恋するアンドロイド / 6この庭には一体何種類の薔薇があるのかと訊ねたことがある。 「さあ、どうだかな。花に聞いてみてくれ」 そう言って彼は笑った。 この春もまた、今は盛りと数え切れない程の花が咲き揃う。 点在するその鮮やかな花の一つ一つが、まるで緑の水面に落ちて模様を描く艶やかな雨の粒のようにも見える。 その中を泳ぐ美しい魚のようにゆっくりと彼女はそこを歩いて行く。 時々立ち止まり、花の一つを眺めては、またゆっくりと歩き始める。その歩調に合わせて肩に掛けた白いカーディガンの裾が、ゆらゆらと漂う魚の尾びれのように揺れていた。 屋敷の二階にあるリビングルームの一室からは庭の薔薇園が一望に見渡せ、花の季節には窓枠一杯にまるで絵のような景色が白い壁の中に切り取られる。その窓枠の中の小さな世界が好きだった。まるで自分だけの花園のようにその絵はそこにあった。誰にも邪魔されず、心行くまで好きなだけ見ていられる絵だった。 今その中をゆっくりと行く彼女の姿を追う。 思いに耽ったように遠くを見、そしてふと足元の一輪に目を留める。暫く見つめてからつと指を伸ばして花弁の先に触れ、そして指の背でビロードのようなその花弁の面をそっと撫でると、その指を唇にあてがった。感触を確かめるように触れた指を唇の上で動かすと、何かを想うように目を閉じた。 その絵をずっと見ていた。 恐らく初めて我を忘れると言う事を知った程に、目を離す事が出来ずずっと見ていた。 数日後に控えたカガリの14歳の誕生日パーティーの準備に、普段は物静かな屋敷も久々に活気付いていた。 迎える客は親しい人間やアスハ家が社交界で関わりのある人間だけに限られていたが、それでも来客の少ない屋敷にとっては最大のイベントとあって、普段使われない多量の食器や銀器が棚から取り出されて使用人総出で磨かれ、テーブルに並べられて行った。屋敷中のいたるところに花が飾られ、薄暗かった廊下や部屋の隅々が華やかな空気で彩られた。 今年はカガリの学校の友人達も招かれるとあって、今まで社交界の大人ばかりが招かれていた形ばかりのパーティーも、漸く年頃の娘らしい華やいだ雰囲気に包まれつつあった。 何より、カガリ自身が今まで無関心だったドレスに色々と注文を出した、と彼女の乳母であるマーナが嬉しげに話していた。「お嬢様もやっとお年頃の娘らしくなられた」と。 ――匂うように、その花は咲いた。 小雨が降り出した。 車へと向かう途中で薔薇園を通り掛ると、ふと一本の薔薇の木が目に留まった。彼女があの時愛でていた薔薇だった。 「これからお迎えかい?」 振り返ると、庭師が立っていた。 「ええ」 そう答えると、見ていた薔薇に気付いて微笑んだ。 「それは嬢様が一番好きな花でな。――亡くなられた奥様もお好きだったよ」 そう言うと目を細めてその花を見た。 小さな雨の粒が葉や花弁を叩いていた。彼女に愛でられた真紅の薔薇も真珠のような露をその花弁に含ませ、その露の粒の一つ一つがキラリと瞬きながら花弁を滑り落ちて行く。 ――何故、そんな事を思ったのか? この花を彼女に贈りたいなどと――まるで人間のように――。 雨の中、車を走らせて学校へと向かう。 雨は次第に激しさを増し、フロントガラスを叩く音が大きく響いた。 この時期にこんな雨は珍しい。まるで雨季のような雨だった。 学校へと着くと傘を片手に車を降りていつもの場所でカガリを待った。 地面を叩いた雨が飛び跳ねて服の裾を濡らしている。他の場所で待つ仲間のアンドロイド達もまた、雨の飛沫に濡れながら主人を待っていた。そしてその中に、あのフレイと言う少女のアンドロイドの姿もあった。彼もまた飛沫に濡れながら建物の方を見つめている。――愛玩用アンドロイド特有の『微笑』を浮かべて――。 やがて建物から出てくるカガリと、隣にミリアリアの姿が見えた。ミリアリアは大抵一緒にいる事が多く、カガリの一番親しい友人だった。 「この時期にこんな酷い雨なんてねえ」 「うんホント。あ、ミリィ途中まで乗ってく?方向一緒だろ?」 「うーん、ごめん。実はこの後ディアッカと約束してるのよ」 「ああ、彼Z校だっけ?」 「うん、駅で待ち合わせ」 「そっか。相変わらず仲良いよな」 「良いって言うより、もう腐れ縁。付き合い長いから」 「幼馴染だったよな」 「そう、もう10年よ。いい加減そろそろ考えようかなあって時々思うわ。何も男はアイツだけじゃなし」 「その割にはこの間の誕生日プレゼント、何にしようかって真剣に悩んでたぞ」 「…………そうだ、カガリの誕生日パーティー楽しみにしてるわね。お屋敷って憧れだったのよ私。ウチみたいな庶民は3LDKがせいぜいだもの」 「無駄に広いって言うのもただ寂しいだけだぞ」 「えーそうかなあ」 そんな話をしながら彼女達は近付いて来る。建物から屋根の繋がった駐車場の入り口まで来ると、ミリアリアはこちらに微笑を向け、そして手を振って二人は別れた。 「お帰りなさい」 「うん…」 傘を差し出すと受け取った。それを広げようとした時、「あら」と後ろから声がした。 カガリが振り向くとフレイが立っていた。 「こんにちはアスラン」 そう言うと微笑した。そして怪訝な表情のカガリに気付くと、 「別にもう何もしやしないわよ」 そう言ってクスリと笑った。 「悪かったと思ってるわよ、あの時は――」 その時彼女のアンドロイドが近付いて来るのが見えた。 「彼、ジョイよ」 視線の先のアンドロイドに微笑を送ると、 「今は――分かるわ、あなたの気持ち」 そう囁かれた言葉にカガリがハッと顔を上げると、「じゃあね」と艶やかな微笑を残し、傘も差さずにフレイは飛び出した。 微笑しながら自分の傘を差し出して迎えた彼 その日を待っていた花園の薔薇達は一斉に美しくそして艶やかに咲き綻んだ。 まだ眠っていた蕾も目覚めの時を知り、漸く巡り来た春の季節の訪いに悦びを一杯に溢れさせて花開いて行く。 一枚ずつ纏う衣を解くように開く姿は、――少女に似ている、とそう思った。 日毎に薄い衣を脱ぎ捨てて、その最後の一枚を脱ぎ去る時、………花は何を想うのだろう――? 屋敷で行われたカガリの誕生日パーティーは賑やかに時が過ぎ、ミリアリアや他の友人達に囲まれ祝福されているカガリは楽しげに笑っていたが、それを他所に招かれた社交界の客達は名門財閥アスハ家の一人娘が年頃の華やいだ雰囲気を持った娘へと成長した姿に、そろそろ父親が相手を決めるのではないか、と囁き合っていた。跡継ぎ息子のいないアスハ家はカガリが婿養子を迎えて家を継ぐことになる、と。 「是非今度はうちの息子の誕生日パーティーに」 同じ年頃の息子を持つ招待客達のそんな含みのある言葉が幾度となくカガリに向けられると、黙って微笑した。 咲いてしまったが故に愛でられる自らの宿命を知るように、ひっそりと微笑んだ。 その姿に、何故かあの真紅の薔薇の花を思った。 ――そうして、花の宴はやがて閉じられた。 パーティーが終わり、招待客が帰った後の屋敷はまた元のひっそりとした静けさの中にあった。 賑やかな喧騒が去った後に訪れる静寂はより深く屋敷を包んでいるように思えた。 白いドレスを纏ったままフラリと庭に出て戻らないカガリの姿を追って庭に出ると、夕闇が迫る空は藍色に染まりつつあり、既に幾つかの星が瞬き始めていた。風が冷え始めて花の匂いが濃く香った。 薔薇の木々の間を抜けて東屋の方へと足を向ける。きっと彼女はそこにいるに違いない。――何故だかわからないがそう思った。 東屋が見えた時、そこに座っている彼女の姿が見えた。薄闇に浮かび上がる白いドレス姿。その身体を柱に預けて凭れかかり、思いに耽るように視線は宙を彷徨っている。やがて近付く人影に気付くと、黙ったままで側へ行くまでじっと見つめていた。 「賭けてたんだ」 そう言うと微笑した。 「お前が来るかどうかって」 そう笑う顔は昔のようにあどけない。まるで数年前のあの頃に戻ったような気がした。 「これを貴女にお渡ししようと」 そう言って手に持った数本の真紅の薔薇を差し出した。 「庭師さんが切ってくれました」 差し出された花に彼女は一瞬目を見開くと暫くただじっと花を見ていた。 「『シュワルツ マドンナ』…」 そう呟くと、そっと手を延ばして薔薇の花を受け取った。 「…一番好きな薔薇だ」 微笑むとそっと花を撫でた。 「…ありがとう」 そう言うと、花に口付けるようにして暫く目を閉じた。 そして長い間閉じていた目を開けると、つと見上げて言った。 「真紅の薔薇の花言葉を?」 「…花言葉?」 そう問い返すと、クスリと笑った。 「『情熱』と、そして…」 その先はふと口を閉じた。 「でもお前にはわからない…」 目を伏せて微笑むと、もう片方の手で花を一輪抜き取った。 「恋と苦しみは同時にやって来る……なんて、まるで悲劇的だな」 そう呟くとそっと立ち上がった。 「でももう、花は咲いてしまったから――」 微笑し、手にした一輪を差し出した。 「お前に――」 その真紅の薔薇の鮮やかさを、ずっと忘れない。 気付かなかっただけで、もうとうに始まっていたのだ。その『恋』と言う心は――。 その数日後、フレイとジョイが失踪した――。 <06/06/04> 前へ / 次へ |