La Primavera 3.抜けるような青さの空が教室の窓の向こうに広がっていた。秋の空は冷え始めた空気のせいで、澄んだくすみの無い明るさを見せている。その下では街路樹の色付いた葉を纏った細い枝先が、澄んだ空に向って手を広げるように伸びているのが見える。 伸びようとしている枝は先に向って細く長く、余韻を残すようにその先端を澄んだ青い色の中へと融け込ませると、やがて消え入るように空の中へ見えなくなって行く。まるで低音から高音へと駆け上がった音色が、その最後の伸びを残して空の彼方へと吸い込まれて行く時のようだ、と思った。音の余韻が空気に混じり合う時の、あの音が融けて行く一瞬が私は好きだった。その一瞬を感じる為に音を奏で続けている、と言ってもいい。その余韻を味わう為に、手にした楽器を鳴らし続けているのだ、と。 けれどもこの頃は、その融ける音すら感じられなくなっていた。音はただ空気をすり抜けて行くばかりで、周りに留まる事無くどこかへといなくなってしまう。まるで行方知れずの迷い子の音達を私はずっと探し続けているようだった。迷いの森の中を彷徨うように、見失った音達を探し続けていた。 「始めましょうか」 先生の声で我に返ると、既にレッスンの時間が始まっていた。しんと静まった教室の中を窓から入る秋の午後の陽が照らしている。その空間にあの街路樹の枝先のような、細くしなやかに伸びた音の先が融ける瞬間がふと見えたような気がした。柔らかい黄色い光と伸びやかな音先の余韻が融け合う瞬間。それはえも言われぬ美しい絵のようにも思えた。 ヴァイオリンを持ち上げてエンドピンを喉元にあてがうと、弓を引いた。 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第3番 ホ長調 第3楽章「Gavotte en Rondeau」。その明るく華麗な旋律が静まった教室に流れ出す。 奏でているうちに、いつしか視線は自然と楽譜から外れ、窓の外の街路樹へと向けられていた。そしてその枝を伝ってそれが空と混じり合う伸び尽きた先へと辿り着いた時、その向こうに広がる透明な青い色が沁み入るように心を次第に染めて行く。 『迷った時はただ自分の音だけに没頭してみろ』 どこかでその声がした。その声も青い色へと染められて、空の中へと返って行くように思えた。全てが見る間に青一色に染まって行く。自分を取り巻く全てのものが、世界が、その色に包まれたように何も見えなくなった。 手にしたヴァイオリンの木の優しい温もりが、ただ手の平から一杯に感じられる。それは窓から射す秋の陽に似ていた。ふとこのヴァイオリンを作った彼の事を思い出していた。これを作ったのは父の最も優秀な弟子の内の一人で、彼は早くからその才能を開花させていた。ちょうど子供から少女へと移り変わる時期だった私は、兄とも慕いながら、その彼に何か淡いものを抱いていた。それが何かもわからないほど、淡い雪のように儚い思いだったそれは、彼が工房から独立する事になったと同時に溶けるように消えて行った。彼は独立と同時に、国へ帰ってずっと待たせていた人と結婚した。 その時に、「君にもらって欲しい」と手渡されたのがこのヴァイオリンだった。以来、このヴァイオリンは淡い思い出と共に私の側にある。その思い出を胸のどこかに仕舞い込んで鳴らそうとした指は、思うように動いてくれなかった。でも本当は、それは思い出のせいでも指のせいでも無く、音の行方を見失った私の心のせいだったのだけれど。 その仕舞い込んだ思い出を今心の中から引き出してみる。それは淡くて儚い冬の初めの雪のようで、手の平の上ですぐに溶けてしまいそうだった。その思い出もやがて青一色に染められて、空に上って昇華して行く。昇華した思いは雪の花となってまた地上にいつか降り注ぐのだろう。そして綺麗な花をそこに咲かせるだろう。 それが見えた時に、曲を弾き終えていた。 セピア色に変わりつつある部屋の空気の中に、最後の音の余韻が融けて行くのを感じながら、肌が粟立つのを止められなかった。 昇華した思いと融けた余韻の両方が、体中に恍惚とした痺れを走らせて行く。 いつの間にか、我知らず自分の音に没頭していた。 「あら、随分音が変わったのね」 先生が目を細めて静かに微笑する。その笑顔でさえ青い色に染まって行く。私も笑顔に変わって行くのを感じながら、先生のその柔らかな微笑をずっと見ていた。 コンセルバトーリオから帰って来た時に、家の前でばったりアスランと顔を合わせた。彼も今外出先から戻って来たところらしい。手にはまた沢山の木材を抱えている。 「また買ったのか?それ」 「ああ、今度作るやつの材料だ」 また床が一段と狭くなるな、とその沢山の木材を見ながら思った。けれども今の自分は焦ったり淋しくなったりなんかしない。 「どうかしたのか?」 黙って手の中の材料を見つめている私に気付いて彼が声を掛けた。私は顔を上げた。 「――何でも無い」 そしてただ微笑を返した。そんな私の様子を彼は不思議そうに眺めている。何かを察したのかも知れ無いが、別に問いただそうともしなかった。そうか、と短く答えると自分の部屋のある離れの方へと歩いて行く。私はその後姿を見送っていた。 自分の部屋へ入ると、窓を開け放った。窓際に立って外の空気を吸い込んだ。程よく冷えた空気は心地良く胸に入り込み、そこに含んだ季節の芳ばしい匂いを体一杯に沁み渡らせて行く。微かに肌を撫でる風が心地良い。 手を伸ばして部屋の隅に立て掛けてあったヴァイオリンケースに触れると、それを静かに開いた。中にある濃い茶色のボディを持ったヴァイオリンを取り出すと、その表面に静かに触れて行く。これに触れるのはどれくらい振りだろうか。そのしっとりと馴染んだように吸い付く感触を肌は覚えている。優雅で滑らかな曲線を描く輪郭に魅せられずにはいられない。 目で暫く愛でた後、その美しい楽器を喉元にあてがった。鳴ってくれるだろうか、と言う一瞬の迷いはひんやりとした木の感触に鎮められて行く。 静かに弓を引いた。甘い音が木を伝わって鳴り始める。その音は記憶の底からかつて周りにあった空気を甦らせて行く。空気を震わせて、部屋中に満ちた音は窓から外へと向って流れ出す。調べは川の流れのように緩やかに、穏やかに、時に蛇行しながら奔流となり、丘を越え、山の間を走り、広い海へと向う一本の大河となって滔々と流れて行く。 重厚に思えた記憶の中の美しい楽器は今や羽根が生えたように軽やかに体に添い、その触れた部分から音は皮膚を伝わって骨を響かせながら全身を廻り、また外の世界へと飛び出して循環して行く。次第に振幅を増しながら自由に音域を往き来する旋律は伸びやかに歌い、解き放たれたように飛び跳ねる。 『かつて音は自然と共にあった』 木や花や風や空に、川や海や谷や丘に、神聖な魂と共に音は共存していた――そんな父の言葉を思い出した。自然を感じずして音楽は生み出せない。作り出せない。楽器作りも同じだ、音を作るのも奏でるのも、全ては同じ。人の手に通ずるもの。人の手と言う自然の一部から生まれるもの。だから自然を感じなさい。人の心を感じなさい。 そう言って手渡されたヴァイオリンを今手の平に、体中に感じながら音を奏で続ける。父の心を全身で受け止めながら鳴らし続ける。 頬を伝う一掬いの雫が濃厚な茶色の表面に落ちてその胴体を滑っていくのが見えた。それでも構わずに衝き動かされるまま弾き続けた。 弓を離した瞬間に、甘い余韻が周りの空気と混じり合い、共鳴して一つの響きとなって行くのを感じた時、爽やかな風が頬を撫でた。 おかえり、迷子の音達。やっとまた会えたね――そんな言葉が知らず胸の内で溢れた。 届いただろうか、父と彼の元にこの音が。 言葉では無く、音で奏で合う事が私達の表現方法だったから。 見上げた空の透明さに心が透いた時、澄んだひとつのイメージが重なって行く。 それは森の奥深くに隠された翠の泉のような、あのしんとした、澄んだ緑色の瞳だった。 秋の色が一段と濃くなって、やがて訪れる冬の気配に木々の枝も葉を落とし始めた頃、私は久々にアスランの部屋を訪れた。 部屋は予想通り増えた道具や材料で益々占領されて一段と狭く感じる。けれどもその原因がそれだけでは無く、他にある事に気が付いた。 「作業台、新しくしたのか?」 以前あった作業台よりも一回り大きな物が同じ場所に据えてあった。それを見ながら彼は少し得意気な面持ちになる。 「ああ、作り替えたんだ。作業がし易いようにいろいろと工夫してみた」 台の前に座る彼がその特徴を説明するのを聞きながら(深いクランプを押さえ易い棒を取り付けてみた、とか、ニスの壜を置く台を作った、とか)ふと作業台の上へとやった目に、作りかけのヴァイオリンが留まる。そう言えば、四台目と平行して作っていたものがあった、と思い出した。それはまだ木から削り出した白木の状態で台の上に置かれている。 作業台の説明がひとしきり終わったところで私は尋ねた。 「これ、前から作ってたやつだろ?」 そう言うと、彼はチラリとそれに視線をやった。そして「ああ」と返事をするとそれに触れた。 「ストラドモデルの改良型だ」 ストラドモデルと言うのは300年前の楽器製作者アントニオ・ストラディバリが作った楽器「ストラディバリウス」をモデルとし、同寸で作ったコピーをそう呼ぶ(またはストラディバリモデルとも)。写真を元にして型を作って製作するが、そこに製作者の改良を加える事もある。 ストラディバリと同時代の製作者で、彼と並んで偉大な楽器製作者として讃えられるジュゼッペ・ガルネリと言う人がいるが、彼の作った楽器を「ガルネリデルジェス」と言い、ストラドモデルと同じようにコピーしたものをガルネリモデルと呼ぶ。 ストラディバリウスとガルネリデルジェスはどちらも名器であり、300年経った今でもその両方を越えるものはいまだ作られていない。だから、製作者達はそのコピーを作って少しでも彼らの音に近付こうとする。彼らのそこに託した意志を探ろうとするのだ。 アンドレア・アマティを祖とするクレモナの楽器作りはストラディバリやガルネリに受け継がれたが、その作り方はそれぞれに異なっている。どちらが優れているとは一様に言い難く、製作者達はそのそれぞれの技術を学んで比較し、研究し、選択して自分なりの作り方をそこに見出していく。それが自分の「音」になっていくのだ。 アスランは白木の表板を取り上げた。 「ストラディバリウスが端正な美しさだとすれば、ガルネリデルジェスはワイルドさが魅力と言えるかもしれない」 全く楽器の話になると相変わらず夢中になる、と思った。目が一段と輝いて見える。 「ふうん」 そんな相槌を打ってから、私は彼の座る椅子の背に手を掛けて手の中にあるそれを後ろから覗き込んだ。 「だけどエッフェ(f型の穴)の形は比べてみると、意外とガルネリの方が優雅で綺麗だと……」 急にそこで言葉が途切れたので、どうしたのかと思ってアスランの方を見ると、思わず間近で目が合った。近くで見るとそれはより緑の色を帯びて見える。 奇妙な沈黙は数秒続いてから、再び彼が手元に視線を戻した事で終わりを告げた。 「……思う」 「――うん」 何となく変な間が空いてしまった事が部屋の空気の温度を変えたように思われて、私はそれとなくそこから離れるといつもの寝台へと向った。 その後姿に向って彼が問い掛けた。 「あのさ――」 振り向くと、前を向いたままで彼はまた言う。 「何かつけてる?」 「何かって?」 「その、香水、とか」 「別に?つけてないけど」 そう答えると、そうか、と彼は小さく呟いて手にした白木の表板をまたじっと見つめている。 寝台に腰掛けると、暫く静かな時間が訪れた。 アスランは手の中の作品を見るともなく見ているといったふうで、けれど心はどこか違う場所にあるようだった。そんな彼の様子を垣間見ながら、私も側の雑誌を手に取って何気なく捲ったりしてみる。言葉の無い時が過ぎ去って行く。 やがて、徐に彼は口を開いた。 「この前弾いてたろ、パルティータ」 つと顔を上げて彼を見た。相変わらず視線は動かされていなかった。 「あの翌日、マエストロの目がちょっとだけ腫れててさ」 緩やかに目を上げた。綺麗な緑色の瞳だった。あの空のイメージに似て。 「良かったよ、とても」 ページを捲りかけていた手もそのままに、広がって行く彼の微笑の波に共鳴するように、私の顔にも緩やかに笑顔が訪れる。 響くように、融け込むように、空気は甘い余韻に包まれてその色を染めて行く。ふと昔母が作ってくれた焼き菓子の甘やかな匂いを思い出していた。甘酸っぱい果実の沢山入ったその焼き菓子は、いつもヴァイオリンが上手く弾けた時に母が焼いてくれたものだった。私の大好物だったから。 今度いつか、自分で焼いてみよう、と思いながら、思い出はいつも音と共にある、と言う事が改めて胸の内に沁みて行く。 「なあ、今度うち伝統の焼き菓子を作ってみようと思うからさ」 いきなりな話の転換にアスランのキョトンとした目が笑いを誘う。 「お前、試食させてやるから、一番に」 それがさも光栄な事のように宣言する私の声を彼は相変わらず要領を得ない表情で聞いている。その表情を見てまた私は笑い、窓の外へと視線を移す。空は変わらずに澄んで青く、どこまでも抜けるように果てしが無い。 あの、伸びやかな音色のように。 2へ戻る / 4へ <07/12/02> |