La Primavera 2.






 三年生になり、彼のほうは学校で本格的に楽器製作の授業が増えて、以前にも増して部屋で作業に熱中する日が続いた。三台目となる作品は初めてのヴィオラを作り、そして四台目となる今はまたヴァイオリンを作っている。その何れも出来栄えがいいと、学校のマエストロ(学校の先生)や仲間達からはいい評価を得ているようだ。父は仕事に関しては厳しい人なので、余程の事がないと褒めたりしない人だからまだ何も評価は与えない。それでも、父の態度を見ていてわかった。彼はやはり優秀な職人の卵だ。着実に一つ一つ目標へ、そして夢へと向って歩みを進めている。何より、努力している。
 それに比べて私は――依然として、同じ場所から動く事が出来なかった。どんなに弾いても思い出せない。あの弾くことが楽しくて仕方なかった頃の自分を思い出せないまま、弾けば弾くほど何かを見失っていく。見えなくなっていく。そんな日々の中で次第に目指した道さえわからなくなっていた。一体、私は何のためにヴァイオリンを弾いているのだろう?何になりたかったのだろう?
 大きく隔たりが出来始めた私と彼の道はどんどんその差が広がって行くように思えた。あのクリスマスのミサの帰り道に、一瞬同じ出発点に立っているように感じたのはつい昨日の事のように思えるのに。「頑張れ」と言ったあの声がついさっきの事のように思い出せるのに。


 コンセルバトーリオから帰って来た時に、ふと何気なくアスランの部屋にふらりと寄ってみたくなった。このところ暫く話をしていない。彼の部屋は工房のある離れの建物にあった。そこに、他の弟子達と共に寝起きをしている。部屋はそれぞれに小さな一室が与えられていた。中庭を挟んで母屋と向かい合う形に建てられている離れは、私の部屋からもよく見える位置にある。
 アスランの部屋の前に立つと、中から物音が聞こえてきた。それは木を削る音だったり、壜が立てるガラスの音だったり、工具を使っている音だったりとその時によって様々だ。けれど、それは彼が目標に向って着実に進んでいる一歩を示す音だった。前はそれを聞いていると何だか落ち着いたのに最近はそうでは無くなっている。それを聞くたびに置き去りにされていくような、淋しい気分にすらなるのは何故だろう。
 自分の弟子の部屋に私が行く事を父がよく思っていないのは知っていた。もっと小さな頃は、ずっと年上の弟子達が兄さんのようで、よく部屋に行って遊んでもらったものだ。けれど、それも大きくなるに従って、いつの頃からか父の無言の戒めのために向こうから部屋に入れてくれなくなった。まあ父としては当然の憂いだろうが。
 けれど、私だって話をしに友人の部屋を訪れる自由くらいはあるはずだ。そんな理由を胸に、彼の部屋の前に立った。
 ノックをすると、聞こえていた物音が止み、暫くしてからドアが開いて緑色の瞳が覗いた。私の姿を見ると、その緑色の瞳はちょっと驚いたように瞬いた。
 「コンセルバトーリオの帰りにちょっと寄ってみた」と言うと、返事も待たずに部屋の中に入り込んだ。そしていつもの寝台の上にヴァイオリンケースを置くと自分も座り込む。
 やれやれ、と言うような表情で(私にはそう見えた)アスランは黙ってドアを閉めると、作業台の前に戻って椅子に腰掛ける。作業台の上には、深みのある茶色に色付きつつあるヴァイオリンが、手製の乾燥台の上に置かれていた。今さっきまでニス塗りをしていたんだ、と彼は言った。ニスは通常、何度も何度も重ね塗りをされて、あの深みのあるこっくりとした色味が出る。ニスの種類にもよるけれど、一度塗ったら乾くまで数時間待ち、そしてまた塗る、を数度繰り返す。その工程の中で、次第に表れて来る裏板の美しい模様や美しい色合いが、作り手をうっとりとさせるのだ。彼のヴァイオリンもその表情を見せつつあった。
「綺麗な色だな」
 素直に感想を述べると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「今回ちょっとニスの材料に工夫してみたんだ」
 楽器作りの話になると目の色が変わる。本当に楽器を作ることが好きで仕方が無いみたいだ。私も昔はこんな目をしていたんだろうか、とふと思った。
「楽器作りになれば良かったのかな…私」
 頬杖をついて何気なく呟いた言葉に、彼が振り向いた。
 そして黙ってこっちを見ていた目がふと寝台の上のヴァイオリンケースに向けられる。
「それ」
「え?」
「見せて」
 ケースを指差した。私はケースを持って行って彼に手渡した。彼はそれを開けてヴァイオリンを取り出すと、一目見て言った。
「これ、マエストロのじゃないだろ」
「うん」
 それは父が作ったものでは無かった。父のある弟子が、この工房から独立する時に私にくれたものだった。彼には特によくなついていたので、最後に自分の分身としてここに残して行ったのだ。
 それを彼に教えると、暫くしげしげとそれを眺め、そして言った。
「でも凄いよ、これ。いいよ」
 そしてまた丹念に眺め始めた。
「マエストロのは何で弾かないんだ?」
 眺めながら、自然な流れで彼はそう尋ねた。尤もな質問だろう。楽器作りである父の作ったヴァイオリンを娘が弾かない事は。
 暫く答える言葉を探して私は目を床に落とした。以前よりもっと見える面積の小さくなった床がその目に映る。床の面積が小さくなればなるほど、きっと彼は前進している。そんな思いが胸をよぎった。
「使わない事にしたんだ。自分の納得の行く弾き方が出来るようになるまで。まだ私には父さんの作ったヴァイオリンを弾けるだけの実力が無い――だから、弾ける資格が出来るまで、使わない」
 小さな頃は何も考えずに弾いていた。その意味も価値も何もわからずに弾いていた。そしていつの頃からか、父の名の偉大さがわかった時に、私はそれが弾けなくなっていた。
 父の名の大きさを改めて知った。マエストロウズミ・ナラ・アスハ。それは今の私には大きすぎる名前だった――
「でも才能…無いのかな、やっぱり」
 わざとおどけるようにそう言った自分の言葉が、乾いた空気になって部屋の壁でカサリと音を立てた。部屋中に満ちるニスの匂いが鼻を衝く。座った寝台が軋んだ甲高い音を響かせた。
「弾いてみろよ」
 アスランが手に持ったヴァイオリンと弓を私に向って差し出した。
 その瞬間、体が突然固まったように動かなくなった。目はヴァイオリンとアスランの間を往き来するけれど、それを受け取る手が痺れたように動かない。
 拒否反応を示した体に心の方が酷く傷付いた。何で、そんなに弾く事を拒んでしまったのだろう。弾けないのだろう。
 いつからこうなってしまったのだろう。
 昔はただ弾くことが大好きだったはずなのに。
 ――弦を弓が滑る音がした。
 ハッと顔を上げると、アスランの首に私のヴァイオリンが当てられ、構えた弓を引こうとしている体勢のまま、彼は微笑していた。緑の瞳はいつもとは違う光を湛えてこちらに向けられている。一瞬それは春の陽射しを思わせた。
 彼は弓を引いた。
 静かな部屋にそれは徐々に満ちて行く。鮮やかな色が無色透明な部屋の空気を染めて行くように、そこが本当は部屋の中などでは無く、違う景色の中だとでもいうように、音は弓からどんどん零れ出して周りの風景を違うものへと変えて行く。まるで不思議な夢の中にいるように。それは本当は、私の心の中の風景だったのかも知れない。
 上手い、なんて類のものじゃなかった。それは天才的と言っていいほどの音色だった。なんて音なんだろう。なんて音色を奏でるんだろう。
 体の奥がざわざわと騒いで止まらなかった。目の前で繰り広げられている光景に体の芯が熱いもので一杯に満たされて行く。
 人と楽器がまるで一体になったようだった。それは彼の体の一部のように、彼の言葉を伝える代弁者のように、彼と言うもの全てをそこに表して行く。これが音楽というものか。ならば、自分が弾いていたものは何だったのだろう?
 静かに、いつの間にかそれは終わっていた。ヴァイオリンから離された弓は、ゆっくりと下に降ろされて行く。放心したように彼を見ていた私は、やがて漸く我に返った。
「お前、……それだけ弾けるのに、なんで、なんで楽器なんか作ってるんだよ?」
 自分の言っている事の意味がおかしな事に気付かないくらい頭はどうにかなっていた。アスランはヴァイオリンを体から離してこちらに目を向ける。静まった、いつもの目で。
「できる事がやりたい事とは限らない。それに――」
 そう言うとふっと微笑した。
「俺は音を作りたい。誰にも作れない音を作りたい。そう思った瞬間から、俺の道は決まったんだ」
 真っ直ぐに注がれたその目は私を捉えた。何かを伝えようとするかのようにそれは一瞬心に入り込み、けれどすぐにふいっとまた逸らされた。
「これ、大事にしろよ」
 手渡されたヴァイオリン。私がどんなに鳴らそうとしても思うように鳴らなかったこのヴァイオリンを彼はいともたやすく鳴らしてみせた。手に返ったそれをただじっと見つめた。
「お前がこれを弾いてる時、何だかヴァイオリンに凄く愛されてるみたいに見えた」
 ぽつりとそう呟いた。本当にそう見えたから。私には出来なかった事。そう願っても、叶えられなかった事。
 沈黙にふと顔を上げると思わず優しい微笑が待っていた。
「そうか?俺にはカガリがそう見えたけど?」
 意外な言葉に、まさか、と言うと、ただ彼は笑っていた。
 その時はその言葉の意味を深く考えもしなかった。ただからかわれただけだと思っていたのだ、私は。そこにある真実に気付きもせずに。
 

「迷った時はただ自分の音だけに没頭してみろ」
 部屋を出る時にポンと背中を叩かれた。その言葉の意味を理解した時に、叩かれた背の部分が仄かに熱くなった。そして自分の部屋に戻った後も、さっき聞いたあの音色が耳にこびりついて離れなかった。
 まるで恋焦がれたように忘れられなかった。その音を思い出すたびに、あの時それを弾いていた彼の、緑色の春の陽射しを思わせる瞳を思い出した。なんて目をするのだろう。まるで春の訪れを告げるようなその眼差しを、胸の中で何度も繰り返した。

 彼が弾いていた曲は、「春」だった。


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<07/11/24>