ヴェール と 花嫁 / 2空に浮かぶ雲がゆっくりと形を変えながら動いていくのをアスランは眺めていた。寝そべった体の下の柔らかな草からは、青臭い匂いが立ち上る。それが土の匂いと混じり合って、不思議な芳しい匂いとなってアスランの鼻を擽った。それが心に安らかな気持を呼び起こし、開いたはずの目がいつの間にかうとうととし始めている。ぽっかりと空に浮かんだ雲に心を移したように、意識が広い空間に漂い出して、やがてアスランは心地の良いまどろみの中へとおちて行った。 風がそよそよと草の葉を揺らし、眠り込んだアスランの髪を撫でて行く。そのたびに、整った面立ちに掛かった前髪がサワリと揺れる。胸の上に伏せた本が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。その上に置かれた手は、まるで無防備に見える寝姿を僅かに守っているようだったが、いつしかそれも本を滑り落ちて、柔らかな草の上にあった。 陽に照らされた緩い山の斜面には、しばらく静かな午後のひと時が訪れる。風が渡っていく音以外には、何の音もない。そこにあるのは山と空と風とそして彼だけだった。何の束縛からも解き放たれた時間と空間が、ただ彼を包んでいた。 幾つもの雲がその上をまた通り過ぎて行く。 どのくらい経った頃だろうか、微かに遠くから草を踏む音がして、それは次第に近付いて来た。近付いて来るに従って、それは裾の長い衣服が草に擦れる音の混じっている事に気付く。やがてその音は眠るアスランの近くまでやって来た。近くまで来ると、その音は一端止まってから、またすぐに動き出したが、それは先ほどよりも音を立てる事を控えた静かな足取りだった。そしてすぐ側までやって来ると、再び立ち止まった。 少しの間それは眠るアスランを見下ろしていたが、そのすぐ隣にしゃがみ込むと、その顔をしばらく覗き込んでいた。そして密かに笑う気配が辺りに漂った。 空の雲のように広がる空間に身を委ねていたアスランは、次第に浅瀬へと運ばれる船のように、意識が現に呼び戻される感覚に包まれていた。目を開けるとそこに目覚めが待っている。目を開けるよりも先に意識が目覚めた。そんな時は目を開けるのがしばらく億劫になる事がある。またこのまま眠りの世界に戻ってしまおうか、そう思う。 覚醒して行く意識に任せて緩やかに瞼を開けると、陽の光がすっと目に飛び込んで来た。ずっと暗がりにいて突然外に出た人のように思わず目を細め、身動ぎして顔を横に逸らす。まだぼんやりとしか視界を捕らえていなかった目に、その時予想もしなかった色が映り込んだ。 そこに見える灰色が、アスランの朧気な意識に急速な覚醒を促す。よく知っている色だった。 途端に跳ね起きたアスランに、笑顔が迎える。 「ああ、起きたのか」 隣に何事も無いように座るカガリの姿に、まだ働かない頭でしばらくアスランは考える――何故、彼女がここにいるのか? けれども結局答えが出るよりも先に、口が動いていた。 「なんで、ここに?」 それを聞いたカガリは微笑する。 「初めて会ったのもここだったよな」 まるで答えになっていない言葉が返ってくる。 「よっぽどここが好きなのか?」 反対に問われてアスランは、一瞬言葉を返すのを忘れた。 「――ああ、まあ……」 曖昧な言葉をやっと返す。 「私もそうなんだ」 清々しく笑うカガリがそう言った時、微風が吹いてきて二人の肌を撫でた。 「シスターのお遣いに行った帰りによくこうして立ち寄るんだ。前に山羊を追いかけてここでお前に会った時、『ああここが好きなんじゃないかな』って思って。――だから時々ここに来るたびに、アスランがいるんじゃないかと思ったんだ。今日もそう思って来てみたら、思いっきり気持良さげに眠りこけてたから」 笑いながらそんな言葉をサラリと言ってのけたカガリは遠くの山並みに目を移した。 アスランはその言葉の意味をしばらく推し量るようにカガリの顔を見ていたが、それに気付いてふと視線を戻したカガリの目とまともにぶつかって、思わず目を逸らした。近すぎる距離と先ほどのカガリの言葉が相まって、何か目を合わせられない戸惑いを感じていた。 多分、カガリが言った事の意味に他意は無いのだろう。――アスランはそう思った。それはそのまま何の混じり気も無いカガリの気持であって、そこに含みも深い意味も無い。ただ素直な気持からの言葉だと。 そこに少しの期待を求めても無駄なのだと言う事は、出会ってから今までの付き合いのなかでわかっていた。何故なら彼女は『神の花嫁』になるのだ。その心は微塵も自分になど向いてはいない。 「街に比べたら、何も無いだろう、ここは」 ふとカガリが口を開いた。アスランは思い直したようにカガリにそっと目を向ける。 「私はここが好きだけど、街から来た人にとって、この何も無い村が物足りないんじゃないかと思ってた」 斜面の向こうに見える村の長閑な風景をカガリは見ていた。ゆっくりとアスランもそちらへ目を向ける。牛や山羊が草を食み、その後ろに小さな村の集落が見える。中程に建つ教会の細長い塔が、一際目立って見えた。 「けど、この場所が好きなら、もしかしてそうじゃ無いんじゃないかと思って」 カガリと同じ景色を目に映しながら、アスランはしばらく黙っていた。 「何も無い事がかえって救いになる事もある」 やがてポツリと漏らされたそれはカガリの耳に届いた。 視線をアスランに向けた時、その遠くを見る表情が思いもよらず儚いものに映った。愁いを帯びた瞳が何かを心に閉じ込めたように、じっと向こうの景色を見詰めている。 ふと、カガリが手を伸ばす。 それに気付いたアスランが、ビクリと思わず体を引いた。 「あ、ごめん、髪に草が――」 手を伸ばした先には、髪に絡み付いた細い草があった。 「ああ――」 そう言いながら、一瞬心に起こった動揺を、何とかそれ以上外に出さないようにとアスランは努めた。そして咄嗟に必要以上の反応を示してしまった事に愚かさを感じていた。 「――ほら、取れた」 そっと髪に絡まった草をカガリが取り除く間、アスランは息が詰まるような思いで動く事が出来なかった。カガリの柔らかな息遣いがすぐ側にあって、ともすれば、顔に掛かるほどの距離だった。身動ぎも出来ず、それが随分長い時間に思われた。ようやくカガリの手が髪から離れた時、解けていく緊張に、自分がどれほど体を硬くしていたのかがわかった。 「何となくわかるよ、それ」 今身近に感じた柔らかな吐息に似た声が、アスランの耳に伝わった。 「うまくは言えないけど――わかるような気がするよ」 風がさわさわと草を揺らす。その音に混じって聞こえた声に、アスランの心に穏やかな色が広がって行く。乾いた土に落ちた一滴の清水のように、それはじわりと色を失っていた心を潤した。 初めてこの村に来た時のようだ――アスランは思い出した。初めてここに来た時、この景色を目にして何とも言いようの無いほっとした気持になった事を。その時と同じ安らぎが今静かに訪れている。 隣に彼女がいる。 その情景が紡ぎ出すものは先ほど与えられた言葉と同じくらいの救いだった。 何も無い事が救いになる。 そう言ったアスランの中で、初めて『在る事』が救いになると気付いたもの――それは、彼女のいる情景だった。 きっかけを失い続けたまま結局ヴェールはアスランの手に残った。返そうと思っていたはずが、いつの間にかそれが部屋の中に占める存在感が膨らんで行き、気付いた時にはまるで信仰の対象のように、無くてはならないものになっていた。ふと何気なくそれにいつの間にか目をやっている。それが祈りのようにアスランの中に染み付いた。 まだどちらにも染まりきらない灰色という色が、アスランの中の惑いの色に思えた。白でも無く黒でも無い。その両方の間で存在している。どちらに染まるべきか決めかねている優柔不断な意志の弱さ。 その色の象徴するところが自分に似ていると思った。それに続いて思い浮かぶのは、決まってカガリの姿だった。同じ灰色の身でありながら、しかし彼女ははっきりと自分の意志を決めている。『神の花嫁』になる事を選んでいる。その清々しいまでの笑顔が心に思い起こされる度にアスランの心はキリリとした痛みを覚えた。 その痛みが自分の弱さを思い知らされた事による痛みなのか、それとも違うものによる痛みなのか。 その『違うもの』の正体に気付けば気付くほど、アスランの心は灰色を増していくように思った。何一つ、中途半端な自分と言うものを改めて思い知らされて行く。 敵わないものに手を伸ばしてもそこに救いは無いのに、救いを見出してしまった自分の矛盾をどうすればいいのだろう。 そう思いながらヴェールに触れようとしたアスランは、途中で手を止めた。躊躇うようにしばらく動きを止めていた手は結局触れずにまた元に戻された。 初めて触れる事を恐れたのは、それによってカガリに対する心が灰色から止め処なく色を増して行きそうで、結末の見えた想いに傷付く自分が容易に想像できるからだった。 ――神が相手では敵うはずもないではないか いつか思った言葉がまた心で繰り返される。 その時、自分の髪に触れたカガリの柔らかな息遣いと、土の匂いの混じり合った草の青臭さと、目の奥に痛かった陽の眩しさが相まって甦った。急に咽るような苦しさに駆られて、アスランは立ち上がると、窓の取手に手を掛けて押し開き、外の冷えた空気を迎え入れた。 「アスラン先生」 教員室で次の授業の準備をしていたアスランは、その声に顔を上げる。向かい合った席に座ったラクスが微笑んでいた。因みに教員室にはこの学校の校長の席もあったが、今は用事で外出している。 「今度の休みに、カガリさんと子供達を連れて山にピクニックに行く事になったのですけれど」 ラクスの言葉に、いつの間にそんな話が出来ていたのかとアスランは思った。 「一緒にいらっしゃいませんか?」 自分が参加するものと確信しているようなラクスの笑顔に、アスランは内心どう返事をしたものかと迷ったが、 「そうですね、子供達が行くのでしたら――」 結局承諾の返事をした。 「カガリさんと」と言う言葉に惹かれたのだとラクスに思われないようにと、無意識に「子供達」を理由にした事に、アスランは自分で言い訳めいたものを感じていた。 「カガリさん――」 心にあったその名を言われてアスランは思わずハッとラクスを見る。 「が、この間、アスラン先生にお会いしたと言っていましたわ」 「――ああ、そう言えば、偶然昼寝をしていた場所に彼女が通り掛って」 何をうろたえる事があるのだと自分に言い聞かせながら、アスランは咄嗟に視線を授業に持っていく教材に移し、それをトントンと机で整える。 「まあ」 ラクスが笑う気配がした。そして席を立って机にあった教材を取り上げる。 「素敵な偶然ですわね」 アスランの教材を揃えていた手が止まる。 ラクスが狭い教員室から出て行く姿を黙って見送った。 まるで心の内を見透かしたかのような言葉は、アスランの灰色の心を大きく揺り動かした。 自分の元にあのヴェールの『在る事』が、とうにある種の救いになっているのだと、気付かなかった心を知らしめるようにそれは揺れ続けた。 <08/10/26> ←1へ/3へ→ |