恋するアンドロイド / 2猫が死んだ。 彼女が生まれる前からこの屋敷に棲み付いていた、年老いた猫だった。 寒い朝に、眠るように動かなくなった。 「あれは、母親が逝ってから泣けなくなってしまったのだよ」 屋敷の主人は庭の一角の、生い茂る薔薇の群れの側に佇む幼い娘の後姿を眺めながら、誰に言うともなしにそう呟いた。 煙草の煙と共に吐き出されたその言葉は嗄れて、その底にちらりとした悲哀の色を覗かせながらも、どこか持て余した、処方の仕方が見当たらずに捨て置かれた患い人を見る医師のような、物憂い諦めと見放しの情の入り交じった、渇いた音のする言葉を響かせながら、それは薄い煙に包まれて高い白い天井へと立ち昇って行く。午後の光は、鈍く垂れ込めた雲のせいで灰色のくすんだ弱い光しか届かずに、主人の横顔に疲れた陰を作り出して後方の薄暗い壁へと吸い込まれる。光を吸い込んだ壁はより仄暗く影を増し、映る主人の影を一層深い闇へと導いているように見えた。 暫く影はひっそりと佇んだ後、ゆっくりと向きを変えると引き摺るような足取りを響かせながら、やがてドアの向こう側へと立ち去っていった。 窓枠の景色には、ただポツンと彼女だけが立ち尽くす。 手入れの行き届いた薔薇園と、刈り込まれた芝生の美しい調和が織り成すその庭の片隅に、それを乱すかのように作られた小さな盛り土があり、その前に立ち尽くす彼女の後姿が、その時とても弱く寒々しそうに見えた。何故その行動を選んだのかはわからない。わからないままに、小さなコートを片手に持つと、部屋を出て庭へと向かっていた。 庭へ出て芝生の中へと足を踏み入れた頃、重く垂れ込めていた灰色の空から終に耐え切れなくなったように、ポツリポツリと小さな雨が降り出した。薄ら寒い雨が短い芝の表面を小さく叩きながら、少しずつしっとりと地面を敷き詰めるように濡らして行く。それでも彼女はじっと小さな塊りを見つめたまま動かない。 芝を踏みしめる音が近付いても振り向こうともせず、その後姿に降り掛かる細い雨がガラスの細かい欠片のように瞬いては一瞬に消え逝く小さな命の灯のように見えた。 「庭師に頼んで埋めてもらったんだ」 ポツリ、と彼女がそう言った。 まるで独り言のような、何の抑揚も無いその言葉は、単調な雨の音と同じ調べで響いた。 「春と秋には薔薇が咲く」 黙って後ろからコートを着せ掛けた。 「濡れますよ、カガリ」 そう言うと、両手を肩に置いたまま、体を少し前に屈めて雨から彼女を護るように庇(ひさし)を作った。 庇の陰の中で小さな体が見上げる瞳と見下ろす瞳が合った。 光の灯っていなかった薄い琥珀色の瞳が、その時僅かにゆらりと蠢いた。そして暫くじっと瞬く事もせず見開かれていた瞳はやがて、微かに張りを失ったように細く歪んだ。 雨は次第にその粒の輪郭を増し、肩や背を叩く音が大きく響く。 髪を幾筋かの雫が伝い始め、彼女の顔を掠めて落ちた。 「あそこへ」 と彼女が少し離れた場所の東屋を指差した。 コートを頭から被せると、 「失礼」 と横向きに抱えた。 彼女の手がギュッと服の襟を掴んだ。 雨から庇うように東屋へと辿り付くと、作り付けのベンチの上にそっと降ろした。 襟を掴んでいた手がゆっくりと離れていく。 「少し濡れてしまいました」 そう言いながら屈んでコートを外し、濡れた彼女の衣服の雫を手で払う。 ポトリ、と露が一粒、手の上に落ちた。 それは冷たい雨の雫とは対照的な、仄かな温かさを持った一滴だった。 「アスラン」 俯いていた顔を上げたカガリの瞳一杯に、溢れんばかりの淡い露の光が宿っていた。それはやがて頬を伝わると少しずつ、ゆっくりと零れ落ちていく。 「誰もいない…から…」 またギュッと服を掴んで握り締めた。 無理に笑おうとするかのように懸命に顔を歪め、けれど結局上手く笑えずに方頬だけがピクリと動いたかと思うと、耐え切れずにクシャリと表情が崩れていく。 「誰もいないから…………っ」 詰まるような声でそう言うと、両手で服を強く引き寄せた。 「……カガリ?」 両腕で首に絡み付いてきた彼女の、小刻みに震える体を感じながら、伝わってくる微かな感情の波を体全体で受け止めていた。手の中のそれはあの時感じたフワリとした柔らかな感触では無く、降る雨のようにぐっしょりと濡れた小さな命の軋むような音と、そして今にも脆く音をたてながら崩折れて行きそうな、弱々しい命の息遣いだった。 水面に降る静かな雨のように、音も無く無数に広がって行く波紋のような、このゆらゆらと揺れ動く感情は、伝わる震えの場所から流れ込んで来る、仄かな温かさを持ったこの感覚を、一体何と呼ぶのだろう。 腕を広げて手を彼女の背に添えると、手のひらでそれは仔犬のように震え、あの時そうしたようにゆっくりとその背を撫で始めると、次第にその震えは穏やかになって行き、やがて呼吸は安堵したようなゆっくりとした振幅へと変わって行く。 強張っていた体の芯が徐々に緩み始め、また、あの柔らかさを伴って、手のひらに広がって行く。 絡めた腕の力が徐々に解けていく中で、小さな呟きが耳元で与えられた。 「…お前は死んだりなんかしない 彼女は泣けなかったのではなく、……ただ、その場所を失っていたのだ それが初めて見た、ヒトの、そしてカガリの…涙だった…。 <05.09.25> 前へ / 次へ |