第三幕 : 秘密 その白すぎるうなじが目を引いて、兄は思わず妹を呼び止めた。夜会用のドレスを纏って髪を結い上げ、手袋を手にした妹が振り返る。 「何?お兄様」 「本当に一人で大丈夫かい?」 それを聞いた妹は微笑んだ。 「もう子供ではありませんわお兄様」 本当に呼び止めた理由はそんな事では無い。けれどもそんな事を言える筈も無く兄は妹の側に寄ると片手を上げた。そして指の背でその頬に触れるとそっとそれを撫でる。滑々とした肌の感触が指の背を通して兄に伝わると、目を細めた。妹はそんな兄をただ微笑して見詰めている。やがてふっと唇が小さく動くと、そこから息と共に言葉が漏れた。 「お兄様?」 名を呼ばれた兄は触れていた指の背をゆっくりと離すと、今度は親指でもう一度頬に軽く触れた。 「遅くならないうちに帰っておいで」 そう微笑するとゆっくりと手を離す。 「はいお兄様」 また微笑して妹は返事をすると、部屋を出て行った。 妹が去った後、一人になった部屋で先程頬に触れていた方の手を兄は暫く見詰めている。まるで名残惜しそうに離れたその指を、妹は気付きもしなかっただろうと思った。 いつの間にあんなに娘らしくなったのだろうと思う。気付かないうちに蕾だと思っていた花は艶やかに開いていた。少女が娘らしく成長するのは早いと言うが、自分の目の届かないところでいつの間にか大切に育てていた花が咲いてしまったと言う事が兄は口惜しかった。そしてそんな感情を自分が抱いていると言う事を正直どこかで持て余している。先程触れた指先からそんな感情が伝わるのではないかと言う事を兄はどこかで怖れつつ、しかし指は自然に妹に触れて行った。その感触が残る指をじっと見詰めている。 暫くそうしていた兄は感情を振り切るように指からすっと視線を外すと、扉を開いて部屋を出て行く。急な来客の為に夜会に妹を一人出してしまった事を今になって悔やみつつ、やはりあの時引き止めておくのだったと、妹のあの白いうなじを思い出していた。 衣擦れの音と、くすくすと忍びやかに笑う声がその部屋の鍵穴から聞こえている。明かりの消えた暗闇の中では先程から男女の睦み合うような、密度の濃い蒸した空気が立ち籠めている。時折微かに漏れてくるのは短い言葉のようでもあり、微笑を含んだ密やかな声のようでもあり、色情の交わりを示す熟れた吐息の吐き出される呼吸の音のようでもあった。 その内に鍵穴からもたらされる気配はより色を含んだものとなり、聞こえていた忍びやかな声は次第に切迫した艶やかさを帯びて辺りの空気の温度を染め変えて行く。衣が擦りあう音に混じって何かが軋みを上げる音がし、それは奇妙な調和をもってその空気の中に溶け入り始めた。その音が甚だしく部屋の中を充たし、その他に聞こえるものはただあの声とも息遣いともつかない著しい呼吸の気配であり、部屋の中はそれらのもので隙間無く満たされて行くようだった。篭もった熱は鍵穴から溢れてそれらのものを逃すように僅かに排出して行く。それは秘事が秘事であるほど、その狭い部屋に押し込めてはおけないおびただしい熱の在り処を、密かにそこに示しているかのようだった。 切れた雲の間から覗いた月の光が薄く部屋の中を照らし出した。ゴブラン織りの長椅子に横たわったカガリはその差し込む月の光を目の当たりにし、それが魔性的な妖しい光を含んで差し込むのを見た。その光と熱の混ざり合う時をまるで頂点とするかのように、熱せられたカガリの体はざわざわとした空間を突き抜けて聖域へと通じる扉へ達すると、短く声を上げてその向こうへと意識を押し開いた。扉の向こうには白いばかりの光があって、そこを漂うように一瞬閉じた瞼を再び開くとそこにはまた月の黄色い光が横たわっていた。その中で同じくそこに達したアスランが、カガリの体に覆い被さったまま項垂れて荒い息を繰り返している。そこから垂れ下がった髪が、カガリの顔の上に降り掛かった。蒸れる汗の匂いが、髪からそして衣服の下の体中から立ち昇っている。カガリの横について体を支えていた手を椅子の背凭れに掛けてアスランが体を起こしたのは、乱れた呼吸が漸く整い始めた頃だった。 体を起こしたアスランは下に横たわったカガリを見た。微笑して自分を見ているその目に行き合った時、すっと伸ばされた手の指が、アスランの額に触れた。そしてそこに汗で貼り付いた髪をゆっくりと解いて払った。 「凄い汗だ」 微笑したまま紡がれたその言葉と額に触れた指に、アスランは押し黙ったままふっと顔を横に向けて目を逸らした。その弾みに触れられた指も拒むように逸らされる。 「――いつもそうだ」 アスランの口から低い声が漏らされる。 「何が?」 行き先を見失ってカガリの指は宙に止まっている。 「貴女はいつだって冷静だ」 まだ完全に離れてはいない体を感じながらアスランは恨み言のようにそれを口にした。 「こんな時でさえそんなに――ただ愉しんでいるだけなのでしょう」 暫く目を背けてアスランはまた黙った。そんな言葉でも吐かなければこの遣り切れない情況に耐えられそうに無い。愚かだとは思いながらもついそんな言葉は口を衝いて出て行ってしまう。自分と相手との温度差を残酷に見せつけられているようなその冷静さが堪らなくアスランを苦しめて行く。 漸く整った呼吸の下から漏れた自分の言葉に、しかし余りに子供じみたものを次第に感じ始めたアスランは次の言葉が告げなくなって横を向いたまま動けずにいた。体は呼吸とは裏腹に、含んだ熱を放出し始めてあらゆる場所から汗が滴り落ちている。 つ、と頬に触れる手の感触がしてアスランは徐に顔を元に戻す。――手の平が自分の頬に緩くあてがわれていた。ふわりと包むようにあてがわれた手は、ゆっくりと撫でるように汗の滴る頬の上を滑った。 「どうした?」 首を少し傾げながら微笑する唇から、甘やかな声が漏らされる。今の子供じみた言葉をその微笑が蕩かして、まるで甘い菓子の如き別のものへと作り変えていくように、その唇は動いた。全てを意のままにしていく微笑がアスランの目に映る。抗えない事を知っているその微笑を見ながら、自分の頬に触れているその手首を捉えてアスランは恨めしげな目付きを注いだ。 「そうやって、誘いの言葉も冷静に吐く人だ」 呪うように言いながらもカガリの肩口に倒れるように再びアスランは顔を埋めていく。 「それでも……」 恨み言を吐き出すようにアスランはカガリの肩口で暫く動かずにただ言葉だけを募らせた。 「それでも、俺は貴女を嫌いにはなれないんだ、絶対に。――」 そう言うとカガリと言う花に捕えられたが如きアスランは、自分を食そうとしている花を反対に貪り始めた。それが花の誘いによる画策でも計略でも何でも良いと思った。ただ手にしたこの現実を今は手放すことは出来ない。こうしている間だけが、何より確かなものに触れているとそう思わせた。 例え戯れでも今はそれでいい。けれどもそれがやがてただの戯れでは無いとその真相に気付いた時、彼女は今のように冷静に自分を見るだろうか――。 まだ僅かに冷静さの残る意識の中でアスランはそう思うと、やがてまた何も考えられなくなる白い光の中へと心を揺蕩わせて行った。 身支度を整えた後、カガリは早々にホールの夜会へと戻って行った。小部屋に一人残されたアスランは雲の切れ間から時折見え隠れする月を一人長椅子に座ったまま見詰めていた。 「お兄様が待っているから」 そう言って今日はゆっくり出来ないのだと言っていた。部屋を出て行こうとするカガリの手を捉え、「今度はいつ会えるのですか」とアスランは口早に訊ねる。それは我知らず嘆願する口調だった。 カガリは振り向くと、ややあって答えた。 「今度月が隠れる時、庭の外れの古い温室で」 もうあそこは庭師も使っていないから、と言ってカガリは妖艶に微笑する。離れて行く手をアスランは惜しげに手放した。 その言葉はまるで自分を試しているようにアスランには思われた。アスハ家の庭に忍び込むのはそう容易いことでは無い。危険を承知の上で告げられた言葉なら、戯れの一種かも知れない。カガリとてそう簡単に屋敷から出られるものではないだろう。そう思うと、益々ただの戯れだったのではないかと思えた。何より、屋敷にはあの兄がいるではないか。 欠け始めた姿を曝している月を見ながらアスランは椅子の背に深く身を持たせかけた。 ――その兄が、実は血の繋がらない兄だと知った時、彼女はどう思うのだろうか…… その思いがアスランの心を深く占め、動く気になれないまま、ずっと黄色い月がまた雲に隠れ行くのをそのまま眺めていた。 「遅くなってごめんなさいお兄様」 そう微笑する妹を兄は部屋へと迎え入れた。 「N夫人もS卿もお元気でしたわ」 そう他愛無い話をする妹の、僅かに紅色が差した頬の色に兄の目は注がれる。高揚したようなその色が、妙に際立って目に映った。 「そう、それは良かった」 何気なく話に聞き入りながら、兄の目はそこから離れなかった。それが何によるものなのかと言う疑問の入り混じった気持ちと、その色が与える仄かな色香と言うものが、同時に兄の心に訪れたからだった。その両方はつい先日まで、自分が妹に対して抱くなどとは思いもしなかった感情だった。 「お兄様?」 黙った兄を窺うようにカガリは首を傾ける。 「ああ、もう疲れただろうからお休み」 そう言うと、兄は徐に妹の薄紅色の頬に指で触れた。そしてそれが今日二度目の行為である事に気付いてふと指を引く。そうしてから何故それを躊躇うのだろうかと思った。 「おやすみなさいお兄様」 兄の躊躇いに気付く様子も無くカガリはまた微笑を向けるとそこを立ち去った。その後姿に目を遣っていた兄は、カガリが去ってから何気なく窓の外に目を向ける。そしてそこに見える月の姿を暫く眺めていた。 「やはりこの手は罪深いと言うことなのか」 先程妹に触れる事に躊躇ったその分けを、兄は考えていた。一つは余りに深すぎる罪であり、もう一つはそこから起因する罪であり、けれどもそのどちらも兄として許されざるものである事には違いない。何も知らない妹に、今までと同じように触れて行く事が果たして出来るのだろうかと重すぎる秘密の存在を改めて突きつけられた思いがした。 月を見ていた目を床に落とし、そこに映る自分の影をまるで自分の運命そのもののようでは無いかと嘲笑いそうになりながら、兄は暫くそこに立ち尽くしていた。 夜会から戻り、ザラ家の屋敷に入るとアスランはその足である部屋へと向う。いつも向う部屋は決まっていた。廊下を幾つか折れ曲がり、暫く行くとその重厚な色の扉の前へと着く。扉を叩くと中から応える声がした。その声を聞いてアスランは部屋へと入って行く。 「今戻りました義父上」 義父と呼ばれたその男はザラ家の当主パトリック・ザラであった。椅子に腰掛けてアスランを見上げるその初老の顔に、ほとんど表情は読み取れない。ただ目に湛えた光が、人を寄せ付けない強い気高さをそこに放っていた。 パトリックはアスランに目を遣りながら、無駄な事は口にはせず、ただ一言訊ねる。 「首尾はどうかね」 その言葉にアスランは一瞬視線を逡巡するように彷徨わすと 「悪くはありません」 と短く答えた。 「そうか」 パトリックはその答えに薄く微笑すると 「今日は下がって良い」 とまた短く答えた。そして一礼をして部屋を出て行こうとしたアスランの横顔にふと目を留めた時、珍しく彼は呼び止めた。 「アスラン」 ふとアスランが振り返る。 「はい」 「……いや、何でも無い」 ふとした何気ない表情が時々亡くなった妻に似ていた。彼を養子にした要因の一つがそこにあった事をアスランは知らない。それはパトリック一人の胸におさめてある事であった。尤も、彼が養子になった大きな理由がそこからあまりにかけ離れたところにあった為に、アスランはそんな事は思いもかけないだろう。 思わず呼び止めた自分に密かに苦笑を漏らしながら部屋を出て行くアスランの姿をパトリックは見ていた。 そして扉が閉じられ、また部屋に一人になった時、先程のアスランの言葉を思い出して彼はまた薄く微笑する。 「悪くはない、か」 そして窓の外に見える雲間の月を眺め、何かを考えるようにまた目に光を湛えると、低く笑い声を漏らし出した。 <08/06/15> ←二幕へ/四幕へ→ |