている小さな子供のような、奇妙な安堵感が目覚めるまでずっとアスランの心に残っていた。
しかしそれは目覚めと共に、泡のように儚く心からは消え失せて行った。

「どこか体の具合でもお悪いので…?」
朝食にさほど手を付けようとしない主人の様子を慮って、執事はそう声を掛けた。
まだ年若い主はちらりと執事の方を見遣ると、「いや」と短く返事をしてしかしそれ以上は語らず、ナプキンを机の上に置いた。
「出掛ける」そうまた短く告げると、席を立った。
主人の様子が明らかに変調を来たしたのは、あの若い婦人が雨の日に訪ねて来て以来だと執事は思い当たっていた。しかしそれを率直に訊ねるわけにもいかず、ただ在り来たりな言葉を投げ掛ける事しか彼には出来ない。
まだ年若いこの主人が執事には心配だった。
有能だと世間では持てはやされてはいても、その実若すぎるその身はまだいくらも人生を経験してはいない。もう年を経て長すぎるくらいの自分から見れば、まだまだ傷付きやすくて脆い年頃だった。庇護する者の無い、増してや人よりも多感なこの青年が、一人で渡って行くにはこの世はそんなに単純なものでは無い。表面上一分の隙も無いように装ってはいても、そんな人間ほどその実心には大きな空洞を抱えているものだと言う事を執事は知っている。
何より、幼少の頃からずっとその主人を彼は見て来たのだ。
彼がどう育ってきたか、何を思ってきたのか、彼は誰よりよく知っている。
ふと、テーブルに置かれた花に目を留めた。
大切に育てられた花。けれども花自身はそれを知らない。外界の汚れた世界に曝されず、ただ閉じられた空間の中で盲目的に愛でられていたのだと言う事を花は知らない。人の愛し方など他の人間にはわからない。その表し方が違うだけなのだ。素直に伝えるものだけがそうだと言うわけでは無い。寧ろ、それが深ければ深いほど、それは歪に姿を変えて行く。そう言うものなのだと言う事を、執事は今まで経てきた長い人生の中で知っていた。
花はぽきりとすぐに折れてしまいそうなその茎を曝して花器に身を預けている。
「どうか…」
執事は一人小さく花に呟いた。
しかしそれから先は唇は閉じられ、声にはならなかった。
『あの方に御加護をお与えください』
――それが誰に向かって嘆願された祈りの言葉であったのかは、執事自身しか知らない。

教会と言う場所を祈りの為に訪れた事は一度も無い。けれど、その静寂で厳かな空気にアスランは時として身を浸したくなって、度々ここを訪れた。それは清らかな光溢れる場所に安息を見出したわけでは無く、ただ高い天井と広がる空間の持つ開放感が、アスランを幾多の煩わしい現実から隔絶したからだった。日々のしがらみは容赦なく、アスランを虫食もうと貪欲にその隙を窺っている。纏わり付くような生臭い臭気が、この静謐な空気に触れる事で次第に沈静化されて行くようだった。幼少の頃より外界から隔離されたあの館で育ったアスランにとって、その臭気は強い毒となった。その毒を含みながら、何食わぬ顔で生き抜かねばならない社交界と言う巣窟に身を置く術を身に付けるには並々ならない精神力を要した。毒に慣らす為には毒を飲む。しかしそれは確実にアスランの体を侵して行く。そんな日々から唯一身を隔絶できる場所、それが教会と言う場所だった。
身を浸したその空間は、どこか館にあった温室をいつもアスランに思い出させた。外界から隔絶され、ただ主の為だけにその花の命を生きよと定められた、あの特殊な空間。――それ故に、神は花に慈愛と庇護を無限に与え続ける。
天窓からの白い光は、温室の硝子屋根を摺り抜けて降る光と同質の光だった。
祭壇の近くまで来た時、こちらに歩み寄ってくる司祭の姿に気付いてアスランは微かに顔を顰めた。静謐な空気の中にあって、唯一、その空気を乱す存在だった。近付いて来るその訳をアスランは知っている。
媚びた笑みを浮かべながら司祭はやって来た。
「ああ、これは。また絵を見にいらしたので?」
「――ええ」
唇の端を上げてアスランは微笑を返した。
絵を見に来たのかと問われ、特に否定もしなかったのは、この場を無難にやり過ごすにはその方が好都合に思えたからだった。
絵――その『聖母子像』の小さな絵にアスランが初めて気付いたのは幾度目かにここを訪れた時だった。確かにその時から、気付けばいつの間にかその絵の前に足を留めている。理由はわからず、ただ何かの儀式のように、ここを訪れる度にその絵の前に足を運んでいるのだった。絵を見ている内にその色彩が次第に心を染めて穏やかに時間が経って行く。いつしかそれがアスランの、教会での祈りに代わる儀式となっていった。
その姿を見た司祭はいつしかアスランがその絵を見る為にいつもここへやって来るのだと思い込んだようだ。しかし何より、アスランにはその勝手な思い込みが、様々な詮索から逃れられて好都合だった。
司祭は笑顔を絶やさず幾つかの他愛無い世間話をした後に、ふと思いついたような顔付きになった。
「そう言えば、こんな話があるのですよ」
そして話し出した。
「あの絵を描いたかの有名な画家の話です。彼は生涯かけて聖母子像をずっと描き続けた画家として有名ですが、実は彼は自分の母親をとても憎んでいたと言います。幼い頃に受けた酷い仕打ちをどうしても許すことが出来ずに、その母親が死ぬまでずっと憎み続けたのだそうです」
そう言うと司祭は絵の方に視線を投げ掛けた。
「でも不思議だとは思いませんか。本当に憎み続けた人間に、あんな絵が描けるのでしょうか。あんなに優しい色が出せるのでしょうか」
司祭はまたゆっくりとアスランに視線を戻す。
「本当は彼は、心の底では母親をとっくに許していたのではないかと私は思うのです。けれどもそれが自分を支える全ての原点だった彼には、認めてしまう事はあまりに自分の瓦解を意味する事だったのでしょう。だから彼は、代わりに生涯聖母子像を描く事で、母親に対する愛情を昇華させようとしたのではないでしょうか。それは執着と言う、一つの愛情表現だったのかも知れません」
光は壁際でひっそりと微笑みかける聖母と赤子のイエスを照らし出していた。心の闇など一欠けらも見当たらないその絵は、柔らかな輪郭と暖かな温度の肌の色と、そして人間味溢れる表情を活き活きと描き出していた。
「彼は一生涯、心の底で母親を無垢に想い続けたのですよ。この絵の場面のように」
伸びて来た荊の腕がアスランの体に巻き付いて行く。それは絵の中の聖母がイエスを抱いている腕のように柔らかく巻き付いた。その棘でアスランを傷付けても、まるでその体を庇護するようにふわりと巻き付いて行く。目覚める前の、あの奇妙な安堵感がアスランの心に徐々に広がった。
「何か?」
絵を見たまま瞬きもせず、反応を示さないアスランに司祭が不思議そうな顔で訊ねた。
白昼夢はその時去って、夢からたった今覚めた人のようにゆっくりとアスランの目は司祭を見る。
「――いえ」
無表情なその顔に、司祭は今の話が彼にとってさして面白くもなかったのだ、と勝手にまた思い込んだ。機嫌を取ろうとして絵に関する逸話を披露した事が、返って全く退屈なものでしかなかったのかと内心うろたえた。しかし実際には全くその反対の現象をアスランに引き起こしたのだと言う事には気付きもしなかった。蒼白なアスランの顔色は窓から射す光の加減だと思ったし、虚ろに見える瞳も話に興味を示さなかった所為だと思った。
内心狼狽しながらも、気を取り直したように司祭は更に顔に笑みを浮かべる。
「ああ、つまらない話をして時間をとってしまい申し訳ありません。私はこれから所用がありますので、これで。――」
そう言ってからまだ場を立ち去らず、何か言いた気なその目はアスランの言葉を待つように向けられている。
「――その、」
「ああ、今度また改めて慈善寄付のお話に伺いますよ」
望んでいた言葉を得るや否や、司祭は笑みを浮かべて感謝を示し、祈りの言葉を述べると足早にその場を去って行った。
絵と対峙するアスランの、今の言葉がどれだけ冷静さを懸命に装って吐き出された言葉かを、全く司祭が知る由も無い。もし去り際に彼が一度でも振り返って見ていたなら、そこに自失呆然として彫像のように動かないアスランの姿を認めた事だろう。しかし次回の寄付を取り付けた事で心が一杯の司祭には、最早アスランの存在など頭のどこにも見当たらなかった。

静かな空気がまた光と共に、取り残されたアスランを包み込んで行く。
その空気はどこか懐かしく、そして身にしっとりと馴染んでさえいた。
『ここはどこかあの温室に似ている』
――そう言ったではないか。
自分の心の言葉を思い出し、本当にこの場所を自分が求めた理由を今漸く知ったような気がした。――餓えていた筈のあの温室に、自分は無意識に戻りたがっている。
絵の中の聖母子はアスランをじっと見据えていた。その瞳はそこにある、全てのものを見透かして、その上で尚愛せよと語りかけていた。
「――俺は、神でも絵描きでもない」
そう掠れた声で呟くと、振り向いて漸く動かした体を引き摺るように戸口の方へと歩き始めた。

手には花束を持ち、その道を歩いて行く。
馬車は道の入り口で待たせてあった。一人でその場所まで歩こうと思ったのは何故だか自分でもわからない。ただ歩きたいと思ったのかも知れなかった。
探した花が今の季節には見つからず、代わりに「何でもいい」と花屋に言ってその花を買った。それが無い以上、もう花の種類などどうでも良かった。そうして花を買いながら、アスランはかつて母の為に温室の薔薇を庭師に貰おうとした事を思い出していた。結局花を贈った事は一度も無い。
道はだだっ広い低い丘をくねって登り、しばらく行くとやがて見晴らしのいい平らな場所に出た。そこには長い柵で囲まれた一群の墓所地がある。アスランはそこへ近付くと、入り口の鉄の扉の前で足を止めた。
母親が死んで以来、この墓所へ足を踏み入れたのは、父の埋葬の時だけだった。そしてそれきりここへ来た事は一度も無い。
アスランは黒い鉄の扉の前で暫く佇んだ後、その扉をゆっくり押し開いた。墓所へ通じる入り口は、微かに軋んだ音を立てながらゆっくりと開く。その隙間からアスランは静かに足を踏み入れた。乾いた土が足音を吸い取って、物音の無い世界へと誘って行く。
墓所は低い石塀や柵で仕切られた空間に、いくつもの霊廟や墓石ぼせきが立ち並んでいた。それぞれの墓の入り口には上流階級の家の名が刻まれている。小さくて粗末な墓は一つとして見当たらない。富裕階級の為だけのその場所は、墓の大きさがそのまま家の繁栄を物語っていた。アスランはその間の折れ曲がった小路をひっそりと行く。
空は午後の太陽が薄い雲を通して弱い冬の光を投げ掛けていた。冷えた風が時折やって来て、アスランの頬を撫でるように通り過ぎて行く。その度に、手にした花束の花弁がカサカサと揺れた。
黒いコートに身を包み、片手に花束を、もう片手をポケットに突っ込んで、アスランはゆっくりと墓の間を歩いていたが、やがて一つの墓所の前で立ち止まった。低い石塀で囲まれたその場所にはいくつかの墓石が並んでいたが、その中にまだ真新しい墓石が二つ並んでいた。その内の一つの前にアスランは静かに歩み寄る。
その前に突っ立ったまま、暫くアスランはただ墓石を眺めていた。そこに刻まれた文字を目にしている間、心の底では違うものに囚われているようだった。
やがてコートのポケットから徐に片手を引き抜くと、持った花から花弁を千切り始めた。そしてそれを墓石の上に蒔くように投げる。投げられた花弁は微かに吹く風に乗って墓石の上に舞い落ちる。また千切っては投げる。何度も何度もそれは繰り返され、蒔かれた花弁は色取り取りの雪のように墓石の上に降り積もって行く。それは美しい花のしとねのようだった。
やがて最後の花弁を手から離し終えた時、その手をゆっくりとアスランはまたコートのポケットに戻した。
瞳は再び刻まれた墓石の文字を追う。
「――薔薇を」
掠れた声が唇から漏れた。
『探したんだ』――そう続けられた言葉は風に乗ってハラリと墓石に届いた。それは冷たい石の上に降り積もった花弁の上に舞い落ちる。
「薔薇はあそこにあんなに咲いていたのに、――今は一つも無いんだよ」
黒いコートのシルエットはゆらりと僅かに揺らめいた。
「――あんなに沢山咲いていたのに」
弱い陽の光は空から降り、墓石の前に立つシルエットを黒々とその風景の中に浮かび上がらせる。暫く立ち尽くしたその黒いシルエットはやがて顔を上げて冬の空を見た。そこに薄くかかる筋状の雲がゆったりと川を行くように流れている。
その空を行く雲を澄んだ眼差しが見上げていた。
その目が映していたものは雲でも空でも無く、心に浮かぶ一つの情景だった。
解き放たれたいと願った苦しみの過去は、失った色を修復するように微かに色付き始めた。墓石の上の花弁の色が絵のようにアスランの心に徐々に広がって行く。
その色が、あの聖母子像の色彩と次第に重なった。
時が穏やかに行き過ぎて行く。
空は広く高くどこまでも開放感に満ちている。
――いつだったか、こんな空を見た事があった、とアスランは思った。
それは――あの山の向こうに野の花を摘みに行った日、あの場所で、あの言葉をカガリに言った時だと思い出した。『野の花は野にしか生きられない』――その時のカガリの瞳を今もはっきりと覚えている。初めて心の底に有るその繋がりに触れた時、その瞳は拒む事無く見返した。そこにある、本質の正体にはまだ気付かず、けれども瞳はアスランを受け入れた。
――あの時カガリは既に自分と言う繋がりをその心に受け入れたのだ、とアスランは知っていた。
白い野の花が心に思い返される。カガリが摘んだ白い小さな花。それは手の中で瑞々しく花を咲かせていた。摘まれても尚、その凛とした姿は萎れること無く生き続けた。
何度手折られようと野の花のように咲いたカガリ。
『ただ手折った、それでもそこに、花によって動かされた心があった、と言う事ですわ』
見抜いていたのはラクス・クラインだった。――人で在るが故に罪深く、そして欲深い。それは独りでは生きてはいけないから、そう言ったラクスの言葉が思い起こされた。

――愚かなのです。人が人を恋うると言う事は。

たなびく雲が切れた空を鳥の群れが行く。どこまでも広がる空に次第にそれは小さくなり、やがて溶け入るように空の向こうに消えて行く。再び視界を遮るものの無くなった薄く色付いたその空を、アスランは飽かず眺めていた。霞の向こうにある、鮮やかな青い色を見通すように、眼差しは真っ直ぐに惑い無く向けられていた。
やがてその姿が墓石の前から見えなくなった時、静まり返った辺りに薄い陽が射し始めた。それは所々に淡い陽だまりを作りながら降りて行く。アスランが佇んでいた墓石の上にも、ふわりと柔らかな陽が舞い降りた。冷たい石ばかりが並ぶその中にあって、そこだけが美しい色彩に彩られている。花の褥は陽だまりの光に溶け入るように優しい蜜色を帯びていた。
ひっそりと包んだ蜜色の光は暫くそこを照らし続けた。その下に埋もれた、告げられる事の無かった贖いの言葉を、静かにそこに紡ぎ出すように。穏やかに光は留まり続けた。


       ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞


ウズミがアスラン・ザラのその言葉を耳にした時、よもや予想だにしなかったその答えに、彼は暫く自分の耳を疑った。
互いにこれ以上は無い程の結び付きを、この青年ははっきり「否」と言ったのだ。
まさか不承諾の事態になろうとは思いもよらない事だった。
「誰か決まった相手でもいるのかね?」
不快を明らかにして眉間に深い皺を寄せ、今更ながらに事態の収拾を図ろうとするウズミの言葉にアスランは薄く微笑して答える。
「妻を娶る気はありません」
「しかし君、それはただその若さ故の、一時の過ちとも言える感情だよ。考えても見給え。その愚かな一時の感情に囚われた事を、いつしか悔いる日がやって来る。若いうちはとかく色々な物事に囚われるものだ。その内に、何が物事の本質かがわかる時がやってくるものだよ」
その言葉にアスランは微笑を浮かべてウズミとその隣に座る夫人を見た。夫人の、あの品位と品格に満ちたお茶を飲む仕草は今日は無く、ただ色を失うばかりの面持ちでアスランを見ている。
――その本質とは、何か。
ただ品位や品格に塗れたお茶の飲み方が彼らの言うところの本質であり、それは自分にとっては何の価値も無い。本質と言うものはもっと深い場所の、目に触れないところにある。
そしてそれが何かを自分は既に知っている。
アスランの微笑はその心の内を語る事無くただ優雅な笑みだけを模っていた。
そしてその笑みは、決して変わることの無い深い拒絶をそこに示していた。
「ご厚意に感謝致します」
品位と品格に満ちた態度で答えたアスランの瞳に、迷い無く物事を見通した確かな灯が点っていたのを、ウズミと夫人は知る事は無かった。
それは遠く夜空の彼方に瞬く微かな星のように、彼らの目には見えない光だった。

アスランの訪問の間は自室にいるようにとウズミから申し付けられ、カガリは先程から部屋の椅子に座っている。
アスランの訪問の理由も、またその答えも自分は知っている。そしてその答えの底にある真意にもカガリは気付いていた。
いつから知っていて、いつから受け入れていたのか。いや本当は、疾うに知っていたような気がする。知っていながら、自分はそれに気付かぬ振りをしていただけなのか。
漠然とした思いはカガリの胸を巡り、目は遠く窓の外を見る。全てが今確かに道筋を示し始めたが、それを行くには越えねばならないものが大き過ぎる。
それでも自分は既にそこを行こうとしている。道が見えた限り、もう迷うものは何も無い。
道は選ぶものだ、そう言ったラクスの言葉が胸に去来した時、カガリは立ち上がってバルコニーへと続く扉を開けた。広がる空がそこにある。遮るものは何も無く、ただ青い。
もし翼があれば、すぐにでも飛んで行けそうに思えた。
けれど、まだ背に翼は無い。
空に臨んだバルコニーからカガリは下を見降ろした。
そこに確かな答えがある筈だ。選んだ道へと続く、確信に満ちたその答えが。
カガリが視線を向けたその先には、アスハ家の屋敷から門へと通ずる長い道が続いていた。
白い石を敷き詰めたその道をカガリは初めて待ち侘びる想いに駆られて見詰めていた。

ウズミとの話を終え、部屋を退出したアスランは、アスハ家の屋敷を出て門へと通じるその道を歩き始める。
アスハ家を敵に回した風評は、すぐにも社交界に広まるだろう。ウズミが口を開かなくとも噂と言うものは僅かな隙間から漏れて行くものだ。そう言うものだとこの数年で彼はよく知っている。それがこの先どんな波及を及ぼすのかはわからない。
――けれども。
アスランは数歩歩いた場所で足を留めた。
そして唇に笑みを湛える。
確信に満ちたその眼差しは、ゆっくりと振り返って上を仰ぎ見た。
視線の先のバルコニーにカガリの姿を認めた時、二つの視線はその間を繋ぐ蔦のように絡まり合った。それは互いの心の奥に入り込み、そこにある、確かなものへと辿り着いて行く。見交わしたまま視線はそこから離れなかった。
カガリがバルコニーから僅かに身を乗り出した時、アスランは呼応するかのように一歩後ろへ身を退いた。そして一歩、また一歩とゆっくり遠ざかる。瞳は穏やかに微笑してカガリを捉え続けている。言葉は無くともそれが何を意味しているかカガリにはわかっていた。手摺に置いた手が知らず強くそれを握る。翼は、まだ無いのだ。
数歩退いた所でやがてアスランは立ち止まり、そこでもう一度柔らかく微笑してカガリを見た。そして振り返って向きを変えると、真っ直ぐに門へと向う道を歩き始めた。
その後姿はもう二度とカガリを振り返る事は無く、ただ真っ直ぐに歩んで行く。
道は印された。
明確に今カガリの前にそれは示されている。
遠ざかるアスランの後姿をカガリはずっと見詰め続けた。
心の内に秘めた強い意志は揺るぎ無くそこへと向っている。
やがて門を出た後姿が視界から消え失せた時、カガリはやっと顔を上げて空を見た。
青く澄んでそこにある冬の空。
今日の空をいつか思い出す時、それはどこでどんなふうに思い出すのだろう。それが初めて自分が望んだ場所であればいい――そう思いながらカガリは目を細める。空の色の青さと言うものを今になって思い知ったように、込み上げようとする涙の理由わけをその青さの所為にしていた。



<08/04/27>

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*話の中に出てきたアスランが「温室の薔薇を庭師に貰おうとした」話とは拍手の二つ目のお話の事です。