La Primavera 4.夢を見ていた。 まどろみの中、どこかでヴァイオリンの音がして、その音が奏でる旋律が、白い靄がかかったような視界に響き始める。白い布を染めるように、靄を陽の光が染めて行くように、音はそれぞれに色を持っていて、旋律の調べが絵を描くようにその白い視界を色々な色彩で染め上げて行く。優しい色、力強い色、透明な色、明るい色、憂いの色、暖かい色、哀しい色。そのどれもが、白い布にとっては不可欠な色のように、その布の上を次々と染め替えて行く。それは音が織り成す光のオーナメントだった。光はきらきらと輝いて、音は飛び跳ね、それは次第に様々の情景となって目の前に現れる。流れる雲のように、川のように、零れる木漏れ日のように、囁く葉擦れのように、寄せる波のように、ざわめく山の木々のように、風が渡る丘のように、地下を流れる水脈のように、水音が木霊する洞窟のように、笑いながら揺れる花のように、語りかける月のように、降る星のように、山の向こうに消える夕日のように、突き抜ける澄んだ空のように。 目の前に現れる景色は一瞬の輝いた音を残して流れ去る。そしてその音が止んだ時、視線を落とすと私の周りは輝いた沢山の音の原石で一杯になっていた。緑、青、赤、黄、白…色々に光る石達。それは夜空に光る星のように瞬きながら、奏でられるのを待っている。 音にも色がある。 ああ、そうだったのか。 今まで何で気付かなかったのだろう? そう思った時、目の前の靄が晴れて白い光が差し込んだ。光は眩しいほどに輝いている。それが窓から射す朝の光だと気が付いた時、ああ、夢で音達に会ったのだ、と思った。朝の光の中に彩り輝く音達の姿を求めて手を伸ばしてみると、きらきらと天井に映し出される光のプリズムが見えた。それは机に置かれたクリスタルの置物に朝日が反射して形作った模様だったけれど、私には夢の中の音の輝きそのものだった。 ベッドから起き出してパジャマのままでヴァイオリンケースを開けると、中から美しいボディを持った淑女を取り出す。手に携えると、徐に弾き始めた。 朝の冷えた空気が体を包む。冴えて行く心と体に音が響き渡る。隅々まで染み込んで潤して行くこの不思議な感覚は何だろう。目を閉じると、瞼の裏に徐々に色が広がって行く。色は瞬き、明滅し、生命を吹き込まれて躍動する絵筆から生まれた迸る色彩のように次々とカンバスに色を描いて行く。 ああ、音が色付いて行くのが見える。夢の中と同じように。 清々しい空気を感じながら静かに弓を離した。今、私の足元に色取り取りの音の石達が瞬きながら転がっているのだろう。奏でた音と同じ数だけの、石が。 目を開けると白い朝が真新しい世界を用意して待っていた。これから様々な色に染められて行くのだろう、無垢な光の中で私は微笑する。 その日は傍迷惑な突然の早朝リサイタルに、無理矢理起こされて寝不足な目をした家族や工房の弟子達が多かったが、誰一人として文句を言った人間はいなかった。私はそっと心の内で感謝しながら、人の心の繋がりと言うものを、緩やかに感じていた。 「音に色があるって事が、わかったんだ」 色付いた葉が舞う並木道を、アスランと並んで歩いて行く。私はコンセルバトーリオへ、彼は弦楽器製作学校へと向かう途中に偶々行き合わせた。 「ああ、わかるよ、それ」 ヒラリと舞って来た葉の一枚が、アスランの肩に止まる。黒いコートにくっきりと浮かび上がらせたその姿がとても綺麗だと思った。彼はその葉を壊れ物を扱うような仕草で手の平に乗せる。 「音に色が見えるって事。俺は楽器を作る時に色が見えることがあるんだ」 作っている楽器がどんな音を奏でるのか、その音色を想像した時に、色が見えるのだと彼は言った。その色は楽器が出来上がった時に実際奏でてみた時の音と、不思議とイメージが似ているのだそうだ。 「へえ、何だか楽器の気持ちがわかるみたいだな」 「自分の分身みたいなものだからな」 『分身』と言う言葉に心が反応した。彼らにとってまさにそれは自分の分身であり、化身であり、代弁者だった。自分の作った音色、まさに「音」の「色」を、彼らが感じ取るのは、ごく当たり前の事なのかも知れない。 ふと、緑色のイメージが心を掠めた。そうだ、彼の音は緑のイメージが強い。それはあの、澄んだ瞳の色がそう思わせるのかも知れない、と思った。萌えいづる、緑。命の息吹く、春。 「何?」 「あ――いや」 また変な事を言うと機嫌を損ねるかも知れない、と思って、「目が綺麗だ」なんて言う言葉は喉の奥に仕舞った。 「じゃあ、私はこっちだから」 そう言って道を曲がりかけた時、彼が呼び止めた。 「カガリ」 「何?」 「クリスマスに、またミサに行かないか?」 クリスマスまでもうあと何日もなかった。思わぬ誘いに心に優しい色が広がって行く。ちょうど私もそう言おうと思っていたから。 「うん、行く」 「その帰りに去年の約束を果たそうと思うんだけど」 ――約束? 一瞬、考え込んでから私は思い出した。そうだ、あの時言ったのだ。「その年に作った一番の自信作を弾かせてくれないか」と。 そんな他愛の無い約束を覚えていてくれた事が嬉しくて、心の中が色で溢れて行く。それは優しい緑の春の色。 「楽しみにしてる、絶対」 手を振って別れ際に、彼が手の平にあった葉をまたそっと仲間達のところへ返す姿が見えた。 その姿に、彼の弾いた「春」の旋律が重なって行く。私はその時に気付いた。 彼そのものが、「春」なのだ、と。 人の心や自然の姿を感じ、そしてそこに色がある事を知った私の音はどんどん変わって行った。ただ音を奏でるだけが音楽では無い。自分を取り巻く全てのもの、あらゆるものを心で感じ取ること、受け取ること。それを自分の音にして表現して行くこと。とてもシンプルに聞こえるけれど、その本当の意味がわかるまでには多くの時間が必要だった(そしてまたこれからも必要だろう)。それを知った時、音と、そして自分の中の何かが変わり始めた。豊かに色付く感情の綾。深まって行く心の紋様。それは奇跡のように私を包んで行く。 きらり、と夢を抱いて煌きながら。 街中に灯る光は尊い祈りの灯だった。聖なる命の誕生を祝って瞬いている灯。今年もドゥオモの前には大きなクリスマスツリーが飾られた。公園や広場にはメリーゴーランドが設置されてウィンナーワルツが流れ、街中にはクリスマス期間だけの汽車形のバスが走っている。 そんな見慣れた光景も今年はどこか違って目に映る。全てが新しいもののように、一つ一つ意味を持って、語りかけてくる。音が、色が、匂いが、私に向かって。 幻想的に霧は街を包んで聖夜に相応しい舞台を演出していた。 その日、私達家族と工房の弟子達、そしてまたかつての弟子達が集っての、賑やかな晩餐となった。イブの日は魚料理中心の、質素な料理を食べてみんなで過ごす。それがこの街のクリスマスだった。 宴が終わりに近付いた頃、私はこっそり家を抜け出した。寒さにコートの襟を掻き合わせながら急ぎ足で待ち合わせ場所に向うと、そこにはもうアスランが待っていた。ヴァイオリンケースを手に持って。 「行こうか」 「うん」 それだけ言うと、ドゥオモに向って歩き出す。それ以外の言葉は別に必要もなかった。それぞれに、心はどこかへ馳せて行くようにただ黙って歩いた。去年もこうして歩いた道。あの頃の私はただ迷っているばかりで、この道のように真っ暗で果ての見えない中を歩いていた。けれど今は見え始めた何かを、体中で心全部で感じ取ろうとしている。その幸福感がじわりと次第に形を成して行く。心の中に淡く、仄かに。 ドゥオモの前のツリーをまた二人で見上げた時、この一年の長さを思った。それは長いようで短くも思え、けれども時間は確実に流れている。人は変わり成長する。私も彼もそうだ。まだ何もかもこれから始まるのだ、全ては。その成長過程に、隣に彼という人間が居合わせた事を感謝しようと思った。恐らく誰よりも理解者であり、私を導いてくれた彼という友人に出会えたことを。 そう思って隣を見ると、同じタイミングで目が合った。思わずどちらからともなく笑みが零れると、教会の中へと歩いて行く。 ミサが始まって、賛美歌が教会の中に響き始める。空気を震わせて天井へと昇る歌声は、心を清浄化して静めていくようだった。どこか弦が奏でる音を思わせる、と思った。ヴァイオリンの音は人の声に一番近いと言う。目を閉じてその歌声を聞いていると、心が色で満たされて、とくり、と心臓がゆっくり打っているのがわかる。音はなんて不思議なのだろう、と改めてその虜になっている自分を知った。 厳かに進められたミサが終わり、外に出るとやや薄くなった霧がまだ辺りを覆っていた。その中を歩いて近くの公園広場へと向かう。広場では設置されたメリーゴーランドがとっくに今日の営業を終えて、静かに眠りについていた。そこは大きな敷地を持つ公園広場で、噴水や薔薇園があって、日中は街の人々の憩いの場になっている。けれども今は時間が時間なので人影は他には無い。 アスランは教会のツリーが見える位置にある木のベンチに向うと、そこに腰を降ろした。少し離れた場所にある街灯の明かりが弱い光をそこに投げ掛けている。 手に持ったヴァイオリンケースを膝の上で開くと、中から楽器を取り出した。それは街灯の弱い明かりの中で、明るい茶色の艶を放っている。なんて綺麗な色だろう、と思った。漆黒の闇の中に融けずに、それはしっかりと自分を主張している。 彼は大事そうに取り上げたそれを、弓と共に私に差し出した。 「これ、あの時の?」 「ストラドモデルの改良型だ」 頷きながら彼は言うと微笑した。 「出来たんだな、やっと」 長い時間をかけてこれを作っていたのを知っていた。自分の、今の全てをこの楽器に注ぎ込んだのだろう。それを示すように、ネックの美しい渦巻きや、優美なエッフェや、流れるような側面の曲線や、恐らく何度も何度も重ねられたに違いないニスの深みのある色が、全てを物語っていた。見惚れるくらいにそれは美しい出来だった。 「弾いていいか?」 何となく許可を得る必要があるように思えて彼を見ると、その為に来たんだろう?、と笑っていた。 手袋を脱いでヴァイオリンを受け取ると、木の感触が肌に伝わった。寒い外気の中で、不思議とそれは生きているように温もりを感じる。しっとりと肌に馴染むこの感じはなんだか懐かしくさえもある。何だか前からお前を知っているみたいだ、と心の中で語りかけた。 弓を構えると、初めて人に触れる時のようにそっと鳴らしてみた。それから数小節を弾いたところで急に弓を離した。 体の中を衝撃が走っていた。――何だろう、この音は。この吸い付くような感覚の音は。 再び弓を当てると弾き始めた。もっと音を聞きたい。この音を知りたい。夢中になってその音が奏でる音色を追いかけた。弾けば弾くほど答えるように音は鳴り、そして響く。ぞくぞくと快感が体を突き抜ける―― 没頭するうちにいつの間にか曲は終わっていた。終わった後も体を突き抜けたあの感覚が、芯を熱くして冷めやらない。 「凄い――」 興奮がおさまらないままに私は叫んだ。 「凄いよ、これ、凄くいいよ、本当に」 音とは違って言葉の表現力の無さに悔しい思いを噛み締めながら、それでも何とか伝えようと同じ言葉を繰り返した。 「前に弾かせてくれたのも良かったけど、それよりずっと音が吸い付く感じがするんだ」 やっとそんな言葉を探し出して意気込んで言った私を、彼はただ静かに微笑して見ていた。 だってそれはカガリの音だから―― 静かに耳に届いた言葉に、「え?」と私は聞き返した。 「カガリの音を作ろうと思ったんだ。前に作ったのもそうだったけど、今度のはあれにちょっと改良を加えてみた」 私の音――?その言葉を心の中で反芻する。私の音を作った、と彼は言った。 「まだ俺が作れるのはそこまでだけど、でもそう言ってくれて良かったよ。嬉しかった」 そこで少し伏目がちに視線を落として黙った彼は、また顔を上げた。 「それ、もらってくれないか」 「え?」 私はヴァイオリンを持ったままそこに立ち尽くした。彼の言葉が頭のどこかで響いていた。 『もらってくれないか』とかつて言った人がいた。このヴァイオリンをもらってくれないか、と。彼は最後の別れに、私にそのヴァイオリンを託した。自分の代わりに側に置いて欲しい、と。僕はいつまでもカガリちゃんを忘れないから、カガリちゃんも忘れないで。――そう言った彼は待つ人の元へと帰って行った。私に身代わりを残して。 その彼の言葉が今のアスランの言葉と重なって行く。二度と帰ってこなかった彼の姿が思い起こされた。 まるで別れの言葉の代名詞のように、先程の言葉が心の中に広がって行く。 「お前、もしかしてどっかへ行っちゃうのか?」 そんな言葉が口から漏れていた。思考よりも体の方が先に反応していた。彼は僅かに目を見開く。 「行っちゃうのか?」 そう言いながら、心は忙しく明滅する色に振り回されていた。 彼がいなくなるかもしれない、そう思っただけでいきなり全ての感情が逆流し始めた。渦を巻いて回り始めた感情に、きりきりと胸が軋むような声を上げる。嫌だ、そんなこと信じたくない、その声はそう叫び続けた。苦しい、こんな感情は嫌だ、でも彼がいなくなるのは、もっと嫌だ。音を失うのと同じくらいに耐えられない―― 「いや――」 「どうしよう……!?」 彼と私が口を開いたのは同時だった。けれど、勢い余った私の言葉は止まらなかった。 「私、お前の事が好きなのかもしれない……!」 ヴァイオリンを握りしめたままでそう叫んでいた。滑稽なまでに、それは甘美とはかけ離れた告白だった。 そう告げられた相手は目を見開いたままただこちらを見ているばかりだったが、やがて慎重を期するような口調で言葉を口にした。 「……かもしれない?」 「だって、わからないんだ、今気付いたから」 彼はどういった表情を作るべきか困っているといったふうに、ただ感情を露にしない顔で黙っている。自分の考え無しだった言葉に、次第に苦い後悔を感じ始めた。 「あ、ごめん……困るよな、急にこんな事言われても――」 視線を暫く彷徨わせた彼は、やがてゆっくりと口を開いた。 「そうだな、ちょっと困ってるかもしれない…」 項垂れかけた私に言葉は続いた。 「何を、どう告げるべきか、って」 顔を上げると、苦笑気味に笑うアスランがいた。 「とりあえず、ここに座らないか」 そう促されて、大人しく隣に腰掛けた。なんて無様なんだろう、私。ちっとも本当は成長なんてしていないのかもしれないと、泣きたいような気持ちになった。視界にドゥオモのツリーが入って、さっき感じたあの誇らしげな気持ちはどこへいったのだろう、と思った。 膝の上に置いたヴァイオリンを持つ手が外気の寒さに曝されて、次第に冷たくなっていく。 「まだほんの子供の頃は何も考えずに弾いてたんだ」 その声がしてアスランを見た。静かな微笑を湛えた横顔は、仄かな光を浴びてくっきりと、長い睫の影を浮かび上がらせていた。 「天才児、とか呼ばれて周りはもうすっかりその気だった。将来は自分で決めるまでも無く、ヴァイオリニストの道しかないと教えられていた。自分自身も特に疑う事もなく、大人になったらそうなるんだと思っていた。別に弾く事は好きだったから。でもいつの頃からか、ヴァイオリンを弾くことよりも、それ自身に興味を持つようになった。こんな音を奏でる楽器はどんなふうに作られるのか、そして自分の手で作るのはどんな感じがするんだろうって」 吐く息が白く、明かりの中で仄かに光る。私はじっとそれを見ていた。 「そんな事に興味を持つな、お前は弾く側の人間だから、ただ弾く事だけを考えればいい、周りはそう言って俺の意志を否定した。まるでどうでもいいように。そのうちに、段々自分は何の為に弾いてるのか、誰の為に弾いてるのか、わからなくなってきた。弾くことが苦痛にすら感じられるようになったんだ」 かつての私と同じ事を彼も経験していたのだ、と知って驚いた。ああそうなのか。それで彼は私の苦しみを知っていたのだ、と思った。 「そんな時に出たあるコンクールで、俺の番の前に弾いている女の子の音を舞台の袖で聞いていた。衝撃だった、その音が。まるで楽器と一緒に歌っているように思えた。楽器に愛されているように見えた。技巧なんか関係ない、その子が奏でる音が、きらきらと空から降ってくるような気がしたんだ。音に耀きがあるって言う事を、その時初めて知った。――楽器作りになろうと決心したのはその時だったんだ。こんな音を作りたい、自分の手で作り出したいって」 初めて知ったアスランの過去。何故彼が今そんな話をするのかなんてわからなかったけれど、ただ私は話を聞いていた。 「その音が忘れられずにコンクールが終わった後、俺はすぐにヴァイオリンをやめて、製作を教えてくれる教室に通い始めた。周囲は大反対だったけどね。大馬鹿だって親は泣いたけど。でも俺は後悔してなかった。やっと自分の道を自分で見つけたんだと思うと嬉しかった。それで地元の学校を卒業してから、マエストロの工房に入ったんだ」 そうだったのか、と私はアスランの横顔を見ながら改めて思った。「へえ」と相槌を打つと、彼がふとこちらを見た。 「へえ…って他人事みたいに言うなよ。その音を弾いてた女の子がカガリだったんだから」 「え、嘘!?」 思わず立ち上がりそうになるほどびっくりした私の顔を、苦笑しながらアスランは見ている。 「い、いつ?」 「5年前」 記憶の中から急いでその時の事を引っ張り出そうとした。5年前のコンクールって、確か私、3位にも入れなかった、あの……。そこまで考えて思い当たった。 「……その時1位だったのって」 「そう、俺」 そう言えば、妙に目の色が印象的だった男の子がいた事を思い出した。緑色の瞳が、弾き終わって擦れ違う私をずっと見ていた。 「あの時からカガリの音は俺の目標で憧れだった。ずっとあの音を作りたいと思っていた。そして今も思い続けている。だから」 そこでふっと彼は言葉を切り、また口を開いた。 「カガリは俺の楽器作りの原点なんだ」 何だろう。このとくとくと胸に溢れてくる妙に熱いもの。それは体中に広がって、冷えたはずの体を温めて行く。別に好きだとか言われたわけでもないのに、変に鼓動が忙しくなって行く。 「だから、まだ納得はいかなくても、未熟でも、少しでもあの音に近付けたのならカガリに弾いて欲しいとそう思った」 静かに微笑する彼の眼差しは深い緑色だった。ずっと見続けてきた綺麗な緑の瞳。 「でもそれはマエストロに喧嘩を売る事になるな――あの人の口癖は、二言目には『カガリには手を出すな』だからな」 「そ、それなら先に手を出したのは私の方なんだし――って、でも手じゃなくて口だけど……」 急いでそう口に出してしまってから、自分の言っている意味がよくわからないと思った。何を言ってるんだろう、私。 「でもまだ仮定形なんだろ?『かもしれない』ってさっき」 アスランの目が笑っている。その柔らかな笑みに誘われるように、何故だか私はどんどん収拾のつけられない言葉を口にしようとしている。 「そ、それは今は違う、と思う――た、多分……」 思わず下を向いて段々小さな声になりながら、何でこんな展開になってしまったのかと考えた。そうだ、自分が思い違いをした事から始まったんじゃないか。予想もしなかった出来事に、ヴァイオリンを握る手が次第に熱を帯びて行くのがわかる。熱は体を温めて、冷たい空気に曝された頬を仄かに火照らせて行く。チラリと視線を上げると、霧の向こうのドゥオモのツリーが、磨りガラスを通したようにぼんやりと闇の中に滲んでいるのが見えた。 「工房に入った時、カガリがマエストロの娘だって知って驚いた。名前が同じだったから、もしかしてとは思っていたけど――」 穏やかな声が冴えた冬の空気を伝わって耳に届いた。ふわりと暖かなそれは、春の温度を思わせる緑の色をした音だった。 ――まさかこんなところで会うとは思っていなかった。あの時カガリが弾いていたのがマエストロの作ったヴァイオリンだったって事が、思えば全ての始まりで、今に繋がっているんだな。 それから先にこんな事を言われるなんて思ってもみなかった。 「俺はずっとカガリが好きだったから」 緑色の音は耳から体中に広がって、春の初めの翠の風を運んで行く。木漏れ日の色、萌えいづる芽吹きの色、新しく生まれ変わる山や森の息吹の色。体中に広がった音は心の中をそれらの優しい景色で一杯に満たした。きらきらとした音の欠片が辺りを取り巻いていく。 「マエストロに殴られるだけじゃ済まないかも知れないな――」 ヴァイオリンを持つ手に体温を感じて、それが緩く掴まれた手首の感覚だと気付いた時、アスランの目がいつかのように思わぬ近さにあった。 なんて綺麗な色なんだろう。 心からとくとくと溢れて来る暖かいものに、「春」の旋律が重なって行く。初めて見た時から惹かれ続けた色を、今ほんの間近で見ている。閉じてしまうには名残惜しいと思わずにはいられない瞼は、それでも近付く微かな息遣いにゆっくりと閉じ始める。 再び開いたその目に、あの綺麗な緑の原石が映るのを何より悦びに感じながら、そして至福に感じながら。 3へ戻る / 最終楽章へ <07/12/16> |