第四幕 : 闇夜




「そろそろ話を進めないといけないよ、カガリ」
 その兄の言葉をカガリは背中で聞いていたが変わらず花を愛でながら答える。
「19歳になってから、と言うお話でしたわお兄様」
「でもじき18になる」
「まだ17ですわ私」
 庭の花を愛でながら背中を見せ続ける妹の、その言葉がどんな表情で語られているのか兄は気になった。今までこの話について、妹がこんなふうにあからさまに難色を示した事は無い。
「それに――」
 カガリがふと楽しげな口調になる。
「あちらはあちらで、随分と楽しんでいらっしゃるようですし――」
 兄は眉根を寄せた。
「一体誰がそんな事を?」
 カガリはそこでやっと兄を振り向いた。大人びた表情が兄の心を一瞬捉える。僅かに微笑したその口元は赤い小さな花のように開いた。
「専らの噂です――社交界あそこでの」
 誰に吹き込まれた噂かは知れなかったが、兄は妹がいつの間にかあの社交界と言う場所に馴染んでいる事を知った。以前はあまり人付き合いを好まなかった筈が、自分が気付かぬうちにいつの間にか人の手の垢に染まってしまっているような、そんな錯覚めいた妙な気持ちを覚えた。
「およし、人の噂など。当てにはならない」
「火の無い所に煙は立たないと言いますわ」
「カガリ」
 兄は強い口調で名を呼ぶと、叱責するように妹を見た。一瞬合った視線の中に、その時妹では無い見知らぬ娘を見たような気がして兄はハッとする。
「わかっています」
 静かな口調でそう言うと、カガリはまた向こうを向いて花を愛で始めた。
「昔父が口約束で決めたこと。まだ正式に発表していないとは言え、幼ない頃から決まっていた事です」
 手で花を弄ぶその後姿はかつての我侭で気ままなだけの妹とはどこか違っている。しっとりと露を含んだ花の艶やかな姿をそこに見るような思いで、兄は後姿を見ていた。
「お兄様こそ、あまり婚約者を待たせてはお気の毒ですわ」
 そこでふっとカガリの手が止まった。
「好き合っておいでなのでしょう?」
 緩やかに漏らされた言葉はしかしどこか虚ろに辺りに響いた。
「――いいんだよ、僕の事は」
 兄の口からはその場にそぐわない乾いた声がした。それはそれ以上その事について語る事を阻むような語調を含んでいた。その言葉を言ってから兄の表情は重々しい空気に包まれて陰鬱な目をしていたが、それはカガリが背を向けている間だった。やがて兄が目から陰鬱な色を消し去り、カガリに近寄ってその肩に手を掛けた時には、元の柔和な笑みに戻っていた。
「――おいで、お茶にしよう」
 その優しい笑みに、カガリの顔にも微笑が戻る。促されて庭の小路を歩き始めたカガリは、隣を歩く兄を見遣り、目が合うと微笑みかけた。そして幼い頃のように寄り添うと、腕を取って甘えるようにそれに凭れ掛けた。兄は目を細めてそんな妹を見ている。腕に伝わる柔らかな感触が心を擽って、ふいに手の中にそれを納めてしまいたいと言う思いに囚われた。その衝動は小路が続く間ずっと兄を支配し、そそのかした。けれども小路が終わった時、漸く兄はその内なる惑いの声に打ち克って小さく息を漏らした。腕から離れた妹が、テラスでお茶の用意をしている執事や使用人と会話をする声を聞きながら、また兄はほっと溜息を吐く。今ほどのあの魔の囁きが、全身の力を奪って行ってしまったかのように疲れていた。
「――何て愚かな兄なんだろう、僕は…」
 先程妹が触れた腕にそっと触れながら、兄は小さく呟いた。その目の先の、楽しげに笑う妹の顔が痛みを伴って兄の瞳に映る。余りの罪の深さに打ちのめされる思いに駆られながら、漸く動かした足取りを彼は妹の元へと向けた。

 月の無い夜がやって来るその前に、アスランはカガリとある夜会で顔を合わせる事となった。その日アスランは養父の知り合いの老夫人と同伴し、カガリは兄と連れ立っていた。規模の小さな夜会であった為に互いの姿に気付くのにそう時間はかからなかった。けれどもアスランは老夫人の相手を務めねばならず、カガリも兄の目があって、そう簡単に話す事はおろか、近付くことすら出来ない。互いの視線が時々一瞬合わさるだけで、時間は何事もないように過ぎ去って行く。
 老夫人がアスランに声を掛けた。
「私は疲れたからここで暫く休んでいます。その間貴方はどなたかとどうぞ踊っていらして」
 まだ若い同伴者に気を利かせたつもりなのか老夫人はそう言うと壁際の椅子に腰掛けた。アスランは夫人に一礼すると、「はい奥様」と微笑して答える。そうしてからまるで迷いの無い足取りで部屋を横切り、反対側の壁の際で談笑する兄の横に立っていたカガリの前へと歩み寄った。
「お相手を願えませんか」
 一礼して手を差し出すアスランを、カガリは淡々とした微笑を浮かべて見ていたが、隣の兄が何かを言う前に、その手を取った。
「ではあちらへ」
 そこから少し離れた場所へと踊る人々を避けながら、カガリの手を取ったアスランは歩いて行く。そして向かい合って体勢を作ると、流れる音楽に乗って踊り始めた。
「へえ、なかなかリードが上手いな。一体いつ覚えたんだ?」
 クスリとカガリが小さく笑うと、アスランは添える手に微かに力を加えた。
「それはもう死に物狂いで」
「それにしては随分余裕だな」
「元々素質があったんでしょう」
 他愛無い会話を交わしながら踊りは続いて行く。
 そしてカガリの目はアスランの肩越しに、ずっとこちらを見ている兄を捉えていた。
「お兄様が見ている」
「知っています」
 暫く言葉が止んで、ふ、と笑う気配がしてアスランが視線を落とすと、そこに静かな笑みを湛えて見上げるカガリの顔があった。思わぬ表情にアスランも言葉無くただカガリを見返す。
 そんな二人を離れた場所で見ている兄は、隣にいる紳士に目を離さないままに訊ねた。
「あれはどこの御子息ですか」
「ああ、あれは」
 内心気の毒に思いながら紳士は答える。その同情がアスランに対するものかカガリに対するものか、それとも二人に対するものだったのか。
 何れにせよ、この兄のカガリに対する執着は少し度が過ぎると紳士は思った。
「ザラ家の養子ですよ。先頃迎え入れた」
「――ザラ家の?」
 その名を聞いて兄の顔が曇った。そして目で踊り続ける二人を追いながら食い入るように見詰める。
 その内に音楽は終わり、ざわざわと散り始めた人々の中で、まだそこに立ったまま何か一言二言言葉を交わしている二人に向って兄は歩き出した。
「兄上がお迎えにお見えです」
 アスランは目の端で兄の姿を捉えている。
「それでは」
 そう言うとカガリの手を取り、素早くその手の甲に唇を押し当てた。
 そして足早に老夫人の元へと去って行く。入れ替わるようにやって来た兄は、その後姿を見ながらカガリに問う。
「彼と何を話していたんだい?」
 カガリは兄に向って微笑した。
「踊りがお上手ですわ、と申し上げました」
「その他には?」
「他愛の無い事ばかりで忘れてしまいました」
 そう言うカガリの様子に、兄は少し安堵したような表情になる。そしてふとまたアスランが去った方向に目を遣った時、壁際に立ってこちらを見ているアスランの目に行き当たった。それは明らかに自分を見ている、と兄は感じた。その目が何かの意志を含んで向けられ、微かに微笑を浮かべている。それを見た時兄は自分の心が戦慄するのを覚えた。
 まるで宣戦布告とも取れるその笑みをふいと次の瞬間にアスランは逸らして隣に座る老夫人と言葉を交わしている。
 けれども確かに兄はそれを見た。ザラ家の人間が、そんな笑みを浮かべる事は、兄に不吉な予感を過ぎらせた。
「お兄様?」
 黙ったままそこに突っ立っている兄に、カガリは不思議そうに声を掛ける。その声に気付いて兄は漸くカガリを見た。
「今日はもう帰ろう」
 低くそう告げると兄は先に立って歩き始める。兄のいつもとは違う様子に気付いたカガリだったが、何も言わずに兄の後を追った。そして途中で一度だけ振り返ると、こちらを見ている緑色の瞳を確かめるように反対側の壁際に目を向け、そしてまた兄を追って歩き始めた。

 それから暫く兄とカガリが夜会に出る事は無く、日が流れた。理由はわからなかったが、兄がカガリを外に出したがらなかったからだった。
 そうしてまた家に閉じ込められたままカガリは日々を過ごさねばならなかった。

 ――そして、月が無い日の夜。

 かつて使用人として暮らしたアスハ家の館の庭である。どこの囲いにその綻びがあるのかそう言う事を心得てはいても、やはり忍んで行くにはそれなりの覚悟が必要だった。先日忍んで行った時同様、絶対に家の者に気取られる訳には行かない。何より、今自分はザラ家の人間である。ここでザラ家にとって不利益な物事を起こす事は、何があっても避けねばならない事である。
 そうだとは分かっていても、アスランはやはり来られずにはいられなかった自分を愚かだと罵った。戯言を真に受けてこんな場所へと危険を冒してまでやって来た自分はなんて無様なのだろう。こんな自分を彼女は愉しんでいるのだ。弄んでいるのではないか、そう嘲笑いたい気持ちだった。先日夜会で会った時に、敢えて今日の事を口にはしなかったのは、こうして本当にやって来てしまった自分の姿をカガリに知られたくなかったからでもあった。彼女が来なければ、やはり戯言だったのだと自分を笑うだけで傷は食い止められる。ただ希望も無く待つだけならまだいい。「待っている」と言う言葉を言ってしまえばもうそこで有らぬ希望を抱いてどうしようも無い焦燥感に苛まれながらずっと待ち続けなければならないのだ――。
 古びた温室の端に座ってアスランはぼんやりと闇を眺めていた。捨てられてからどれくらいが経つのか、あちこちに壊れが目立つ温室の、その中にはけれども未だ捨てられた事を知らない花達が自らの力で生き延びていた。手入れがされないまま自由にその枝を広げ、背を伸ばしている。不思議とその力強い生命力が、花の香にも何かの力を与えていた。強く香るのは不思議な懐かしい香りだった。甘いだけでは無く、頭の芯に届いていくような酸味を帯びた香り。――ふと、いつだったか、こんな事があった、とアスランは朧気に思った。こんな闇の中で、誰かを待っていた事があった。そしてそこにはこんな花の匂いが一杯に辺りに立ち籠めていた――あれは、いつ、そしてどこでだったのだろう……?
 思い出そうと記憶の中を更に探ってみたが、一瞬現れたイメージもすぐに煙のように揺らいで消えて行ってしまった。いつか夢で見たのかも知れないとアスランは思って、それ以上その事についてはもう深く考えなかった。もしかしたら闇が見せた幻影かも知れない、そうもアスランは思った。
 その間も来るはずのない人影はやはりそこに現れなかった。夜は益々深まって行き、闇は黒々と目の前に横たわる。
 ――もう気が済んだではないか
 一人微笑してアスランは闇夜を見上げた。月の無い空は、地平との境を曖昧にして見せている。まるで自分の心の中のようだと思った。曖昧な気持ちのままでいる事に苦しさすら覚えている自分は、ここから動く事が出来ないでいる。救いを求めてもどこにもそれは見当たらないと言うのに、それでも本当は尚それを求めている。自嘲する事でまだ救われるのなら自嘲すればいい。――自虐に救いを求め始めたアスランは低く忍び笑いを漏らした。
 カタリ、と温室の片隅で小さな物音がしてアスランはその方向に目を凝らす。風が起こした物音かと思った時、黒々とした闇が僅かに動いた。闇の中で闇が動くように何かが近付くと、それが目の前に現れた時に、初めて人影だとわかった。闇の色と同じ真っ黒な布を頭から被っている。
「どうした?」
 はっきりとわかるその声が告げた時、アスランは一瞬言葉を失ったようにただ呆然とした目でその人影を見上げ、そしてやがて力無く首を横に振った。微かな星明りの下で、僅かに互いの姿が見えている。
「――何故、来たのですか」
 そんな言葉が漸くアスランの口から漏れた。弱々しく呟かれたその言葉に、カガリは静かに答えた。
「何故?――まるで来てはいけなかったような言い草だな」
「そうです、寧ろ、……寧ろ来なければいいとさえ思っていたのに。――何故来たのですか」
 掠れた声はまるで責めるように思いに反して次々と言葉を口にする。静かに聞いていたカガリはやがて口を開いた。
「それでは戻った方がいいか?」
 深い闇の間でその言葉は穏やかに響いた。下を向いてアスランはまた力無く首を横に振る。そして闇を掴むように手を伸ばすと、黒い夜のしじまを掴んだ。カガリを覆っている真っ黒な布の端を手にすると、それに縋るようにアスランは顔を埋めて行く。それは深い闇に身を溶け込ませて行くようだった。
「もう止める事は出来ないのに――」
 そう小さく呟かれた言葉はカガリには届かず、夜の闇の中に消えた。布に顔を埋めたまま動かないアスランの背を、星明りだけが照らしている。闇の色に似た髪が、布の色に溶け込んでいた。その髪に、細い指が触れると静かに髪を梳くようにゆっくりと動いて行く。
「――アスランお前……」
 カガリの、鎮まった声がする。夜に似たしっとりとした響きだった。
「……泣いてるのか?――」
 
 どこかで夜鳴き鳥の声が聞こえ、それが鎮まると、また深い闇の底へと戻るように物音一つしない夜が広がって行く。――


 夜が白み始める僅かばかり前、館へと戻って来たカガリは黒い布を羽織ったままで部屋へと通じる階段を上り掛けた。
「どこへ行っていたんだい?」
 兄の姿が廊下にあって、カガリを見上げていた。
「眠れないので散歩に行っていたのです」
「こんな時間に?」
 カガリはそれには答えず、黙って兄を見る。
「私にも物を思う時があると言うことですわお兄様」
 静かにそう告げると、カガリはまた階段を上って行く。
「そんな格好で――?」
 妹には聞こえない声で兄は独り呟いた。その黒々とした姿が夜の庭を彷徨う様を兄は思い描く。一体何を物思って歩いているのか、兄にはわからない。けれどもそれが今まで見た事も無い妹の姿である事に違いは無かった。
 兄は暫くそこに佇むと、やがて庭へと通じるテラスへ出た。白み始めた空の色が鈍色に光っている。その色が何かを告げるように、ふと兄の心を掠めるものがあった。
 あの目が時々思い出されて兄の心を何かが覆っていく。暗い予感が空の色のように広がった。
「今更何故ザラ家が――」
 その言葉は途中で途切れて口からは語られなかった。
 ただ空の光が鈍色から乳白色へと変化して行くのを、兄は佇んで目に映していた。




<08/06/22>

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