第十四幕 : 解纜かいらん




白い花の夢を見る。
野に咲く白い花。山の向こうの丘陵で、風に吹かれて揺れている。
「まるで、カガリさんのようですわ」
ラクスの声がして、手が伸ばされる。
けれどもそれはラクスの白い手ではなかった。片手にハンチングを持った後姿。それは花の側に屈みこんで白い花に触れようと手を伸ばしている。伸ばした手はけれども花を手折ろうとする寸前に、そこで止められた。止められたままそれは何かを思うようにしばらく宙に浮いていたが、やがてゆっくりとまた動き出す。そしてそっとその花弁の表面に指を触れると、そのまま手を引いて暫くそこで花を見続けた。どれくらい経っただろうか、やがてその後姿はつと立ち上がると、静かに向こうへ歩み出す。そして数歩行ったところで、徐にこちらに振り返った。湛えられた微笑はあの日と同じ――。
カガリの目の前にはバルコニーの手摺があって、そこから前へは行けなかった。身を乗り出そうとすると、微笑した姿はゆっくりと一歩ずつ後ずさっていく。それはまるで無言の呼び声のように、カガリの心に木霊する。カガリはただ手摺にしがみついて、見えなくなって行く姿を見送る事しかできない。やがて微笑は二人の間にかかり始めた薄い靄のようなものの中に消えて行く。
何か言葉を伝えたくて口を開こうとしてもそれは言葉にならなかった。言葉に出来ない感情が、ただ胸の内に押し寄せていつの間にか目から零れ落ちて行く。ああ、何を伝えたらいいのだろう、何を伝えたいのだろう――。
そんな思いに駆られているうちに、また夢は覚めた。
――目尻が濡れているのを感じながらカガリは瞼を開ける。ここ数日見続けた夢に、涙を流しながら目覚めたのは初めてだった。
辺りを仄白い光が包んで、朝が近い事を告げていた。
カガリは暫くぼんやりと部屋の景色を目に映しながら、まだ明けきらない夜のように覚めやらぬ夢の中で漂っているような気がした。しかし目尻を伝って落ちた温かいものの感触に、漸くそれがもう夢ではない事を知った。
寝台の上に静かに体を起こすと、指を頬に触れる。それはしっとりと露を含んで濡れていた。頬を濡らすものを両の手の指で拭いながら、カガリは心の一端を夢に囚われたままの人のように虚ろに目を彷徨わせている。何かを探すように、求めるように彷徨った目は、やがてバルコニーへ続く扉へと辿り着いた。無意識に寝台から滑り降りた体は、その扉に歩み寄るとそれを押し開く。途端に、冬の朝の冷たい空気が体を刺した。カガリはバルコニーへ足を踏み出すと、手摺の際へと近付いて、そこから見える景色に目を凝らす。目の前の門へと続く白い道は朝を招く薄い光の膜に包まれて、白く浮かび上がっている。あの時印された道はすぐそこに続いている。
あの夢で見た微笑をその道の上に重ねながらカガリは暫くそこに立っていた。冬の冷気は容赦なく体から体温を奪い去って行く。それでもカガリはそこを見続けた。その先にあるものを見据えようとするように、眼差しは遥か遠くに向かっている。
その胸の内にあるものは、外の冷たさとは相反するように、温度を持った小さな灯りだった。その瞳は道の先の、白い光の彼方にある、もう一つの同じ灯りを求めるように、ずっと見開かれていた。
長い間そこに立ち尽くした後、カガリは視線を上に向ける。そこには白んだ空に還って行く白い月があった。半分欠けた月はそのもう半分を闇に隠したまま空に染まり行こうとしている。
その姿を目に留めながら何かを思うように、カガリは瞳を揺らめかして静かに瞬いた。


「彼は妻を娶る気は無いそうだ」
アスランがアスハ家を訪れた日、ウズミが硬い表情でそう告げたのをカガリは黙って聞いていた。
「その気が無いのなら、始めからそう言えばいいものを。何故あんな勿体ぶった態度をとったのか」
忌々しげに恨み言を吐き出すウズミの言葉をカガリは無表情に聞いている。
あの青年はまだ世の中と言うものを知らんのだ、やはりまだ若すぎる、そう続けるウズミの硬い声を耳にしながら、しかしカガリは別の事に心を捉えられていた。

もしかして彼は、自分を待っていたのではないか――?
自分が訪ねてくると全てを見通して、待っていたのではないか――?

そう思った時カガリの脳裏に、あの時驚いた様子も見せなかったアスランの表情が思い出された。
『俺はアスハ家を欲しいとは思わない――』
その言葉を告げた彼の、深い眼差しが甦る。
あの時、まだその底にある真意に自分は気付いていなかった。自分の心に囚われる余り、何も見えてはいなかった。
その後に続く言葉があったのではないか――今になってカガリはそう思う。
語られなかった言葉は一つの灯火となってカガリの心の底にあった。
それは道標のように行く末を指し示している。闇の中の燈火のように行く先を照らしている。
ウズミがまだ何か言葉を発している声が遠くに聞こえていたが、カガリは目の前の燭台に揺れる灯の中で、瞼の裏に鮮やかに残るあのアスランの後姿を、しっとりと潤いを含んだ疼きを伴う感情が体中を覆い尽くして行くのを感じながら、ただ静かに追っていた。


遠くで呼ぶものがある。――
その声は彼方の空から降って来るようでもあり、森や林を突き抜けて密かに聞こえるようでもあった。カガリはその声を聞きながら、しかしそれが本当は自分の中からの声だと言う事を知っている。
『見えない繋がり』は最早確実にその一端を捕らえ、その根を心に張り巡らせている。縛り、絡め取り、自由が利かないほどにそれはやがて自分を虜にして行くのだろうと思った。けれども既に自分はそれを選びまた望んだ。
カガリは瞼を閉じて庭の小路に佇んでいる。
冬の季節に咲く花は無く、色の褪せた葉を残した寒々とした木々の群れが辺りを囲んでいる。ここであった事をカガリは心に思い返す。養女になってから、一変した暮らしをただ懸命に生きようとした日々、そんな中でアスランに再会し、偽りの理由で彼がここへ訪ねて来たあの日。その真意がわからずに怯え、恐怖した。
『品位や品格だけが何より大切だと言う人種だ』
あの時、何故彼はそんな事を言ったのか。何を伝えようとしたのか。
カガリは瞼を開けると寒々とした木々を見た。花は一つも無い。けれども心を澄ませると、木々の有りのままの佇まいが次第に心に映る。それは見る者の心の有り様によってどんな姿にも変化する。
あの時はただ恐怖だけが支配していた。疑いと嫌悪と怯えと言う膜を透かした言葉は、カガリの胸には届かずに、様々な憶測だけを残した。
真実は常にどこかに置き去りだった。
その置き去りにされた真実を、カガリは今漸く一つ一つ拾い上げて行く。拾った欠片で埋める度に、見えずにいた本当の、有りのままの姿がそこに見えてくる。
――それは孤独に一人咲く、愛情に餓えて疵付いた、あの白い温室の花だった。

そんなカガリを屋敷の窓から見ていた人物がいた。
ウズミはじっと庭に佇むカガリの沈んだように見える様子を、アスラン・ザラとの縁談があのような形で実を結ばなかった事が影を落としているのではないかと思った。年頃の娘ならば、自分の将来の良人となるべき相手が見目麗しい好青年なら有頂天にならない筈は無い、とウズミは思っていた。それが叶わなかったのだから、娘が失望するのも無理はない、と勝手な憶測を抱いた。
そしてそれは更に独り善がりな方向へと向かう事になる。
それが後にカガリの、そしてカガリを渇望し続けた温室の花の、二つの運命の分岐点となった。


「旦那様がお呼びです」
自室にいるカガリにメイドがそう告げた。
このところ社交界の集いにウズミはカガリを出そうとしなかった。娘が傷心の中にあると思い込んだが故の気遣いであり、もしどこかでアスラン・ザラと顔を合わせたなら、と言う危惧を抱いての事だったが、カガリとしてはそれが幸いだった。不得手な社交から暫く遠ざかり、日々深い物思いに沈んで過ごした。
胸にあるのはただ一つの結論であり、それはある決意をカガリに提示したが、しかしそこに辿り着くには容易ならない道が待ち受けている筈だった。背信とも呼べるその行為を、相手にどのように伝えれば、そしてどのようにすれば理解を得る事が出来るのか――?考えれば考えるほど、心は迷い、惑い、沈痛な気持ちでカガリの心はいつも一杯になった。
そんな時に、ウズミからの呼び出しがあった。
改めての呼び出しは、いつも何かしら自分に関する重要な用件である。カガリは不穏な気持ちに掻き立てられながら、自室を出て養父母の待つリビングルームへと向った。

リビングルームのドアはカガリの心中を示すように重い音を立てて開いた。
俯き加減に落としていた視線を上へと向ける。目の前のソファに座る養父母の姿が映った。あのアスランとの縁談を言い渡された時を思い出した。ただ、ウズミの表情が今日は何かしら和らいでいる。その奇妙な不自然さが、返ってカガリの心に不安を落とした。
「座りなさい」
そう落ち着いた声でウズミは告げると、目の前のソファに掛けるよう手で示した。
夫人は黙って隣に座り、カガリの様子を窺っているようだった。その何気ない空気が、カガリの心を次第に追い詰めるように圧し掛かって行く。
「パーティーを開く事にした」
突然のウズミの言葉に、カガリは「え?」と小さな声を漏らした。それは微かに怯えの混じった声だったが、しかしウズミは全く気付く気配は無い。
「この屋敷でお前のためにパーティーを開く事にした。そこに選りすぐった良家の有望な青年達を招いておく。――お前はその中から気に入った者を選ぶのだ」
柔和な笑みを湛えながらウズミはそう告げる。――つまりそれはカガリの良人を見つけるために催される宴なのだとそう言っているのだった。
カガリは俄かに表情を強張らせ、足の上で重ねた指をピクリと震わせた。
「アスラン・ザラの事は忘れなさい」
間を置かずして静かに続けられたその言葉に、カガリは目を見開いた。一瞬、心にある本心を衝かれたのかと思った。誰も知らない筈の心の底にある真意を見透かされたのかと思った。
しかし次の言葉でカガリはそれがウズミの思い違いによるものだと知った。
「あれは私の過ちだった。彼は遊び慣れている。以前お前に好意があるように接したのも一種の気紛れによるものだろう。それとも誰にでも好い顔をするのが癖なのか。ラクス・クラインとの事もそうだった。ともかく、あれはやはり父親の血筋だ。一人に縛られるのを好む男では無い。甘言を取り違えて思いを寄せても所詮お前が傷付くだけなのだ。手に追える相手では無いのだよ」
ゆっくりと諭すように語られた言葉は、全く見当違いな思い込みによるものだったが、しかしそれはカガリの深い場所にある、本質と言うものに触れて揺さぶった。誰も知らない本質と言うものの、本当の姿を自分は知っている。違うのだ、あの温室の花の本質は――。カガリの心に夢で見た後姿が甦る。それは野の花を手折ろうとはしなかった。そして触れた指先は花を慈しむように穏やかに見えた。
『野の花は野にしか生きられない』
何度も繰り返し胸に去来した言葉が、またカガリの心に響き渡る。
それは今静かな一条の光となって射し込み、カガリの胸を満たした。真実を照らす光はうわべの闇を裂いて取払い、本当の姿を次第にそこに浮かび上がらせて行く。朝を迎えるように、穏やかに、緩やかに、胸に宿った確かな想いの光を、カガリは心に抱き締める。それは今ある全てを壊し、引き換えにしても構わない程に、何より掛け替えの無いものに思えた。光を帯びて輝き始めた想いは、その時根底からカガリを衝き動かした。そこにある、他の何も見えない程の衝動で。
黙り込んで何か物思いに囚われてしまった娘を、それまでじっと窺うようにしていた夫人がその時初めて口を開いた。
「女は思われてこそ、幸せなのです。そう言う殿方に添う事こそが、何よりあなたにとっての幸せな結婚と言うものなのですよ」
カガリは視線を上げた。
「あなたにはアスハ家の娘として、誰より幸福な結婚を――」
上品な笑みを口元に湛え、品格を漂わせた仕草でそう言おうとした夫人の言葉を、その時カガリの声が遮った。
「いいえ、奥様――」
控え目に、けれどもはっきりと口から漏らされたその言葉は、瞬時に夫人の口を塞ぎ、その場の空気を凍りつかせた。一瞬静まり返った部屋にはただハッと息を呑んだ夫妻の息遣いだけが響き、他には物音一つ無い。
カガリが養母を「奥様」と呼んだ事は養女になってから一度も無かった。
「旦那様、そして奥様にお話し申し上げたい事があります」
カガリは毅然と目を上げて、養父母を見た。その目はまるで熱に浮かされたように、訴える眼差しを強くそこに含んでいる。
「どうか――」
今まで耳にした事の無い娘のはっきりとした弾力のある声が部屋に響いた。
「――どうか、養女を解消してください」
痛切に訴える言葉は尾を引いて部屋の隅に消えた。
白昼夢を見ているように暫く誰も言葉を発する者は無く、ただ今のカガリの言葉が木霊のようにそれぞれの心を通り過ぎて行く。何が起こったのかさえ、まだ夫妻は理解が出来かねて、ただカガリを見ていた。
「……何を言っているのかね?」
漸く動き始めた思考を辿りながら、ウズミは確かめるように言葉を口にする。
「言っている意味がよくわからないが。何故そんな事を言うのだね?」
「今更馬鹿げたお願いだとはわかっています」
「何故そんな話になるのか、と聞いている」
「あまりに身勝手な理由だとは思うのです、ですが――」
「待ちなさい、どうしたのか、と聞いているのだ」
「ですが、どうか――」
「話を聞きなさい、カガリ」
堰を切ったように溢れ出る言葉をウズミの叱責が押し留めた。
カガリの瞳は高揚に潤み、思い詰めた表情で肩を震わせている。初めて見る娘の激しい感情の昂ぶりと、予期せぬ出来事に、ウズミは戸惑いながらも怪訝な表情をカガリに向けた。一体、何が起こったというのか。夫人は全く事態を受け入れられない様子で、ただ呆然とカガリを見ている。
「落ち着きなさい。そして何故突然そんな事を言い出したのか、話してみなさい」
自身も落ち着きを取り戻そうと努めながら、ウズミは告げた。
激情のままに吐露した後のカガリは、瞳を揺らめかせながらまた静まった空気の中で黙り、そして視線を落として自分の手の指先を見詰めていた。細い指が微かに震えている。
「――間違ってしまったものを、元に戻したいのです」
吐き出された言葉は夫妻の耳に届いた。傷付いた心が漸くの思いで告げたそれは、まるで痛々しい告白だった。
「間違った……?」
ウズミが繰り返すと、カガリは項垂れたまま微かに頷いた。
「間違った、とは何の事だね?」
またそう問い返すウズミは、カガリの黙り込んだ様子に、漸くそれが何を指し示すのかを察し始めた。
「……馬鹿な、――」
その呟きは我知らずに口から漏れた。
「今になって何を言うのだね?それに何が間違っていたと言うのだね、君は?」
信じ難い気持ちに引き攣った笑みさえ浮かべながらウズミは問う。恵まれない境遇だった孤児の娘が、手にした奇跡的な万に一つの幸福を、『間違って』しまったと言ったのだ。その真意が全く以って理解出来なかった。
上流社会こそが世の至上のものと信じて疑わない価値観は、それ以外の価値観があると言う事を知りもしなかった。例え知っていたとして、今の彼にはそれが何の価値があろうかと、そのようにしか思えなかっただろう。
「ともかく、今日はもうこの話はよそう。パーティーの件もまた日を改めて話す事にしよう」
恐らく何かによる一時的な気持の錯乱だろう、そうウズミは思う事にして話を打ち切ろうとした。このまま話を続けるには空気が不穏すぎる。娘の言った事は何かしら自分の中にしこりを残しそうだったが、今はこれ以上議論する気は無い。
そう思った時、カガリが俯いていた顔を再び上げた。
「待ってください。――」
縋るような口調でそう言った時だった。
ウズミの隣で蒼白な顔をして事の成り行きを見守っていた夫人が、突然胸を押さえてゆらりと揺れると、前屈みに崩れ落ちた。
夫人は、そのまま意識を失った。


元々夫人は体があまり丈夫なほうではなかった。実の娘を失ってから暫く、体調を崩して寝たり起きたりの生活が続いたが、それもカガリと言う少女がこの屋敷に来てからと言うもの、次第に良くなった。少女が何かと夫人の心の支えになったからである。
まだ娘を失って一年と経たない中、新しく雇い入れたメイドが娘に面差しが似ている、とある日夫人がウズミに話した。ウズミがそれとなくメイドを見ると、成る程確かに似ている。それから夫人のカガリを見る目が明らかに娘を見る目になった。自分付きのメイドにしたい、とウズミに懇願した。特に問題も無くそのメイドも寡黙によく仕事をこなしたので、夫人の頼みを受け入れた。そうするうちに夫人の体調が良くなり始めた。娘を失ってからというもの、床に臥せりがちだった夫人が、次第に起きられるようになり、表情も明るくなった。夫人がカガリによって生きる張りを与えられたのは明らかであり、それはウズミの心を動かした。異例な事と言える、何の身分も無い孤児を養女に迎え入れる決心は、こうしてウズミの胸に訪れた。それは夫人を思っての決断だったが、次第にウズミもカガリの中に娘の面影を追うようになった。
それから二年余り。
――その夫人が、再び倒れた。
カガリによって生き甲斐を与えられた夫人は、またカガリによってその生き甲斐を奪い去られる恐怖へと突き落とされた。
『――間違ってしまったものを、元に戻したいのです』
その言葉は夫人の胸に一瞬にして突き刺さり、穴を穿った。
凍りついた表情は、しかし切迫した遣り取りを続けるカガリとウズミの目には映らなかった。
胸を締め付ける痛みに襲われながら、夫人は夫の声を聞く。
『今になって何を言うのだね?それに何が間違っていたと言うのだね、君は?』
その声を聞きながら、次第に遠くなって行く意識の中で、夫人の目はカガリの姿を映していた。
追い詰められた小さな子供のように、それは弱々しく項垂れていた。

倒れてから夫人は昏々と眠り続けた。
元々心臓が弱いせいで、こうして倒れた事は初めてでは無かった。恐らく強い心労を与えられた所為だろうと医者は言った。
それからカガリは夫人の寝台の側に付き切りになった。
夫人が倒れた時、カガリは一瞬頭の中が真っ白になった。そして漸く事態を把握した時に、自分が何をしたのかを理解した。衝動に駆られるまま何も見えなくなり、心の赴くままに自分の思いを吐露する事だけに囚われていた。場の情況も考えず、取り乱したようにただ思いを告げるのに必死だった。
『あなたにはアスハ家の娘として、誰より幸福な結婚を――』
養父母の自分を慮った心に、報いるべき言葉を一言も発しなかった。
思いをぶつけるだけで、その心の内を微塵も受け入れようとはしなかった。
これがその結果なのか。
カガリの胸を深い悔いが抉った。
「私に看病をさせて下さい」
ウズミに縋って必死に訴えるカガリを、ウズミははじめ夫人から遠ざけようと思った。夫人が目覚めた時に、カガリが側にいれば再び精神的な影響を与えるのではないかと危惧したからだった。
「お願いしますお義父様」
かつて見た事が無い程懸命に訴える娘の姿に、ウズミの心もやがて動いた。
「――側にいてやってくれ」
短くそれだけを告げると、物思いに沈むように深い呼吸をして目を閉じた。自らの心に何かを問い掛けているかのようにその姿は見え、じっと暫く動かなかった。

夫人の寝台の側に昼夜を問わず付き添ったカガリは、その手を握り続けた。白く滑らかで上品な手は、食事をする時以外ほとんど使われた事が無いと思われる程、傷一つ無い美しい手だった。それは夫人が生きてきた世界そのものを象徴するものでもあった。ある意味、余りに無垢だと言えるその手は、カガリの心に一つの感慨を落とした。それはその世界しか知らないが故に、返ってそれを信じて疑わない夫人の純粋な思いと言うものが、今までカガリが得た事の無い種類の情と言うものを与えようとしていたのだ、と今になって気付いたからだった。
それは娘を想う母親の情愛に似ていた。何より幸福を願うその思いは、もうそのものであったと言えるかも知れない。
親を知らずに育ったカガリが、生まれて初めて受けた親の情と言うものだった。
夫人の白い手を見ながらカガリは考える。
人の繋がりとは何なのか。
血の繋がりも心の繋がりも体の繋がりでさえ、それは全て『繋がり』と言う言葉の中に還って行く。
血の繋がらない娘に母親の情を与えようとする思いが、夫人の失った娘の身代わりを求めそこに自らの思いを満たそうとする独り善がり的なものであっても、それが夫人とカガリを繋ぐ見えない糸には違いなかった。
ただ、カガリの心がそこには無かった。
『人の繋がりは見えないところにある』
胸に甦るあの言葉を聴きながら、カガリは夫人の眠る顔を見詰める。
それは母を知らない自分が、初めて母と呼んだ人だった。

やがて夫人が目覚めた時、カガリは静かに「お義母様」と呼び掛けた。
緩やかに瞼を開いた夫人は、そこに居るカガリの姿を見てただ視線を投げ掛けていた。そして漸く覚醒して行く意識の中でやがて「カガリ」と弱々しく名を呼んだ。それはカガリの心を揺さぶった。初めて夫人を母のように思った。
握った白い手を両手で握ると、微かに握り返す気配がして、その力の弱さにカガリの目に熱いものが込み上げた。それは忽ちの内に瞳を覆い、まなじりから溢れ落ちる。様々な感情が交錯したその涙は留めようも無く次々と落ちて行った。
「泣いているの……?」
夫人の語りかける弱々しい声を聞きながら、カガリは首を振って握った手の上に額を付けるように頭を垂れた。言うべき言葉が見つからず、ただ思いだけが溢れ出る。
やがてその頭を撫でる優しい手があった。ゆっくりと頭に置かれた手は、ただ何も聞かずに撫で続ける。
その柔らかな仕草に、母と娘の繋がりと言うものをカガリは思った。自分が今まで知らずにいた繋がりは、初めてその間にあった距離を取払ったかのように近付いた。
そしてその手は、かつてカガリがメイドとして暮らしていた頃に可愛がってくれた、年老いた未亡人の白い手を思い出させた。
あの時も今も、握った手の温もりはそのまま心を伝えている。今までその温度にまるで希薄だった自分を思った。それはすぐそこにあったのに、ただ自分の心しか見えてはいなかった。人との繋がりに向き合おうともしなかった。
それは全てに通じていくように、カガリの心に幾つもの灯を点して行く。
撫で続ける手の動きに、頑なだった孤独な少女の頃の心が徐々に融けて行くのを感じていた。
――人は独りで生きているのではない
初めてそう知った時、カガリはずっと心の奥にある、あの灯を思った。温もりを求めていた手を思った。
――繋がりを求め合うのは、人は独りでは生きてはいけないから
心に響いた声は、誰の声だったのか――融ける涙の中で、その声はカガリの心に鮮明な響きを残した。

それから夫人の身の回りの世話の一切をカガリは担った。その仕事振りが最早良家の令嬢の範囲では無く、それどころかメイドの域にまで及んだので、夫人付きのメイドが困惑の色を見せた。けれどもカガリは構わずに夫人の世話を続けた。
かつて老夫人の看病をした経験から病人が口にしやすい食事を心得ていたので、食事は自ら厨房にまで出向いて作り、使用人達を大層驚かせた。しかしそれを自分が作ったとは告げずに夫人に食べさせた。良家の娘が厨房に入るなどとは以ての外だった。夫人は一口食べる毎に回復していくように見えた。
やがてカガリは上等な布地の衣服を脱ぎ、簡素な服を身に纏ったので夫人は驚いた。
「何故そんなものを着るのです」
怪訝な表情をする夫人に、カガリは穏やかに微笑した。
「このほうが動きやすいからですわ、お義母様」
その服を纏ったカガリはきびきびと夫人の世話に動いた。その姿を見て夫人は、この屋敷に来た頃のカガリを思い出す。仕事に立ち回る姿はどこか凛として目を惹いた。直向さを秘めたような瞳が印象的だった。亡くした娘に似ていた事が養女にした大きな要因だったが、そのどこか人の心を惹き付ける内に秘めたものが、自分の心を捉えたのかも知れないと思った。
「良家の娘がそんな服を――」
何度もそう言いながらも夫人はカガリの表情が、上等な布地のドレスを纏っている時よりも活き活きと輝いている事を見出す。
それは息が出来ずに弱っていた花が、新鮮な空気を得て生き返ったように伸びやかに見えた。
「お食事をお持ちします」
そう言って微笑み、部屋から出て行こうとする娘の後姿に、夫人はカガリが言った言葉を思い出していた。
――間違ってしまったもの
それが何であるのか。
夫人はカガリが消えた扉を暫くの間眺めていた。

それから暫くの後、夫人の病状は次第に回復し、時々起きられるようになった。相変わらずカガリは付き添い、甲斐甲斐しく世話を続けたが、やはり上等な衣服は身に付けず、簡素な服で過ごした。はじめはそんなカガリを周囲は遠巻きに見ていたが、その内に少しずつ見方が違ってきた。幾人かの古い使用人との間には養女になった頃から見えない確執があり、それをただ黙ってやり過ごしてきたが、夫人の看病を黙々と続けるカガリに僅かではあるが周囲の態度が変化した。厨房の使用人が良い食材を教えてくれたりまた何人かのメイドがカガリの仕事がしやすいよう環境を整えてくれたりした。今まであった壁が僅かでも取払われた事にカガリは他人との繋がりと言うものをまた思った。今まで周囲の人間との関わりに自分は何て無関心だったのだろう、と。
起きられるようになった夫人を時々カガリは庭へと誘い、支えながらゆっくりとそこを歩いた。夫人と共に庭を歩くのは初めての事だった。まるで本当の母と娘のような二人の姿が、小路を歩いて行く。いつの間にか季節が変わり、膨らみ始めた蕾を付けた木々の、滴るような緑の葉が露に濡れている。その姿を夫人は目で愛でていた。
「ここへ来る前のあなたは幸せだった……?」
ふと夫人の口から漏らされた言葉にカガリは夫人の方を見る。
「……よくわかりません」
カガリは素直に答えた。
「何が幸せかなんて、そんな事を考えた事が無かったのです。ただ毎日を生きて行く事に精一杯で」
「――そう」
夫人はゆっくりと頷いた。
「独りで辛くはなかった?」
「はじめから独りでしたから……それが当たり前だと思っていましたから」
「そう」
「――でも今は独りで生きることの寂しさがわかったような気がします」
カガリは膨らみ始めた薔薇の蕾に目を向けた。露を含んでそれはしっとりと濡れている。
「孤独の本当の寂しさを知らなかったのは、幸せだったのかも知れません」
夫人はカガリの横顔を静かに見詰めている。
「もっと深い孤独の中にいる人を知っているのです」
誰に言うとも無くカガリはそう呟いた。瞳は薔薇を見詰めて静かに言葉にならない何かをその視線の中に注いでいる。
「全てを与えられてもそれが人の幸せとは限りません。何が幸せかはその人によってそれぞれ違うからです」
カガリの言葉を夫人は静かに聞いていた。そしてやがて母親が娘を見るような眼差しになると、そっと言った。
「その人のことを好きなのね?」
カガリはその言葉に思わず夫人を見た。
「そんな眼をしていたわ」
夫人の顔に柔らかく微笑が広がった。

花の咲く季節になった。夫人の看病をするうちに季節が廻っている事にカガリは気付く。ふと空を見上げれば青く澄んだ色が広がっている。その空を見ながらあれからどのくらいが経ったのかと思った。夫人が倒れてから、社交の場からは更に遠く離れ、屋敷の外に出る事さえも無い日々を過ごしている。
――今何を思っているのだろう
どこまでも続く空。その空の下のどこかに居る筈の、あの姿をカガリは思い浮かべる。あの時印された道はまだ今遠く、そこを行く事が叶わない。心に焼き付いた後姿をその青さの中に探すように、いつまでも空を見上げていたカガリはそっと唇を動かしてみる。恐らく、今まで一度も口にした事の無い、まるで唱える事を禁じられたかのようなその名を、密やかに声にする。
「――アスラン」
その声は周りの空気に融けて空へと昇って行く。未だ翼を得る事の出来ない自分の代わりに、せめて空へと届くように。どこかで呼ぶ声に、密やかに応えるように。
遠く離れた自分の半身を思うように紡がれたその声は、淡く空へと消えて行った。

夫人の部屋に飾るための花をカガリは庭で切る。蕾を開いた薔薇が庭の景色を美しく彩り、芳しい香りが鼻を擽る。けれどもカガリの心はそこには無いように、それらを楽しむ事も無くただ目の前の花を切る。手にした白い薔薇の花が心に与える心象は、かつてあの物寂しい館の温室に咲いていた、儚い薔薇の姿だった。一輪切るごとに、手の中の花の姿を見詰めては、そこに思い起こされる過去の記憶にカガリは惹きつけられる。手折られる薔薇の痛みを知ってそこに思いを馳せるように、長い睫は時々伏せられた。それはまるで祈りの姿のようにも見えた。
時々ふと手を止めて物思いに耽っているようなその姿に、離れた場所から視線を注いでいる人物があった。
ウズミはじっとテラスからカガリを見ていたが、やがて庭の小路へ踏み出してカガリの方へと歩み寄って行く。鮮やかな花の中にあって対照的に地味な色の服に身を包んだカガリの姿は、返ってそれに埋もれず清楚な気配を漂わせていた。何より、それにも増してどこか艶やかに見えるその表情は、辺りの薔薇の色香に染まったようにしっとりとした趣を帯びている。
近頃とみに娘らしくなった、とウズミは思う。そう思ってから、『娘らしい』と言う言い方はどこか俗な表現かも知れないと思った。もっと何か深い、奥から滲み出るようなもの。人形に魂が宿ったようだとでも言えばいいのか。以前の感情が薄い人形を思わせるような表情では無く、物憂げに伏せられる睫の下の目の表情や、ふとそれを上げる瞬間に見せる何かが宿った瞳の表情が、心にある何かしらの艶と言うものをそこに示していた。内に秘めているように見えて決してそれは秘めておく事が出来ずに、溢れ出る匂いのように体から漏れ出して行く。
それは年頃の娘特有の、咽るような甘さを含んでいた。
近付いて行くとカガリはつと目を上げた。
「花を切っているのだね」
「ええ、お義母様のお部屋に飾る花です」
手にした薔薇を見遣り、カガリは答えた。
「そうか、喜ぶだろう」
ウズミはそう言うと暫くカガリと切った薔薇を見ていたが、視線を外すと庭に目を移した。
「いつの間にか花の咲く季節になったのだな」
誰に言うとも無くそう言い、ふと微笑した。
「――花は咲くべき時を知っているのに」
そこで言葉を置くと、一つ静かに息を漏らした。
「無闇に咲かせようとしてみても、それが花の本意で無いなら決して咲こうとしないだろう。寧ろ蕾を固く閉ざしてしまうだけだ。咲く時を知り、咲くべき場所を知っているのだ。花と言うものは、――そう思わないかね」
ウズミの問い掛けに、カガリは黙って視線を投げ掛けた。庭の景色を彩る美しい薔薇達に注がれていたウズミの視線は緩やかにカガリへと向けられる。
「ひとつ聞きたい」
揺らぎの無い穏やかな瞳で静かにそれは紡がれた。
「以前、『間違ってしまったものを、元に戻したい』、と言ったね」
「――はい」
「それは今でも変わらないかね?」
漂う静謐な空気の中、カガリはウズミに向けていた視線をゆっくりと手の中の花束に落とした。そこにある、花の白さが与える心象と言うものが、またカガリを捉えて行く。心の底に流れるのはただ一つ、真実と言う名の仄かな灯りだった。
カガリはその思いを確かめるように僅かな間目を閉じると、また開いた。そうしてからウズミを惑いの無い真っ直ぐな眼差しで見た。
「はい」
曇り無き答えは短い言葉で返される。
そのカガリの透けたガラスのような瞳を、ウズミは暫く眺めていた。淡い色を帯びた濁りの無い若い瞳は光を照り返している。
「亡くした娘は妻に似て病弱でね。その分甘やかした所為か随分と我侭に育ってしまったのだよ。顔は似ていても、正直なところ性格はお前とは似ても似つかなかった。全く違う他人だと言う事ははじめから十分承知していた。その筈だった。――けれども、それでも私達はお前を娘だと思おうとした。亡くしてしまった私達の娘を再び得たのだと思いたかったのだよ」
陽射しは柔らかく、緑の葉とそして花の滑らかな表面に落ちている。ウズミの重厚な声はその一つ一つの上から降り掛かる。雨のようにそれは花弁を震わせて土の上で消えた。
「しかし甲斐甲斐しく妻の看病をしているお前の姿を見た時、それが娘では無い事をはっきりと思い知った。そこにいるのは亡くした私達の娘とは全く違う別の、カガリと言う一個の個性を持った娘だった。上等なドレスを纏っている時は沈んだように見えていた顔が、簡素な服を身に着けた途端に活き活きと軽やかに見えた。まるで本当の自分を取り戻したように楽に息をしていた。――お前の言う『間違ってしまったもの』がもし目に見えるものだとしたら、こういう事だったのではないかと思ったのだよ」
ウズミの目はしんと静まった佇まいでカガリを見ている。
「毎日妻の為にお前が作った食事が妻の心を動かしたようだ。『何が幸せかはその人によって違う』と言ったそうだね。私達の思惑がお前にとっての幸せだとそう思っていた。だがそれは私達にとっての幸せにしか過ぎなかったようだ。お前をお前の望む幸せの形に戻してやりたい、とそれが妻の言葉だ」
見開いた瞳をウズミに向けてカガリは薄く唇を開く。
「奥様は知って……」
「お節介なメイドがいてね。つぶさに妻に教えたのだよ」
微笑がウズミの顔に広がって行く。それはカガリが見る初めての、構えの無い柔和な笑みだった。
「花は咲くべき場所に咲くものだ。もうお前を束縛するものは何も無い。――行きなさい。自分のあるべき場所に、戻りたいと願う処へ還りなさい」
カガリの手にしていた薔薇は、静かに伸べられたウズミの手に握られた。
「これは私が持って行こう」
「あの、――」
瞳を大きく揺らめかせ、カガリはウズミを見詰める。言葉が様々に重なり合って心を過ぎり、けれどもそれは余りに多すぎて一つとして声に出す事が出来なかった。ただ、思いばかりが瞳の内に溢れて行く。
「お前はもう自由だ」
ウズミはその時初めてその娘を心から愛しいと思った。自分の娘の身代わりとしてでは無く、カガリと言う一人の娘として。
寛いだ微笑をその顔に浮かべると、ウズミは穏やかに口を開いた。ただ素直な言葉が漏らされる。
「最後にもう一度だけ、私を『父』と――呼んで呉れないか」


かつてメイドとしてやって来た時に初めて歩いた門から屋敷へと通じる白い石の道を、今カガリは屋敷から門へと向って歩いている。
途中何度か立ち止まり、振り返った。
突然与えられた自由への宣告に、結局夫人に最後の別れを告げる事が叶わずに屋敷を去った。別れを辛がる夫人の心中を慮ったウズミの「会わずに行って欲しい」との言葉に従ったものだったが、けれども夫人はその日カガリが屋敷を去る事を知っていたのではないかと思った。庭に花を切りに行こうとした時に、ふとカガリを呼び止めて、じっと静かに視線を注いでいた。「いいえ、いいのよ。お行きなさい」微かな笑みと共に口にされたその言葉がどんな思いで告げられたものだったのか。――今になってカガリは思い返す。
自分はここで何を与えられ、学び、そして知ったのか。
人の心はどこかで繋がり合おうとする。それが例え歪なものであっても食い違ったものであったとしても、そこから確かに何かが生まれて行く。繋がりのその先がどうであれ、人の心に触れる事は自分を大きく変えて行くのだと、そしてそれによって人の心をもまた大きく変えて行くのだと、カガリはこの屋敷で知った。
何より、ここで養女になった事から全ては始まった。
その中での出逢いによって与えられた様々な感情の色が胸に甦る。それは凝縮された一つの塊となってカガリの中に残った。
その全ての思いを、今後ろに振り返る。
知らずにいた世界を知った時、初めて見えて来るものがある。
その思いがカガリの足を前へと進ませた。最後に門を潜るその前に、再び振り向いたカガリの目には、あの日々の残像が夢の中の出来事であったかのように遠く儚く霞んで見えた。

もう二度と潜る事の無い門を振り返る事も無く、カガリの去り行く姿は続く道の向こうへと次第に小さくなり、やがて景色の中へ染まるように消え入って見えなくなった。



<08/09/15>

←十三幕へ幕間へ→