ェール と 嫁 / 6





 夕日が山々を染めるように、朝日も山々を赤く焼いて行く。けれども今は、まだ仄かに色付いた山膚が、徐々にその色を増して行く前の、静かな時間だった。山が眠りから覚めるまでの僅かなひととき。真赤に染まる前のその薄っすらとオレンジがかった山の厳かな景色が、カガリは好きだった。これから儀式が始まろうとしている前の静けさ。その静けさが、心を清浄化していってくれる。一日が始まる前に、また新たな気持ちに立ち戻らせてくれる。そのひとときが、カガリにとってはかけがえの無い時間だった。
 けれども、山羊小屋にもたれ、膝を立てて座るカガリの表情は、厳かな景色を前に曇っていた。いつもの清々しい朝の儀式を見るでも無く、瞳はどこか虚空を見つめて心がそこには無いようだった。座り込んだ場所に茂る草花からの露が修道服を濡らしている。そんなことにも気付かないほど、深く物思いに沈んだ表情は、あらぬ場所を見つめたまま動かない。
 山羊が柵の向こうから顔を出して、カガリのヴェールを口で悪戯に引っ張った時、ようやくゆっくりと動いて振り返り、山羊の顔を撫でた。そのまま顔を撫でながら、しばらくまた物思いに囚われたように山羊を見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
 山羊小屋の外に広がる草地はそのまま向こうの山へと続いている。山は、徐々にその赤い色を濃くして行くところだった。
 修道院の敷地を示す柵が、山との間の草地の中にずっと続いている。それがところどころ壊れているのが見えて、山羊がいつも逃げ出すのはそこからだった。そこまでゆっくり歩いて行くと、カガリは立ち止まる。
 アスランと出会ったのは、山羊を追いかけている時だった、そう思いながら柵に触れる。あの頃のことが、もうずっと昔のことのように思われる。
 そう思った時に、先日のアスランの言葉がまた耳に甦った。
 あれから幾度も甦っては、カガリの心を重くする。
 まるで思いも掛けなかった告白は、あれから自分の全てを変えてしまったように思われた。
 何もかもが、今までとは違ってしまったように思える。
 『神の花嫁』になることを選んだ自分が、そのような告白を受けるなどと、カガリは考えたこともなかった。いや、そんな思いを寄せられること自体、ありはしないことだと思っていた。
 アスランという青年との出会いは、新しい友情との出会いだと嬉しかった。アスランの誠実で優しい人柄は、一緒にいてどこかほっとさせるような居心地の良さがあった。それはこの村の風景と似ている、そう思った。
 ひとつひとつ、アスランとの会話や出来事を思い出す。ふと気付くと、あれからいつも彼のことを考えている。
 けれどもそれは、傷付けてしまったことへの罪の意識だと思った。
 酷く傷付けた、それはずっとカガリの心に重く圧し掛かっている。
 あの時のアスランの悲痛な表情を思い出すたびに、胸が詰まるような苦しさを覚えた。
 けれども。自分は一体何と言えただろう。
 別の言い方であっても、それが彼の想いを拒絶する言葉に変わりは無い。
 受け入れることは出来ないのだ。
 受け入れることの出来ない気持ちを、拒絶するのに、何と言い返すことが出来ただろう。
 そう思うたび、胸が締め付けられるように痛む。
 触れた柵の表面を、僅かに滑った指はまたそこから離れた。
 深い物思いに沈むカガリの向こうに見える山は、今まさに眠りから覚めようと赤々と燃え始めている。その赤い陽は、カガリの修道服をも染め始めていたが、カガリはそれにも気付かず、ただ明けて行く空の向こうを見つめているばかりだった。


「パンを学校へ持っては行かないのですか?」
 シスターの一人がそう訊ねた時、カガリはまた物思いに沈んでいた自分に気が付いた。
 そのシスターは、アスランが持って来たバスケットを受け取った、あのシスターだった。
「また持って行っても構いませんよ」
 あれから何度となくパンを焼く手伝いをしているカガリに、シスターは微笑んで声を掛ける。
 カガリの目の前のテーブルには、今焼いたばかりのパンが並べられていた。
「いえ、いいんです」
 少し伏目がちにそう答えるカガリを、シスターは微笑したままで見つめていた。
「あまりパンばっかりもらっても、飽きるかもしれないし」
 わざと明るく振舞うような言い方で、カガリは笑ってパンを焼いた後の片づけを始める。
 そんなカガリをシスターは黙って見ていたが、やがて窓際に目を移してから、またカガリに声を掛けた。
「私はこれから出掛けねばなりませんから、あとは頼みましたよ。それから、窓際の花の水を替えておいてくださいね。まだ綺麗に咲いていますから」
 そう言って部屋から出て行くのを、「はい」と返事をしてカガリは見送った。
 扉が閉まった後、花、とシスターが言った言葉に、カガリは窓際を見やる。
 窓際の狭いスペースには、小さなガラスの花瓶が置いてあった。
 薄青く色付いた他は、何の飾り気も無い、質素な花瓶だった。
 けれどもそれを目にした途端、カガリの表情が変わる。
 そこにあったのは、アスランがバスケット一杯に詰めて持って来た、あのオレンジ色の花だった。
 あの花が、まだ綺麗に花を咲かせている。
 動かしていた手を我知らず止めたまま、カガリはその花に見入った。
 あの時アスランは、その花をバスケットに詰めて持って来た。
 一杯になるくらい、沢山の花をそこに咲かせていた。
 その時の光景を、カガリは思い出す。
 ただのパンの返礼ならば、あんなに沢山の花で埋める必要があっただろうか。
 たったひと束で十分なはずだった。
 そこに添えられたものがあったからこそ、花はあんなに一杯の花を咲かせていたのだ。
 そう気が付いた時、カガリはまた胸が大きく締め付けられるのを覚えた。
 花を見つめる瞳が大きく揺らぐ。
 そんなことにさえ自分は気付きもしなかった。ただのパンの返礼だと、無邪気に礼を言ったことが思い返された。
 あの時から、自分はアスランを知らず傷付けていたのではないか――そんな思いに、カガリの心はまた曇って、物思いへと沈んで行く。
 目の前のテーブルの上のパンは、形良くふっくらと焼きあがって、芳ばしい香りを部屋一杯に立ち上らせていた。


 アスランが夏休みの前に学校を辞めるとそうラクスに話したのは昨日のことだった。
 あまりに突然のことに、驚きを隠せないラクスがわけを訊ねると、アスランは父親との経緯を話して聞かせた。耳を傾けていたラクスは聞き終わると、少し考える様子を見せてから
「そうですか、そんなことがあったのですね」
 そう言って柔らかな表情を向けた。
「アスラン先生がそう決心されたのなら引き止めることは出来ませんけれど、でも、寂しくなりますわ」
 ラクスは弱々しく微笑んだ。
「すみません、中途半端にしてしまったことが、結局みんなに迷惑を掛けることになってしまって。子供達には一番悪いと思っています」
 まだ話してはいない子供達ひとりひとりの顔を思い浮かべて、アスランの心は塞いだ。
 赴任してすぐに仲良くなった子もいれば、最近になってようやく懐いてくれた子もいる。けれども、みんな自分にとっては同じ可愛い生徒だった。特に最近懐いてくれた子供は、自閉的なところがあり、それがやっと心を開いてくれたばかりで、まだこれから向き合って行こうとしていたところだった。そんな矢先、自分がここを去るということは、その子供に対しての裏切り行為にも思える。
 自分は結局、ここでも中途半端でしかなかったのだと、アスランは沈痛な気持ちになった。
 逃げることは、結局、何も満足に為し得ない。それを今、改めて思い知らされた気がした。
「カガリさんは――」
 自分の思いに浸っていたアスランの耳にその言葉が聞こえた時、アスランはビクリと体を震わせた。
「カガリさんは、知っているのですか?」
 顔を上げたアスランの目に、ラクスの瞳が映る。
 そこには先程とは違った、真っ直ぐに心を見通すような、真剣な瞳があった。
「――知っています」
 アスランは少しくぐもった声で答えた。心なしか、声が少し震えているのを、ラクスに気付かれなければいいと思った。
「先日、話しました」
「そうですか――」
 そう言ったきり、ラクスはそれ以上言葉を続けず、けれどもアスランに瞳を向けたまま、じっとその表情を見ているようだった。
 ラクスの目をまともに見返すことが出来ないのは、おそらく気付かれているのだろう自分のカガリへの気持ちを、ラクスがどう受け止めているのかという怖れと、その気持ちに自分がどう決着をつけるのかを見定めようとするかのような視線に、耐え難いものを感じたからだった。
 しばらく続いた沈黙を破ったのはアスランのほうだった。
 ラクスの視線に耐えかねたように、ある瞬間突然に、真実を告白してしまいたい衝動がアスランを捉えた。
 神父に罪を告解する気持ちにも似た感情が、心の内に湧きあがる。
「彼女に、告白しました」
 それだけを言うと、アスランはまた口を噤んで、ラクスに恐る恐る視線を向ける。
 波ひとつない湖面のような佇まいのラクスの瞳は、静寂に包まれてアスランを見ていた。
 それはただ真実を沈黙のうちに赦そうとするかのような、神の姿に似ていた。
 その姿に、幾分心が解れるのを覚える。
「でも、受け入れられませんでした」
 小さく笑ってアスランは俯いた。
 癒えることのない傷が、あの時の言葉をまたアスランに思い出させる。
 ずっと――友達だと思ってた
 はじめからわかってはいても、それを言葉にして告げられるのは、想像しているよりも遥かに辛いことだった。
 どこかに抱いていた微かな希望があったのだと、その時初めてアスランは思い知ったのだった。
「当然ですよね」
 自らを嗤うように、アスランは視線を落としたままで弱々しく笑う。
「それで、いいのですか?」
 ラクスの声は静かに、けれどもどこか凛とした意志を持って響いた。
「え――?」
 顔を上げたアスランの目に、真っ直ぐに見つめているラクスの瞳が映る。
 直向に、真摯に、それはアスランの心を見据えているようだった。
「本当に、それでいいのですか?」
 また繰り返される言葉が、謎の言葉となってアスランに届く。
 今ラクスが何と言ったのか、その意味がわからずに、アスランの視線はラクスの顔の上を彷徨った。
 それでいいのか、と彼女は確かに今問うた。
 それは非難されても仕方のない自分の愚かな行為を、肯定するばかりか、まるで諦めることに対して異議を唱えるような口調にも聞こえる。
 その真意を量りかねて、アスランは言葉を継げずにただ目の前のラクスを見ているばかりだった。
 その時席を外していた校長が教員室に戻ってくるのが見えて、ラクスは表情を元の何でもない穏やかさに戻すと、席を立って窓際の書類棚の整理を始める。
 その後姿を見ながらアスランは、今告げられた言葉が頭の中で何度も繰り返されるのを聞いていた。


 そして今日、ラクスが何かを提げて教員室に入って来たのは昼休みのことだった。
 見ると、手にバスケットを持っている。
 それは以前、カガリがパンを持って来た時の、あのバスケットだった。
 午後から校長が用事で出掛けているせいで、教員室にはラクスとアスランの二人きりしかいない。
 昨日のラクスの言葉が頭から離れないアスランは、何故ラクスがあんなことを言ったのかと、あれからずっと考え続けていた。これ以上どうしようもないはずの自分の気持ちを、それでいいのかとあれはまるで諭すような口振りだった。
 その真意を確かめたい思いと、持て余す気持ちがこれ以上傷付くのを恐れる思いの間で、アスランの心は朝からずっと揺れ続けた。
 それが、ラクスのほうからやって来るのを見て、アスランは動かしていたペンを止める。
 ラクスはアスランの側まで来ると、手にしたバスケットを机の上に置いた。
「これが、入り口のところに置いてありました」
 ラクスがフタを開けると、中から香ばしい匂いが立ち上る。
 中にはふっくらときつね色に焼きあがったパンが、一杯に入っていた。それは以前、カガリがバスケットに詰めて持ってきたパンよりも、ずっと形良く美味しそうなパンだった。
 そのバスケットを誰が持って来たのかは、言葉にしなくてもすぐにわかった。
 アスランはバスケットとパンをじっと見つめる。
 立ち上るパンの匂いが、まるで詫びの言葉の代わりのようにアスランの心に入り込む。
 そのパンを詰めたカガリの姿が、目の前に見えるような気がした。
 あの時、彼女はどれほど心を痛めただろう。
 自分の気持ちにしか囚われなかった己の身勝手さを思った。
 傷付いたのは、自分だけではない。
 むしろ、彼女の方が心を痛めているのではないか。あの天真爛漫さが失われた時の悲しげな表情をアスランは思い起こす。
 ただ気持ちを押し付けるだけの告白は、自分勝手でしかなかったと、今になって思う。
 昨日ラクスがどういうつもりで「本当にそれでいいのか」と訊ねたのか知れないが、そんな自分がこれ以上、カガリに何を言うことが出来るだろう。これ以上はより彼女を苦しめることにしかならないではないかとアスランはそう思った。
 目の前のパンをじっと見つめていた瞳を、ゆっくりとラクスに向ける。
 ラクスは静まった目で、ずっとアスランを見ていた。
 昨日あの言葉を口にした時とは違った、見守るような視線だった。
「お願いがあるのですが」
 そのラクスの瞳を見ながらゆっくりと口を開く。
 ずっと心にあった秘密を、ようやく光のもとに返すように、ゆっくりと口を開いた。
 もう思い残すことはない。
 全てが始まった、あの場所。
 カガリと初めて出会った場所を、アスランは思い起こす。
 少年のように山羊を追い掛けていた修道服姿の少女。あそこで彼女と出会ってから、全てが始まった。何もかもから逃げてきた自分を、そのままに、あるがままに受け入れてくれた。この村の風景と同じように、それは優しく、清々しさを伴って、いつの間にか自分の胸に住み着いた。
 胸にある暖かなとくとくと音のする想い出を、ひとつひとつ大切に噛み締めるように、アスランは振り返る。
 ここに来たことが、ただ逃げてきたことだけにはならないと、今なら確かにそう思える。
 彼女を、好きになった。
 それは自分にとって、何にも替え難い想い。
 人を好きになるということ。それは自分をさらけ出すことに似ている。
 こんな自分を、今初めて受け入れることが出来たのだと、そう思う。――弱くても、別にいいじゃないか。そう言ってくれた彼女の言葉が甦る。疑問と否定の言葉の海でずっと彷徨っていた自分を、たったひとことで救ってしまったのに、そんなことにすら気付かない彼女の大らかな笑顔を思い出して、アスランの目は優しさに満ちた。
 彼女を、好きになって、本当に良かった。
 今なら心からそう思える。
 安らかな微笑をその顔に浮かべて、アスランはラクスに言葉を告げる。
 目の前のバスケットは、この前と同じように、食べ切れない程のパンで一杯だった。


 礼拝堂の中は昼間でも薄暗いほどだった。両方の壁に設けられた小さな窓からはささやかな光しか入らず、その光は礼拝堂の中を照らすには十分ではなかった。けれども、神の尊い声を聞くには、その光で丁度良いのだとカガリは教えられたことがある。あり過ぎるばかりが、何も良いこととは限らない。あり過ぎることが、返って邪魔になることもある。
 礼拝堂の中ほどの長椅子に座り、あの時この場所に座っていたアスランのことにカガリの想いは馳せていた。
 あの時は酷い雨だった。叩きつけるような雨の中を、アスランはずぶ濡れになって帰って行ったことだろう。体だけではなく心まで雨に打たれたようになったアスランの心中を思うと、カガリの心はまた沈み込む。どれほどの痛みを抱えて彼は帰って行ったのだろう。思えば思うほど、辛さが増して行く。
 薄く射して来る窓からの光が祭壇を照らしている。あの時、じっと祭壇を見ていたアスランの姿をカガリは思い出した。まるで神と対話をしているようにも見えたその姿が、何を思っていたのかはわからない。けれど、静かに、何かを見据えているようだった。
 『あり過ぎて救われない』かつてそう言った自分の言葉が思い出された。あり過ぎるものに、ずっと心を傷つけられてきたアスランの、「自分の選べない弱さだ」と言った時の瞳を思い出す。傷付けられながら、懸命に、自分と向き合おうとしていた直向な瞳だった。その瞳が、時々救いを求めるように、自分に注がれていたのに気付かなかった。ただ、友人として、親愛の情を示しているとしか思ってはいなかった。
 窓からの光を見ながら、カガリはアスランの表情をひとつずつ思い起こして行く。
 初めて会った頃は、どこか自信なさげで、惑うことの多かった表情が、いつしか和らいだ表情になった。そこに、時に優しさが入り混じるようになったのは、いつの頃からだっただろう。
 その優しい表情を見る度に、心が安らぐのを感じていた。
 救われていたのは、本当は自分のほうだったのかも知れない。
 今まで感じたことのない優しい風を受けるように、側にいることにほっとした。何を話しても優しい目でただ聞いていた。そんな居場所に、いつの間にか、安らいだ居心地の良さを覚えるようになっていた。自分でも気付かないうちに、アスランと言う人間が、自然と心の中に入り込んでいたのだとカガリは初めて思った。
 今まで寂しいと思ったことはない。家族を失っても、代わりに育ててくれたシスター達や共に過ごす修道女たち、そして姉のように慕うラクスがいる。今まで彼女たちに囲まれて、自分は幸せに暮らしてきたと思っている。
 けれども、アスランがここを去ると知ってから、カガリは言いようのない寂しさに包まれていた。今までこんな寂しさというものを覚えたことがあっただろうか。
 何か大切なものを失ってしまうような、心に大きな穴が開いてしまうような消失感に、心が塞ぐ。
 ふと気付けば、いつもアスランのことを考えている。
 けれども、だからどうすればいいと言うのだろう。
 彼はもうすぐ去ってしまうのだ。
 黙って見送るより他に、自分に出来ることはない。
 音も無く礼拝堂の扉が開いたのにカガリは気付かなかった。
 薄暗い中に入り込んだ人影が、微かに足音を立てて、長椅子に座るカガリに近付いて行く。まるで気付かないカガリの側まで来ると、それは一度立ち止まり、それからゆっくりと、祭壇とカガリの間に割り込むように、カガリの前に立った。
「何を考えているのですか?」
 緩やかに目の前で微笑んでいるラクスを見て、ようやくカガリは我に返った。
「ラクス――?」
 ぼんやりと、ラクスの顔をカガリは見つめる。
 何故彼女がここにいるのかと思いながら、それでも、今まで心を奪われていた想いから、まだ完全に覚めてはいなかった。半分夢心地のような眼差しで、ラクスを見上げている。
 その目を見てラクスは微笑んだ。
「アスラン先生のことを考えていたのでしょう?」
 途端に、カガリの表情が変化した。一瞬目は見開かれ、頬にさっと朱がさしたかと思うと、すぐに雲が掛かるように少しずつ瞳は曇り、やがて星が光を失うように、そこから光が消えて行く。
 俯いた表情から、呟くような小さな声が漏れた。
「なんで――」
「アスラン先生からお聞きしました」
「え?」
 驚いたように顔を上げたカガリは、ラクスの穏やかな瞳に出会って、また俯いた。
「そうか――」
 火が消えたように、まるでいつものカガリとは違うその様子を、ラクスは変わらず穏やかな表情で見ていたが、やがて、黙って手に持ったものを、カガリの座る長椅子の前の机に置いた。
 カガリが顔を上げると、そこには昨日パンを入れて学校へ持って行った、あのバスケットがあった。
「アスラン先生からあなたに返して欲しいと頼まれました」
 カガリが黙って目の前のバスケットを見つめていると、ラクスが静かに口を開いた。
「開けてご覧なさい」
 口調と同じように静かな佇まいで、ラクスはカガリを見ている。それは、まるで見守っているような眼差しでもあった。
 カガリがラクスに言われるままに、バスケットの蓋に手を掛ける。
 ゆっくりと蓋を開けると、カガリの目に、見慣れた色が映り込んだ。
 それは、よく知っている、馴染んだ灰の色。
 入っていたのは、『神の花嫁』の印である、修道女のヴェールだった。
 しばらくそれを見つめて、ゆっくりとした動作で、カガリは中からヴェールを取り出す。
「なんで――」
 不思議そうにカガリがヴェールを取り上げた時、その間から何かが落ちた。
 机の上にはらりと落ちたそれは、かつてアスランがバスケット一杯に詰めて持って来た、あのオレンジ色の花だった。たった一輪、机の上で鮮やかな花を咲かせている。それはヴェールの灰色に、とてもよく合った。
「それを、アスラン先生から、あなたに返して欲しい、と」
「返す、って――?」
 意味が理解できずに、カガリはヴェールを見つめていた瞳をラクスに向ける。
 それを見てラクスは穏やかにまた微笑んだ。それは姉が妹を見るような、慈しみのこもった微笑みだった。
「あなたに初めて会った時に、拾ったものだそうです」
 ラクスの言葉を受けて、しばらく考え込んでいたカガリが、やがて、短く「あ」と言う声を上げる。そして、「あの時」と小さく口の中で呟いた。
 心当たりがあった。失くしたものだと思っていた。多分、山羊を追い掛けている時に、山のどこかで落としてしまったのだろうと。
 あの日、シスターに怒られて、また新しいものを貰ったのだった。
 それを、アスランが拾っていようなどとは、全く思いも掛けなかった。
「ずっと、何度も、返そうとしたのだそうです」
 ヴェールを見つめるカガリに、ラクスの声が柔らかく告げる。
「でも、どうしても、出来なかった、と――」
 ヴェールの下に見えるオレンジ色の花がカガリの瞳に映る。バスケット一杯の花よりも、今はたった一輪の花が、カガリの心に鮮やかに映り込んだ。どんな想いでその花を摘んだのか、アスランの姿が心に思い浮かんで、カガリの瞳は次第に熱いもので満たされ始める。
「ただ、申し訳なかったと、それだけをあなたに伝えて欲しいと、そう頼まれました。――明後日、彼はここを発つそうです」
 潤んだ瞳がハッとしたように見上げるのを、ラクスは静かに見返した。
「明後日?」
「ええ」
 驚きを隠せないカガリの表情が、うろたえたように目を彷徨わせた後、やがてありありと色を失っていくのを見つめていたラクスは、穏やかに口を開いた。
「彼を、好きなのでしょう?」
「――え?」
 それは優しさに満ちた声だった。
 ラクスの今投げ掛けた言葉の意味を、しばらく考えるように、ただ呆然とカガリはラクスを見つめる。
 そのうちに、弱々しく首を振りながら、やがて力なく項垂れた。
「だって、私は修道女だし」
「でも、まだ正式にではありませんわ」
 その言葉に、カガリは顔を上げる。
「だって、駄目だ、そう誓ったんだ、修道女になるって」
 目から溢れそうになる熱いものを、手の甲で拭ってカガリは訴えるように言葉を続ける。
「『神の花嫁』になるって、誓ったんだ、私、だから――」
 その様子を見てラクスはまた静かに微笑し、そして首を少し傾げるようにして、言葉を紡いだ。
「では、あなたは何故、修道女になろうと思ったのですか?」
「それは――」
 言い掛けて、それから言葉を失ったように、カガリは言い澱む。
「それは、ここで、育ててもらったから……」
 次第に小さくなって行く声で、ようやくそう言うと、あとは消え入りそうに黙った。
 『何故』などと言う言葉を、今まで考えたこともなかった。ただ、無心に、自分は大きくなったら、修道女になるものだと思っていた。それが自分に与えられた道だと、ずっと信じていた。疑ったことなど、一度もなかった。
 その時ふとカガリの心に甦ったものがある。
 『そんな事は一度も考えた事が無かったからだ』
 それは、『何故政治家になるのか』――その言葉の意味にずっと苦しみ、悩み続けてきたアスランの、あの時の言葉だった。
 真摯な眼差しで語られたアスランの言葉が、今になってカガリの胸深くに響いて行く。
 気付いてしまった疑問に、必死に向かい合おうとしていた。
 逃げただけだったと吐露した姿は、傷付きながら、それでも懸命に道を探そうとしていた。
 偽ることなく、自分の心に素直に生きようとしていたアスランの言葉と澄んだ眼差しが、思い出されて胸が詰まる。
 それは、カガリの心の奥のほうにある、見えない何かを大きく揺さぶった。
「でもそれは、あなたを縛るものではないはずです」
 慈しむように、抱くように、優しさを湛えたラクスの微笑がふわりとカガリを包み込む。それは、ずっと今まで見守り続けてきた、姉のように温かな眼差しだった。
「自分にとって何が大切か――本当に大事なものを見つける幸福は、きっと人生の中でそう何度も訪れないでしょうから――」
 そう言うとラクスはカガリの両手を自分の両手でそっと包んだ。
「見失わないで下さいね」
 柔らかく包んだ手に少し力を込めると、ラクスはいつものように笑いかける。
 春の陽のように、春の風のように、頑なな雪を溶かしてしまうほどの優しさに満ちた笑みが、カガリに向けられる。
「どうかあなたが幸せでありますよう」


 本当に、それでいいのか?
 向こうの山が赤く染まり行くのを見つめるカガリの胸に、そう言ったアスランの言葉が過ぎて行った。
 朝靄が晴れて行く目の前の景色とは反対に、カガリの心は靄の中にあった。
 アスランの口から漏らされた言葉のひとつひとつが、カガリの胸を過ぎっては去って行く。
 痛切に訴えていた瞳が心から離れなかった。
 君を愛していると告げた時のあの辛そうな表情は、始めから結末を予期していたようだった。何もかもを見通した上での告白は、絶望に満ちていたに違いない。
 それでも、彼は愛している、とそう告げた。
 自分の気持ちに素直であることを望んだ。
 何もかもから逃げていると言った彼が、自分の気持ちからは逃げなかった。
 カガリの目の前で始まった朝焼けの儀式が、次第に全てを赤く染めていくのを見ながら、思った。
 自分の気持ちに素直に生きることは罪だろうか?
 それが何かを、誰かを、裏切ることになっても、自分の思うままに生きようとするのは罪深いことなのだろうか?
 欲深いことなのだろうか?
 けれども、アスランの真摯であろうとする生き方を、自分はそうは思わない。
 時として、人からそれは酷く利己的に見えるかもしれない。
 けれども、自分に嘘をついたままで生き続けることは、全てを裏切ることに繋がるのではないだろうか。
 それは、神をも裏切ることになるのかも知れない。
 神を裏切る――その言葉に、カガリはハッとする。
 では、あなたは何故、修道女になろうと思ったのですか?
 それは、ここで、育ててもらったから
 元々それが当たり前として育てられた俺は、ようやくその時になって、『何故政治家になるのか』と言う根本的なことについて考え始めた
 けれど考えれば考えるほど答えは出なかった
 そんな事は一度も考えた事が無かったからだ
 何のために生きているのかとか何のために生まれてきたのか
 政治の世界とは全く違う場所に、自分の生き甲斐を見つけたのだと思った
 何もかも見失っていた世界に、それははじめて見つけた明るい光だった
 本当に、『神の花嫁』になるのかって言う意味だよ
 それで後悔はしないのか?
 本当に、それでいいのか?
 様々な言葉がカガリの中で木霊する。
「あいつも、こんな気持ちだったのかな」
 山羊小屋に凭れてポツリと呟いた。
 眠れずに一晩を明かした目は朝焼けと同じ色に染まって赤い。
 それがまるで朝焼けを映しているようにも見えた。
 ヴェールに手を掛け、おもむろにそれを外すと、カガリは髪を解くようにゆっくりと首を振る。吹いてきた微かな風にふわりとなびいた髪は、朝日を受けて光った。今まで灰色の下に隠されていた光が、初めて陽の光を知ったように黄金色に輝いている。
 カガリの中で木霊した数々の言葉は、最後にひとつの言葉を残して胸の中に消えて行った。
 それは今まさに赤く染まろうとしている山々と同じように、カガリの心を染めて行く。
 それは君を愛しているからだよ、ひとりの女性として

 ――ずっと、君が神を愛しているように


 窓枠に座り、山膚が次第にオレンジ色から赤い色へと変化するのを、アスランはずっと眺めていた。
 景色を眺めていると、明日にはもうこの村を発たねばならないのがまるで嘘のように思える。
 ここに来てからずっと、この下宿の部屋から見る夕焼けの景色が好きだった。それまで夕日がこんなに美しいなどと感じたことは無い。心にゆとりの無い時は、何を見ても感じ入ることが出来ないのだと、アスランはここに来て初めて気が付いた。
 夕日だけではない。自分は今まで、本当に何も見てはいなかったのだと思う。
 目に見えるものも見えないものも、気付かずにいた多くのことを、ここに来て学んだ。そして自分にとってそれがどれほど大切かということを知り、また掛け替えのないものだと思うようになった。
 何より、何もかも見失いそうになっていた心を、救ってくれた場所だった。
 ここに来たことは間違いではなかったと、今では嘘偽りなくそう思える。
 出会いも沢山あった。学校の子供達はアスランが辞めることを話すと、みんな一様に驚いた。そして心から悲しんで引きとめようとする子もいた。中途半端な去り方をすることを詫びると、ようやく受け止めてくれる子供もいたが、やはり納得しない子供も多かった。またいつかここへ戻ってくることを約束して欲しいと言う子供達に、アスランは改めて責任の重さを感じた。そして教師という仕事が、ただ教育を施すだけではなく、人として如何に子供達に大きな影響を与えるものであるかを改めて知った。
 アスランは子供達ひとりひとりの顔を思い返す。果たされるかどうかわからない約束に、最後に子供達は笑顔で別れを告げてくれた。
 ラクスは「子供達と見送りに行きますわ」と言っていた。そして「アスラン先生が戻ってこられるのを、子供達と一緒に待っていますから、早く戻ってきてくださいね」そう言うと、いつものように笑みを返した。
 管理人のおばさんは驚いて、「寂しくなるねえ」とひとこと言ってから、「シチューが余ったら、今度は誰に食べてもらおうかねえ」とも笑っていた。
 沢山の人の笑顔が心に残る。
 この村の風景と似た優しい笑顔。それが心にある限り、またあの息の詰まる場所に戻って行っても、今度は逃げ出さずに立ち向かうことが出来るとアスランは思う。それは何倍にも何十倍にもなって、自分を勇気付けてくれるものだった。人の心の力というものは、何よりも強い絆だと思った。
 そして。
 もう会わないことを選んだカガリ。
 ヴェールを返そうと思った時、カガリにはもう会わないとアスランは決めていた。
 彼女はヴェールを見て何を思っただろう。
 自分勝手で馬鹿な人間だと思っただろうか。結局は自分の気持ちを押し付けるだけの、愚かな男だと思っただろうか。
 アスランは刻々と迫り来る夕焼け時を目にしながら、そんな憂鬱な気持ちを払拭するように、今までのカガリとの楽しかった日々を思う。
 出会った時からずっと、あの夏空のような明るさに救われていた。
 それは今まで求めていたこの村の風景と似ていた。
 惹かれたのはどうしようもないことで、そして惹かれずにはいられなかった。
 あの素直さが、何より自分を救ってくれたから。
 だから好きになった。
 だから今こうして全てと向き合う勇気を持てたのだとアスランは思う。
 ただひたすら今は、出会えたことの幸せと、感謝の気持ちしかない。
 もう悔いはないと思った。
 好きになったことも、そしてそれを告白したことも。
 カガリとの出会いに深く想いを馳せながら、アスランは最後の山々の夕焼けを胸に刻むように、ずっと窓からの景色を眺めていた。



<10/01/03>


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