第二幕 : 溺愛




 それから1年が経った。
 1年と言う歳月は秘事を知った少女を大人びた娘へと変化させる。カガリのその容姿もさることながら、その内面から滲み出る匂うような色香の華やぎは周りの目を惹きつけるところとなった。兄が都から戻ってから夜会に同伴する機会が増えたカガリに言い寄ろうとする若い輩が多くいたが、大抵同伴していた兄が睨みをきかせて退散せざるを得ない情況になった。内々の決め事とは言え婚約者がいる娘としては当然の事である。
 ただ当のカガリはその情況にあまり有り難さは感じていなかった。――退屈だったのだ。以前は兄と出掛けること自体がその退屈さを忘れさせてくれる唯一のものだったのが、今はそうでは無い。兄といる事はカガリにとって楽しい一時である事は以前と変わり無かった。5歳年上の兄が幼い頃からずっと親代わりでもあり、また最も近しい友人のようでもあり、また時として唯一の異性として恋人のようでもあった。けれどもそこにあの日々のような心を甘やかにする刺激と言うものが感じられない事を知ってしまった今は、カガリにとって兄はもう兄と言う存在でしか無かった。何も知らなかったあの無邪気な頃にはもう立ち返れない。
 敏感に何かを感じ取っているだろう兄の気配に気付きながら、カガリは何事も無かったように振舞った。
 けれども退屈さを紛らわせるものはまたカガリの周りに見当たらない。吐く溜息は以前よりも甘い匂いを含んでカガリの体温を僅かに上気させる。まるで花の蕾が緩やかに開くようなその姿は咲き綻んで隠しようのない艶をそこに露にしていた。

 その日カガリはある夜会に兄と共に訪れた。以前よりは社交界に出る機会も増えその場の雰囲気と言うものにも慣れた。令嬢らしい振る舞いと言葉遣いは相変わらずカガリを疲れさせたがそれも使い方次第で相手の心を取り込める事を覚えた。それは兄の目を盗んで時折カガリの密やかな遊びとして行われ、結果としてその相手がいつも兄に睨まれる事になる結末を迎えるのだった。
 華やかなホールを見渡せば華やかな衣装に身を包んだ人々で今日も溢れている。カガリが密やかな遊びの相手を求めて人々の顔触れを見渡していた時、ふとある青年の横顔が目に留まった。その目は暫くその顔から動かなかったが、兄が知人に挨拶している隙を縫って、カガリは近くの顔見知りの男性にそっと尋ねた。
「あそこのあの方は?」
 男性は突然カガリに話し掛けられた事に有頂天になりつつ愛想よく答えた。
「ああ、彼は最近ザラ家の養子になったのですよ。何でもその遠縁に当たるとかで、跡継ぎのいないザラ家に迎えられたのだそうです」
 それを聞いたカガリはにこりと微笑を返した。
「そう、有難う」
 相手はその微笑にドキマギとしながら何か言葉を返そうとしたが、兄が戻ってきたのを見て慌てて側を離れた。カガリの兄のガードの固さは今や社交界でもそれほど有名だった。
「何を話していたの?」
 やんわりとした微笑を浮かべて男の後姿を見ながら兄は尋ねる。
「他愛の無い世間話ですわお兄様」
 カガリも微笑を浮かべて答えると、「少し風に当たって来ます」とその側を離れようとした。
「僕も行こう」
 そう言う兄にカガリは振り向くと
「婚約者がいらっしゃいましたわ」
 とホールの入り口を見た。兄の婚約者であるクライン家の一人娘が今到着した事を知らせる言葉が声高に告げられる。
「じゃあ後でおいで。あまり長い間一人でいちゃ駄目だ」
 そう兄はいい置くと、姿を現した婚約者を迎えにその方へと去って行く。その後姿を見ながらカガリはまたホールに目を走らせた。そして視線をある一点に時々送りながらゆっくりとした足取りでホールを横切ってバルコニーの方へと歩いて行く。
 夜の冷えた空気がカガリを迎え入れた。蒸した空気に曝されていた肌が途端にひやりと冷まされる。誰もいないバルコニーでカガリは一人ほてった肌を風に当てていた。やがて近付く足音がバルコニーに足を踏み入れたのをカガリは背中で聞いていた。
 その足音はややカガリから離れた場所で止まり、まるでカガリが振り返るのを待つように暫く物音を立てなかった。どちらが先に言葉を発するか密かな駆け引きがそこにはあった。
 やがて先に動いたのは足音の方だった。カガリに少し近付くとまた止まる。そして聞き覚えのある声が告げた。
「気付いていたのですね」
 カガリは初めてそこで振り向いた。先程見た横顔が、紛れも無くあの自分がよく知っている顔である事を、淡い光りを背に立つその姿は告げていた。
「何故お前がこんなところに?」
 さして驚いた様子も見せずにカガリは微笑して問う。けれどもこれがまたあの退屈な日々から自分を連れ出してくれるその始まりでは無いかと言う期待に心は色めいていく。
「――貴女がおっしゃったのではないですか」
 光りを背にしたその表情ははっきりとは読み取れない。カガリは首を傾げて問い返す。
「私が?」
「あの時、俺が――」
 そこでふっと笑う気配がした。
「――私が上流階級の身分だったら、結婚したのに、と」
 カガリはあの時の、まるで戯れのように口にした自分の言葉を思い出した。
「まさかそのために?」
「私はあの時『本当ですか?』と聞いたはずです」
 カガリは目の前の、アスランの姿を見た。背がいくらか伸びて肩幅も一回り大きくなっている。元々見目が綺麗だったその姿に、品のある上等な衣服が映えていた。まるでこの上流階級の生まれだと偽ってもそれが嘘とは思えないほどに身に付いている。
「どうやってザラ家の養子に?」
 アスランは静かに微笑んだ。
「それは今は明かせません」
 そしてカガリを見据えながらまた口を開いた。
「ただ確かな事は、今貴女と同じ世界にいると言うことです」
「私には婚約者がいると知っているだろう」
「知っています」
 アスランはまた静かに微笑した。
「――それが何か?」
 かつて知っていた素朴な青年の口から漏れた言葉はカガリの背筋を這い登って退屈に膿んでいた心をぞくぞくとするもので満たした。何かが確実に、この退屈な日々から自分を救ってくれるに違いないと言う確信がカガリの瞳を覆っていく。
「そう簡単にれるものでは無いぞ?」
「そうでしょうか」
「随分自信があるんだな」
 そこでアスランの言葉は止んで代わりに低く笑う気配がした。
「――お兄様が待っている」
 ここに来て随分時間が経っている。そろそろ兄がやって来る頃だとカガリは思った。この再びやってきた心を動かす折角の愉しい出来事も兄に知れては全てが無に帰してしまう。
 アスランの側を擦り抜けざまに「楽しみにしている」とカガリが微笑を浮かべた時、それに応えるように動いたアスランの腕はカガリを壁の影にして素早くその唇に接吻くちづけた。
 そしてそれを離してから「いずれ近いうちに」とカガリの耳元で囁くと、カガリの瞳は艶を帯びて艶然とした笑みを湛える。
 アスランの腕を抜けたカガリはバルコニーからホールへと戻ってその中を歩き始めると、丁度向こうからやって来た兄と出合った。寸でのところでアスランの姿は兄には見えていない。
「随分遅かったね」
「冷えた空気があまりに気持ち良かったのでつい長居してしまったの」
 言葉とは裏腹により上気した肌がホールの蒸した空気に曝されてカガリの体に熱を加えていく。
「楽しい夜になりそうねお兄様」
 そう言って微笑んだ妹の瞳がいつになく輝いているのを兄は見た。何かあったのかと訊ねようとしたその言葉を擦り抜けて、カガリはホールの中へと歩いて行く。その後姿を兄は見ていたが、婚約者を一人にして来た事を思い出してその方向へと歩き出した。

 夜会から館へと戻って来たカガリはほてった体を眠るまでに冷まそうと夜の庭へ出た。丁度今は薔薇が咲き誇っていて庭中にその香が満ちている。咽るようなその香にカガリはふと足を留めてかつてのあの戯れに満ちた日々を思った。それはこの香に似て、仄かに甘い、鼻腔を擽る匂いがした。そして先程のあの熱を与えた出来事が、またカガリの心を擽るように動かして口元に微笑を与えて行く。
 薄い夜着が花に付いた夜露に触れてその袖口を僅かに湿らせた。そのひやりとした心地良さにカガリは暫く花とそこで戯れる。
 ――何かが擦れる音がして、すぐ側で何かの気配がする。カガリは足を留めてその方へ目を向けた。すぐに人の気配とわかるものが夜の中で伝わって、カガリはあるものの予感に捉われた。それはその姿が次第に現れ始めた時に、不確かなものから確信に満ちたものへと変化を遂げて行く。最早疑いようの無いその姿を闇の中に見出した時、カガリの瞳はまた輝きに満ち始めた。けれどもそれは漆黒の闇の底に隠されて行く。
「命知らずだな」
 そう告げた言葉に軽く笑いで応じた相手は木々の影の中からゆっくりと歩み寄った。
「近いうちに、と申し上げたはずですが」
「随分気が早くないか」
「もう十分に待ったつもりです」
 歳月が経った事を思わせるその姿の成長がカガリの目に再び映った。夜の闇の中でさえ、それは影となってはっきりとわかる。かつてはまだ幼さの残った狭い肩に回した自分の手が、今同じように触れられるとは思えなかった。そう思うとカガリはひとりでに微笑した。
「何故笑うのですか?」
 笑った気配が伝わったのかアスランの声がそう語った。
「――アスランお前、運が良い。今日は…」
 そう言ってカガリは空を見た。
「月が無い」
 その言葉が何を意味するのかすぐにアスランに伝わると、望みを叶えるために手は伸ばされた。

 薔薇の木々の下、柔らかな草の褥の上に横たえられたカガリの体はより丸みを帯びて息衝いていた。波を打って広がる髪は漆黒の闇の中でその輝く色を今は失っている。それは密かに人の目から隠すように全てが息を潜めているかのようだった。
 柔らかな下草を手の平に感じながらアスランの体はその下のカガリの体温を薄い夜着越しに感じ取っていた。ずっと焦がれていたその対象を目の前に、アスランの心は揺れ動いている。何も口にするつもりの無いはずだったものが、つい口を衝いて出てしまうのは、周りを取り巻く薔薇の香の甘さのせいだと思った。
「本当は知っているのです。――」
 その髪に手を差し入れながら、下草を食むように髪を口で貪った。
「貴女はそうやって俺を弄んで愉しんでいるのでしょう。――」
 悦びに満ちた瞳を夜の闇に向けていたカガリが自分の首元を貪っているアスランに僅かに視線を向けて微笑する。
「そうだ、と言ったらお前は止めるのか?」
「――止めません」
 下草の上を這っていた片手は漸く思い切ったようにカガリの体に触れて行く。
「止めませんよ。その為に、俺はここにいるんですから――もう止める事なんて出来はしない」
 その言葉が表すようにアスランの躊躇いは全て取払われた。カガリは艶然とした笑みを浮かべてその全てを受け入れて行く。いつかのように自分に溺れて行くアスランをカガリは愉しんでいた。くすくすと笑いながらその背に手を回すと、もうあの頃のように手は届かない。それを確かめながらカガリはアスランの体の動きに身を委ねて瞳は満足気に宙の闇に向けられる。思い出の中に仕舞われたあの日々が、また今自分の手の中にあると確かに感じながらカガリの瞳は瞬いていた。
 夜露に触れたように、漆黒の色を映して艶やかにその瞳は黒々と濡れている。――

「随分長い間外にいたね」
 兄が庭から戻ったカガリに声を掛ける。
「何をしていたの?」
 薄い夜着のままで、と兄は妹の体を気遣った。
「花と戯れていたのですわ、お兄様」
 そのせいで夜露に濡れてしまったと微笑する妹を兄は見詰める。すっかり大人びた体つきになった妹の姿に少し眩しささえ感じながら、見詰めたその目を少し細めた。
「もうお休み」
 優しい笑みを浮かべた兄は妹の秘密を知りはしない。
 その夜着が夜露に湿りすぎている事に気付いていたなら――、その秘事はその時兄の知るところとなっていたかも知れない。

――……。




<08/06/01>

← 一幕へ三幕へ→