La Primavera 1.






 彼がこの街へやって来たのは16の時だ。『リュータイオ』と呼ばれる弦楽器職人を目指す為に、この街で工房を開いている私の父、マエストロウズミ・ナラ・アスハの元へとやって来た。そしてこの家に下宿しながら、彼は地元の弦楽器製作学校に通うことになった。
 この街は昔から弦楽器の製作が盛んなところで、その為に有名なマエストロ(職人の親方)が沢山工房を構えていて、そのマエストロ達の技を学びに沢山の人が世界中から訪れる。けれどもその厳しい修行に耐えられるのは僅かな人達で、毎年沢山の人が訪れるけれども、それと同じくらいの人がこの街を去って行く。ただ夢を追うだけではこの仕事には携われない、と父は言う。そこには夢を超える『信念』が必要なのだ、と。この職業を目指す理由は人それぞれだけれども、幾多の困難な過程を乗り越えて一つの作品を作り上げるには、その困難に耐え得る不屈の精神力と、何よりその作品に注ぎ込む深い愛情が必要なのだ。その両方がその人間にとってどれほと揺らぎの無いものか、真摯なものか、それを試されて後に、真のリュータイオになれるかどうかは自ずと決まると言っていい。
 彼が初めて家へやって来た時、その瞳に強い意志が宿っているのを一目見て感じた。それが何によるものかはわからないけれど、私はその時直感で思った。彼は将来、優れたリュータイオになるに違いない。それはこの街屈指のマエストロである父の娘としての直感と、同じ音楽に携わる者としての、言葉では言い表わせない心の部分で感じ取ったものだった。緑色の瞳はそこに沢山の想いを抱いて磨かれる日を待っている、美しい宝石の原石のように見えた。
 とても綺麗だ、と私はただ思った。それが彼を一目見た第一印象だった。


 平日は学校で勉強し、休日は師である父に付いて技術を学ぶ。それが彼の毎日だった。学校は二年間は普通科の学校と授業内容がさほど変わらない(専門分野の授業時間は1/5ほどだ)。本格的に専門的な勉強をするのは三年生になってからだったから、それまで彼は父の工房で弦楽器作りの基礎を学んだ。と言っても、父は手取り足取りは教えない主義で、とにかく自分の技術は目で見て盗め、という人だったから、彼はひたすら父の仕事を懸命に観察しては自分で技術を会得していった。そして更にそれを自分の部屋に持ち帰って夜遅くまで勉強する日が続いた。この工房に来て初作となるヴァイオリンを完成させたのは、この工房に来てから十ヵ月目のことだった。
「弾いてみてくれないか」
 突然夜遅くにうら若き乙女の部屋を訪ねて来た彼の行動を、「一体何時だと思ってるんだ」とたしなめようとした言葉が、その瞳を見た途端に思わず引っ込んだ。
 緑色の原石の輝きが昂ぶる思いとそこに交錯するいくつかの複雑な感情に揺れ動いていた。私は無言でヴァイオリンを受け取り、ドアを開けると彼を部屋の中へと促した。こんな時間にこんなところを父が見たら彼も私もただでは済まないと思いながら。
 部屋の壁はある程度防音処置が施してあるので、音はあまり外に漏れない筈だ。それは私が夜になっても練習が出来るように、との父親の配慮だった。ヴァイオリンを肩に当てると、弓を構えた。一瞬、静まった部屋の中に微かな緊張が張りつめる。――引いた弓から音が鳴り始めた時、その透明さに体がざわりと鳴った。一端手を止めた私の顔を、彼はじっと見つめている。その視線を感じながら、止めた手を再び動かして曲を奏で始めた。簡単な曲のフレーズだったが、それでもいつしかその音色に没頭していた。
「凄い、よく鳴るよ、これ」
 そう言って彼にヴァイオリンを手渡すと、嬉しそうにその瞳は輝いた。
 後で気付いたのだけれど――彼はヴァイオリンが弾けるのだ(楽器作りはまずそれが弾ける事が第一条件だ)。なのに、何故わざわざリスクを冒してまで私に試奏を頼みに来たのだろう?
 その疑問は暫くしてすっかり忘れ去ってしまったのだけれど、後になってその理由を知る事になった。
 

 もうお分かりかもしれないけれど、私はヴァイオリン弾きだ。そして将来は一応ヴァイオリニストを目指して目下コンセルバトーリオ(音楽院)で勉強中。名前はカガリ・ユラ・アスハと言う。父であるマエストロウズミ・ナラ・アスハが楽器作りの職人なので必然、生まれてから弦楽器に触れて育った環境が自然とその方向へと導いた。私自身は作るよりも奏でるほうが好きだったのだ。子供の頃は幾度かコンクールで入賞もし、ただ奏でる楽しさだけに没頭していれば良かったが、大人になるに従ってそれだけでは通用しない現実が待っていた。高度な技巧の必要性に迫られることもさる事ながら、理論やその曲の背景的な勉強も必要になった。ただ楽しんで弾いていた頃の気持ちはいつしか失われ、学問として音楽を捉えるようになった時、いつの間にか奏でる事が苦痛にすらなっていた。
 そんな時に、彼のあのヴァイオリンを弾いたのだ。
 まるで忘れていた音を思い出したように、その音は自然に私の中に流れ込んでかつての自分に出会ったような気がした。ざわり、と鳴ったのはその瞬間だった。
 それから私は度々彼の作業部屋(兼寝室でもあったのだけれど)を訪れるようになった。それまで食事時など顔を合わせる時に言葉を交わす事はあっても、じっくり話をした事は無い。修行中の彼からすれば、そんな時間も一分たりとも惜しいのだろう。だから、当然彼の部屋を訪れた事などもこれまで一度も無かった。
 彼の部屋は工具や道具、材料の木材でとにかく一杯だった。机の上は幾種類ものニスの壜や刷毛に占領されていたし、元々狭い部屋に色々持ち込まれているせいで、見えている床面積がかなり小さく見える。視線を上げれば、天井に近い高さで壁から壁へと張った紐に、作りかけの楽器や完成品が吊るしてあった。でもそれは私が小さい頃から見慣れてきた工房の縮小図だ。大抵のリュータイオの部屋は同じようなものだった。
 座る場所が無いので、私はいつも彼の寝台に腰掛けた。そして机に向かって黙々と作業を続ける彼に話しかける(特に集中力を要する作業の時は、妨げにならないよう退出したけれど)。大抵は音楽に関する話だったけれど、時々学校の話なんかもした。同い年という事が心を気安くさせた。彼は訪ねてくる私を拒むでもなくかと言って愛想良く相手をするわけでもなく、大抵は一方的に話す私の声を聞くでもなく聞いているふうだった。
 私は彼の作業をしている時の目が好きだった。あの緑色の原石が、作業をしている時はいつもに増して澄んだ輝きをそこに宿している。一心に何かに向かっている目はいい。真っ直ぐでとても綺麗だ。思わずそれに視線が吸い寄せられて、いつの間にか黙り込んだ私に、ふと彼が「何?」と視線を寄越して尋ねて来た。
「あ、いや、目が綺麗だなと思ってさ」
 正直にそう答えると、彼は軽く目を見開いた。
「真剣に作業をしてる時の、お前の目ってとても綺麗で見てるの好きなんだ」
 尚もそう言うと、黙って聞いていた彼は急に面白く無さそうな顔になって答えた。
「そう言う言葉をそんなにサラッと言うか、普通」
「…普通…って?」
「いや、別に」
 何だか不貞腐れたような顔付きになった彼は、また手元の作業に視線を移す。そして再び寡黙に手を動かし始めた。
 ――何だよ、アスランの奴。
 私は傾げた首を体ごと大きく傾けて、寝台の横の壁にコツンと頭を凭せ掛けた。正直に答えた事がどうして彼の機嫌を損ねてしまったのかがわからない。何が気に入らないのか――アスランの整った横顔を見ながら私も寡黙になって考える。
 そう、言い忘れていたけれど、彼の名は、アスラン、と言う。アスラン・ザラ。
 『夜明け』と言う意味なのだそうだけれど――尤も、それを聞いたのは、もっと後になってからの話だった。


 十二月、クリスマスが近付いた頃に、学校は休みに入る。アスランはそれから毎日父の工房に入り浸りになった。二台目のヴァイオリンを製作中の彼は、その工程が佳境に差し掛かっているらしく、夜は遅くまで部屋に灯りが点いている。朝から晩までヴァイオリン作りに没頭していた。だから何となく部屋を訪れるのが気がひけて、彼の部屋から近頃少し足が遠のいていた。
 何だかつまらない。話し相手と言うには一方的に私が話しているだけだったけれど、それでもあの空気は何となく落ち着いた。子供の頃から馴染んだ工房の空気は、独特の色と匂いを含んでいる。そしてその中に彼がいる風景は、妙にしっくりと落ち着いた一つの景色となっていつの頃からか私の心の隅に存在している。
 話がしたいと思った。そうだ、クリスマスのミサに誘ってみよう。クリスマスくらいは彼も作業の手を休めるだろう。そう思って食事に現れた彼が離れにある部屋へ帰る後を追ってその話をしてみると、「いいけど」とあっさり了解した。
 何だかクリスマスが楽しみになってきた。
 街は近付いたクリスマスの為のイルミネーションで綺麗になり、ドゥオモ(街で一番大きな教会)の前に飾られた大きなクリスマスツリーは、この時期に発生する特有の霧で一層幻想的な雰囲気に包まれる。
 クリスマス・イブは家族で過ごすのが普通だった。料理を囲んで家族でクリスマスを祝う。そしてその後、夜中に行われる教会のミサに行ったりするのだけれど、ミサは翌日のクリスマス当日の昼真にもあって、夜に行けない人はそちらに参加する人も多い。父や母も後者のほうだった。
 クリスマス・イブの日、家族や離れに下宿する数人の弟子達、そして訪ねて来た父のかつての弟子達などがテーブルを囲んで賑やかな晩餐となった。それが漸く終わりかけた頃、私はこっそりとアスランを誘い出した。夜のミサに行くために。
 寒い夜道を歩いてドゥオモへと向う。多分、二人が抜け出した事は賑やかな雰囲気に紛れて気取られていないはずだ。急いで歩いてドゥオモに着くと、前に飾られたツリーが綺麗だった。やっぱり夜のミサに来て良かった、と思った。何より誰かと一緒にその雰囲気を共感出来る事が嬉しかった。隣を見るとアスランも同じような目でツリーを見上げている。
 教会のミサは厳かな空気に包まれて行われた。信仰心が篤いほうだとは言えないけれど、この厳かさだけは好きだった。心が静まる一瞬。それは、ヴァイオリンを奏でる前の、あの一瞬の静けさに似ている。厳かな心は何かに無心に向かう心と同じだ。多分――
 そっと隣を見ると、彼の目もしんとした水面のように厳かに静まっていた。あのヴァイオリンに向っていた時と同じ目だった。綺麗な緑の原石に似た色の。
 ミサが終わり、ドゥオモを出た頃に外は夜霧で覆われていた。夜霧越しに見るドゥオモとその隣にある背の高い石塔は、淡い光に照らし出された幻想的な絵のようだ。それを見上げながらアスランと帰り道を歩いた。ゆっくりとした足取りで、その時間を楽しむように肩を並べて他愛の無い事を話しながら歩く。やっぱり私が話している方がずっと多かったのだけれど。
「あのさ」
 前から言いたかった事を口にしてみようと思った。なかなか機会が無くて言い出せなかった事を改めて言おうと思ったら、妙に言葉が上手く出てこなかった。
「前に弾かせてくれたヴァイオリン、あっただろ?初めて作ったやつ」
「ああ」
「あれ、もう一度弾かせてくれないか?」
 彼はこちらを見てちょっと意外そうに瞬きした。
「――何で?」
 やはり問い返されるだろうと思ったその言葉に、どう説明しようかと考えて、本当の答えの半分だけを返した。
「あの音、もう一度聞いてみたいんだ」
 一瞬考え込んだように見えたアスランの顔が、次の瞬間にふっと笑顔になった。
「いいよ」
 夜霧の中で見たその笑い顔はしっとりと露を伴って、心の中に沁みて行くように思った。あのヴァイオリンの音と同じように。
「なあ、じゃあさ」
 勢い込んでもっと欲張りになった。
「これからクリスマスに、その年に作った一番の自信作を弾かせてくれないか?」
 そう言うと、いいけど、と彼は微笑してから「でもあれは特別だから」と小さく呟いた。特別って?と聞き返したけれど、彼はただ黙って笑うだけだった。
 それから彼は自分から話し出した。実はここへ来るまでに、独学で楽器作りを勉強していた事、そして既に何台か自分で製作していた事。
 ああ、だからあのヴァイオリンはあんなに澄んだ音を出したのか、と思った。初心者にあんなものは作れないだろう。
「でもやっぱりマエストロの技は凄いよ。本で読むのと実際学ぶのとは大違いだ。道具の使い方一つとってもまだ全然ダメだけど、いつか自分にしか作れない音を作りたいんだ。ストラディヴァリみたいに」
 偉大な製作者ストラディヴァリは、全ての楽器製作者の目標だ。彼の作った300年前の音は現代の科学をもってしてもいまだにその秘密が解明されていない。どんなに瓜二つに作っても、決して同じ音は出ないのだ。永遠に彼にしか作り出せない、彼だけの音。それは全ての楽器製作者の夢だ。
「だからお前も頑張れ」
 その言葉にアスランを思わず見た。
 何故わかったのだろう、と思った。私はずっと自分の奏でる音に行き詰っていた。思うように音が出ない。奏でられない。表現が出来ない。
 だからあのヴァイオリンなら、また透明な音を響かせてくれるだろうか、と思った。以前の私を思い出させてくれるだろうか、と思ったのだ。
 彼の言葉は、その全てを知っている、と言ったように聞こえた。不思議そうに見る私の顔を見て彼はまた微笑した。
「音だ」
 夜の闇の中で吐く息が白く仄かに光る。一瞬にして冷やされた水滴の小さな粒の一つ一つがきらきらと光っているように見えた。
「音は生きてるからな。だから何よりも素直に伝わるんだ」
 その言葉が白い吐息と一緒に口から発せられた時、水蒸気と共にきらりと光って闇の中に融けていくのを私は見ていた。彼の声は澄んだヴァイオリンの音のように素直な音色で響いて行く。聖なる夜の闇の中に。そして迷った私の心の奥に。

 そうしてその年は暮れて行った。


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<07/11/23>