街角のマリア  /後編







   お父様、あの方は…一体どうなされたのでしょう……。このところ筆も持たれず、日がな一日ずっとあの絵を見ていらっしゃるか、窓の外を眺めては何か物思いに囚われていらっしゃいますわ。私、いつも声をお掛けしようと思うのですけれど、…ええだって、とても気になりますもの…でも何だか、かけそびれてしまうのですわ…。まるで内鍵を掛けて閉じ籠った人のように、自分の中から出て来ては下さらないの―。戸口から、そっと覗き見る事しか私には許されないのです…。でもそれすらもきっと、あの方はご存知無いのでしょう…。
瞼を開いていても瞳に映ったものを見てはいらっしゃらず、それはまるで鏡のように自分の内を映していらっしゃる。私などは映す事すら無いのですわ…そんな気がするのです、あの方を見ていると   
あの日以来、そう…あの人が見えなくなってしまわれてから、ずっとあのご様子で……。   何があったのかは知る由もありませんけれど……きっとあの人を見ていらっしゃるのですわ、…ええ、いなくなった今もずっと   。」








   お父様、あの方が絵を、    上から描き直していらっしゃるのです    まるで何かに衝き動かされるように…。あんなあの方を見るのは、私……初めてですわ………      。」











                         。











             やがて街に冬が訪れた。
その地に訪れる冬は、鈍色の空から墜ちてくる白い精によって告げられる。
小雪が舞い散る中、人々は上着の襟を立てて背を丸め、急いで通りを歩いて行く。
石畳に落ちる雪はその面に触れる瞬間に融け、そして敷き詰めた石の隙間に詰まった埃と混じりあって湿った土の匂いを放ち、次第にその上にまた降り募る雪によってそこにある匂いも汚れた泥も、やがて春の陽射しが剥ぎ取るまでの永い間、まるで無垢な白い柔肌の下に秘め事のように隠され続ける。
河の岸やそこに架かる幾つもの橋もやがては色を失い、街は化粧を施した女の顔のように白く塗り変えられていく。
郊外に広がる畑や果樹の林や遠くに見える山並みも、次第に全てが一色になり、一つの繋がった風景へと描き変えられる。
静かに腕を伸ばし始めた冬の懐に抱かれて、その地は安らかな永の眠りにつこうとしていた。

教会の鐘が正午を告げている。
街に数個の鐘が鳴り響き、それは乾いた空気を震わせて隅々まで伝わって行く。
重い色の雲が垂れ込め、小雪がちらちらと舞い始める中、川の辺に建つ教会へと向かう人々の姿があった。
その群れと擦れ違ったある年配の婦人が、その中に顔見知りの姿を見かけて呼び止めた。
「あらあんた、一体どこへ行くんだい?」
「ああ、いやなに、絵をね、見に行くんだよ。」
「絵だって?」
「ああ、ビアンキの屋敷にいる若い画家が描いたっていう祭壇画が、そこの教会で今日から公開されてるんだ。」
「そう言えば…で、何の絵なんだい?」
「『マグダラのマリア』って話さ。」
「へえ、そっちのマリア様かい。」
「ああ。けど有難い絵もいいが、庶民のわしらには親しみを感じるってもんさ。」
二人はそんな立ち話を交わし、その続きで世間話を一通り終え、別れの挨拶を交わした後それぞれに別の方向へと向かって歩き始めた。
その後からゆっくりとした、歩を踏み出すのを躊躇うかのような歩調がそこに近付いて立ち止まり、そのまま暫くじっと佇んだ。そしてすっぽりとストールで覆い隠した頭を上げて行く末にある教会をその覆いの影にある両の瞳でしばらく見据えると、またゆっくりと歩き始めた。先程からその歩調を繰り返し、なかなか先へ進めないのは、自分の中にある二つの心が互いにじりじりと引き合って譲らないからだと言う事が少女には分かっていたが、それでもそれをどうする事も出来ず、結局ここまでやって来た。教会に近付くに従ってどんどん足は重くなり、ともすると、そのまま踵を返して逃げ去りたい思いに駆られたが、一方で、どうしようもなく歯止めがかけられない衝動が自分の心の一端を捉えて離さない。その合間で抑えの利かなくなった振り子のように大きく揺れ動いて千千に乱れ、そして少女は結局教会の前まで辿り付いた。
途端に鼓動は早鐘を打ち、息は乱れ、胸が締め付けられるように苦しくなる。
地面に足が吸い付いたように一歩も進めなくなった。
     あれから。
あれからあの絵はどうしたろう?
何を見、何を思って描いただろう。
それともまた違う誰かを描いただろうか。
いっそそのほうがまだ救われる。
     いや。
いや……本当に知りたいのはそんな事じゃない。
けれど、それを知ってどうなるのだと言うのだろう?
知ったところでどうすると言うのだろう?
自分にそう問いかけながらも答えは出せず、戻る事も進む事も出来ずに少女はひたすらそこに立ち尽くしていた。
その時後ろから来た人波に押され、その弾みで少女は二三歩よろめいた。
強張っていた足がぎこちなく動いて縺れそうになり、側を通り掛った少年が「大丈夫ですか?」と支えてくれた。「ありがとう」と微笑を返すと少年もニコリと微笑を返し立ち去っていく。その笑顔に添えられた少年の澄んだ翠色の瞳が、少女の中で押し止めていた心を大きく衝き動かすように揺さぶった。
絶望は切望を抑えられず、忽ち心は噴き出して、融け出した菓子のような甘い匂いで一杯になった。
畏れも迷いも、芳しい匂いに眩み行き、やがて水底へと沈んで行く。
もはや繋ぎ止めていた枷は外され、ゆっくりとまた足は教会へと向かって歩き出す。
雪を踏み締め、一歩また一歩と進み、漸く入り口へと辿り付く。
数人の人波に紛れて入り口の扉をくぐると、そこには薄い闇が広がっていた。
高い天井に沿って両側に並ぶ数個の小さな窓から弱い光が入り、仄暗い床に疎らに降っていた。正面の祭壇の上に設えられた窓からの光は後光のような彩を放ち、それはそこだけに留まっている。入り口の上に作られたやや大きめの窓からの光だけが、一条の筋となって祭壇を照らし出していた。
ゆっくりと進む行列の間で、足元の仄かな光に浮かぶ床の模様に目を落としながら、少女はなかなか視線を上げる事が出来ず、俯いたままで緩々と祭壇に近付いた。
「不思議なマリアだわ。」
隣の婦人の声がした。
「語りかけるような静かなあの瞳は、何を想っているのかしら。」
少女は光の指し示す、その方向に視線を上げた。
       。」
一条の光の露に照らし出されたマリアは、静かにこちらを見ていた。
神と祈りの場所を繋ぐように、神の光へと祈る者を導くように、その身に光を受けながら静かにこちら側を見ていた。その瞳の底には静かな灯火があり、それはあらゆる痛みや苦しみを包容しながら直向きな想いに揺れる静かな色の灯だった。
かつて神の方向へと向けられていた希望の光は、その奥に隠された密やかに揺れる灯を導いて、見る者へと眼差しを、そして仄かな灯火の光を、静かに投げ掛けている。それは祭壇に射す光と融け合い、しんとした辺りの闇の中でひっそりと煌く星のように、消え入ることの無い祈りの灯のように瞬いていた。
「……………。」
声は言葉にはならず、見開いた目をただ静かに瞬くと、少女はゆっくりとそこから後退さった。そして振り返ると、扉の方へと向かって歩き出す。擦れ違う人々に何度もぶつかったが、それすらもわからなかった。薄暗い世界に切り取られたような出口の光を通って外に出ると、教会の横を流れる川に架けられた橋の上に立って川面を見下ろした。緩い流れに白い雪の華が点々と落ちて行く。
頬を伝っていく涙を止める事が出来ず、込み上げる嗚咽に堪らず手を強く握り締めた。
それでも耐えられずに、顔を上げ、空を見上げた。
空から落ちてくる雪が次々と顔に降りかかり、頭を覆っていたストールが解けて露になった髪にも白く降り積もっていく。
涙に触れた雪は瞬間に融けて混じり合い、そしてまた頬を濡らしていく。
声を押し殺そうとして、それでも洩れ出る嗚咽を押さえられず、唇を噛み締めた。
自分に向かって降り注ぐ雪を、止まる事を知らない溢れる雫のような雪を、映していた少女の瞳が橋の向こうを向いた時、それは突然そのまま動かなくなった。
舞い落ちる雪の向こうに、その明日はあった。
静かに未来は歩み寄り、時を待っていた。
強さを増した雪の向こうに立つ青年の姿が、雪の中の幻かと思えた少女の瞳に、ゆっくりと近付いて来るのが見えた時、それでもまだそれが現実とは思えずに、鈍く曇る視界の中でただぼんやりと眺めていた。そしてその幻影が雪を踏み、もう少しで触れられる距離にまで近付いた時に、それが夢でも幻でも無い事に気が付いた。
無言のまま青年は立ち止まる。
ただ互いに言葉も無く、瞳は見交わされた。
濡れたままの瞳は大きく見開かれ、それを映す翠の泉は雪の向こうで一輪の波紋も無く静かに開かれている。
この世の音が消え去ったように、ただ落ちる雪の微かな音だけがあった。
「これを。」
漸く口を開くと、青年は懐から小さな袋を取り出して少女に差し出した。
まだ夢から覚めやらぬ人のようにその袋を少女は見つめていたが、
「約束のものだ。」
そう言われて、初めてそれが何であるかを理解した。
少女はゆっくり頭を左右に振ると、黙って俯いた。
「受け取りなさい。これはお前の物だから。」
そう言うと青年は少女の手を取り、それを手の平の上に載せた。
重ねられた手からじわりと伝わる温もりに、それが今現実であるという事を、少女はやっと知る。
「南の街へ行くよ。」
手を取ったまま、青年はそう言った。
「祭壇画を描かないかと誘ってくれている教会がある。…行ってみようと思う。」
その時初めて青年が旅装束である事に、少女は気が付いた。
「ビアンキの家には本当に世話になったが、もっと広い世界を知りたいと思った。決心が付いたよ。」
そう言うと、青年は緩やかな微笑を向けた。
「明日はどうなるかわからないがそこへ向かってみようと思う。」
晴れやかに微笑み、そして静かに少女の瞳を見据えた。
曇りの無い翠の眼差しには真摯な光が灯り、少女の手を掴んだ手に力が加わって、手の平から袋が零れ落ちた。
「人さらいだと、また言われるかも知れないが。」
迷いの無い瞳は、真っ直ぐに向けられる。
「その光を    。」
柔らかな微笑が添えられる。
「俺にくれないか。」
掴まれた腕は揺るがない。
「……私は……。」
それ以上の言葉は呑み込まれた。
代わりにまた一筋の雫が頬を伝い落ちていく。



「一緒に行こう、カガリ。」



明日は今、すぐ側にある。
時に見えず、時に迷い、時に残酷で、けれど時に優しく。
掴み取れないと、泣いた日々に思いを寄せ、そして今手を伸ばし、やっとそれを抱き締める。
互いの腕の中に生まれた新しい光は小さく灯り、真新しい白い道を照らし始めた。
それはまだ見えない明日へと向かい、果てし無く続いて行く。


雪は降り続き、降り止まず、白い足跡をその手でそっと消して行く。
明日はまた新しい雪が降り積もり、そしてまた新しい明日がやって来る。




全ては、希望に満ちた真っ白な光の中へ    

<06/01/29>

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