恋するアンドロイド / 3







季節は巡り    


薔薇の花が咲いた。
庭の一角の薔薇園に、それは今を盛りと咲き誇る。
その中にまだ幼い蕾を付けた花が一輪、咲くを今かと待ちながら、夢見るように眠っている。
咲くをまだ知らない花よ。
色付き花開く時の苦悩を未だ知らず、幸せな一時の夢の中にある花よ。

どうかその微笑みを忘れないで
そう祈らずにはいられない

愛らしいまでの微笑みを
どうか無くしてしまわないでと

ただ祈らずにはいられない
愛しいほどに可愛い花よ

どうか今暫くは
ただ幸せな一睡の夢をその花弁に。










「こんなところにいたのですか?」
目の前に立つと、クルリと悪戯な気色を浮かべた瞳が下から見上げてきた。
「姿が見えないので心配しました」
そう言うと、夜空に浮かぶ蒼い月の光の下、その見上げる瞳に宿った色が辺りの薔薇の花の色にも増して、言いようも無く優しく柔らかな光に満ちているように見えた。
「あー見つかったか。…ここ、秘密の場所だったのになあ」
楽しげにそう言うと、またクルリと瞳を動かせた。
「秘密、ですか?」
「そう、ひ・み・つ。誰も知らない特別な場所って事」
庭の一角に作られた薔薇園の、生い茂る幾多の群れのその奥に、僅かにそこだけが空けられたような空間がポッカリとあった。そしてそこには木作りの簡素なベンチが一つ設えてあり、そのベンチを囲むように周りに茂った薔薇の木が、その空間を他から閉ざすように、また包み込むようにその場所を覆っていた。花の盛りの季節には、そこは幾多の花々に彩られた楽園のようだと彼女は言い、今まさにその盛りを迎えた花達が競い合うように咲き揃っていた。
その花の真中で、カガリは笑う。
「庭師に頼んで作って貰ったんだ」
そう言って体を少しずらしてもう1人分のスペースを作ると、
「ほら」
とベンチを指し示した。
「私が座るのですか?」
首を傾げてそう尋ねると、キョトンとした顔をして、そして笑い出した。
「他に、誰がいるんだ?」
「いえ、ただ今『特別な場所』だと」
利発な瞳はその瞬間にパッと輝くと、月の光の中でキラキラと瞬いた。
「うん、そうだ。ここは私と亡くなったお母様と、庭師しか知らないんだぞ。お父様だって、まだ知らないんだ。お父様は花には興味は無いからな……だからお前、特別だ」
その最後の言葉を嬉しげに言うと、腕を引っ張り、その隣に俺を座らせた。
キラキラと瞬く瞳が覗き込む。
「秘密だぞ?」
「秘密、ですか?」
「うん、秘密だ」
「わかりました」
覗き込んだ瞳が楽しげにクルリとまた動くと、小さな白い小指を目の前に差し出した。
差し出されたそれを意味が解らず見ていると、
「お前も、ほら」
と左手を掴まれ、小指にその小さな白い指が絡み付いた。
「約束、な」
そう微笑むと、その指を淡い光の中でゆっくりと揺らし始めた。
「これは『約束の印』」
それが人間の、約束の印と言うものだと言う事を、その時初めて知った。
細くて小さな指。けれど、絡み付くその強さは、まだ無垢で畏れを知らない直向きさ。
向けられた心からの笑顔に、優しい心地が訪れた。
『月は、綺麗。花も、綺麗』
教えられた言葉が蘇る。
ああ、そうなのだ。
照らす淡い月の光の中、薔薇の花に彩られたその笑顔。
「綺麗ですね」
知らずに言葉が漏れた。
「うん、そうだろう?特に月夜の花達はとても綺麗なんだ。強い色の花は優しく、優しい色の花はもっと優しくなる」
まるでそこに花が咲くように、嬉しそうに微笑んだ。
「カガリも花のようですね」
思わずそう言うと、一瞬絶句して、目を見開いた。
見開かれた瞳には淡い光がゆらゆらと揺れ、小さな宝石に浮かぶ小さな蒼い月がそこにはあった。薄い漆黒の闇の中で、淡い光を放つ小さな宝石を、初めて綺麗だと、心からそう思った。
    『可憐』   そんな言葉を知るのは、もう少し後の事になる。
「夜には優しくなりますから」
少しの間の後にそう言葉を継ぐと、忽ち表情が崩れた。
「お前…なあ」
力の抜けた表情でそう呟くと、コツンと額を俺の腕に凭せ掛けた。
「あんまり変な事言うな」
「変な事?」
「………………いや、いい」
そう呟いた表情は、腕に遮られて見えない。
自分の影にすっぽりと収まってしまう程に小さなその体の重みを左腕に感じながら、何故自分は、今あんな言葉を継いだのだろうかと考えていた。本心を、まるで隠そうとするかのように、思わず紡がれ出た言葉。
言ってはならない事を言った後のような、初めて感じる戸惑。
これは、何なのか    
「お前、何だか良い匂い」
暫く考えに耽っている間に黙っていたカガリが突然そう言うと、体に抱きつくようにして、服に顔を付けてくんくんと仔犬のように嗅ぎ始めた。
「何だか良い匂いがする」
「良い匂い、ですか?」
「うん」
そう言いながら、廻した手でギュッと服を掴むと、胸の下辺りに強く顔を押し付けた。
「花の匂いがする」
そう言って、顔を埋めた。
「花の匂い…ですか?」
不思議そうにそう聞くと、
    いいんだ」
胸の下からくぐもった声がした。

月は蒼く、花は紅。
風はそよと吹き、木々を揺らすこともない。
たださり気ない景色と時間が、何の疑いもなくそこにあった。
そのまま眠りに落ちてしまった幼い主人の、まだあどけないその寝顔を、後になっても忘れた事は無い。



恐らくその夜が、二人にとっての最も幸せな夜だったのだ、と。



『月は、綺麗。花も、綺麗』




<06/03/21>

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