※宗教的要素において、かなりの脚色や捏造があります。御了承ください。



ェール と 嫁 / 





 淡い緑の光が揺らめく中でまどろんでいた青年は、突然その平和な眠りを破られた。柔らかな草の上に寝そべっていつの間にか眠ってしまっていたのが、騒がしい物音が突然耳元でし、跳ね起きてみると、すぐ目の前を山羊が一頭飛び跳ねて彼の体を掠めていく。驚いてその山羊の後姿を見送っていると、すぐに続いてバタバタと足音がして、彼の寝ていた草地の後ろにある茂みがガサリと音を立てたかと思うと、突然人影が飛び出した。
「うわっ!」
 同時に二人の声がして、危うく突進しかけた人影は、すんでのところで彼を避けた。
「悪い!」
 そう叫んだ声は少女の声だった。彼があっけにとられてそう叫んだ少女を見ると、体勢を崩しかけていた少女は踏みとどまって、また山羊の走り去った方向へと後を追って走り出していた。
「あ、あの……!」
 呼び止めようとした青年の声に
「急いでるんだ!」
 そう振り向いて叫んだ少女の、鮮やかな金髪が風になびいてキラキラと輝く様が、青年の目に焼きついた。
 そのまま少女はすぐにまた前を向いて走り出し、やがて木立の中に見えなくなった。
 青年はいつまでもその方向を見ていたが、今自分が目にした光景が、寝惚けて見た夢では無かったろうかと思った。
 それはその少女の着ていた服装が、どう考えても修道女のものだと思えたからだった。青年の修道女に於けるイメージと言うものは、明らかにあのようにバタバタとはしたなく疾走するものでは無かったし、あのようにぞんざいな口調でもなかった。だから見間違えたのではないだろうかと何度も思ったのだ。
 けれどもそれが決して間違いでは無いと告げている証拠が青年のすぐ側にあった。それはさっき少女が青年にぶつかりそうになった時に、ハラリと少女の体から落ちた物だった。それに気付いた青年が、それを知らせようと呼び止めたのだったが、結局少女は聞く間もなく走り去ってしまった。
 青年はその落し物に近付いて拾い上げる。
 手の中のそれは間違いようも無く、修道女が身に付けている「ヴェール」だった。


「アスラン先生」
 そう呼ばれて彼は振り返る。そこには同僚のラクス・クラインが立っていた。
「どうなさったのですか?ぼうっとなさって」
 微笑むラクスの顔を見ながら青年アスランは苦笑した。どうも昨日のあの出来事がずっと頭から離れずに、気が付くと考え込んでいる。あれからヴェールを手にしたものの、当の持ち主は何処かへ走り去ってしまったし、返そうにもどこの誰だかわからない。仕方が無いので取りあえず、自分の下宿へと持って帰ったものの、やはり気になって仕方が無い。他人の物をずっと預かっているのも何だか落ち着かなかったし、何より、修道女と言う神に仕える身分の女性の持ち物を、自分の部屋に置いているのだと言うことが、何だか罪を犯しているような気持ちにさせた。
 そのせいで、今日は時々ぼうっとしているのを、ラクスに指摘されたのだった。
「ああ、すみません。ちょっと考え事を――」
 言葉を濁してそう言いい、思わずラクスから目を逸らした。いっそ彼女に相談してみようかと思った。けれども何となく言い出せなかった。
 実はあのヴェールの持ち主がいる場所の見当はついている。小さな村に一つしか無い修道院。その場所はすぐにわかった。けれどもその「修道院」と言う響きに、彼の足は何となく向かう事が躊躇われた。別段信仰上の理由は無いのだが、「修道女」と言う名の人々が集うその場所に、ヴェールを持って訪ねて行く事が憚られるような気がした。
「もうすぐ授業が始まりますわ」
 彼女に話そうかどうしようかと迷っているうちに、ラクスはまたそう微笑んでアスランを促した。結局、言い出せないままにその場は終わってしまった。
 そうして一日が終わり、下宿に帰ってきたアスランは、机の上から灰色の布地のヴェールを取り上げる。そしてそれを見詰めて溜息を吐いた。
『神の花嫁の証のヴェール』
 そんな言葉がふと心を掠めた。そして昨日目に焼き付いた光景が続いて心に湧き起こった。風になびく金色の髪。陽を受けてキラキラと輝いていた髪が思い出された。
「――勿体無いな」
 あの髪を、このヴェールが覆い隠すのは少し勿体無い、とアスランは思った。そしてすぐに、そんな事を考えている自分に気が付いて、少し笑った。あの乱暴な修道女の事を全く知りもしないのに、そんなふうに思っている自分が何だか可笑しかった。
「明日やっぱりラクス先生に相談してみよう」
 そうアスランは思うと、ヴェールをそっとまた机の上に置いた。神の花嫁の衣装を穢さないようにと気遣うような、敬虔な手付きだった。


 アスランがこの山間の小さな村に教師として赴任して来たのは少し前の事だった。それまでは街の学校で生徒を教えていたが、この高い山々に囲まれた美しい小さな村に惹かれて、自ら希望を出してやって来た。街からは遠く離れたこの村が、彼にとって救いの場所のように思われた。逃げるようにやって来た彼に、この村の人々の素朴な暮らしが安らぎに似たものを与えた。自然と共に生き、自然と共に在る事がごく当たり前の日常。それは慌しい街での暮らしを忘れさせた。
 小さな村だから生徒の数も少なかった。それだから、教師はアスランの他にラクスしかいない。ラクスは村の村長であるシーゲル・クラインの一人娘で、年はアスランと同じだった。街の学校に行っていたが、卒業後、すぐに村に戻って来てこの小さな学校で教師をしている。生徒からは『ラクス先生』と親しく呼ばれて慕われていた。因みに、アスランも『アスラン先生』と名前で呼ばれている。だから彼らも互いにそう呼び合っていた。
 
 アスランがラクスに相談しようと決心したその翌日、その日の授業が全て終わり、「先生さようなら」と家に帰る子供達をアスランは学校の出入り口で見送っていた。7歳から12歳まで、20人ほどの子供が通う小さな学校だ。アスランは10歳から12歳までの子供を受け持ち、ラクスはそれ以下の子供を受け持っている。教室はそれぞれに別れているので、アスランが自分の生徒達を見送った時にはラクスの低学年クラスはもう生徒が帰った後で静かになっていた。
 教員室に戻ろうと思ったアスランが建物に入ろうとした時、裏手の方で人の話し声がするのに気付いた。一人はラクスの声のようだったが、もう一人は聞き慣れない女性の声だった。ふと足が向いてアスランは裏手の方へと歩いて行く。近付くにつれて話し声の内容が段々と聞き取れるようになった。
「――ですわね」
「ああ、今度の日曜だからな」
「ええ、楽しみですわ」
「晴れるといいんだけどなあ」
 はっきりとその会話が聞こえた時、アスランはおやと思った。その声に聞き覚えがあると思うと同時に、その話し方にも覚えがあった。もしやと言う思いが心に沸き起こった時、建物の角を曲がったアスランの目に、その人物の姿が映った。
 建物の裏手で、ラクスが一人の少女と立ち話をしているところだった。二人は突然現れたアスランに気付いて話を止めると、同時に彼に目を向けた。
「あら――」
 ラクスが口を開こうとした時、あとの二人が同時に短く声を上げた。
「あ……」
 そして一瞬互いの顔を見遣った。
「あの時の……!」
 そう先に口にしたのは修道女姿の少女の方だった。アスランはその少女の顔をただ食い入るように見ている。思わぬ場所での再会に、驚きの余り咄嗟に言葉が出て来ないと言った具合に。
「――お知り合いでしたの?」
 そんな二人の顔を見比べて、ラクスが首を傾げながら不思議そうに訊ねた。
「いや」
 アスランを見ていた視線を再びラクスに向けた少女は答えた。
「おととい、逃げ出した山羊を捕まえようと追いかけていた時に会ったんだ。危うく衝突しかけた」
「まあ……」
 ラクスは片手で口を押さえる。
「また逃げ出したのですか?あの山羊は」
 話の論点が微妙にズレているように思いながらもアスランは黙って聞いていた。
「そうなんだ。今回も無事に捕まえたから良かったようなものの、何かあったら世話係の私の責任だからな。またこっぴどくシスター達から怒られる」
 そう言うとまた少女はアスランを見た。
「あの時は悪かったな。昼寝の邪魔をしてしまって」
 変わらぬぞんざいな口調で少女は謝った。けれどもそれは清々しくアスランには聞こえた。あの時と同じ、その口調にはそぐわない神に仕える者の服装で、けれどもアスランを見るその瞳は澄んだ真っ直ぐな濁りのない色をしていた。その顔を覆っていたあの金髪は、今日は灰色のヴェールに隠されている。おそらく別のヴェールを貰うか借りるかしたのだろうと思われた。
 そのヴェールを見てアスランは少し落胆した。あの綺麗だった髪を今日は見られない事に。――そして、彼女はあのヴェールを自分が拾った事に気付いていただろうかと思った。その話を切り出そうとした時に、
「アスラン先生ですわ」
 ラクスが少女にアスランの名を教えていた。
「ああ、あんたがアスラン先生か。ラクスからよく話は聞いてるよ」
 少女は微笑んだ。
「カガリだ」
 そう自分の名を告げた少女の、山の空気のように澄んだ清々しい笑顔がアスランの心に残った。


 ラクスとあのカガリと言う少女は幼馴染で、姉と妹のように育った仲だとラクスが言っていた。あの後、すぐにカガリは帰ってしまった。用事のついでに立ち寄っただけで、「早く帰らないとシスターに怒られる」と慌しく帰って行った。ヴェールの事を切り出そうとしていたアスランは、折角の機会を逃してしまったのだ。何とも情けない思いに囚われながら下宿へと戻った。
 でもまあ持ち主が誰だかわかった事だし、返す機会はこれからいくらでもある――そう思いながら、畳んで置いてあるヴェールを見詰めた。ふと、カガリのあの清々しい笑顔が思い出された。
 このヴェールを返すために、少なくともまた一度は彼女に会う機会がある。
 そう思うと、アスランの心は我知らず、あの笑顔のように清々しい思いに満たされた。
 そしてあの笑顔が、この村の風景によく似ている――ヴェールを見ながら、そうアスランは思った。


「今度の日曜日、何かご予定はありますか?」
 翌日、休み時間にラクスが突然訊ねた。アスランは答案用紙の採点をしていた手を休めて顔を上げた。
「もし何も無いのでしたら、結婚式にいらっしゃいませんか?」
「結婚式?」
「ええ。日曜日に村の教会で結婚式があるのです。小さな村ですから、村の人のほとんどが出席します。みんなでお祝いするのですわ。それから――」
 ラクスは楽しそうに微笑んだ。
「私も聖歌隊に参加して歌うのです」
 彼女が歌うことを何よりも好きな事はアスランも知っている。
「昨日会ったカガリさんも勿論参加しますわ」
 それを聞いてアスランの心が俄かに動いた。
「そうですね、別に用事もありませんから」
「結婚式は10時からですわ」
 ラクスは微笑してそう告げると、次の授業へと向かうために席を立った。アスランも同じく席を立って、教室へと向かいかけたが、窓の外に見える山々の美しい景色に目を留めた。そしてその景色に心を洗われたように一人微笑すると、ラクスの後を追ってまた教室へと向かった。


 日曜日。
 青く晴れ渡った空の下、村の教会には村中の人が詰め掛けた。そうは言っても小さな村なので、せいぜい150人ほどだ。
 結婚するのはいずれもこの村出身の若い男女で、だからほとんどの村人が顔見知りだった。式に参列しようとする大勢の人々で、小さな教会は溢れかえっている。
 アスランもその中に混じっていた。結婚する当人達はよく知らないが、聖歌隊に参加するラクスと、そしてカガリの姿を見るためにやって来た。結婚式と言うものに彼はまだあまり出席した事がない。ましてや、このように村中をあげての賑やかな結婚式は初めてだった。彼の住んでいた街ではごく身内だけの小さな式が普通だったのだ。
 やがて厳かに結婚式が始まり、新郎と新婦が現れた。新婦は真っ白な長いヴェールを被ってバージンロードを歩いて行く。そのヴェールがアスランの目を惹いた。
 新郎と新婦が祭壇の前に立つと、賛美歌が流れ始めた。祭壇の両側に並んだ聖歌隊が歌っている。その中に、ラクスとカガリの姿もあった。二人とも聖歌隊の衣装を身に纏っている。この村独特の衣装なのか、白地に美しい模様の縫い取りがある裾の長い服だった。頭には薄く透ける生地の、白いヴェールを被っている。今日のカガリは修道女姿では無かった。アスランの目は式を挙げる新郎と新婦よりも、聖歌隊の方により多く目が行っていた。
 厳かに執り行われた式はやがて終わり、最後にまた聖歌隊が歌ったあと、新郎新婦が教会から出る場面になった。教会の中にいた人々はみんな外に出て、教会から出てくる二人を祝福するために待っている。そして教会から出てきた花嫁は、待ち受ける人々の群れに向かって手にした白い花のブーケを投げた。それを受け取ろうとした人々が手を伸ばしたが、宙を舞ったブーケは意外な人間の手に落ちた。聖歌隊の衣装を纏ったカガリの手にそれが落ちた時、一瞬キョトンとした目付きでそれを見ていたカガリは、次にハッとした顔付きになり、キョロキョロと周りを見回して、隣にいたラクスに急いでそれを押し付けた。そして照れたようにはにかんだその姿が周囲の笑いを誘った。彼女が修道院に身を置いている事をみんなが知っていたからだった。
 式が終わった後、村の広場では祝宴が催された。人々は祝いの酒に酔い、歌ったり踊ったり賑やかに盛り上がっている。
 帰っても特にする事の無いアスランは、設えられた椅子に座ってその様子を眺めていた。天気はこの上も無く、取り囲む山々の景色は美しいし、周りは楽しげに盛り上がっている。そんな中にのんびりと身を置くのもまたいいと思った。上着を脱いで寛いだ姿勢になり、周りの様子を眺めていたアスランに、突然声が掛かった。
「ああ、来てたんだ」
 声の方向を見ると、まだ聖歌隊姿のカガリが立っていた。ふと、先ほどのあのはにかんでいた姿をアスランは思い出した。遠くから見ていたあの姿が酷く印象的だった。
「今日は修道服じゃないんだね」
 そんな言葉を掛けると、カガリは側へ来て隣に腰掛けた。薄いヴェールを通して金髪が透けて見えた。
「ああ。今日は聖歌隊だからな。それに、私はまだ正式な修道女じゃないんだ」
 その言葉にアスランはカガリを見る。
「正式じゃない……?」
「ああ、まだ見習いなんだ」
 そう言うとアスランを見て笑った。
「ここへ来て長いけど、私はおちこぼれだからまだまだ沢山修行をしないと正式な修道女にはなれないんだ。いつもシスター達に叱られている。『落ち着きが無い』とか、『粗雑だ』とか」
 舌をペロリと出して見せた。
「あと、『言葉遣いが悪い』とか」
 それを聞いてアスランは笑った。如何にも悪びれなく言うカガリが、確かに修道女に向いているとは思えなかったが、それを自分で認めている言葉に思わず笑いを誘われた。
「私が神の花嫁になれる日はいつのことかなあ」
 向こうでみんなの祝福を受けている花嫁の姿を見ながらカガリがそう言うのをアスランは聞いていた。『神の花嫁』、即ちそれは正式な修道女になる事を指す。
「何故、修道女に?」
 カガリの透けて見える金髪に時々チラリと目を奪われながら、アスランは訊ねた。
「私はあそこで育ったんだ」
「え?」
 微笑を浮かべたままでカガリは答えた。
「小さい時に両親が死んで、それからあの修道院でずっと育ててもらった。だから、その恩に報いるためにも生涯かけて神にお仕えして行こうと決めたんだ」
 清々しい笑顔でカガリはアスランを見た。その笑顔の中の揺るぎない強い意志が、瞳の上に現れていた。
「アスランは?」
 その瞳をじっと見ていたアスランに掛けられた言葉に、思わず「え?」と間の抜けた答えを返す。
「何で教師になろうと思ったんだ?」
「ああ……」
 その問いに、しばらくアスランは黙った後答えた。
「教えることが好きだったから」
 しかしその言葉はやや力なく漏らされ、それを言った後のアスランの表情も心なしか冴えなかった。その表情をカガリに気取られまいとするかのように、アスランは何か言葉を続けようとして、そしてハッと思い出した。
 あの、ヴェールのことを。
「あの――」
 そう言おうとした時、
「ここにいらっしゃったのですね」
 声がして、振り返るとにこやかに微笑むラクスがそこに立っていた。
 
 それから3人で談笑したり、他の人々と一緒になって踊るカガリの姿を見てアスランとラクスが笑ったりで、一日が過ぎて行った。
 折角訪れた告白の機会をまたもアスランは逃してしまい、結局何も言えずにまた下宿に帰って来た後、机に置かれたヴェールを見て溜息をついた。
 そしてそれをじっと見ていると、今日見た花嫁が被っていた純白のヴェールが思い出された。
『私が神の花嫁になれる日はいつのことかなあ』
 灰色のこのヴェールはカガリが神の花嫁になる時に、その色を変える。人の花嫁になるためのヴェールは白く、神の花嫁になるためのヴェールは黒いのだと今日知った。その対照的な色は、そのまま彼女達の対照的な生き方を表している。どちらも幸福な結婚である事に違いは無いのだろうが、その愛するものの対象の大きな違いにアスランは考え込む。
 その心に今日見たカガリの、あのはにかんだ顔と、清々しいまでの笑顔が交互に訪れた。
 そしてまたヴェールに目をやったアスランは、手を伸ばしてそれを取る。
 ――これを返したら
 自分が今考えている事が馬鹿げた事だとは思いながらも、彼は心の中で呟いた。
 ――彼女に会う最後の口実を失ってしまう
 胸に広がるそんな思いにアスランはただヴェールを見詰めていた。そうしてから、『神の花嫁』と言う言葉を思い出して、深く溜息をついた。

 神が相手では敵うはずもないではないか――そう自嘲する言葉を自分の心に聞きながら。


<08/10/13>


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