街角のマリア /中編夜明け前の空を思わせる、薄暗い色の麻の衣装を纏った少女が、部屋の中央から少し窓よりに置いた椅子に座り、やや窓側に向けられた体の、その斜め後方から光を受けている。真横からの光よりも後方からの光は少女の丸みを帯びた身体の輪郭の陰影をより適度に暈し、垂らした長い金髪の流れを逆光で透かしてそこにあたかも金色の光が宿っているように見せている。顔はやや傾げて首を少し光の方向に向けかけ、それによって双方の瞳は聖なる光を授かったように光を灯している。その微かな光が、暗い麻の服の色と対照して、より際立って瞬く星のような印象を与えていた。 部屋に響くのは青年の動かす腕によって生じる物音と、少女が時々身動ぎして鳴らす椅子の軋む音と、そして、微かな二人の息遣いだけだった。 ふっと、少女が溜息を吐き、それを合図のように空が俄かに掻き曇り太陽が姿を隠す。光を失った部屋は途端に薄暗く、瞳に宿った聖なる光も闇に包まれた。 「疲れたか。」 青年が腕を止めて長い間閉じていた口を漸く開いた。 「だってずっと同じ姿勢だろ。」 「絵は動かないからな。」 そう冗談交じりに言いながら、青年もカンバスに当てていた手を外し、ふっと溜息を吐いた。 「今日はここまでにしよう。光の加護も、どうやら今日はもう無いようだ。」 そう言うと、立ち上がった。 そしてふと思い出したように 「そう言えば、菓子があるんたが。」 と言った。 「菓子?」 「パトロン…この屋敷の主人だが、色々と珍しいものを差し入れてくれる。普段は街の方にある屋敷に住んでいるんだが、週に1度程ここに遣って来るんだよ。…ああ、そう言えば、今日当たり来るかも知れないな。」 そう言いながら、青年は絵の具や道具をしまう為の棚をゴソゴソとやっていたが、やがて小さな紙包みを持ってきた。 「食べなさい。」 そう言って、紙包みを少女に手渡した。 無造作に包んだ紙はやや絵の具の材料に染まって変色していたが、しかしそんな紙でさえも、少女にしてみれば高価なものに思われた。 包みの中に入っていたのは様々な形に整えられた綺麗な色の焼き菓子で、少女が今まで手にした菓子と呼ぶものとは余りにも懸け離れた姿のものだった。 手に持ったまま暫く眺めている姿を躊躇っていると取ったのか、青年は微笑して 「食べてみなさい。」 とまた促した。 言われて少女は漸くそれを口へ運び、小さく一口齧ったが、そのまま暫く静止すると、目を見開いて青年の方を見た。 「砂糖というものが入ってるんだそうだ。甘くて美味いだろう。」 と少女の反応に満足したように答えた。 初めて口にするその甘さというものは、舌の上に乗せると忽ち蕩ける様に口の中に広がっていき、そしてそれは頭のてっぺんまで駆け上ると、不思議な幸福感で少女の心を満たした。今まで覚えた事の無いその恍惚とした感覚は、まるで媚薬を含んだ人のように暫く頭の中が痺れてトロリと溶け、体からその溶け出したものが流れ出で行くような錯覚を覚えた。 やがて、二口、三口、と夢中で食べ始める。 それを見ながら、そんなところは年頃の普通の娘と変わらない、と青年は密かに微笑した。 そんな様子を暫く見ていたが再び立ち上がり、また棚をゴソゴソとしていたかと思うと、やがてグラスを二つ持ってやって来た。 「蜂蜜酒でもどうだ。」 そう言ってグラスを一つ少女に手渡すと、自分も赤い葡萄酒の入ったグラスを持って椅子に座り、そして菓子に夢中になっている少女を見ながら一口含んだ。そのまま暫く黙って少女の様子を見ていたが、ややあって、訊ねた。 「お前、いつから今の仕事をしている?」 おもむろに出されたその言葉は、少女の手と動きを止め、そして、少女は瞳だけを青年の方へチラリと動かすと、憮然として答えた。 「何で、そんな事を聞くんだ?」 その言葉に、青年は苦笑する。 「…いや、気に障ったのならすまない。」 そう言ってグラスの中の赤い葡萄酒に視線を落とすと、また一口含んだ。 「ただ、お前のようなまだ年若い娘がどうしてかと…。」 少女は黙って視線を床のモザイク模様に落とした。白と黒、まるで対照的である筈のその色が、不思議と調和を為してそのコントラストが互いに惹き合うようにバランスを保っている。隙間無く合わされた石が、まるで始めからそのものの姿で存在しているように思われた。 「……15だよ。」 やがて少女の低い声がした。 「15で家族を失って、一人になった。」 少女は手の中の菓子を見つめながら低くそう呟いた。 「昔はこれでももう少し、まともな暮らしをしていたんだ。けど、流行り病で家族はみんな死んでしまった…。」 不思議と妙に素直になっているのはこの甘い菓子と蜂蜜酒のせいだろうかと、少女はホウッと温まって来る体の火照りと甘さの残る舌の感触を感じながらそう思った。今まで身の上を人に嘆いた事などは無い。そんな弱さを曝け出す事は、支えてきた自分の全てを根底から崩してしまう事だ。 「…そうか。」 青年はしかしただ静かにそう言うと、またグラスから一口含む。そしてそのまま黙った。 その時その沈黙が少女には救いに思われた。 それ以上何も問わずにいる青年の、グラスを見つめる視線の先がふと優しさにも思われ、それは今ほど感じた菓子の甘さにも似てジワリと心に広がっていく。 その時間の余白が少女に、元の自分に立ち戻るだけの猶予を与えていた。 「なああんた、少し安くしといてやるからさ、今度客になってよ。」 「俺が?」 少女の突然の言葉に含み笑いをし、青年は答える。 「競争相手が多くてさ、不景気なんだよ。」 「生憎だが。」 青年は目で笑って答えた。 「別に不自由はしていないんでね。」 その時、ザワザワと人の気配がし、母屋の方から足音や人の話し声が聞こえてきた。 「ああ、やはり、今日来られたようだ。」 青年がそう言って間もなく、パタパタと廊下を走る靴音がし、それはこのアトリエへと一直線に向かって来る。 そしてドアが開くと共に「アスラン様!」と鈴の鳴るような、年若い女性の涼やかな声がアトリエ中に響き渡った。 薄暗かったアトリエが、放たれたドアからもたらされる光で急速に明るくなったように少女には思われたが、しかしそれは、そこに立つ人物自身から発せられるものだと気が付いた。 フワリとした羽のような美しい光沢を放つ衣服に身を包まれ、そこから覗く白く滑らかに見える喉元や胸元、そしてスラリと延びた細い腕、何より、気品に満ちた美しい容貌とそれを縁取る美しい金髪が、まるで天使の絵を思わせた。 「やあアンジェラ。」 青年が親しげにそう呼ぶと、アンジェラと呼ばれた娘は嬉しげに微笑み、そしてふと座っている少女に気が付いた。 「あ、ごめんなさい…お仕事中?」 「いや、構わないよ。」 アンジェラは少し肩を竦めると、 「でもお父様に叱られるもの。」 そう言って少女の方に愛らしく微笑みかけ、ドアに手を掛けた。そして、 「後で、お待ちしています。」 そう言って青年の方に向かいある種の色を含んだ視線を投げかけると、ドアを閉じた。 アンジェラが立ち去ってから青年は 「彼女はここの主人の末の娘でね。時々一緒にやって来るのだよ。」 そう言ったが、今の様子でそれは「時々」では無く、「頻繁に」であると言う事が少女にも見て取れ、そしてそれが何を意味しているのかも瞬時に理解した。 「ああそうか。」 先程の青年の言葉を思い出し、少女は一人呟いた。 「何が?」 「いや、……。」 そう言うと少女は菓子に視線を落とす。 「…これと同じくらい、食べたら甘そうだなと思ってさ…あのアンジェラって娘。」 青年は声を立てて笑い、少女は菓子を見つめていた。 幾日目の夜だろう。 少女はそう思いながら部屋の窓から月の無い空を見上げていた。 あてがわれた部屋は自分の貧相な家など比較にならない程の立派さで、調度品も贅沢なものだ。それが何となく落ち着かない。食事にしたってそうだ。粗末なスープとパンが精々の、自分の食生活では見た事も無いような材料を使った食べ物の数々が並んでいる。そんな落ち着かない部屋で食べる食事はもっと落ち着かない。今まで味わった事の無いこんな高価な料理よりも、いつもの自分の粗末な食事の方がずっといい、と少女は思う。 そして昼間会った、あのアンジェラと言う娘の事をふと思い出した。名前の通り、天使を思わせるあの娘は年の頃も自分とはそう変わらない。あの娘は毎日こんな暮らしをしているのか…。何もしなくても目の前には贅沢な食事が並び、綺麗な服が与えられ、そしてあの甘い溶けるような菓子が食べられる…。 「でも。」 と少女は思う。そこに自分で掴み取るものは何も無い。 ただ与えられるだけの毎日に、一体何を見出せると言うのだろう? 明日は、与えられるものでは無い、自分で掴み取るものではないか…! 例えどんな境遇にあろうとも、生きている、ただその限りは自分で掴み取れるのだ、と…。 そう少女が思った時、視線の先がふと何かを捕らえた。 月の無い庭を寄り添うように歩いて行く二つの影。 屋敷から漏れる明かりを受けて、その姿が暗闇の中微かに映し出される。 「………。」 瞬間言葉に出来ない感情が少女の中にドロリと湧き上がり、その覚えた事の無い感情に戸惑を感じながらも、それでも目は影から離す事が出来ず、ガラス越しにじっとそれを追っている。そして、その姿がやがて見えなくなってもガラスに額を押し当てたまま動くことが出来ず、少女はそこに立ち尽くした。 冬を迎える前の陽射しは夏の陽射しよりも遠くから降り注ぎ、それは春の陽射しよりも控えめな柔らかさで降りてくる。 朝の光を浴びるアトリエのガラス窓に身を預け、一人物思いに耽る少女の髪や肩、そして身体にもそっと触れるようにその陽射しは舞い落ちる。 伏目がちに開かれた瞳は少女の表情を急激に大人びさせ、その瞳に灯る緩い光は移ろうようにゆらゆらと揺らめいた。 ドアの開かれる音に、少女は振り返る。 「……。」 ドアに手を掛けたまま、青年はそこにある光景に息を止めた。 完全な一枚の絵が、そこにあった。 振り返る少女を抱く光と、その中で静かに揺らめく灯。 カンバスに向かったまま暫く動こうとしない青年は、やがて軽い溜息を漏らすと、 「違う。」 そう言って、椅子の背凭れに凭れかかった。 少女は視線を青年へと向ける。 視線が合うと暫く互いの瞳の奥を探り合うように黙った。 「…光が…。」 青年が口を開いた。 「違う…。」 その言葉に一瞬少女の瞳が揺らめいた。 「……光?」 そう言うと、また暫く互いに黙って見詰め合った。 部屋は陽の光の寵愛を受けて、ガラス窓から射す光で満たされている。 相手の見透かそうとする視線は、その光と相まってより強くなり、少女の心を今にも射抜かんとしているように思われたが、しかしやがてそれはふと弱められ、追い詰めようとした獲物を包容するような眼差しへと変化していく。 「何故お前をこの絵に選んだと思う……?」 その問いに、少女は黙って首を振る。 青年はそれを見て微笑した。 「初めて街角で見掛けた時、お前は顔を上げて真っ直ぐに前にあるものを見ていた。他の民衆は皆一様に俯いて諦めの目をしているのに、お前だけがそうでは無い。両方の目に光が満ち、それは希望に溢れていた。娼婦という境遇にありながら、荒んでいないその目は生きる事に喜びを見出し、明日を信じる光に満ちている。…俺が描きたいのは、そう言うマリアなのだ。」 そう言うと、足の上で両手の指を組んだ。 「お前を選んだのは、容貌でもその人よりも美しい金髪のせいでも無い。その両の瞳に湛えた希望の光が、忽ちにして俺の心を捕らえたのだ。……だが。」 青年はそこで言葉を区切り、深い湖の水底を覗き込むように真っ直ぐに少女の瞳を見た。 「何故だろう…その光が今はまるで何かに隠されているようだ。」 まるで水底の砂の一粒まで見通すような青年の眼差しを受け、その底にあるものを暴き出され、引き摺りだされ、今初めてそれを少女は目の当たりにした。朧げにしか見えずにいたものが、正体を晒し出した。 初めて知ったその感情は、酷く残酷で皮肉な運命でしかない。生まれた時から希望は無く、掴み取る事すら叶わない。光を見出せないまま彷徨い続けるだけだ。 言い知れぬ絶望の淵で打ちひしがれながら黙って項垂れた。 ……それ以外に耐える術などは知らなかった。 青年が去った後、少女はカンバスの前に一人佇んだ。 光に向かうマリアはその瞳に希望の光を湛え、神の子と共に生きる喜びに満ち、明日を信じている。 少女は手を伸ばして指先でそっとその瞳に触れ、そして瞼を閉じた。 アトリエから部屋へ向かっていた少女は物思う余り、いつの間にか屋敷の奥へと入り込んでいた。気付いて来た道を引き返そうとした時、廊下の向こうから中年の小太りの男が遣って来るのが見えた。豪華な飾りの付いた衣服を纏い、手には少女が見た事も無いような大きな石の付いた指輪を嵌めていた。 男は少女を見つけると、途端に怪訝な表情をし、 「何だ、お前は。」 とジロリと一瞥したが、 「ああ、お前がアンジェラが言っていた、例の新しい絵のモデルか。」 そう言うと、少女を舐めまわすように眺めた。 「こんなところで何をしている?」 「ただ道に迷っただけだ。」 男の、体を這うような視線に嫌悪を感じながら少女はそう言いうと、その横を擦り抜けて立ち去ろうとした。 その時突然男が少女の腕を掴み、壁に押し付けた。 「お前、娼婦だな?」 男の好色な目が近づき、その言葉に少女はハッとする。 「…匂いだよ。隠したって俺には匂いでわかるのさ…。最も、俺が買うのはお前のような安物の匂いのする妓では無いがな。」 そう言うと脂ぎった顔でニタリと嗤った。 「『マグダラのマリア』のモデルに本物の娼婦とは、あのアスランも面白い事をするものだ。」 「離せ!」 抗おうとする少女に益々そそられるように、男は腕に力を入れて押し付けた。 「どうだ、俺が今晩買ってやろうか。ああ、心配はするな、金はたっぷりと払ってやる。」 その言葉に少女は男を睨み付けた。 「馬鹿にするな!誰があんたなんかに…!」 その言葉に男の顔色が変わる。 「何だと?たかが下級娼婦の分際で…。」 そう怒鳴ると、鼻息も荒く少女の服の襟に手を掛け、ビリリとそれを引き裂いた。そして露になった肌の、胸の膨らみに手を掛けようとしたその時、 「お父様?」 向こうのほうから涼やかな娘の声がした。 「どこにいらっしゃいますの?」 その声に、男は伸ばしかけた手を引き、 「ああ、アンジェラ、今行くよ。」 と突然優しげな父親の声に変わると、声のした方に向かってそう返事をした。 「畜生めが。」 少女の方へ向いて小声でそう吐き捨てると、未練がましく少女の体を見渡した。 「いいかお前、アスランを誘惑しようなんて思うなよ…あれはいい男だし、才能もある。そのうちに、アンジェラと添わすつもりでいる。あれが執心だからな。まあしかし、お前などがいくらそう望んだとて、叶うはずはあるまいが。」 そう嘲るように言い捨てると、まだ未練があるように度々振り返り、そして声のした方へと去って行った。 月は見えず闇だけがあった。 光の無い夜は全てのものから隠してくれる酷くも優しい闇。 罪も咎も知りながらそれを何食わぬ顔で見逃している。 密やかにその影は静かな廊下を行き、ドアの前で立ち止まると、ゆっくりとそれを押し開いた。 暗闇の静けさの中、ドアの軋む音だけが、今のこの世に存在する全ての音であるかのように響き渡り、その音に影は暫く立ち止まったが、やがて様子を窺うと、部屋の中に忍び入った。その部屋もまた闇に包まれて、全てが混沌とした黒い帳の中にあった。微かに、規則正しい寝息が部屋の隅から聞こえ、影はゆっくりとその方向へ近付いて行くと側で立ち止まり、暫く寝息を聞いていたが、静かに寝床の端に座り、手を伸ばして寝息を立てる体にそっと指先で触れた。そして躊躇いがちに、寝息を立てる顔の方へと指先を伸ばすと、頬や唇へと触れていく。そうしてから体を屈めると、寝息を立てる唇へと静かに顔を近づけた。 「………。」 その感触に寝息が止み、眠っていた瞳が目を開ける。 「……誰…だ…?」 青年は驚いて身を起し、尚も何かを言おうとしたが、その唇に影は指で触れて制し、そして、また唇を以って制した。 長い髪と柔らかな体の感触が青年の腕に触れ、微かに甘い香りが漂った。 「………アンジェラ…?」 青年がそう呼ぶと、影は一瞬ピクリと動きを止め、そしてギシリと音を立てて更に近付くと、唇を青年のそれに再び押し当てた。抗う暇も与えずに、尚奪おうとするその豊潤で滑らかな熱を含んだ侵しに、触れられた箇所から融け入ってくる痺れを伴った疼きにただ動くことも出来ず、次第に麻痺していく身体を青年は支えた。 「………。」 奪い続ける花弁の、余りのその柔らかさと甘い花の香りに酔い痴れそうになりながら、青年は麻痺していく腕を漸く伸ばして影を捉えると、その薄い夜着の胸元の紐に手を掛けた。 触れた全ては融け落ち、意識は遠のいた。やがて気が付くと白み始めた闇の中に影は無く、青年の手にはただ甘美な痺れだけが残っていた。 ただカンバスにあてがう筆の音だけが響き、その他に物音は何も無い。 音の代わりにそこにはピンと張った弓のような空気があり、時折それに触れる感情が声を上げている。 その声が互いに聞こえても言葉も無く、そこには画家とモデルという、ただ只管純粋な彼らだけの交わりが行われていた。 他の何者も踏み入れられない聖域に二人だけが存在している。 互いしか目に入らず、互いだけを求め合っている。 時折揺らめく空気に少女は瞳を揺らし、青年は腕を止める。が、波立った水面がやがて静まると、また少女は瞳を上げ、青年は描き始めた。 無言で過ぎた時はやがて陽の傾きと共に終わりを告げる。 「終わりにしよう。」 青年のその言葉に少女は言葉も無く立ち上がり、部屋から出て行こうとドアに近付いた。 「今夜も。」 青年の掠れた声がした。 「…月が隠れそうだ。」 ドアに当てた少女の手がピクリと震えた。 『この町に一人罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った』(新訳聖書) 雲は月を隠し、その闇にお前の全てを晒し出せと耳打ちして唆す。 甘く惑わす暗闇に人の心は吸い取られ、再び罪を生む。 それが果たして罪か否か、それさえも惑う心に覆う闇は見えなくして迷いの森へと誘い込む。 重い足取りがかの部屋へと向かう事を止められず、引き摺るように歩きながら、やがてその影はドアの前で立ち止まった。 暫く逡巡した後、ゆっくりとその迷いの扉を押し開く。 更に深い闇が口を開けた様に待ち受け、その中へ融け入るように影は入って行く。 「待っていたよ。」 闇の中から掠れた声がした。それは同じ闇に迷い込んだ者の、疲労し、救いを求める声に似ていた。 声も無く、影は寝床に近付くと、そこに座る青年の頬を癒すように手の平で撫でた。 「待つことがこんなに息苦しく思えた事は無い。」 掠れた声でそう言うと、その手を掴んだ。 「お前を待つ事が、罪そのもののように思われた…。」 そう言うと、もう一方の手で腰を引き寄せた。 「あの絵の神聖な光を、俺は自身で穢したのだ…。」 その時破れた雲間から一条の光が射し込み、大きく見開かれた瞳を照らし出した。 月の光を吸い込むように見開かれた少女の瞳は震え、慄き、大きく揺れながら青年を見降ろしていた。 「……あの時、あんたは『アンジェラ』、と……。」 「…始めは、確かにそう思った。」 固くなった少女の身体を、逃れられないようにするかのようにしっかりと支えた。 「しかしすぐにそうでは無いとわかった。……彼女は深夜に男の部屋に忍んで来る娘ではない。」 「……。」 その言葉に、少女の瞳に歪んだ自嘲の色が表れた。 「…所詮は、娼婦だと…?」 青年から身体を離そうとし、それは青年の腕によって阻まれた。 「あんたもあのパトロンのように、所詮は娼婦だと…。」 その言葉に青年は無言で少女の瞳を見、やがて答えた。 「お前を娼婦だと思って見た事は一度も無い。」 細い月の光は尚も隠されず、向かい合う瞳を照らしている。歪んだ少女の瞳がさざめいた。 青年は掴んでいた少女の手を離し、両手を少女の腰に回すと更に引き寄せた。 「画家としてお前を絵のモデルにしたいと思った時から、多分俺はその瞳に惹きつけられていたのだ。」 そう言うと、少女の夜着の紐をゆっくりと解いていく。 その手に少女の瞳から滴り落ちた雫が降り掛かった。 それは一杯に瞳に溢れ、月の光を受けて少女は瞼を閉じた。 まだ夜の明け染めぬ、白々とした朝の気配の中で、うつ伏せに横たわり深い眠りに落ちている青年を、少女は側に立って暫く見ていた。そして足元に近寄ると、そっとその足に口付けた。 「罪深い私を、どうか赦して下さい…。」 そう言うと、静かに立ち去った。 朝、…少女の姿は屋敷のどこにも無かった。 あとがき *当時、砂糖はまだ貴重品で、貴族や一部の富豪の口にしか入らなかったそうです。スパイスの一種とされていたとか。その分蜂蜜が甘味料として使われていたそうです。蜂蜜酒というのも割りとポピュラーなお酒だったようですね。 *「香油壷のマリア」と「マグダラのマリア」は別人とする説がありますが、この話では同一人物という事にしています。当時の絵画はみんなその上で描かれていたので。……話に挿入してある聖書の一部はあまり意味はありません。ただ、使いたかっただけだったり(笑) *話の流れが不明な点が多いと思うので(おい)全て終わった後にでもまたあとがきで注釈入れようかと……(タラタラ) *二人の年齢ですが、カガリ17歳くらい、アスラン20歳か20ちょいくらいと想定してます。 <06/01/08> ≪←前編へ≫ ≪後編へ→≫ |