まだ人や馬や犬や猫、そして家畜と言った生き物がそこに雑多に暮らし、敷き詰められた道の石畳の隙間には、砂埃と生臭い生活臭とそれに混じって、欲望や希望や失望と言った人々の情念とも言うべき思念が隙間無く詰まり、そしてまた存在し得た時代。 生きる事さえ儘なら無い、寧ろ生きる事が稀有な尊い望みであったその時代。 一人の少女が街角にいた。 それをマリアと青年は呼んだ。 街角のマリア /前編「何だよ、この人さらい!」 「人さらい、では無い、と言っている。」 少女が叫び、その腕を掴む青年が冷静な口調で答える。 雑然とした街の通りの一角で、先程から繰り返される遣り取りが、通り掛る人々の関心を惹いてはその足を止め、しかしさほど興味を惹く問題では無い、と分かると、またその足を解放した。人々の関心事はそこに止まる事よりも、明日の糧をどのように得るかと言う算段と、またその手段を探し当てると言う、何よりも優先すべき事柄の方へと及んで行った。 叫ぶ少女の身形も貧相で、通りを往く民衆と変わらぬ身の上である事はすぐに見て取れたが、辛うじて、人よりも美しい金髪がせめてもの救いであるかのように身形と不相応な輝きをその頭上に与えていたが、しかしそれが尚一層、少女の印象をみすぼらしいものに見せていた。 その少女の腕を掴んでいる青年は、仕立ての良い如何にも上等そうな布で誂えた衣服を身に纏い、落ち着き払った物腰が年の頃には不相応な思慮深い印象を与え、そして恐らくは約束されているであろうその未来の余裕と言うものが、その青年の風貌をより一層落ち着いたものに見せていた。 「いきなり連れ去ろうとするこのどこが違うと言うんだ!」 「連れ去りでは無い。一緒に来て欲しい、と言っている。」 そして青年は揶揄するように微笑した。 「お前を連れ去ったとて、どだい何の得が有ると言うのだ?」 その言葉に睨め付けて何か言葉を投げ付けようとしている少女を制するように青年は言った。 「お前に頼みたい仕事があるのだ。」 その街はさながら自然の要塞とも言うべき河の流れを利用し、古くから交通の要所として商業で栄えてきた言わば「商業都市」だった。河の流れに沿って時にその姿を弓の様に曲げ、そしてその要所要所には大きな橋が掛かり、人や馬が頻繁に往来した。その広く長い河は人々に女神の姿としても親しまれ、時に彼等に安息と豊穣をもたらした。 その街に「芸術」と言う名の文化が漸く花開いたのは、ここ10数年程の事であろうか。 貴族や富んだ豪商達は競って各地からあらゆる芸術家と名の付く者達を招き入れ、歓待し、自らの身分や権力や富を誇示するかのようにそのパトロンとなって彼らを擁護した。そして彼らからもたらされる、名声や賞賛の声を見返りとして、また更なる力や富を手にするのである。 辻馬車は街の中心を外れ、郊外へと向かう小さな街道を走っていた。 青年と少女は無言のまま向かい合い座っている。 ( 「お前に頼みたい仕事があるのだ。」 そう言って青年は先程から掴んでいた少女の手を離した。 「は?何言ってるんだ、あんた?」 だいたいが初対面だぞ、と言わんばかりの不審の色を少女は顔一杯に表している。 「お前に絵のモデルになって欲しいのだ。」 と青年は変わらぬ口調でそう続けた。 「は?絵…?モデル…?」 「そうだ。俺はずっと絵のモデルを探していたのだが、今日やっとあんたに巡り合えたと言うわけだ。」 少女は不審の色を益々より濃くし、青年の顔をまじまじと見つめている。 「今とある屋敷にある絵描きが厄介になっているのだが、彼が今から製作する絵のモデルを探している。…モデルになった者にはその暁に、充分な報酬を与える、と言っているのだが…。」 そう言うと、黙ったままの少女の顔をチラリと垣間見る。 「そうか、…しかし、…嫌と言うのなら仕方があるまい。残念だが、無理強いをする訳にも…。」 「ちょっ、待てよ…!だ、誰も嫌だとは…。」 少女の態度が急に変わり始めたのを見届けると、青年はやおら微笑した。 「では、受けてくれるのか?」 「ほ、本当に、報酬は沢山くれるんだな…?」 「無論。」 「嘘じゃ無いだろうな…神に誓って?」 「ああ、神に誓ってだ。何なら誓約書を書いてもいいが?」 「…そんなもの、どうせ読めやしない…。」 そう言ってから、少女はふと考えるような仕草をすると、青年に尋ねた。 「でも…一体、何の絵のモデルを…?」 青年は微笑したままで答えた。 「『マリア』、だ。」 「『マリア』…?」 少女は目を見開いたが、暫く考え込むと探るように訊ねた。 「それは、『聖母』のほうか?…それとも、『娼婦』のほうか…?」 「『マグダラのマリア』だ。」 それを聞いた途端、少女は歪んだ笑みを口の端に浮かべる。 「はん。……成る程ね。………で、どこへ行けばいいんだ?」 「では辻馬車を拾おう。」 「そんなに遠いのか?」 「屋敷は街外れの郊外にある。暫くはそこに滞在してもらう事になるが。」 「何だって?今日だけ、じゃあ無いのか?」 「絵は、一日で描けるものでは無いよ。」 「なら、じゃあ、その間の稼ぎはどうしてくれるんだい?パアじゃないか…!」 「勿論、その分も報酬に含めよう。お前、何を生業としている?」 「…あんたが今言ったんじゃないか。」 「何だって?」 「『娼婦』だよ…。」 時折大きく揺れる馬車の窓からは、郊外に広がるオリーブの林や果樹園や、点在する建物の向こうの遠い山並みや、そして蛇行して街へと向かう女神たる河の流れが見えた。同じ馬車に乗り合わせている、と言う事実以外には、向かい合うこの男女の間には何一つとして接点と言えるものは感じられず、それぞれがそれぞれの世界の住人であるように、必要以上に触れることも交わる事も無い、まるで未だ互いの存在に気付かぬ者同士であるかのように見えた。 やがて馬車は、ある屋敷の前へと辿り付く。 如何にも富の象徴と言わんばかりの、贅を凝らしたその外観と広さというものに、少女は思わず眉を顰める。 「こういう場所は、嫌いか?」 馬車を降り立ってからやっと口を開いた青年に、少女は顔を顰めたままで答えた。 「嫌いだね。ついでに言うと、上等な服を着て、明日の食べ物の心配などした事も無いような、生きてるか死んでるか分からないような奴はもっと嫌いだね。」 「それは困った。」 青年は苦笑を浮かべた。 「ここの主は商人でね。幾つもの国に跨る大きな商いをしているのだよ。そしてそこで得た富によってあちこちから招いた芸術家を援助し、また育て、面倒を見ていると言う訳だ。」 青年は少女を屋敷に案内しながらそう言った。 「そんなに金が余ってるんなら、あたしらにくれればいい。」 そう言う少女の言葉にまた苦笑しつつ、青年は屋敷へと招き入れる。 「わ……。」 大きな扉をくぐると、まずそこにはエントランスホールが広がり、そしてそこから左右に向かって延びる長い長い廊下と幾つものドアと、そしてガラスを嵌め込んだ幾何学模様の美しい窓が壁に沿って等間隔に並んでいた。その窓から射し込んだ光が廊下に幾何学模様を描き出し、さながらそれが廊下に描かれたモザイク画であるかのように映り込んでいる。ホールの正面には大きく螺旋を描いた階段が見え、手摺に美しい彫刻が施されたそれは、まるで天上の世界へと続いているもののように少女には思われた。 別世界へと迷い込んだ人のように言葉を失い、そしてそれら一つ一つが与える圧倒と言うものに辛うじて踏み止まっているかのように少女は見える。 そんな少女を青年は見ていたが、 「一先ず、彼のアトリエへ行こう。」 そう言うと少女を促して、誰もいない光の織り成すモザイク画の廊下を歩き始めた。 そのアトリエは屋敷外れの、母屋に続いている離れにあった。 中へ入ると独特の臭いが鼻を衝き、壁に飾られたタペストリーや白と黒のモザイク模様の石の床が、窓ガラスを通して射し込んで来る柔らかな薔薇の色の陽の光の中で、それ自体が一つの完成された作品の絵でもあるかのように、優しい陰影と静かな佇まいでそこに存在しているようだった。 壁際に置かれた絵の具の材料や道具を仕舞う棚の他には、真ん中にポツンと置かれたイーゼルとそこに載せられた真っ白なカンバスがあるだけで、それ以外にそこがアトリエだと物語る物は何も無い。簡素な部屋だった。 初めて目にする物に暫く少女は心を奪われていたが、やがて、気が付いたように訊ねた。 「で、その絵描きというのは、どこに…?」 青年は腕を組んで壁に凭れ、そんな少女の様子を微笑して見ていたが、 「俺だよ。」 と変わらぬ落ち着き払った口調でそう答えた。 「あんた、が……?」 「そうだ、実は俺がその絵描きだ。…が、お前はさっき、明らかに俺を警戒していただろう。本当の事を言えば、益々胡散臭がられる、と思ってな。」 「………。」 「騙して悪かったが、言ったとおり払うものは約束通りきちんと払う。それにここにいる間の食事と寝床は保障する。悪い条件では無かろう?」 「………。」 少女は黙って青年を見ていたが、やがて口を開くとボソリと答えた。 「…約束だぞ。」 「その窓から少し離れた場所に立ってみてくれないか。」 青年は壁に凭れたままで、そう少女に指示を与えた。 先程よりは警戒心がやや緩んだのか、少女は言われた場所に素直に歩いて行き、そして振り返る。 「ああそうだ、もう少し左……そう、そこでいい。」 窓から光の届く、限界の場所に立っている少女の姿を見て青年は満足気に微笑んだ。 「ああ、やはり……。」 今までの落ち着き払った微笑から心からの微笑へと、それはゆっくりと移り変わって行く。 そしてふと思い出したように、少女に尋ねた。 「名は?」 「…カガリ、だ。」 「そうか。俺は、アスランだ。」 名を交わすと言う事が、別の世界の住人である彼等にとって初めての交わりである、と言う事にすら、この時の彼等はまだ気付いてはいなかった。 あとがき *取り合えず今回前編のみです…(それが精一杯だったり…) *時代は15〜16世紀頃と一応設定しています…(でも時代背景は大嘘がタンマリ) *「マグダラのマリア」についての解釈は諸説有りますが、話の都合上今後も勝手な解釈で進めて行きますのでその辺はあまりツッコまないでやっていただけると嬉しいです…。 *話とは何ら関係は有りませんが、この背景色は「フェルメールの青」からいただきました。…なんて素敵な青なんだろう。ウットリ。 <05/11/23> ≪→中篇へ≫ |