書斎の住人





眠れない夜がまた訪れた。
この頃はそんな日も減りつつあったのに、また目を閉じても眠りがやってこない日が続きそうだった。
薬はどうしても好きになれないので、医師に聞かれると「大丈夫です、ちゃんと眠れてます」と嘘をついた。
薬など処方されてもそれが何の解決になるのだろう。ただの気休めでしか無いのだ。
今の自分に必要なのはそんな薬では無く、もっと別のものなのに。
けれど、それが何であるのか、その答えは未だ見つからない。
見つからない空しさを抱えたまま、夜の屋敷をフラリと彷徨い歩く日がまた続いていた。

カガリの部屋の前で足を止める。手を上げて扉の前に持っていってから、暫くそのまま躊躇した。
きっと今頃は深い眠りの中にいる事だろう。それを遮ってでも、自分のいるこの夜の世界に連れて来ようと言うのだろうか――。
ノックをしようと上げた手をゆっくりと下ろした。
何をしようとしているのだろう、こんな時間に。自分の分別の無い行動に、自嘲気味になった。この屋敷の中で今目覚めているのは多分、自分だけだ。それほど夜は深い。
手を上着のポケットに突っ込んで、また屋敷の廊下を歩き始める。
静かな夜の闇は物音一つしない。自分だけしかこの世に存在しないかのような錯覚をその静寂はいつも起させる。
ここは、本当に生の世界なのだろうか?何もかも死に絶えた闇の世界に連れ出されたのでは無いだろうか?
そう思いながら、足は自然とあの部屋へと向かっていた。
夜の闇の中で、より深い闇を湛えたあの部屋。黴の匂いと静寂と、そして神秘に愛されたあの部屋。
その部屋の扉は闇を吸ったように黒く重くそこに立ちはだかり、まるで闇の番人のようだ、と思った。
その番人に手を当て、少し力を入れて押すと、闇の世界へと通じる扉は静かに開かれた。途端に、鼻を衝くあの匂い。
その匂いに微笑しながら足を踏み入れると、深い闇が迎え入れた。
窓の輪郭が微かに見える以外に、視界には黒々とした絵の具を塗り込めたような闇しか無い。
ふと、その時部屋の片隅で何か音がしたような気がした。そちらの方に目を凝らしてみたが、闇が広がるばかりで何も見えず、手探りで壁の電気のスイッチを探り当てて、明かりを点けてみた。
途端にそこだけ薄い昼間の光に包まれたような空間が出現し、先程何か感じた方向を見ると、今まで気付かなかったものが目に映った。薄暗い壁に掛けられた、古い柱時計。
それはもうかなりの年代物で、アンティークと名付けるには経て来た時間の長さが、そんな言葉では片付けられないような気がした。そして近付いてみてそれが既に動かないものである事を知った。壊れてから少し経っているのだろう、その上に埃が薄く積もっている。
「――おかしいな」
確かに先程物音がしたような気がしたが、既にこれは壊れている。耳を澄ましたが、やはり何の音もしない。
気のせいだったのだろうかと思い、そこを離れていつもの椅子に腰掛けた。夜のこの空間は昼とはまた違う顔に見える。けれどもそこに漂うあの安らいだ空気は闇という薄い衣を得て、一層安らかに辺りを包み込んでいるように思えた。
椅子に座りながら何気なく、先程の柱時計に目を遣る。昼間の光の中ではどうして気付かなかったのだろうと思う。薄暗い壁に、ひっそりと眠るように掛けられた時計。
じっと見ている内に、いつの間にか立ち上がって、またその前に立っていた。そしてその古びた体にそっと手を触れると、思わず滑らかな木の感触が手の平を通して伝わった。すっと馴染むようなその感触に、この部屋の空気にも似た安らぎが流れ込んだ。
その時、何故だろう、この時を奏でる音が聞いてみたい、と思った。
ただ訳も無く、けれど無性に、聞いてみたい、と思った。
結構な大きさと重さのあるそれを、壁からゆっくりと取り外して床の上に置いてみる。前面に付いている扉を開くと、中には更にネジで止められた扉が付いていた。
自分の部屋にとって返すと、工具箱やら何やら色んな物を抱えて来た。
こんなものを引っ張り出すのは久し振りだった。
昔初めて自分で機械の部品を組み立てた時のように、心なしか気分が少し高揚している。
闇を照らす寝惚けたような薄い蛍光灯の明かりの下で、止まっていた夜の時間がゆっくりと動き出した。孤独だった時はいつしか無心に没頭する内に消え去り、朝を告げる白い光が床の上に薄い影を作り出す時まで、その時計と向かい合い続けた。
一睡もしないまま、夜が明けていく。
それでも頭は妙に冴え冴えとして、心には波一つ無かった。

朝にはまた時計を元通りに壁に戻し、夜更けに取り外して再び扉を開く。
そんな日が続くようになった。
開かれた扉の中は未知の世界だった。
かなり古いと思われるその仕組みは、今まで見た事も無い。けれど、向かい合ううちに、次第にその作りが何となく理解出来るようになった。昔からこういうものを弄るのが好きな性分だったせいで、飲み込むのは早い。
どの部品が破損しているのか、磨耗しているのか、調べた結果だいたいの見当はついた。
けれど、わかったところで、取り替える部品などは勿論無い。
壊れてから直されていないところをみると、恐らく今こんなものを修理してくれるところも無いのだろう。
だとすれば、あと残された方法は、その無いものを自分の手で作るのみ、だ。
薄い金属の板から、その部品を削り出す事にした。当然簡単な作業では無い。時間と技術も必要とされるだろう。
古いけれど、精巧な作りのその時計は、見事と言える緻密な部品からなる一つの作品だった。
その一つ一つを丹念に調べ上げ、合う部品を自分の手で削り出して行くそんな作業が少しずつ進む毎に、足りない何かを補っているような、満ち足りた気分が訪れた。
夜毎、寝静まった屋敷の中で、秘め事のようにその作業は繰り返され続けた。床の上に散らばった数々の部品や道具や切屑が、朝を迎えると共に姿を消し、また夜更けになると床一杯に並べられた。
そのうちに、ある朝、
「なあ、お前、ちゃんと寝てるのか――?」
朝食を摂りながら、カガリがそう聞いた。
「顔色、悪いぞ」
「ああ――大丈夫だ」
そう受け流したが、彼女の目はまだ何か問いたげに向けられている。
――もう少しなんだ
そう心の中で呟いて、目を逸らした。

失敗しては作り直し、それを繰り返しているうちに、段々とコツが飲み込めて来た。繊細な形を自分の指が次第に生み出して行くそんな作業は、失ってしまったものを再び少しずつ築いていくような、取り戻そうとしているかのような、そんな精神的作業に思えて来た。この中に閉じ込められ、失った過去を解放する。いつしかそんな任務を負ったような気にさえなっていた。
全てが解放されたその時に、一体どんな音を聞くのだろう?
そして、俺は何を想うのだろう――?
その思いに駆られ、一心に作業は続いた。
満ちていた月が欠け始め、日に日に痩せて見えなくなった。
そしてその月がまた少しずつ姿を現し始め、再び一杯に満ちたある夜。
止まっていた心臓が動き出したように、静かに、その時は刻まれ始めた。
振り子がゆっくりと、扉の中で大きく往き来する毎に、今を告げる音がする。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ――
初めて聞く筈の音なのに、なんて懐かしい音色なんだろう、と思った。それは遠い昔の時の響き。まだ自分が生まれる前の、もう既にこの世にいないであろう人々の聞いた、音。
そこに抱かれた記憶が、今この部屋一杯に流れ出したように、優しい心地が満ちている。
何て本当に優しい音色なんだろう。
床に寝転んで目を閉じると、規則正しく響くその音に包まれるように気持ちが良くなって、次第に意識が遠のいて行く。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ――
意識を失う寸前、辺り一面が薄い光に包まれたように、まるで優しい色に満ちて見えた。



夢を見ていた。
懐かしい人達の顔を見たような気がした。
今はもういない、本当に懐かしくて本当は会いたくて、でも会えないその顔に、沢山逢ったような気がした――



「おいっ」
目を開けると、上で金色の光がキラキラと輝いている。まるで波間に反射して漂う光のようだ。
「こんなところで寝るな!」
ああ、金の妖精か……。
だけど何だか怒っているな…ああ、ここで寝るなって言ってるのか…。
そう思考が働いて、初めて現状に気が付いた。
大の字になって眠ってしまったのだ、あれから、ここで。
白い朝の光が窓から一杯に部屋に射し込んでいて、その眩しさに目を細める。
そんな俺を見下ろしながら、彼女は言う。
「まったく。何をやっているのかと思っていたら」
そして腰に手をやって、仁王立ちで辺りを見回した。
そこら中に道具やら作り損じの部品やら切屑やらが散乱したままになっている。
体を起し、弁明もせずにただ黙っていると、彼女は声を和らげて
「――あれ、直したのか?」
と視線を時計に向けた。
「ああ――」
そう答えると、こちらを見た。その目が思わぬ優しい色に満ちている。
「そう、か。直ったんだな」
独り言のようにそう言うと、隣に同じように腰を降ろした。
「凄いな、お前。あんなもの直すなんて。もう直らないって思ってたのに」
そう言いながら、床に散らばったものに目を遣った。
「あれ、お父様が好きだったんだ」
また時計に視線を戻すと、穏やかに微笑した。
「よくここであの音を聞いてたな。落ち着くんだって言ってさ。私も昔、時々膝の上で聞いてたけど、結局何だかよくわからなかった。でもここにいる時のお父様はとても好きだったんだ、一番安らいだ顔で。ある日突然動かなくなってから、とても残念がって…もう修理も無理だろうって。でも、またこの音が聞けるなんて、思ってもみなかっ――って、おい――」
彼女が目を見開いて俺を見ている。
「何で、――何でお前が泣くんだ――?」
熱いものが目に溢れてきて止まらなかった。それは頬を伝わって下へと流れ落ちて行く。
「――何で、だろう?」
色々な色が混じりあったような涙の訳も、想い出の数だけ溢れて来るような涙の珠も、今はただ時計の音色の中に融けるように流れ落ちて行く。
次から次へと止まらない。
「アスラン――」
そう名を呼ぶと、目を細めた彼女の手が髪を梳くように頭に触れた。そして何度も撫でるように繰り返した。
「わからないんだ」
「――うん」
ただそこに満ちる空気の優しさに堪らずに泣きたくなった。
けれど、本当はそれだけじゃ無い。
深い場所から湧き上がる塊のようなものがあの音と共に自分の中に溢れ出して、それはずっと閉じ込められていた時間の記憶と一緒に混じり合い、融けて流れ出した。
ずっとその場所を求めていたように。
流れ落ちる涙は果てが無いように溢れ出て、やがてそれが漸く尽き、そしてその痕が乾くまで手はずっと離れずに髪を撫で続けた。
その心地良い仕草に誘われ、いつの間にか抗うことの出来ない眠りにまた引き込まれようとしていた。
快い疲労感と開放感を感じながら、傾く体を支えようとする柔らかな腕の感触が服を通して伝わった。
遠のく意識の向こうで、カチリ、カチリ、と絶える事の無い音が、優しい響きを伴ってずっと耳の奥に届いていた。





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<07/02/25>