La Primavera 最終楽章.





 いくつもの季節が訪れては去って行く。その中で私は多くの事を学び、知り、感じ、その事を自分の音にした。沢山の経験を通じて得た事は表現を豊かにし、人生観と同じくして音楽に対する解釈も深められて行った。
 「自分の音」を探し続けて何年も経った今でもまだその通過点に立っているに過ぎず、限りない音の世界は無限に広がって行く。その中でずっと私の側にあり、私をその無限の世界の中でひとつの方向へと導いてくれるもの。
 それをヴァイオリンケースを開いてそっと手に取った。しっくりと手に馴染むそれは深い赤味のある色を帯びて美しいフォルムを明かりの元に曝している。表面に触れるとひやりと心地良い感触が肌を通して伝わってくる。それがいつも演奏前の昂ぶった気持ちを冷静な温度へとゆっくり戻して行ってくれる。今では欠かすことの出来ないまじないだった。温度と一緒に伝わるものがいつも心を穏やかにしてくれる。
『La Primavera(春)』と名付けられたそのヴァイオリンは、私の声となって豊かに音を奏で、体の一部となって深い音を響かせる。楽器と一体になれる一瞬は言いようの無い幸福感をもたらしてくれる。
 何度か代替わりした『La Primavera』は今のヴァイオリンで3代目になるけれど、その何れにも、美しいボディの中には同じ作者の名が記されている。『夜明け』を示すその名は、ここ数年、国際ヴァイオリン製作コンクールでその名を知られつつあるマエストロのものだ。
「カガリさん、開演10分前です」
 時間を告げるスタッフの声に「はい」と告げると、心がきゅっと引き締まる思いがした。まだ慣れないコンサート会場の雰囲気に俄かに緊張し始めた私に、「大丈夫ですよ」と通り掛った今日の共演者であるピアニストが笑顔で声を掛ける。その優しい言葉と、彼の髪の色がよく知る瞳の色を思い出させて、心を次第にまた穏やかに戻して行く。
「この花束、また届いてますよ」
 そう言ってスタッフが持って来た花束を、私は手を伸ばして受け取った。
「いつも同じ花束ですね。贈り主の名前がありませんけど」
「そうね。私の好きな花だわ」
 微笑して答える私を見ながら、何かを感じ取ったピアニストの彼が戸口に凭れながら言った。
「へえ、素敵ですね。僕は妻に花なんか贈った事がなかったな。そうだ、僕も今度贈ってみますよ。リサイタルがもうすぐなんです、彼女」
 声楽家の妻を持つ彼は、楽しげに微笑んだ。
「あ、もう急がないと、カガリさん」
 時計を見ながら彼はそう言い、「先に行ってますね」と手を上げた。
 彼に微笑で答え、花束を机の上に置く前に、添えられたカードをいつものように手に取って開く。そこに書かれた言葉に目を通すと、いつものように微笑が零れた。
『君の一番目のファンより』そんな短い言葉がいつも心にあの春のような暖かさをくれる。

 自分の妻となった今でも、彼は花を贈る事を忘れない。そんな想いをまた音に私は変えて行く。 『La Primavera』を携えると、毅然と前を見て歩き出す。光が溢れる舞台を、きらきらとした音で一杯に満たす為に。



<Fine>

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<07/12/16>


*この話を書くにあたって、実際にクレモナで楽器作りの勉強をしていらっしゃる学生の方や、現地でマエストロとして御活躍されている日本人の方々のブログやサイトを大変参考にさせていただきました。こんな場所からではありますが、御礼を申し上げると共に、今後の益々の御活躍を陰ながらお祈りしたいと思います。