ヴェール と 花嫁 / 7空は雲一つなく、清々しいまでの青空が広がっている。 駅のホームに立つアスランは、その空を見上げていた。 ここに降り立った日も、こんな青空だった。青い空をバックに、遠く連なる山々と、小さな村の長閑な風景が、疲れた心をたちまちのうちに癒した。その時のほっとした気持ちを、ずっとアスランは忘れない。 そして今も新たな道を行こうとしている自分を、励ますように空は青く澄んでいる。 見上げるアスランの心までも染めるほど、それは夏らしい深い青空だった。 足元には小さなボストンバッグがひとつだけ置かれている。 それはここに来た時と変わらない。 何も持って行く荷物はない代わりに、アスランの心には村の風景と沢山の思い出が詰まっている。 アスランは列車が来るまでの間、ずっと空と山と村だけしかない景色を眺めていた。『何も無い』ここへ来た時にそう思った景色が、今はなんて優しい光と色に溢れているのだろう。見えなかったものが今初めて目に映ったように、アスランは目を細める。 やがて列車の姿が見えた時、本当にここを去るのだという実感が、ようやくアスランを捉えた。 その時に、もしかしたらという淡い期待を抱いていたことに気付いて、仕方のないように苦笑する。 もしかしたら、カガリが会いに来てくれるのではないか――この期に及んでまだそんな未練を持っている自分を、アスランは愚かしいと思った。もう何も思い残すことはないと昨日思ったばかりではないか。それがもうこんな思いを抱いている。 ホームに入って来る列車が起こす風の中で、小さく笑った。 そして想いというものは、そんなに簡単に心から去りはしないのだということを思った。 それからまた、追い払う必要もないのだということも。 列車に乗り込む前に、もう一度だけ振り返った。 たった数ヶ月過ごした村が、生まれ育った場所のように懐かしい。 故郷から旅立つ人のように、アスランは郷愁を込めた眼差しを投げ掛ける。 座席に着いた時、列車は滑るように動き出した。 ゆっくりとスピードを上げて行く列車の窓に、村の風景が流れ始める。 駅を少し過ぎたあたりで、道に並んで手を振るラクスと子供達の姿が見えた時、アスランは窓を開けて身を乗り出した。大きく手を振る子供達。それに答えてアスランも手を振り返す。何かを叫ぶ子供もいたが、次第にスピードを上げて行く列車からはよく聞き取れなかった。それでもアスランには聞こえたような気がした。子供達の、そしてラクスの声が、はっきりと耳の奥に響く。先生、元気で、ありがとう、と。 子供達とラクスの姿が次第に小さくなり、やがて見えなくなるまでアスランは身を乗り出していた。 そして視界に村の景色も遠く小さくなり始めたころ、ようやく席に着くと、開けていた窓を閉める。 外を流れる景色は木々とその向こうに見える山々ばかりになっていた。 その景色を目に映しながら、様々に馳せる思いに身を任せる前に、ボストンバッグから本を取り出す。 どうせ目は文字を追わないだろうが、一応ページを開いて膝の上に乗せた。 思いに耽りすぎて、あまりに心がそこにない人のように思われないように、せめて本を読む振りでもしようと思った。 本を膝の上に置いたまま、ようやく心は遠くへ馳せて行く。 窓の外に流れる景色を見ながら、心は離れ行く村に戻って行った。 カガリは今何をしているだろう。またパンを焼いているだろうか、それともまた逃げた山羊を追いかけているのだろうか。 そんな思いに耽るアスランのすぐ側で、ふと人の気配がして、景色にやっていた目をアスランはそちらへ向ける。 その姿を目にした時、すぐに言葉は出てこなかった。 今目の前で起こっている出来事が、まるで信じられないように、ただ目を向けたままで唖然として見ているばかりだった。 小さなトランクを持ち、普通の少女の格好をしたカガリが座席のすぐ側に立っている。 白いワンピース姿のその少女がカガリだとわかるまで、しばらく時間がかかった。 唖然としたままで言葉を失っているアスランを、カガリも黙ったままで見ていた。 そして「なんで」という言葉がようやくアスランの口から漏れた時に、アスランの膝の上にあった本が滑り落ち、それを拾い上げながらカガリはアスランの斜向かいの席に座った。 「決めたんだ」 本をアスランの隣りの空席に置き、カガリは言葉を口にする。 「自分の思いのままに生きてみようって」 アスランを見て微笑んだ。 そうしてから、まだ信じられない思いに目を瞠っているアスランに向かって言葉を継ぐ。 「私――」 そこで一旦口を閉じると、真摯な瞳をアスランに向けた。 「白いヴェールを被ってもいいぞ」 アスランがその言葉に反応もせずに尚黙ったままでいるのを見て、カガリは慌てて言葉を繋ぐ。 「ええと、だから、その」 そして清々しい笑顔で笑った。 「私、お前が好きだ」 呆然と聞いていたアスランは、やっと我に返ったようにゆっくりと口を開いた。 「だって、修道女は――?『神の花嫁』は――?」 「いいんだ」 カガリは夏空のような笑みでアスランに笑いかける。 「人を愛することは、神を愛することに繋がるんだ」 その笑顔が、今まで見たどんな笑顔よりも、アスランには清々しく、そして眩しかった。 灰色から白へと変貌を遂げたカガリの姿にアスランは目を細める。 そのカガリのヴェールを纏わない髪は、今柔らかな光に包まれて、アスランの瞳にあれほど焦がれた色を映し出す。 それは手を伸ばせば触れることさえ出来る距離だった。 敵うはずもないではないか――そう嘆いた日々を思い出す。 敵わなかった距離は、けれど、今目の前にあって、自分の答えを待っている。 その奇蹟に、アスランの胸は言いようのない幸福で一杯に満たされていくのを感じていた。 「行ってしまいましたわね」 「ええ」 ラクスとシスターは並んで遠ざかる列車を見送っている。 黒い修道服を纏ったそのシスターは、アスランからバスケットを受け取ったシスターだった。 「でもまさか、一緒に行ってしまうなんて、思ってもみませんでしたけれど」 苦笑するラクスに、シスターは答える。 「でもあの子らしい選択だったと思いますよ」 「ええ、そうですわね」 そう言ってラクスも笑った。 「あそこで育てられたことが、あの子の自由を縛ってしまいました。でも本当は、それは自分で選べること。それに気付かずに一生を捧げようとするには、まだ早すぎる選択でした」 「ええ」 「選べる未来がある限り、どこへでも行けるのです。あの子は自由なのですから。けれども私はそれが神に背くことだとは思いません。神はいつも私たちと共にある。信仰のある限り、いつどこにいても、それが神を愛することに繋がるからです」 シスターの言葉に耳を傾けてラクスは黙って頷く。 「まああの子が修道女に向いているとは神もお思いにならないでしょうし」 その言葉にラクスは思わず笑みを零した。 「山羊を追いかける時のあの姿と言ったら」 「でも、寂しくなりますわね」 微笑するラクスの言葉を受けて、シスターは少し溜息を吐いた。 「ええ、そうね――あそこが静かになるのは間違いありませんから」 そんなシスターを見ながらラクスは言葉を継いだ。 「遊びに行きますわ、子供達を連れて」 「ええ。それからパンを焼くのを手伝ってもらえると助かります」 「それならカガリさんよりお役に立てますわ」 「でも、ラクス」 「はい?」 「あなたも妹のように可愛がっていたカガリがいなくなって、寂しいでしょう?」 「ええ」 「あんな役目をさせて、辛い思いをさせたのではないかと申し訳なく思っています」 「シスター」 ラクスは柔らかな微笑をその顔に浮かべた。 「大切な人の幸せを願うのは、シスターと同じですわ」 それからラクスとシスターは、目を見交わせて笑った。 「帰りましょう。クッキーを焼こうと思っているのですよ。子供達も連れていらっしゃいな」 「はい、シスター」 笑顔で返事をして、少し離れた場所で思い思いに遊んでいる子供達に声を掛けながら、ラクスは空を見上げる。 夏空はどこまでも青く澄んで、清々しい。 今は遠い車上の人となった大切な親友の笑顔に、それは似ていると思った。 −end− ■このあとのお話■ このお話はとりあえずここでおしまいです。 二人の出会いから旅立ちまでを書きました。実は、最後のカガリの逆プロポーズを書きたかったが為の、長いお話でした。 このあとの展開があります。 二人はアスランの生まれ故郷へ行き、カガリは街のパン屋さんで働きながら、一人暮らしを始めます。 アスランも家には戻らず、アパートを借りて住み、教師を続けながら、父親と向かい合います。 ここからが本当の恋愛期なわけです。街でデートとか、家に行き来したりとか、まあいろいろ普通のカップル並みにやってみるわけですが、如何せんカガリが元修道女様の卵なので、ちょっと世間並みのカップルとはズレズレでアスランが振りまわされーの、コメディーチックになりーの、な展開。最後はカガリに宣言通りの白いヴェールを被ってもらいたいものですが。 でも今のところ続きを書く予定はありません。 気が向いたら拍手とかでチラッと書いたりしているかも知れませんが。 ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました! 読んで下さった方々に、心よりお礼申し上げます。 感謝の気持ちを込めまして…… <10/01/03> ←6へ |