蕭条の裏館
第一幕 : 喪失
その館には16歳になる娘が一人で住んでいた。一人で住むにはおよそ広すぎるほどの館だったが、主であるべき父親はずっと愛人の屋敷に年中入り浸って不在だったし、代わって主を務めていた兄も仕事で都へ行ったままだった。母親は娘が幼い頃に既にこの世の人では無くなっている。
だからして、娘はずっと一人で過ごしていた。社交界にまだ不慣れな娘はあらゆる招待に一人で応じる事が躊躇われたし、何よりそう言う堅苦しい付き合いが苦手だった。父親がこの辺りの権力者のため何かとそういう招待が多かったが、兄の不在を理由に全て断った。
そう言う経緯で娘はとても退屈せねばならなかった。兄が都から戻ればねだってどこかへ連れて行ってもらうのだが、この間の手紙では、どうもそれがもう少し先になりそうだと言うことだった。
娘は毎日溜息を吐きながら過ごす。広い館のどこにも自分の退屈を紛らわしてくれるものは見当たらない。庭を歩いてもお茶を飲んでいても本を読もうとしても何も心を刺激するものには出会わない。―もっとも、本を読もうとするとすぐに眠くなって、文字を追うことすら出来なかったのだが。
「お嬢様。―カガリお嬢様」
呼ぶ声に娘―カガリが目を上げると、めくじらを立てたカヴァネスがカガリを見ていた。
「私の言ったことを聞いていらっしゃいましたか?」
「あ、聞いてなかった。あんまり退屈すぎて」
テーブルに頬杖をついて窓の外を見ていたカガリは軽く欠伸をして眠そうな声で答える。
今年何人目かわからないカヴァネスは、顔を蒼白にすると、今度は血が頭に上ったと見えて頬を赤く上気させた。そして今までのカヴァネス達と同じように、「辞めさせていただきます」と言うような旨の言葉を口にすると、さっさと部屋を出て行った。カガリの態度が万事このようだったから、誰が来ようと結果はいつも同じだった。
「ああ、またお兄様に叱られるなあ」
カガリはけれど全く反省の色の無い、寧ろそれが一つの退屈凌ぎであったとでも言うように、少しにやりと笑うと、また窓の外に目を向ける。僅かに愉快だった気分はしかしすぐに消え失せて、また前と同じ退屈な気分に戻ってしまった。
「ああ、退屈だ」
カガリはまた溜息を吐いて頬杖をつく。
何か自分をこの退屈な気分から解き放ってくれるものは無いものか――?心に刺激を与えてくれる、何か。けれども目に入るものは全て、カガリの望みを叶えてくれそうなものは何も無かった。
――が、意外なところからそれはやって来た。カガリの望む、今の退屈な情況から自分を解放してくれる「もの」。
その日の晩餐の席で、それはカガリの心を初めて捉えた。
給仕係の内の一人がその日に限っていつもの者では無かった。少年から青年へと移り変わる年頃の、まだ若い見慣れない使用人だった。
それが使用人のわりに案外綺麗な見目をしていたのがカガリの気を惹いた。そして綺麗なだけでは無く、妙な気品があった。
退屈な気分に苛まれていたカガリの心は、一遍にその心を動かした「もの」の虜になった。しかしそれはその「もの」自身の虜になったのでは無く、子供が面白い遊びを思い付いて、それに夢中になるのに似ていた。
「お前、後で私の部屋へ来い」
若い給仕係がすぐ側へやって来た時、カガリはそっと小声で命じた。咄嗟に意味を理解できずに呆けたようにカガリを見詰めるばかりの給仕係の瞳を楽しげに眺めながら、カガリは晩餐を終えて部屋を後にした。
その給仕係の青年はアスランと言った。今日はいつもの給仕係が急な病になったために、急遽代わりの給仕係を申し付けられた。
アスランがここへ雇われたのはまだ先月の事で、使用人の中でもまだ下っ端である彼は、普段はもっと目立たない仕事をしている。皿洗いや芋の皮むきなどで、よって今までカガリの目に触れたことが無かった。
遠目に館のお嬢様を見た事はあっても近付いたことすら無かったアスランは、今日初めてその姿を間近で見たのだった。そこへいきなり『後で部屋へ来い』と言われたものだから、一体何の用だろうとアスランは首を捻る。たまたま自分が側にいたから何か用事を言い付けられる羽目になったのだろうと思ったが、それにしてもお嬢様の部屋へ呼び付けられる用事とは一体何事だろう。――何度目かの首を捻る仕草をしながらアスランは今そのお嬢様の部屋の前に立っている。
軽くノックをして自分が来た事をドア越しに告げた。
「入れ」
カガリの声がして、アスランはドアを静かに開ける。そして部屋へ入ってドアを閉め、声がした方へ向き直ってから、思わず息を呑んだ。
片肘をつき、体をこちらに向けて寝台に横たわっているカガリの姿が目に入った。そしてそれは先程より何故か薄着姿だった。衣服の裾から白い足が覗き、その生々しさにアスランは見てはいけないものを見ているような気持ちになって目を逸らしそうになった。
「お前、こっちへ」
カガリの声が呼んで、アスランは一瞬躊躇ってから寝台の方へと近付いた。近付くと、その薄着の衣服が示す体の線や、覗く白い足の生々しさがより一層アスランの目に鮮やかに映り込む。目の遣り場に困り始めた時、カガリの声が告げた。
「そこに座って足を揉んでくれないか」
「は……?」
一瞬アスランは聞き間違えたのかと思った。
「あの、足を――ですか?」
「ああ、どうにも疲れてたまらないんだ」
寝台に腰掛けてカガリの足を揉めというその言葉は聞き間違いでは無かった。アスランが呆然と突っ立っていると、カガリはスルスルと衣服の裾を引き上げていく。そして膝の上あたりまでをアスランの目の前に曝し出した。
突然目の前に現れたまだ見た事も無い生々しい女体の白い足に、アスランはただ目を奪われている。頭のどこかでは、足を揉んだりするのは自分などでは無くメイドに頼めばいいのだとか、お嬢様は頼む相手を間違ったのだとか、そんな正気な事を考えていた。ただそんな思考も目の前の光景に次第に痺れたように頭が回らなくなってくる。
アスランはまだ自分の置かれた情況に気付いていなかった。素直に足を揉むべきかメイドを呼んできますなどと進言すべきかなどと迷っていた。しかしそう思いつつも、目はやはり曝されたものから離す事はできない。
「どうかしたか?」
カガリが艶然と微笑むと、アスランはその笑みに抗えないように言われたまま寝台に腰掛けていた。だがまだ足に触れるには思い切りがつかない。女体には初心過ぎた。
「早く揉んでくれ」
その声に促されるように、漸くアスランは白く細い足に手を掛ける。そして慣れない手付きで足を解し始めた。白いだけでは無く、その滑らかで柔らかな感触と言うものに、アスランは匂うような色香が立ち上ってきて鼻腔を擽るのを覚える。頭がくらりとしそうだった。
その感覚に心を奪われていた為に、すぐ間近に迫った白い手にアスランは気付かない。首元でするりと何かが解かれる音がして初めて、自分の首にあった筈のタイが抜き取られたのだと気が付いた。
「あの、――お嬢…様…?」
カガリの手の中にあるタイを見た時、アスランの中で何かが漸く鳴り始めた。しかしそれは遅すぎる警鐘だった。
「返して…いただけませんか…?」
「ああ」
カガリはまた艶然と微笑する。
「取ってみろよ」
そしてタイを口にくわえた。
アスランは為す術も無く、ただそんなカガリの姿を凝視している。心の中ではずっと警鐘が鳴っていたがどうする事も出来ない。
いつだったか、使用人に手をつける奥方の話と言うのを聞いた事があった。夫との仲が上手く行かず、その不満を埋める為に自分の館の使用人に次々と手を付けた奥方がいたと聞いた。けれどそれはもっと位が上の使用人で、自分のような下男では無い。まさか自分のような者が館のお嬢様に――などと言う事は思いも掛けなかった事だとアスランは眩暈のしそうな頭のどこかで思った。
その間にカガリの口にくわえられたタイは既に部屋の向こうへ投げ捨てられて手の届かないところにある。アスランがそちらに気を取られていると、何かが胸元に触れた。見ると、バラの花が触れている。触れていると言うよりも、その花弁ではだけかけた首から胸元を撫でられている。ぎょっとしてカガリを見た。さも楽しげに、花瓶から抜き取ったバラの花でアスランの体を弄んでいる。その体に擦れる感触が今まで味わった事の無い奇妙な熱と高揚をアスランに与え始めた。けれどもまだどこかで正気を保っている頭は、その現実を必死に拒もうとしている。
「あの、お嬢様…私は…」
「お前、名前は?」
バラで弄びながら、カガリの指がシャツに掛けられた。
「…アスラン、と……あの、お嬢様――」
「何だ、アスラン?」
抵抗しようとして出した手が、すぐ間近で直視されて怯んだ。
「何?」
大きな濡れた瞳に艶然とした微笑。理性のネジが抜け落ちる音がどこかで聞こえた。
「あ、あの――」
行き場を失い、空しく宙に漂っていた手にいつしか白い手が絡み、それを小さな赤い唇が噛んだ。
「――何?」
上目遣いで見上げる瞳にもう抗えるほどの気力はアスランには残ってはいなかった。
ゆっくりと衣服をはだけさせていく白い指はそれ自体が生き物のように艶かしく動いていく。為されるがまま人形のように動く事の出来ないアスランはただそれを目で追っている。カガリは曝されていく目の前の、初めて見る異性の体の作りと言うものに、新しい玩具を見るような目の輝きで追っている。カガリの手がズボンに掛かった時、さすがにアスランの思考は一瞬我に返ってその手を抑えた。
「あ、あのお嬢様」
最後の気力を振り絞るように訴えるアスランの悲痛な言葉に、カガリが目を上げた。また目と目が合う。
「だから、――何?」
そう言いながら近付いて来る甘い匂いのするカガリの肌に息を呑んだ時、妖艶な微笑を浮かべていたその唇がアスランの唇に吸い付いた。硬直する体は憐れなほど無抵抗なまま、カガリの手を受け入れる。上半身を廻った手の平はまた下の方へと下がっていき、そこにある着衣を易々と剥ぎ取りに掛かる。
もう意識も定かでないほど朦朧とし始めた頭は、ただ熱に浮かされたようにぼうっとするばかりで何も考えることが出来なくなり、ただそれでも目の前に次第に曝されて行く、初めて見る女体というものだけは意識ははっきりと捉えていた。カガリはゆっくりとした手付きで自分の衣服を解いていく。それはアスランの様子を楽しんでいるように見えた。
既に罠に掛かって逃げられない事を悟った獲物の反応を楽しんでいる。それはカガリにとって最高の退屈凌ぎだった。
それからの事はアスランの意識はまるで朦朧としていて、途切れ途切れにしか記憶されなかった。人形のように体中を手で触られたりだとか歯を立てられたような気配はある。けれども自分が何をどうしたのかはよく覚えてはいなかった。初めての事である。よくわからないうちに、寧ろカガリに為されるがままに、ただ流されていただけだったように思える。ただ事のさなかのカガリの目の輝きが、余りにきらきらとして印象的だったのを覚えている。それは自分が果てるその時まで、ずっと目を捉えて離さなかったのだった。
館の広い庭の敷地内には温室がある。その温室で館に毎日飾られるバラを育てている庭師は夜のバラを見るのが日課だった。夜のバラはまた違う美しさがある、と庭師は思っていた。月の光の下には昼とは違う世界がある。
いつものように庭師は温室の隅に座って夜のバラを眺めていた。ふと何かが動く気配がして、入り口の方を見ると一つの人影がある。こんな時間に誰が、と訝しがって目を凝らすと、月の光がその正体を明かした。
「ああ」と庭師は微笑した。
「新入りの坊やか」
その見目の綺麗さから、庭師は彼を「坊や」と揶揄して呼んでいた。「アスラン」と言う名は勿論知ってはいたが。
「どうした、こっちへおいで」
こんな時間に、と彼は言わない。こんな場所へ来る事自体、彼が何か心に抱えている事を物語っていた。
影はゆらりと動くと、静かに庭師の側へとやって来た。そしてその隣へと座った。
「綺麗な花ですね」
ただ一言そう言うと、アスランは黙って花を見ている。庭師がそっとその表情を見遣ると、月の光りの中でそれは泣き顔のようにも見えた。
「――無くしたものがあるんです」
ぽつりと呟かれた言葉が庭師の耳に届いたが、庭師はただ黙って聞いていた。そしてそれきり言葉は語られず、ただ頭上の月だけが、静かに二人を照らしていた。
秘事は一度だけでは済まされなかった。カガリの格好の退屈凌ぎとなったアスランは、それから何度もその部屋へと呼び付けられねばならなかった。
始めはひたすら重い気持ちでそのドアの前に暫く佇んでいたアスランだったが、何度も事を重ねていくうちに、次第にその部屋へと向ける足取りの重さが薄れていった。それは「慣れ」と言うものでもあったが、その他に別のわけがあった。
それは事の終わったその後に、何も身に纏わないままで交わされる会話から曝される、内面的なものだった。カガリは頬杖を付いてアスランに身の上話を訊ねる。アスランはぽつりぽつりとそれに答える。それをカガリは興味深げに聞いている。それだけの会話だったが、それが心の繋がりと言うものへといつの間にか移り変わって行く。
そんな事が暫く続けられた。
カガリはその内に部屋以外の場所でもアスランを待っていて、強引に人気の無い場所へと引っ張って行こうとするので、仕事中である時はさすがにアスランも抗った。
「駄目です、お嬢様。今は仕事中ですから――」
そんなアスランの言葉も聞いてはいない。楽しげにアスランの腕を引いてカガリは庭の隅にある東屋へと無理矢理連れて行く。人目を気にしながらアスランはカガリに同じ文句を繰り返すが効き目は無い。
東屋へ着くとカガリはすぐにアスランの首に腕を回してにこりと笑ってみせる。
「あの、――」
「うん、何だ?」
首を傾げて嫣然と微笑まれては敵わない。けれどもここは木々に囲まれているとは言え、あまりに見通しが良すぎる。
「見え過ぎると思うんですが――」
愚かな言葉だと思いつつ、アスランはそれを口にする。
「うん、だから?」
如何にもそれがどうしたと言わんばかりの答えにアスランは窮する。このお嬢様にとってそんな事は些細な事らしい。けれどもアスランにとってはそうでは無い。人の目に触れる事は即ち自分がこの館を追われる事を示している。
「だから――」
アスランの言葉はそこで途切れざるを得なかった。吸い付くカガリの唇と背に回された手の動きが、アスランの抗いをそこで封じ去った。
もうそうなればアスランの理性も微塵に砕け散り、あとは本能の要求するままに体が動くのに任せるだけだった。
もし人に見られたらと言う戦慄感は返って情事を煽り立てて行く。アスランはカガリの口から漏れる嬌声を手の平で抑え続けた。それがまた返って奇妙な高揚感を与えてアスランは激しい眩暈を覚えた。
上から降るような溢れる緑の色が鮮やかに目の奥に焼き付いていく。しかし何よりもアスランの目の奥に焼き付いたのは、緑よりも鮮やかに輝いている、カガリの悦びに満ちた目の色だった。
アスランは救貧院で育った。二親の顔は知らない。13歳までそこで育った後、奉公に出されてあちこちを転々とした。元々手先が器用だった為、一度は時計の修理の店に雇われたが、そこの主人にあらぬ疑いを掛けられて解雇を言い渡された。それは奥方に言い寄ったと言う疑惑だったが、それは実は奥方が一方的にアスランに熱を上げていたと言うのが事実だった。他に就いた仕事も何かが関わっていつも上手くいかず、そんな中漸く心ある人の口利きでこの館に雇われたばかりだった。それがまたこんな危うい情況に陥っている事にアスランは心中嘆きたくなる思いだったが、その一方このお嬢様との秘事を既に自分が絶つ事が出来ないのも真実だった。それは事自体がもたらす快楽的な刺激だけでは無い、説明のつかない何かがそこにあったからだったが、それはアスラン自身にもよくわからなかった。ただ、初めて部屋に呼ばれたあの時には感じなかった何かが今の自分の中にはもやもやとしている。それは日を追うごとに次第に色濃くアスランの心を覆っていった。そしてカガリに会う度に、事が重なっていく度に、明確にその心を捉えていく。
「お兄様が帰っていらっしゃるそうだ」
いつものように一糸纏わぬ姿で寝台に腹這いになったカガリが頬杖をついてそう言った。
「ご主人様が……?」
父親が帰らない今は兄が館の主人になっていた。
「ちょっと困った事になった」
珍しくカガリが気弱な言葉を吐いた。
「お兄様は感が鋭いからきっとすぐにこの事にも気付くだろう」
「……」
アスランはまだその兄を知らない。けれどもカガリの口調から、聡明な人物であろう事が窺えた。
「多分、今度お帰りになったら、暫く都へは行かないと思う」
それはもう今のように、簡単にこの秘事が続けられない事を指していた。
「それに、都からあいつが一緒に来るそうだ」
「あいつ?」
「ああ。私の婚約者だ」
その言葉を聞いた時、アスランの心を覆っていたものが不意に姿を現した。それは急速に形を成して心の中に膨れ上がっていく。
「婚約者がいるのですか?」
「ああ、昔親が決めた婚約者だけどな」
良家の娘に婚約者がいる事など別に珍しい事では無かった。そして普通はそれに添っていつかは結婚して行くものだ。
「でも私はあいつが嫌いなんだ」
カガリの面白く無さそうな顔を見ながらアスランは心にわだかまっていく何かを感じていた。
「……でもいつかは結婚するのでしょう?」
カガリから目を逸らしてそう低く言ったアスランの顔を今度はカガリが見る。そして軽い笑い声を立てた。
「それがこの世の決まり事だからな」
アスランはその言葉に再びカガリに目を向ける。何不自由の無い勝手気ままなお嬢様だと思っていたカガリの目は、自分よりも世を達観した瞳でそこにあった。それはアスランの話を聞いている時に、時々表れる目だとアスランは思い出した。
「お前は好きな人と結婚しろよ」
微笑する表情にアスランの心の底で何かがずくずくと音を立てた。それはわだかまっていたものが、一気に動き出した音だった。
暫く合わせていた目をふいと逸らしたカガリが寝台から出ようとしたのを、我知らずアスランの手が伸びて留めた。
「何?」
振り返ったカガリを見てアスランは漸く自分の中で燻っていた気持ちに気付いた。
紛れも無く自分は今この人が好きなのだ、そう思った。それも恐らくはここから立ち去らせたくないほどに惹かれている。そう自覚すればするほど益々この手を離したくない。その婚約者などと言う男にも渡したくはないと言う気持ちが急激に強くなった。
何も言わずに手を離さないアスランの様子に、カガリはまた「何?」と微笑しながら片手を伸ばしてアスランの頬を撫でる。
「ああお前が上流階級の身分だったらお前と結婚するのに」
他愛無く漏らされたその言葉が一瞬にしてアスランの運命を決めた。
頬を撫でていたカガリの手を握ると、
「――本当ですか?」
と両手を掴んだ。
「――本当に?」
もう一度確かめるようにそう言うと、首を少し傾げて見ていたカガリが艶然と微笑んだ。それはただの戯れの微笑であったのかも知れないが、アスランの心を捉えるには十分だった。
初めてアスランは自分の意志でカガリを望んだ。欲望と言う名の下に自分のものにしたいと思った。奉仕ではなく、それは衝動だった。
折り重なった体の下でカガリが小さく声を上げるのを、暇も与えずただ自分の欲望をそこに迸らせた。主従関係を忘れたそんな行為を始めて身に受けながら、それでもカガリはその背に手を回して這わす。そして溺れていくアスランをまるで愉しむようにその輝く瞳に映していた。
それから数日後、アスランは館を去った。それはカガリの兄が館へと戻って来る僅かばかり前の事だった。
カガリは何事も無かったように兄を迎え入れ、一緒に訪れた婚約者には形式的な挨拶と在り来たりな短い会話しか与えなかった。そんな毎日が続くうちにさすがに飽きたと見えて婚約者は早々に都へと帰って行った。
「そんな事では結婚生活が思い遣られるな」
呆れた顔の兄に向ってカガリは微笑する。
「お兄様、世の中は何が起こるかわからないものよ」
あの退屈極まりなかった館での毎日が、嘘のように一変した日々をカガリは思い出す。それは自分が手にする事の無いと思っていた、輝きに満ちた日々だった。
アスランがここを去ったわけはわからない。けれども兄が戻った今、互いにその方がいいのだとカガリは思った。寧ろ身近にいて、触れられないほうが苦しいに違いない。
「退屈凌ぎ、だったはずなのになあ」
自分の心の言葉にカガリは自答する。そして微笑を浮かべると、また日々の回想の中へと戻って行った。ふと見掛けた兄は急に大人びたようなその妹の姿に暫し目を留める。
『何かあったのかいカガリ…?』
もしアスランがまだ館にいたならば、その命は無かったのかも知れない――。
――が、世の中は何が起こるかわからない。
その一年後、カガリは夜会でアスランと再び出会う事となる。――
<08/05/18>
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