この手紙が届く頃には、俺も、そして君も或いはもう存在はしていないのかも知れない。 それなのに、敢えて手紙などという時代遅れのアナログな手段を通じて、こんな気持ちを君に伝えたいなどと思ってしまうのはやはり、明日をも知れない死地へと赴く感傷からだろうかと、我ながらに苦笑している。 先の大戦の時には、振り向くとすぐ手の届く距離に君は居た。けれど、今はそれぞれの任に就いて遠い彼方だ。それもこの二年と言う歳月が、お互いに科した宿命というものだろうかと、正体の無い、得体の知れない見えない手によってあだ花のように翻弄され続けて来た俺達の運命を思わずにはいられない。 君に出会えて良かったと、あの時言った俺はまだ幼なかったけれど、その気持ちは今も何ら変ってはいない。寧ろ、それは綴られていく日々の中で重みをなし、この出会いの意味を、お互いにとっての必要性を、今以て、一人窓の外の星々を眺めながら考えている。「必要性」と言ってしまえばそれはただそれだけの意味をしか持たないが、多分、本当はそんなものでは括ってしまえる程のものでは無いのだと、今更ながらに思い知っている。「必要」などと言う言葉はもうとうに超えてしまっているのだと。こんな言葉を今更ながらに吐く自分を嘲笑したい気分だが、ここではもう何を言っても始まらない。ただ、今は君に伝えたい言葉が胸中に溢れては行く先を失って彷徨うばかりだ。つくづく馬鹿な男だと思っている。 人と言うものは、当たり前のように与えられている時には気付かないものだ。そして失った後に、漸くそれに気付いて懸命に取り戻そうとする。何故失う前に気付けないのだろう?愚か、と言う言葉はその為に存在しているのだと、皮肉にも、今、漸く理解した。…いや、そんな事はどうでもいい。 今、君に逢いたい。あれほど毎日のように側に居た日々が、今では遠い昔のようだ。近付き過ぎると見えないものがある。遠退いた時、それは初めて目に映るが、既に手に触れられない距離だ。君の立場も任務も置かれた状況も、漸く解っているのに、今、触れられない。かつて、解っている、と思い込んでいた、ただ幼いばかりの拙い自分を今は何も弁解は出来ないが、ただもしも、再び君の元へ還る日々が在るのなら、それはかつての自分が見出すことの出来ずにいた、そこに在る事の意義、側に存在する事の意味というものを、今度こそ本当に見つけ出せるような気がする。その時は、そこに在るべき事を自ら望むのだから。 本当に、今君に逢いたいと思う。こんな気持ちを、今、伝えたいと思う。 「未来」という明日を俺にくれた君に。今のこんな俺が言うのは失笑かも知れないが、共に生きて行きたいと、生きていたいと切にそう願う。 そんな明日を、未来を、今は護りたい。 共に生きていく明日を、護りたい。 本当に、君に出会えて、良かった。 |