ヴェール と 花嫁 / 4窓から見る外の景色はすっかり夏の色に染まっている。葉を伸ばした草が道の両側に生い茂り、その間に白や黄色や青色の小さな花が恥ずかしそうに顔を覗かせている。雑草と呼ばれる彼らのそんな愛らしい控え目な姿に思わず微笑みを零しながら、アスランは視線を上げる。道の向こうから、その愛らしい花のような笑みを湛えた娘達が歩いて来るのが見える。 ラクスは鞄を手に、カガリはバスケットを手に持ち、何やら楽し気に会話を交わしながらゆっくりと緩い斜面を登って来る。教員室の窓から見えるその姿に、随分前から気付いていたアスランは、景色に溶け込みそうに夏の色が似合う二人の姿をずっと目で追っていた。ラクスの華やいだ髪の色は遠くからでもよく目立つ。そしてその髪の色とはまるで対照的なのに、華やいだ色に調和するように、その灰色の修道服は景色によく合った。それは道端の緑の草に、夏空の深い青さに、何にでも調和する色なのだとアスランは気が付いた。乱しもせず邪魔もしない。けれども埋もれもせず気が付くとそこに居る。全てに平等に添う色だと思った。それは今まで抱いていた灰色に対するアスランの認識を変えるものだった。灰色というものに陰鬱な印象しか抱けなかった彼が、今まで見ていたのとは別の方向から見ると、それはまるで違って見える――そう言うことに初めて気付いた時だった。ありのままを受け入れる事をもう拒まない彼に、周りの景色は次々と目覚めるようにまだ知らない世界を見せ始める。 いつもは学校の前まで来ると別れる二人が、今日は肩を並べて一緒に敷地内に入ってくる。カガリがここに何か用事でもあるのかと思いながらアスランは窓際を離れて自分の席に戻った。今日は学校の授業は半日で終わり、既に生徒達は皆家へと帰っている。仕事の残っているアスランは学校に留まっていたが、ラクスは風邪で休んでいる生徒を見舞いに一度学校を出た。そしてまた戻って来た時に、カガリが隣に居たと言うわけだった。 やがて娘らしい明るい声が教員室に近付くのが聞こえると、アスランは動かしていたペンを止めて知らず微笑する。そしてまたペン先を紙の上に走らせ始めた時、戸口に二人の姿が見えた。 「ああ、いたんだ、良かった」 カガリの明るい声が教員室に響く。 自分に向けられたその言葉に、カガリの用事が自分に対する事だとわかってアスランは驚いた。そうしてから近付いて来るカガリに向けた目を少し細める。戸口でその様子を見ていたラクスは微笑しながらゆっくりと部屋に入って来た。 「なあ、ちょっと食べてみてくれないか?」 いきなりそう言いながら、カガリは持っていたバスケットに手を突っ込んで、中の物を差し出した。 「今までの中で、会心の出来なんだ」 手に握られていたのはパンだった。丁度カガリの手の中にスッポリとおさまるほどの、丸い小さなパンだった。 満面の笑みで差し出しているカガリの顔と、目の前のパンをゆっくりと交互にアスランは見遣る。 「いきなりそんな事を言われてビックリなさっているじゃありませんか」 後ろからラクスの朗らかな声がした。 「この間のピクニックで私に言われてから、パン作りを改めてやる気になったそうですわ」 「言われっぱなしじゃ悔しいからな」 それであれからパンを焼く練習に躍起になっていたところ、今日やっと会心の作が出来た、とカガリは得意気だった。 「それで、アスラン先生に食べてもらおうとここへ向かっている途中に、私と会ったのですわ」 ラクスはにこやかにアスランを見ながらそう言った。 「ああ、まずラクスとアスランに食べてもらおうと思ってさ、そしたらラクスに途中で会って――あ、ラクスはもうここへ来る途中で食べたから、これはアスランの分な。遠慮しなくてもいいんだぞ」 ラクスとカガリの言った言葉の意味合いとそれに伴う順序がどうも食い違っているのを感じながら、アスランはカガリの手の中のパンを見た。それはラクスのパンに比べて明らかに不恰好だったが、それが如何にもカガリらしいとアスランは目で微笑した。そうしてから手を伸ばす。 「丁度お昼がまだだったんだ、いただくよ」 手にしたパンは形こそ悪かったが、ふっくらと好い色に焼き上がっていた。まだ焼きたての香ばしい匂いが手の中から立ちのぼる。 その匂いを胸に吸い込みながらアスランはゆっくりパンを口にした。一口小さく齧ると、口の中にパンの味が広がって行く。香ばしい小麦の匂いと、それに続いて広がる仄かな甘味。舌に感じるその甘さが丁度好い具合だとアスランは思った。サクッとした生地の感触が硬すぎず柔らかすぎず、それも丁度好い。 「おいしいよ、とても」 アスランの反応を珍しく真剣な顔で見守っていたカガリの表情がパッと輝いた。 「そうか、そうだろ?うん、やっぱり私だってやれば出来るんだよな!」 嬉し気に両手の指を組んで祈りのポーズのような姿勢を作りながら、そう言ったカガリは手にしたバスケットをドンとアスランの机の上に置いた。 「これ、全部食べていいぞ」 どうやらバスケットにはまだ沢山のパンが入っているらしい。 「あ、私もう戻らないといけないから、またな!」 言いたい事だけを言ってしまうと、アスランに何も言う余裕を与えずカガリはさっさと教員室を出て行ってしまう。まるでつむじ風のようなその姿が去った後の戸口をアスランはしばらく物も言わずに見ていた。クスクスと笑い声がしてハッとそちらを見ると、ラクスが楽しそうに笑みを浮かべている。 「本当に相変わらずですわね」 そしてアスランの前に置かれたバスケットに目を遣った。 「作りすぎたから、と言っていましたけれど、上手く出来たのが余程嬉しかったのですわ」 そうして小首を傾げて見せると、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「うちには私の作ったパンがまだ山ほどありますから、それはアスラン先生が全部お持ちになって下さいね?」 一体どれだけ入っているのかわからないバスケットを眺めながらアスランは少し苦笑気味に笑う。 「それではしばらくパンとワインだけで慎ましく過ごす事にしましょう」 それを聞きながらラクスはまた微笑した。 ――自分が合格点をあげた時よりも、さっきの彼女のほうが余程嬉しそうに見えた、と言うことを彼は知らないのだと心に思いながら。 下宿の部屋へと帰って来ると、アスランは持っていたバスケットを机に置いた。そして東向きの窓を開けると、外の涼気を部屋へと迎え入れた。街に比べて標高の高いこの村では、夏でも朝夕は涼しく過ごしやすい。 丁度もうすぐ連なる山々の膚を夕日が紅く染めて行こうとしているところだった。この部屋から見えるこの夕日の景色がアスランは一番好きだった。街では決して見る事の出来ない神秘的な自然の儀式のようなこの光景を見る度に、心の中にずっと仕舞いこまれていたもやもやとしたものが薄らいで行くような気がする。夏でも頂に雪の冠を被った向こうに見える一際高い山達が、その冠の色を紅色に変えて行く時、アスランの心の中も同時に紅色に染まって行くように思えた。諸々の思いが紅蓮の炎に照らされて、雪のように少しずつ心から溶け出して行く。その感覚にじっと心を預けながらしばらくその夕日の景色を眺めていた。 やがて窓辺を離れると、部屋の隅の棚に置いてあったワインとグラスを持って机へと戻って来る。椅子に腰掛けてワインを開けると、ゆっくりグラスに注ぎ入れた。それを取り上げて一口含むと、静かにまたグラスを戻す。目の前のバスケットからパンを一つ取り出したが、けれども手はそれを口に運ぶでも無く、そのまま机の上に置かれていた。代わりにもう片方の手はまたグラスを引き寄せて、それを口へと運んで行く。その間アスランの目は壁際の小机に置かれた灰色のヴェールに向けられていた。視線をそこにあてたままで、何度かワインを口へと流し入れる。そして何口目かを口にした後、ようやくグラスは机に戻された。 ゆっくり視線を手にしたパンへと向ける。物思うような瞳がしばらくパンを見詰めた後、そっとそれは口へと運ばれた。一口齧ると昼間と同じ味が広がって行く。噛むほどに生地に隠されていた甘さが後からじわりとやって来る。その仄かな甘味が昼間よりも強く感じられるのは、ワインのせいだろうかと思いながらアスランはパンを食べ続け、またグラスを口に運び続けた。 やがてグラスが空になり、ボトルを持ち上げて注ごうとした時に、ふとまたヴェールが目に留まる。それを目にしたままで、半ば上の空のように手だけが動いてボトルの中身をグラスにトプトプと移し変えて行く。どれだけ注いだのか確認もせずに、上の空の手はなみなみと液体の入ったグラスを再び持ち上げて、口へと運んだ。それを流し込みながら、酔いの回り始めた瞳はしばらく灰色の布地から動かなかった。そのまま椅子の背凭れに体を深く預けると、ようやく視線はヴェールを離れて夕闇に沈み行く天井を仰ぐ。 その時アスランの心には、またあの言葉が繰り返されていた。――『神の花嫁』、その響きの持つどうしようもない切なさに、やり切れない気持ちを薄めるかのように、グラス一杯のワインは何度となくアスランの喉元を通り過ぎて行った。 手にバスケットを持ってアスランが下宿を出ようとしたのは昼下がりの日曜だった。あれから3日かかってようやくパンを食べ尽くしたので、それが入っていたバスケットをカガリに返しに行こうと思ったのだった。 二階にある自分の部屋を出て階段を降りて行くと、建物の前にある庭で下宿のおばさんが丁度花の手入れをしているところだった。おばさんの自慢の小さな庭では今は盛りと夏の花達が咲き誇っている。中でもオレンジ色の花が目を惹いた。名前のわからないその花を見た時、ふとその色がカガリを思わせるとアスランは思った。明るい夏の空によく似合う快活な色。 「お出掛けかい先生?」 気付いたおばさんが声を掛けた。 「ええ、ちょっと借りていた物を返しに」 アスランはバスケットを示した。それはフタの付いた、村の女性がよく使うバスケットだった。 おばさんはにこにこ笑いながらそれを見ている。 「じゃあ行ってきます」 そう言うとアスランは舗道へと続く庭の道を歩きはじめた。 修道院と言う場所に足を踏み入れたことの無いアスランはその建物を前にしただけで少し怖気づきそうになった。ここには多くの修道女が暮らしているのだろう。言わば『神の花嫁』の棲み家であるその場所が、何となく近寄り難いもののように思われて、アスランはその前でしばらく佇んでいた。カガリを訪ねて来たものの、いざここまで来て気後れするなどとは何とも情け無いが、どうやってカガリを呼び出せばいいものか、どうやって取り次いでもらえばいいものかと今になって思案に暮れるのは、やはりその場所の持つ厳かさや神聖さと言った、辺りに漂っている独特の気配によるものだと思った。何より、こう言う場に女性を訪ねて来ると言う行為そのものが、まるで禁を犯しているようで、アスランを落ち着かないそわそわとした気持ちにさせていた。 どれくらい佇んでいただろうか、もういい加減思い切ってその門をくぐり、ドアをノックしてみようと決意しかけた時に、後ろからふいに声が掛けられた。 「あの…何かご用でしょうか?」 一瞬飛び上がらんばかりに驚いたアスランが振り返ってみると、後ろに一人のシスターが立っていた。黒い修道服に黒いヴェール。やや年配のシスターが、落ち着き払った表情でアスランの顔を見詰めていた。 「あ、あの……、シスター・カガリにお会いしたいのですが……」 咄嗟の出来事にしどろもどろになってやっとそう告げる。黒い修道服に気圧されそうだった。 「シスター・カガリは今用事で出掛けています」 厳かな笑みを浮かべてシスターはそう答えた。 「そうですか……」 一瞬迷ってから、アスランは手にしたバスケットを差し出した。 「それでは彼女にこれを渡していただけませんか」 そう言ってから、慌てて付け加えた。 「彼女にお借りしていたものです」 シスターはアスランの顔を見ながら手を差し出してそれを受け取ると、慈悲深い笑みを浮かべた。 「わかりました。お渡ししましょう」 そしてシスターに名前を訊ねられてから、まだ名乗っていない事にアスランは気付いた。急いで名前を告げると、「ああ、先生ですね」とシスターが言ったので驚いた。小さな村では何事も知れ渡るのが早いのだと言う事を改めて思い知らされる。 そのままシスターは変わらぬ慈悲深い笑みを浮かべてアスランの横を通り過ぎると、建物の中へと入って行った。 妙な汗を脇の下に感じながら、アスランはその後姿を見送った。別に罪を犯したわけでもないのに、まるで何かを咎められたような気分だった。その正体について考える気力も無いまま、シスターが消えたドアをしばらく見ていたアスランは、やがてゆっくり踵を返すと元来た道を戻り始める。 その後姿を、道の両脇に咲く雑草の花達が、風にゆらゆらと揺れながら見送っていた。 用事を済ませてカガリが修道院に戻ってきた時、その姿を見付けたシスターの一人が側へ近寄って来た。アスランからバスケットを受け取ったあのシスターだった。 「あなたにお借りしていたものだと言って、先生が持っていらっしゃいましたよ」 「え、アスランが?」 如何にも親しげなその呼び方に、まだ若い見習い修道女の包み隠さない明け透けさと言うものを感じてシスターは苦笑する。そうしてから、いやそれはこの娘の持つ気質と言ったほうがいいかも知れない、と思った。 「わざわざここまで持って来てくれたんだ」 独り言のようにそう言うとカガリはバスケットを受け取った。 「学校にパンを持って行ったのですね?」 事情を知っているらしいシスターはそう言った。あの日、喜んで大騒ぎしているカガリの姿をそこにいる誰もが目にしていた。 「ラクスとアスランに持って行ったんです」 ラクスとカガリが姉妹のように付き合っているのはシスターも勿論承知している。そのバスケットを返しに来たのがアスランであり、そのアスランがこの建物の前で途方に暮れたように立ち尽くしていた姿をシスターは思い起こしていた。そしてふと微笑を浮かべる。 「彼は好い先生のようですね」 でも――と心の中でそう呟くと、シスターの慈愛に満ちた目はカガリを見詰め、母親が娘を見るような眼差しになる。けれどもそれはやがて苦笑混じりの微笑へと変わって行く。 「早くそれを置いていらっしゃい。ちゃんと中のパン屑を払うのですよ」 「はい!」 元気良く返事をしてその場を去っていくカガリの後姿を見ながらシスターは軽く溜息をついた。あの粗雑さでは人の細やかな気持ちになど気付かないだろう。ましてや色恋沙汰のような繊細な気持ちになど――。 ただそれに気付く事が本人にとって幸せな事なのかどうか――その思いに目を細めながら、シスターはカガリの後姿をずっと見送っていた。 誰もいない厨房に入ると、カガリはバスケットを作業台の上に置いた。そしてシスターに言われた通りに中のパン屑を払おうとバスケットのフタを開ける。 途端に、鮮やかな色がカガリの目に飛び込んだ。 オレンジ色の花がバスケットの中で一杯に咲き誇っていた。 フタにかけた手もそのままに、カガリは呆然とバスケットに見入っている。 それはアスランの下宿の庭に咲いていた、あのオレンジ色の花だった。 少し疲れた表情で修道院から下宿に帰り着いたアスランは、自分の部屋に入ろうとして、そのドアに何かが挟んであるのに気が付いた。抜き取ってみると、それは一通の手紙だった。裏に書かれてある差出人の名前を見た途端、アスランの表情が俄かに険しくなる。 そこに書かれていた名前は紛れも無く、――彼の父親の名前だった。 <09/01/04> ←3へ/5へ→ |