書斎の住人
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この匂いをいつしか無意識に求めるようになったのは何時の頃からだったろうか。
今まで身の周りにあったものは金属的で無機質で、それは生と言うものからは極めて無縁の冷めた臭いだった。
だから今まで覚えた事の無いこのえた匂いが、ここに足を踏み入れる毎にいつの間にか自分を虜にしてしまっていた。
不思議な落ち着きが心に訪れる。
びたような古紙の匂いと、そこに染み込んだインクの鼻を衝く匂い。
それはその書物達が経てきた永い永い時を物語っているかのようだ。
それに比べたらお前の存在などはまるで無いに等しいのだ、とそう彼等は言っているような気さえする。
取るに足らない存在ではないか、と。
その声がする度にここでは自分を許されている存在だと安堵するのだ。
「お前、本当にここが好きだな」
時々遣って来る金の髪の妖精が呆れたようにそう言った。
『妖精』などと呼ぶのはこの部屋の空気が神秘と神聖に染まっているからで、勿論、本人に向かってそう呼ぶわけでは無い。そんなふうに呼ぼうものなら、「気でも違ったのか」と呆れた顔で一蹴されるだけだろう。
「落ち着くんだ、この匂いが」
そう答えると、金の髪の妖精はクンクンと鼻を鳴らして、「変わってるな、お前」と一言で片付けてしまった。
この部屋は俗に「書斎」と呼ばれてはいたが、実際には小さな図書館とでも言える程に多くの書物が収蔵されている。この国の起源に纏わる貴重な書を始めとして、あらゆる分野のあらゆる貴重な書物が収められている。
始めは特に興味を抱かなかったが、必要があって足を踏み入れているうちに、いつしかそこで書物を紐解くことに次第に心の安寧を見出すようになっていた。
時間を忘れて文字を追うことに安らぎにも似た穏やかな心地を覚えた。静寂の中でその静寂さにさえ気付かないほど没頭して文字を追った。窓際の明かりの入る場所に設えられた古い匂いのする木製の机と椅子が、昔からの顔見知りのようにいつもそこにあって、その居心地の良さというものはかつて人から与えられた拒絶も許容も何も無い、まるで価値の無いものとして扱うような度外視した空気、そう言ったものだった。
気付くと陽は既に沈んでいて薄闇の中でじっと目を凝らしているそんな事さえあった。
「ちょっと気味悪いぞお前」
覗きに来た金の髪の妖精がさすがにその時は顔を顰めた。
「電気くらい点けろ」
そう言って電灯のスイッチに触れて灯りを点けた。
それからさすがに少々心配したのか、彼女が医師に相談をしたらしい。最も、それは後になって知った事だが。
「何が心に作用を与えるのかはわかりません。今はしたいようにさせて様子を見るべきでしょう」
そう医師は言ったのだそうだ。
その言い草にまるで患者扱いだと苦笑したが、当たらずとも遠からず、と言ったところか。
今自分が何から閉じ篭っているのか、何から目を背けているのか医師が気付いたらきっともっと詳しい検査を、と言うところだろうが。
それを知っているから、自分はこの部屋へとやって来る。
それは薬を求める病人に似ているのだろう。
始めは怪訝そうにしていた彼女も、その内に何も言わなくなった。
いつだったか黙って隣に座っていたが
「ここにいる時のお前は好きだ」
ボソリといきなりそう言ったので驚いた。
「嫌いじゃないぞ」
下を向いたまま小さな声でそう言い直した。
「酷いな」
笑ってそう答えると顔をこちらに向け、憂いを含んだ目で微かに笑った。
そしてそのまま机に突っ伏すと、顔を捻ってこちらを見る。細い髪が糸のようにその顔に降りかかり、唇にその数本が銜えられるように引っ掛かった。
「なあ、いてもいいか?ここに」
その憂えた目と声に、手を伸ばして唇に掛かった髪を解くようにして退けると答えた。
「いいよ」
そしてその言葉だけでは足りないのだ、と最近漸く気が付いた。
「カガリなら」
そう付け加えると、安心したように微笑んだ。
『妖精』なんて呼んでるくらいだからな、なんて言う台詞は勿論声には出さなかったが。
そのまま髪を撫でながら本に視線を戻す。
黙ったままで彼女が見ている。
あの黴びた匂いがする。




堪らなく、幸せだった。




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<06/10/15執筆―12/3加筆・修正>