ヴェール と 花嫁 / 5前方にその背中を見つけた時、カガリの足は考えるよりも早く駆け出していた。スカートと言うものはなんでこんなに走り辛いんだろう、といつも思う。山羊を追いかける時もそうだったが、裾をたくし上げたい気持ちを辛うじて抑え、足に絡みつきそうになる布地を何とか捌きながら小幅に足を動かす。そんな一歩が酷くもどかしい。一度山羊を追いかけて夢中でスカートをたくし上げている姿を他のシスターに見られたことがある。神に仕える者が何と言うあられもない姿を、とこっぴどく叱責されてしまった。それだから以後は気をつけてスカートをたくし上げないようにしている。片手で軽く端をつまみ、やや持ち上げるようにして、そそと足を動かす。そのまだるっこしさに辟易としながらも、カガリは足を速めて見えている背中に近付いた。そして足音に気付いた背が振り返ろうとした時に、カガリは先に声を上げた。 「アスラン!」 息せき切って走って来るその姿を目にした時、アスランは一瞬目を瞬いた。向こうから走って来るカガリを見た時に、ふと初めて出会った時のことを思い出した。ヴェールをなびかせて山羊を追う修道女。その服装にそぐわない雄々しい姿に思わず目を疑ったことが、昨日の事のように思い出される。 アスランがそんな感傷にひたっているうちに、夏の風のように颯爽と駆けて来たカガリはすぐにアスランに追いついた。 「今、学校からの帰りか?」 浅く肩で息を吐きながら、カガリは笑顔を向けた。 「ああ。カガリもどこかからの帰り?」 「うん、ちょっと届け物の帰りだ」 手に持ったバスケットを示した。それは先日アスランが返しに行ったのと同じバスケットだった。 「この間、わざわざ返しに来てくれたんだってな、これ」 「ああ――カガリがいなかったから、」 あの時のシスターの顔を思い出しながらアスランは口にした。 「シスターの一人が受け取って下さったんだ」 気圧されるような黒い修道服と、萎縮させられるようなその場の雰囲気が同時に心に甦った。そして帰り道で何とはなしに力が抜けた様な疲れを覚えたことも思い出していた。 その言葉にカガリは頷いて、「悪かったな」とひとこと言ってから、夏の晴れ渡る空のように明るい笑みを漏らした。 「お花、有難うな」 零れんばかりの笑みを湛えたその顔をアスランは見遣る。 「凄く綺麗な花だな、あの花。あんまり綺麗だから、修道院のあちこちに飾ったんだ。そうしたらシスター達が喜んでさ。とても綺麗なオレンジ色だって」 その笑みのどこにも嘘は無い。その花に添えられたものが何であるのかを、全く気付いてもいないカガリのその素直な言葉に、アスランはただ微笑した。もし微塵でもカガリが何かを感じ取っていたならば、こんなに自然に接することは無いだろう。この村の景色そのもののように、あるがままを素直に感じるその性格が、花をただパンの返礼として贈られたものと受け取ったことは容易に想像できた。天真爛漫な笑みが何よりその証だった。 けれども、とアスランは思う。おそらく自分はそんなカガリだからこそ救われ、また好きになったのだ、と。 「良かったよ、喜んでもらえて」 少し間を置いてそう言うと、アスランも緩やかに笑った。 並んでゆっくり歩く道は時々登ったり下ったりしながら、緑色の絨毯の広がる草地の中を村へと続いている。時折放牧されている牛達が、話しながら歩く二人の側をのんびりと通り過ぎて行った。 「もうすぐ学校も夏休みだろう?」 思い出したようにカガリがそう言った。あと数日後に、学校は長い夏休みに入る。街に比べて高地にあるこの村では夏の期間はそう長くはない。それでも2ヵ月近い休みがあった。その夏休みが終わる頃には、山にはもう秋の気配が訪れる。 「夏休みの間には、村でいろんなイベントがあるんだ。まず音楽祭があって、それからチーズ祭りがあって、――あ、これはどの家のチーズが一番美味しいかを毎年競う祭りなんだけど」 カガリの話は楽しげに際限無く続いている。時々相槌を打ちながら、それを黙ってアスランは聞いている。 「――とにかく、夏は楽しいイベントが一杯なんだ。アスランは初めてだろ?」 「ああ」 まるで自分が夏休みを迎える子供のようにわくわくとしているカガリをアスランは横目で見ていた。 「一緒に行こうな!」 嬉し気な笑顔と共に向けられたその明るい言葉に、一瞬アスランの表情が揺らいだ。 「――うん」 一拍遅れて返された返事は何もそこに読み取れない程僅かに弱く響いただけだった。 カガリの耳に、それは何の変わりも無いいつものアスランの声として届く。 「あ、それじゃあまたな」 分かれ道まで来ると、カガリは手を振って修道院へと続く左側の道を歩いて行く。その後姿を見送りながら、アスランも自分の下宿へと続いている右側の道へ、ゆっくり歩を踏み出す。その頃には先程の笑顔は消え、代わりに何か物思うような表情がアスランの顔を覆っていた。そしてそれはいつもより遅い歩調で下宿へと辿り着いたその時まで、ずっと続いていたのだった。 いつものように窓を開け、涼しい風を部屋へと取り入れると、澱んでいた空気が動いて部屋の外へと押し出されて行く。それを肌で感じながらアスランは窓枠に腰掛けた。窓の桟には丁度人が腰を下ろせるほどの板が取り付けてあって、そこに座って寛げるようになっていたが、住人によってはそこに鉢植えを並べて花を楽しんでいる者もいる。その窓からの山の眺めがいいので、アスランはいつもそこに腰掛けて外の景色を見ていた。 日の長い夏は夕暮れまでにはまだ時間がある。黄色を帯び始めた太陽が、徐々に西の山に向かって傾き始めていた。東向きの窓からその姿は見えないが、山膚の色の変化でアスランにはそれがわかるようになっていた。刻々と変わって行く山の色を目に映しながら、その眼差しはじっとどこかを見据えている。窓枠に体をもたせ掛け、憂えるような表情で長い間山を見つめていたその瞳は、しばらくしてから部屋の中へと向けられた。その先には机の上に置かれた手紙がある。 その時ドアをノックする音が聞こえた。立ち上がり、アスランが出て行くと、下宿のおばさんが立っていた。 「先生ご飯まだだろう?シチューを作りすぎたから、持ってきたんだけど」 小さめの鍋に入れられたそれをおばさんは差し出した。 「いつも有難うございます、助かります」 礼を述べるとアスランは鍋を受け取る。小さな村ならではの人情というものに、ここに来て初めてアスランは触れた。その温かさは景色と同じく、ここにだから存在するものだと思った。『何も無い』そう思っていた初めて来た頃の印象が、知るごとにどんどんその姿を変えて行く。目を開けばそこにはただ真実があるのだと思った。そこに山があるように。 おばさんが帰った後、鍋を机に置いてフタを開けると、おいしそうな匂いと共に湯気が立ち上った。皿とスプーンを持って来て机に置き、椅子に座ると、鍋からシチューを皿に移した。ゴトッと大きく切った野菜が皿一杯に転がって、素朴な料理の香りがした。 その皿を前に、アスランはしばらく座ったまま立ち上る湯気を見詰めていた。本当は湯気の向こうに見える、机の上の手紙を見ていたのかも知れない。その湯気の向こうに見えるものが何であるかをまるで見極めようとしているようだった。随分長い間凝視するように見詰めていた目は、やがてふと皿の中に気付き、先程よりも湯気がだいぶ少なくなっていることに慌ててスプーンを取った。口に入れた大きな野菜は村の味がする。 村の味の一杯に詰まったそのシチューを、アスランは口一杯に噛み締めた。 外にはやがて始まろうとしている夕焼けが、山膚を紅く照らしていた。 「――先生?」 ふと自分を呼ぶ声がしたような気がして、アスランは顔を上げる。向かい合った席のラクスが小首を傾げて自分の方を不思議そうに見ていた。 「え?」 アスランは間の抜けた声を返す。 「どうかなさいましたの?何度かお呼びしたのですけれど」 「ああ、すみません。ちょっと考え事をしていて……」 思わず頭を掻きながらそう答えるアスランをラクスは少し窺うように見ていたが、やがてその顔に微笑を浮かべる。 「始業のベルが鳴りましたわ」 教材を持って立ち上がるラクスを見ながら、そんな事にも気付かなかった自分にアスランは驚いた。そして急いで机の上から教材を抜いて取り上げる。そんな姿を教員室から出て行こうとしたラクスが見ていた。ふと、立ち上がったアスランと目と目が合う。 「――あの、ラクス先生」 呼び止められたその声に、いつものアスランではない何か改まったものを感じてラクスは動かそうとしていた足を止める。 「はい?」 「あの――」 躊躇するように言い澱み、声はその先を言葉にしようかどうしようかと迷っているようだった。そしてややたってから、「いえ、また今度お話しします」と弱く笑って短く漏らした。 そして教材を手に、「時間が過ぎてしまいましたね」と気を取り直したように話しかけるアスランの顔を、並んで部屋を出ながらラクスは静かに見る。そして「ええ」と返しながら、また真っ直ぐに向けられた目には、突き当りの廊下の窓から見える、青い夏空が映っていた。 緩く傾斜した草地の向こうに村の集落が見える。石造りの家々の壁が、陽を受けて白く光っていた。先程からそれを見下ろして座るアスランの目は、ただぼうっとそれらを映しているだけに見える。学校と下宿の間にあるこの草地で、一時を過ごして帰るのがアスランの日課のようになっていた。ここはカガリと初めて出会った場所であり、そのカガリが「私も好きだ」と言った場所だった。ここを通り掛るたびに何とはなしに立ち寄ってしまうのは、はじめのうちはカガリに繋がる場所という心を惹く特別な思い入れによるものだったが、それがいつの間にか自分の生活の一部になった。ここから見える村の風景が、心を解きほぐすような優しさを与えてくれるからだった。 その一枚の絵のような景色を目に映しながらも、しかし今のアスランの心はどこか遠いところにあった。山の彼方の、遠い場所に心は馳せていた。そこへ心を飛ばしながら、何度も自分に問い掛けた言葉をまた繰り返している。開かれた目はずっとそこに囚われたように空ろだったが、ふと見上げた空の色が瞳を染め始めた時、少しずつ心を取り戻すかのように、見開かれていた目に光がゆっくりと戻り始めた。空虚だった表情もそれにつれて段々引き締まった顔になって行く――。夏空の突き抜ける青さが、アスランの中の何かを大きく塗り替えていくようだった。塗り替えられていくその変化が、固く結ばれた口元に次第に表れ始める。今まで澱んでいたものが、アスランの中で漸く大きく動き始めた、丁度その時だった。 ガサガサと後ろの茂みで何かの動く気配と同時に、草を踏む音。振り返ったアスランの目にそれが飛び込んで来た時、 「あれ、お前……」 思わず声を上げた。 一頭の山羊が茂みから姿を現して立っている。そして自分の方を見ているアスランに気付くと、ゆっくり近付いて来た。頭を下げてまるで確かめるようにアスランを見ると、「メェー」と一声鳴いた。 「どうしたんだ、お前」 思わず手を伸ばしてその頭を撫でようとした時、また後ろの茂みがガサガサと音を立てた。 「あー、お前!」 今度は人の声がして、けれども見る前からそれがカガリの声だとアスランにはわかった。そして今の言葉が、果たして自分に向けられたものなのか、それともこの山羊に向けられたものなのかと考えた。 考えているうちに、カガリはどんどんアスランと山羊の方に近付いて来る。 「何でアスランにはなついてるんだ?」 突然現れて少し怒ったようにそう言うカガリに、アスランは困ったような目を向ける。 「わからないよ、そんなこと……」 「私にはいつも挑戦的なクセに……あ、こいつ、メスだからな」 妙なところで勝手に納得しているカガリに、『自分の事に関しては全く疎いクセに』とアスランは密かに心で思った。 「また逃げたのか?」 「ああ、見ての通りだ」 山羊はカガリの怒りなど全くどこ吹く風といったふうに、のんびりと草を食んでいる。その首に素早く手を回して首輪と紐を付けると、カガリはアスランを見た。 「やっぱりここが好きなんだな」 その言葉にただ微笑だけを返すと、アスランは立ち上がった。 「途中まで一緒に行こう」 「うん」 そうして二人が歩き始めようとした時、山羊が急に嫌がって動かなくなってしまった。カガリがいくら紐を引っ張ってもまるで逆らうように足を踏ん張ったまま動かない。 「何だよ、お前、は、このっ?!」 力を入れて紐を引っ張るカガリとそれに対抗するように動こうとしない山羊を代わる代わる見ていたアスランは、手を伸ばしてカガリの手から紐を取った。と、動かなかったはずの山羊が急に素直に歩き出す。 「――俺が連れて行こうか?」 「……勝手にしろ!」 それはアスランにではなく、山羊に向けられた言葉だったのだが、くるりと向きを変えて歩き出したカガリの後を、困ったようなそれでいて少し可笑しそうな表情を浮かべたアスランが追い、その後を、素直に引かれて歩いて行く山羊がトコトコとついて行った。 道々ではカガリがまた一方的に喋り、それを聞いているアスランが時々相槌を打つ、と言ういつもの形式で会話が途切れる事は無かった。大体カガリの話は村の人の話題が多かった。小さな村だから、大抵が親戚のようによく知っている。どこの家に子供が生まれたとか夫婦喧嘩が絶えないとか、病気になったとか怪我をしたとか。まだ村の事をよく知らないアスランに、少しでもいろいろと教えようとしているようだった。その心遣いを感じ取りながら、アスランは黙って耳を傾けている。 ふと日が翳ったのに気付いて空を見ると、先程まで晴れ渡っていた空が、俄かに曇り始めていた。山の天気は変わりやすい。晴れているかと思えば、あっと言う間に天気が崩れる。同じように気付いて空を見上げたカガリが、「ひと雨来そうだな」と呟いた。その言葉の通りに、それから程無くして、すっかり灰色に染まった空からポツリポツリと雨が落ち始めた。修道院までまだあと少しある。足を速めて二人は歩いたが、そのうちに雨は段々本降りになってきた。 「急ごう」 走り出しながらアスランは道の向こうに見えてきた修道院を見る。またここを訪れることになろうとは。 曇り空の下に見える建物は、灰色に沈んでいる。丁度あのヴェールと同じ色だ――走りながら、アスランは朧気にそう思った。 「とりあえず、あそこに入っててくれ」 雨に濡れながら山羊の紐を受け取り、「先にこいつを小屋に入れて来る」そう言ったカガリは、側の建物を指差した。それは小さな礼拝堂だった。 山羊を引っ張って連れて行くカガリとは別れ、アスランは一人その礼拝堂へと向かう。雨は益々強くなっていた。 扉を開いて中へ入ると、そこには誰の姿も見えず、そのこととようやく雨を凌げる場所に来られたことでアスランはほっとした。服は大分雨に湿っている。その気持ちの悪さが、ほっとした途端に体中に伝わって、アスランの気分をいくらか滅入らせたが、それもそのうちに乾くだろうと思うと何でもない事に思えた。 礼拝堂の中は雨のせいで、窓のステンドグラスを通ってくる光が弱く、薄暗かった。こんな日には神の力も少し弱まるのだろうかとアスランは思った。目の前にある祭壇に掲げられた神の像が、ほの暗い中に薄っすらと浮かび上がっている。弱い光を受けて、返ってそれはより神秘的な光景に見えた。 祭壇前に左右に分かれて並ぶ長椅子の、真中辺りまで来てそのひとつに腰掛けると、アスランは改めて神の像を見た。窓を打つ雨粒の音が礼拝堂の中に響き渡る。それ以外に音の無い世界で、アスランは神と対峙していた。初めて見るわけでも無い神の姿と言うものが、今日は何か意味を持ってアスランの目に問い掛けて来る。それを真摯に受け止めるかのように、ただアスランの目はずっと神の姿に向けられていた。 暫くして扉の開く音がし、カガリが入って来るその時まで、アスランは神と対峙していた。 「ほら、これ」 そう言って前に立ったカガリが乾いたタオルを差し出す。受け取りながらアスランが見ると、カガリの修道服も雨が染みを作って程よく濡れている。それには構わず、顔と手の雫を持っていたもうひとつのタオルでカガリは無造作に拭い始めた。 「結構降ってるな」 礼拝堂に響く雨音を聞きながら、カガリがそう口にした。 「ああ」と答えながらアスランも雨音を聞いている。そして手渡されたタオルで顔や髪や手を拭うと、それを座った席の隣に置いた。乾いたタオルの柔らかな感触と、濡れた雫を拭った後の解放感が、肌と心に心地良かった。 「家に、戻ろうと思うんだ」 唐突に静かな口調で語られたその言葉に、雨の雫を拭っていたカガリの手が止まる。視線をアスランに向けると、その瞳はまたカガリの後ろにある神の像の方に向けられていた。 「一度、家に帰ろうと思う」 もう一度繰り返された言葉は、礼拝堂に響く雨音に負けずに、今度はカガリの耳にもはっきりと届いた。 「――え?」 「この間、父から手紙が届いたんだ」 神の像からゆっくり視線をカガリへと移しながらアスランは言った。 「いつか何らかの形でこういう日が来るとは思っていたんだ。――『一度帰って来い、話がしたい』、手紙にはそうあった。あの人にしては随分譲歩した手紙だったと思う。そしてそれ以外に、余計な言葉が何も無いのがあの人らしい手紙だった。――まさか直接手紙をよこすなんて予想もしなかったけど」 動きを止めたままでじっとアスランを見ているカガリに淡く微笑した。 「戻って、今度はちゃんと向き合ってみようと思うんだ。自分の本当にやりたい事を、父にはっきり伝えようと思う。すぐにはわかってもらえないだろう。時間がどれくらい掛かるかもわからない。だけど、教師を続けることは絶対にやめようとは思わない。自分からも父からも、もう逃げるのは嫌なんだ」 黙ってアスランの言葉を聞いていたカガリはやがて静かに微笑むと、「そうか」と言って頷いた。 「自分でそう思ったんなら、きっと今が自分にとってその時が来たってことなんだよ。待っていた時が、長い時間をかけてようやく訪れたんだ。ほら、あの山の花と同じように」 二人は視線を合わせると、ゆっくり微笑し合った。雨の音が響くほの暗い中で、それはひと時の穏やかで優しい空気を作り出す。 「それで、夏休みに帰るのか?」 明るく響いたカガリの声に、アスランの瞳は一瞬床に落ちた。そしてまた見上げられた時、そこには先程見えなかった愁いの色があった。 「夏休みが来る前に、学校は辞めるよ」 「――え?」 予想もしなかったその答えに、カガリの顔から急に波がひくように微笑が消えて行く。 「父を説得するのにどれくらい時間が掛かるかわからない。それなのにこのまま遠く離れたこの村に居続ける事は、また逃げ場を作ってしまう事になる。もう中半端にはしたくないんだ」 「辞めるって……じゃあ、もう戻って来ないのか?」 手にタオルを握ったまま大きく見開かれたカガリの目を、アスランの愁いを帯びた目が見返した。 「わからない。出来れば戻って来られたらとは思うけど……でも辞めた後にはまた次の先生が来るだろう」 「そんな、急に――?」 「このままここにズルズル居続けたら、きっとそのうち家に戻れなくなってしまう。ここは居心地が良すぎるから……いろんな意味で――。ちゃんとけじめをつけて、何もかももう一度やり直せたら、その時にはまたここに戻って来られたらと思っている」 目を見開いたままで、胸の前でタオルを握り締めた体勢で立っていたカガリは、その言葉を聞いてゆっくり手を下げた。 「そうか……帰っちゃうのか、アスラン――」 やがて少し俯きがちな顔から、淋しくなるな、と言う小さな呟き声が漏れた。 けれどもすぐにまたアスランに向けられた顔には、悲しさを堪えたような精一杯の笑みがあった。 「でもお前、偉いよ。ちゃんと自分のこと考えてて。凄いなって思う。それに比べたら私なんか、全然まだ駄目だし……いつになったら正式な修道女になれるかもわからないものな」 「そんなことは無いよ。俺がこういうふうに思えるようになったのは、カガリにいろいろ言ってもらったお陰だし」 直向な瞳を向けるアスランに、カガリは少し驚いた顔をした。 「え?そうか?……って、何かそんなこと言ったっけ、私?」 キョトンとした顔でしきりに考え込んでいるカガリを前にして、その如何にもカガリらしい反応に、アスランは思わず目を細める。今まで胸の内に秘めていたものが、心の奥底から一気に溢れ出しそうになった。それは別れを告げなければならなかった感傷と、雨音によって、より強くアスランの胸に沁み出して行く。瞳の色からも溢れそうになったそれを、思わず目を伏せることで、漸くアスランは自分の中に押し留めた。伏せた目に、灰色の修道服が映る。それはほの暗い礼拝堂にあって、如何にも相応しい色に見えた。 「よくわからないけど、でもアスランがそう思えたんなら、良かったってことだよな」 灰色にはそぐわないカガリの清々しい声が聞こえた。 「私も見習って、早く本当に『神の花嫁』になれるよう、努力しないとな」 『神の花嫁』――何度も何度も心で繰り返された呪文のようなその言葉に、アスランは瞳を上げる。 「もういい加減シスター達に怒られてばかりじゃ、情けないもんな」 「――本当に?」 憂いを帯びた声がして、カガリはアスランを見る。 声と同じ憂えた眼差しが、揺らめきながら自分を捉えていた。それは今まで自分を見ていたアスランの瞳とはどこか違っていた。 「うん、本当に頑張らないといけないなって思うよ」 そのアスランの言葉を、今の自分の決意に対する杞憂の言葉だと思い、改めてカガリは誓うように答えた。 「――そうじゃないよ」 瞳に宿る憂いの色を増して行くアスランの声は静かに、けれども何かを訴えかけるように辺りに響いた。 「本当に、『神の花嫁』になるのかって言う意味だよ」 言葉の意図がわからずに、一瞬キョトンとした表情をカガリは浮かべた。 「ああ、勿論そのつもりだけど」 「一生、そのままで?」 「え?」 「誰とも結婚もせずに?」 「そりゃあ、だって、修道女だからな」 「一人で?」 「一人って?」 「一人で生きていくのか、ずっと?」 「一人じゃないぞ。他のシスター達と一緒だし、何より、神がお側にいて下さる」 「それで後悔はしないのか?」 「――一体何だって言うんだ、急にどうしたんだよアスラン、そんなことを言うなんて」 次第に怪訝な表情をカガリはその顔に浮かべて行く。アスランの瞳は変わらず深い憂いを帯びながら、カガリを見詰めていた。先程とは打って変わって息の詰まるようなその空気に、雨でさえ急に息を潜めている。 「――本当に、それでいいのか?」 カガリの言葉を素通りして再び漏らされたその言葉に、カガリは眉を顰めた。 「どうして突然そんな事を言うんだ?変だぞ、お前?」 「――どうしてかって?」 憂いを帯びた瞳はその瞬間に悲しげな色へと変化して行く。そしてそれは次に、絶望の中へと落ちて行った。 まるで哀しみを堪えるように少しの間沈黙した唇は、やがて重い扉を開くようにゆっくりと開かれる。禁断の扉の開く軋んだ音だった。 「それは」 ほの暗い中、向こうの祭壇で薄く浮かび上がる神の姿が、カガリの肩越しに見えるのを、アスランは目にしていた。それはまるでカガリを慈しみ、守っているかのように見える。神の寵愛を受けたるその神の花嫁に、アスランは自らの罪を臆すこと無く今告白しようとしている罪人のように思えた。果てに待っているのが例え地獄の業火であろうとも、厭わないほどの哀しみが、アスランの心を捉えて離さなかった。 「それは君を愛しているからだよ、ひとりの女性として――ずっと、君が神を愛しているように」 息を潜めていた雨の音がまた強くなった。窓を叩く音は天の怒声のようだった。 呆然と立つカガリの瞳は見開かれたまま目の前の罪人を見ている。彼が今何をその口から漏らしたのか、聞き間違えたのではないかと疑っているようだった。けれどもその場を支配する異様な空気の重さに、それが聞き間違えではない告白であった事を徐々に思い知った。 何より、向けられたアスランの瞳には、疑う余地の無い真実がそこにあると告げている、確かな眼差しがあった。 立ち尽くしたままカガリは暫く言葉を失ってただぼんやりとアスランを見ていたが、やがてやっと弱々しく首を左右に振った。 「何で――?」 そのままゆっくりと、ただ首を振り続ける。 「何で、そんな事言うんだ――?」 次第にその瞳は悲しみに満ち溢れて、最後の悲痛な言葉をその口から宣告しなければならなかった。 「ずっと、――友達だと思ってた……」 悲しみに彩られた言葉はアスランの耳に雨音と混じって聞こえた。いくらかでもその言葉の残酷さを雨音が薄めてくれればまだ救われたかもしれない。けれども雨はそうしてはくれなかった。ただアスランに追い討ちをかけるように激しく窓を叩いているだけだった。天の全てが、今アスランに罰を下そうとしているようだった。 予期していた言葉に心を抉られて行くのを感じながら、アスランは目を閉じた。深い絶望が瞼の裏に広がって行く。けれども、それを知っていた筈だった。知っていた筈の苦しみに、閉じた瞼が耐えがたくなった時、アスランはまた目を開いた。けれども睫を震わせながら開いた目は、もうカガリを見る事は無かった。 立ち上がって礼拝堂を出て行こうとするアスランの後姿が、暮れなずむ朧気な日の光の中でぼんやりと見えていたが、すぐにそれも陰気な外の景色に吸い込まれるように見えなくなった。扉の閉まる音と共に、そこから人の気配は消えて、またその場はただの神聖な空気に包まれる。カガリの手にしたタオルはいつの間にか床に落ち、けれどもそんな事に気付かないほど、カガリの姿は呆然とそこに立ち尽くしていた。ただ窓を叩く雨の音だけが、先程よりもまた強まって響いていたが、やはりそれにも気付かずに、カガリはいつまでもずっと立ち尽くしていた。 階段を上る足取りがいつもより重い。その足が一段上るごとに、ピチャッと言う水音が足元で聞こえた。十分に雨を吸った衣服から、水が滴り落ちている。下宿のおばさんが怒るかな、そう階段を上りながらアスランは朧気に思った。強くなっていた雨は容赦なくアスランを叩いた。体中に罰を受けているような気持ちを覚えながら、やっと下宿まで辿り着いた時には、もう上から下まで境目が無いくらいにずぶ濡れになっていた。 階段を上って自分の部屋に辿り着くまで、誰にも会わなかったことが唯一の救いだと思った。そうでなければ、普通に今誰かと話せる自信は無かった。 部屋の扉を開けると、雨やいろいろなものを吸った体を引きずるようにして中に押し入れた。そしてその扉に体を預けて凭れかかると、途端に押し寄せた濃い疲労にアスランは片手で顔を覆う。ぐっしょり濡れた髪から幾つもの雫が筋となって顔を流れ落ちて行く。それが本当に雨なのかどうか、それさえももうアスランには判別がつかなかった。 明かりの消えた部屋で、暫くそうして扉に凭れたままで時間だけが過ぎて行く。覆った片手の中で、目はずっと堅く閉じられていたが、やがて足元に小さな水溜りが出来上がった頃に、漸く開かれた。 暗闇の中で微かな明かりを頼りに、足はゆっくりと部屋の中をある方向に歩いて行く。壁際の小机の前で立ち止まると、手はそれに触れた。両手で持ち上げた布は、微かな明かりの中で淡く浮かび上がっている。 ポツリ、と雫がそこに落ちた。垂れ下がった髪からの雫が、続いてまたポツリ、と丸い染みを布に作って行く。それがまるで涙が落ちて行くようで、アスランはずっとそれを眺めていた。そして幾つもの染みで布が彩られた頃、やっと本当に落ちそうになった涙を、布を額に押し当てることで堪えた。 それはカガリが神の花嫁になる為の、あの灰色のヴェールだった。 <09/01/25> ←4へ/6へ→ |