最終幕 : 蕭条 所謂下町と呼ばれる場所の、街の喧騒が辺りを包む狭い路地のそのまた奥に、古びた建物が建っている。いつの時代からそこにあるのかわからない。風雨に曝された石造りの壁や柱の染みと言うものが、ただ無言の内にその歳月を告げている。 その建物の中に小さな出版社があった。大衆向けの娯楽冊子を発行しているその出版社は、庶民に僅かながら支持を得て漸く細々と成り立っている。下級層の娯楽が少ない時代に、娯楽冊子はせめて得られる限られた楽しみの内の一つであった。 その冊子の中で一番の人気は、上流階級のとある美しい青年と下町の貧しい洗濯娘との身分違いの恋を描いた連載小説である。特に女性から熱烈な支持を受けているその小説は、編集長でありまた出版社の代表でもあるフェイエット・ローダーが書いていた。冊子はその小説人気だけで持っていると言っても過言では無い。そんな小さな出版社はローダーの他に従業員が何人かいたが、まともな教育と呼べるものを施された者は数人しかいなかった。大抵は読み書きが出来る程度である。 「この展開はやはり少々無理がありすぎるんじゃないでしょうか」 時代から取り残されたその建物の一室では、ローダーが書いた連載小説の原稿を読んでいた相棒であるロッドが難色を示している。物語は今佳境を迎えているところだった。 「いいんだよ。有り得ない展開の方が大衆には受け入れられやすい」 ローダーは椅子に座り、煙草をふかしながら足を机の上に放り投げる。 「だってこの娘は青年と結ばれて、何の苦労も無しにやっていけるんでしょうか。学問さえも受けた事の無い娘ですよ。生きて来た世界が余りにも二人は違いすぎる」 「ロッド、そこが夢物語なんだよ」鼻から煙を吐き出しながらローダーは口にした。 「現実世界で有り得ない事を望むのが、小説を読む大衆の心理だ」 「それはそうですが」 「毎日の報われない現実を、また小説の中で繰り返されるのは面白いと思うか?」 「……いいえ」 「ある意味、夢を見せる商売だと割り切ればいい」 短くなった煙草を指に挟み、ローダーはその煙を燻らせた。 「それに俺は文学を書いているわけじゃ無い。――食う為の小説を書いている」 そして夢を食らわせる為の、と付け加えたローダーは、ふと気付いたように辺りを見回した。 「そう言えば、あのお譲ちゃんはどうした?」 「ああ、あの子なら……」 ロッドは壊れかけたドアを目で示した。 「さっき誰かが訪ねて来ていたようですよ」 「訪ねて来たって、あの子に?一体誰が?」 「さあ……」 「――それにしても」 持っていた煙草がいよいよ短くなったのを、ローダーは目を細めて見る。 「あの娘ほどの変わり種は俺の小説の中にもいなかったぞ」 「そうですね」 「孤児で救貧院の出だと言いながら、あれはちゃんとした教育を受けている。それもかなりの――上流階級並みの教育を、全くあんな娘がどこでどうして受けたんだか。奇怪だな」 「ええ、彼女は何も語りたがりませんから。ここへ来てから語った事と言えば、孤児である事と救貧院育ちと言う事だけですからね」 「妙な娘を拾ったものだ」 「自分で雇ったのでしょう?」 ロッドは苦笑する。 「仕方が無いだろう。俺が求人広告を出したら、あの娘が来たんだ」 「で、気に入ったんですね?」 「次の小説の材料にでもなるかと思ってな」 「――成る程。でもあんな娘がこんな場所で働こうだなんて……」 「時代が変わろうとしているんだな」 ローダーはゆっくりと煙草をもみ消した。 「そうしていつか、俺の小説も時代遅れになる日がやがて来る」 火の消えた煙草を見詰めながら、ゆっくりとローダーは煙の代わりに言葉を吐き出した。 「お前さんに会いたいと言う人が外に来ているよ」 そう言われて娘は「え?」と言う表情で顔を上げた。手にペンを持ったまま声を掛けた同僚が指し示す部屋のドアを見て暫く考えるような面持ちをしていたが、やがて立ち上がると壊れかけた部屋のドアを開ける。すぐそこにある狭い階段を降りると、下はやや広い通路になっていて、そこに一人の中年と思しき男が立っていた。 見るからに上等な仕立ての服を纏っているその男は、この古びた建物と街の喧騒には凡そ不似合いに見えた。 娘の姿を見ると、男はその顔に柔和な笑みを湛えて近付いた。 「カガリさんですね?」 そう確認すると、上着の内ポケットから一通の封筒を取り出した。 「これを」 ただそれだけを口にすると、その封筒を差し出した。暫くその封筒と男を代わる代わる見ていたカガリがやがてゆっくりとそれを手にするのを見届けると、また柔和な笑みを浮かべ、「それでは」と慇懃な挨拶をして、仄暗い出口から狭い路地へと出て行った。 残されたカガリは手の中の白い封筒を見詰めて暫くそこに立っていたが、やがてそれを持ったまま再び階段を昇り始めた。そして自分の居た階を通り越して、更に何階か上へ昇ると、小さな窓を持つ踊り場へと辿り着く。誰もいない踊り場の、その窓を開け放って細い桟に腰掛けると、カガリは再び手の中の封筒を見詰めた。心に在る何かを見詰めるようにただ暫く眺めている。やがてゆっくり手を動かすと、その封を開けて中から一枚の紙を取り出した。そして取り出した紙を静かにそっと開く。そこに綴られた文字を目で追い、やがてゆっくりと顔を上げた。その瞳には窓の外にひしめき合って建つ下町の古びた建物ばかりが見える。路地を通って流れて来る風がカガリの髪を撫でて行く。時間はただ緩やかに、その風と共にやって来ては行過ぎる。―― 静かに注がれた眼差しは、その建物の向こうにある何かを見据えるようにずっと投げ掛けられていた。その口元にひっそりと浮かんでいたのは、爽やかな風に心を預けたような、しなやかな微笑みだった。 「明日仕事を休ませていただけないでしょうか」 部屋に戻って来たカガリが言った言葉にローダーはさして関心も無いように答える。 「構わんよ。別に急ぐ仕事があるわけでもないからな」 「有難うございます」 いつもとは何か違う表情に、ローダーは気付かない振りをしている。 「それから今日はもう終わっていいぞ。と言っても家はこの上だったか」 「はい」 やって来た時に住む場所すら無かった娘を、訪ねて来た上等な服を着た男は誰なのか――カガリが部屋を去ってから、ローダーは煙草に火を点けた。 「あの娘を見ていると、そのへんの小説よりも面白いぞ」 「それは自分の小説の事ですか?」 笑って揶揄するロッドの声にローダーは煙を吐き出して答える。相変わらず足は机に投げ出されている。 「馬鹿を言うな、俺の小説は面白いんだよ」 煙を掲げるように、煙草を持つ手を天井に向けた。 「それが文学などと食えんものをやっているお堅い出版社の連中にはわからんのだ!」 ∞∞-----------------------∞∞§∞∞-----------------------∞∞ 馬車を降りると薄く雲の広がった空があった。その空を見ながらカガリは初めてここへ来た時の空はどうだったかと思い出そうとしたが、空の色などよりもまずその館の大きさに驚いた印象が強すぎて、よく覚えてはいなかった。 そしてその館のどことなく物寂しげに見える印象は、そのままカガリのこの館で暮らした日々の記憶と深く結び付いている。メイドとしてザラ家で過ごした月日は長くはなかったが、今カガリの中では何よりも意味を持つ記憶だった。 その場所へ再び今自分がこうして立ち戻って来た事がまた何を意味しているのか。 後ろでカガリを乗せて来た馬車が走り去る音がした。 ゆっくりと手を伸ばしてカガリは鉄の門に触れるとそれを押し開いた。まるでカガリを待っていたかのように、それは音も無く開く。開かれた門を潜ってカガリはザラ家の敷地内に足を踏み入れた。ここを去って四年余り。それが随分昔の事のように感じられる。その間の出来事がまるで全て夢であったように不思議な感慨がカガリに訪れた。 今目の前にある館の姿はあの時と変わり無い。物寂しげに見える印象も何も変わらない。けれども何かが変わったと感じるのは、自分が変わったからなのか。ただ心を固くして見上げていたあの頃の自分を思う。傷付く事を感じない程に心を閉ざしていた。傷付けられてもそれを傷だと思わなかったのは、それを見ようともしなかったからだった。ただこの館を見た時に感じた物寂しさと言うものは、閉ざした心を擦り抜けて心のどこかに呼応した。それは自分の心の底にあった孤独と言うものが共鳴したのかも知れないとカガリは思った。 その館は今は使われず、長い眠りについている。カガリがここを去った後、ザラ家の当主が変わってからここには誰も棲まなくなった。当主が別の屋敷に移り、使用人も全て伴って行ったからであった。うち捨てられた館はひっそりと時を止めたままで眠っている。 カガリが館の扉に触れると、それは再び時を得たように微かに音を軋ませてゆっくりと開いた。誰もいない広いエントランスがカガリを迎えている。歩を踏み出すと高い天井が足音を跳ね返した。記憶の中にある館の姿が変わらずそこにある。壁も天井も床も調度品も記憶そのままの姿をそこに留めている。カガリが歩く毎に、その場の時間が融け出したように時が流れ始めたように思われた。 記憶を辿りながらかつて自分が働いていた場所へと通じる廊下へやがて出ると、カガリはそこを暫く見詰める。ここを忙しく何人もの使用人が行き来し、自分もまた毎日通った場所だった。今は深閑と静まったその廊下を行く者は誰も無い。ただ窓から射す陽の光だけが落ちている。暫く見詰めた後その廊下を通り過ぎると、ずっと続く通路をカガリは歩いて行く。足は自然とそこへ向かい、行きたいと願う場所があった。 やがて通路を突き当たると、外へと通じる扉が目の前に現れた。その先に、広い庭があった。ザラ家の広大な敷地に広がる庭園だった。懐かしい光景にカガリは思わず目を細める。そして徐々に映り始めた光景に、思わず心を揺さぶられた。――当主が去ってもその庭だけは忘れられず、手入れがなされていた。綺麗に整えられた花壇に花が咲き、枝が揃えられた木々の葉は、その下に小さな木漏れ日を作っている。幾何学模様を描く低木は美しく刈り込まれてそこにくねくねと続く細い小路の存在を示している。庭だけは今も時を刻み続けていた。カガリはあの初老の庭師の笑みを思い出す。花の痛みを知っていたあの庭師は愛したこの庭を今も守り続けている。 カガリは一歩ずつ確かめるように細い小路を歩いた。その度に様々な出来事が思い出される。そこに残っていた記憶を読むように、辛い日々も忌まわしい思い出も優しさに満ちた言葉も、その一つ一つをカガリは拾い集めて行く。やがて漸く見えたその建物を前にした時、カガリの胸に静かな淡い思いが広がった。 薄いガラス板に覆われたその建物は、銀色の陽の光を照り返してそこにある。幾多の思いを、幾多の記憶をその透明な箱の中に包み込むように、温室は庭の片隅に眠っていた。広がる淡い思いに胸を満たしながら、カガリは近付いてその扉に手を掛ける。 あの日と同じだった。白いビロードの花弁を薔薇達は広げている。短く儚い時を精一杯に咲かせている。その中でしか生きられない命を清冽に開いている。時を経た今もその無垢過ぎる姿は変わらない。 侵し難い余りに神聖な空気の中で、カガリはそっと花に近付くと、その一つに手を触れる。脆そうな花弁は滑らかな感触を素直に指先に伝えた。うち捨てられた温室の中で咲くその花の姿を見る者は誰も無い。けれども花は咲き続ける。それが花自身の選んだ生き方であるようにカガリには思えた。その中にある空気と光と土が、彼らの体の隅々まで行き渡って既に離さない。それらのものと生きる事を彼らは望むだろう。外にあるものに触れれば忽ち花は萎み枯れ果てる。―― ここで彼らはずっと生き続ける。この温室が取払われ、いつかこの場所を失うその時まで、花は咲き続けるのだろう。 その姿を心の奥に仕舞いこむように、カガリは長い間花を見続けた。そして深い心からの笑みをその顔に湛えると、向きを変えてゆっくりと扉の方へ歩き始める。その扉を閉める前に、もう一度振り返った。一瞬、甘やかな花の香りが包むようにカガリを取り巻いた。 温室を背にし、カガリは再び館の方へと小路を戻り始める。歩を進める度、次第に近付いて来るその瞬間に、今まで穏やかだった心が波立ち始めるのをカガリは感じていた。その心を鎮めようとでもするように、足取りは敢えて遅く運ばれる。一歩一歩が酷く長い距離のように思われた。 館の中へと戻って来たカガリはまた通路を通り抜けて暫く廊下を行く。するとそこに階段が姿を現した。美しい曲線模様を施した手摺の付いたその階段は、緩やかに上へと続いている。滑らかなその手摺にそっと触れ、カガリは上を見上げた。その階段をよく知っている。かつてここに棲む嫡子に呼び出される度に、何度もここを昇った。その時昇って行きながら、心を空にしていた自分を思い起こす。辛さや悲しさや空しさを感じないように心を閉ざしていた。それが生きていく為に仕方の無い事ならば、受け入れられる筈だと言い聞かせた。辛い事などこれまで何度もあった。だからこれはその一つに過ぎないのだと。 触れた手摺にまた視線を移して過去の自分と向かい合った。そうしてからカガリは静かに階段に足を掛ける。またこうしてこの階段を昇る事があろうなどとはあの時思いも寄らなかった。静かに思いを辿るようにカガリは一段ずつ階段を昇り始める。あの頃のように心を閉ざすこと無く全てを許容するように、足取りは上へと向けられる。 最後の一段を昇り終えた時、続く廊下の向こうに目を遣ったカガリの心は大きくうねった。心を閉じていない今、そのうねりを抑える術が無いように、カガリの感情は蠢いている。その起伏の大きさに、改めて自分の心を思い知った。 足が覚えている歩数を歩いてから廊下の中程で立ち止まる。そこにはよく知る色の扉があった。幾度となく潜ったその扉はすぐ目の前にある。何度自分はこの前で俯いて、靴の先を見詰めた事だろう。その思いにまた立ち返るように暫く俯いて、カガリはそこで靴の先を見ていた。見詰めている内に、不思議とうねっていた心が次第に静かになって行く。そしてその代わりに訪れたのは深い感慨だった。揺らいでいた瞳はしんと鎮まって平静さを取り戻して行く。全てが静かになった時、カガリは漸く顔を上げた。 目の前の扉に手を掛け、それをゆっくりと押し開く。軋みも上げずに扉は開かれた。 白い光が目の前に溢れるように目に飛び込む。沁みるような眩しさに思わず目を細めた。こんなに明るい光がこの部屋に差し込むのをカガリは初めて見た。いつもカーテンで遮光されていた仄暗い部屋。その部屋が、今は窓からの光を受けて真白い姿を曝している。まるで赤裸々に姿を現したように満ちる光のその中で、カガリは初めて知る景色の中に描き込まれたようなその人の姿を見た。白い光の中の一点の影のように、その人は寝台に腰掛けて周りの景色に融け込んでいる。拒絶もされず、違和感も与えずに、白い世界に迎えられていた。 その背後で寝台は昔と同じように綺麗に整えられ、そしてその脇には白い薔薇の花が飾られている。 寝台に座る人は疾うにカガリを見付けていた。 向けられたその表情に、徐に微笑が滴って行くのをカガリは見ていた。 「その花はあの温室の花ですか?」 口を切って出た言葉は、はじめの言葉にしては余りに不似合いなものだった。 「そうだ」 この館の当主であるアスラン・ザラは答える。 「自分で切ったのですか?」 「そうだが」 その答えに、カガリの顔に微笑が浮かぶ。そこにひっそりと慈愛の色が含まれていた。カガリは扉の前に立ったままで言葉を繋ぐ。 「この部屋が明るいのを初めて見ました。こんなに光が入る部屋だったのですね」 その言葉にアスランはただ黙って微笑した。 「手紙を受け取りました」 カガリは静かに口にする。瞳も静かにアスランに向けられていた。 「見つけるのに随分手間が掛かったよ。街中を探すのは簡単な事では無かったからな」 アスランは答え、またその顔に微笑を浮かべる。光は、その顔にも緩やかに降り注いでいた。 「何故、訪ねて来なかった?」 それがさも当然の事のように口にしたアスランを、カガリはただ暫く眺めていた。その瞳の奥には様々な感情が揺れ動いている。 「――賭けをしたのです」 微笑を灯したカガリの口からそんな言葉が漏れた。 「賭け…?」 「ええ」 カガリの瞳に白い世界が次第に陽炎のように揺らいでいる。 「貴方が私を見つけられるかどうか、賭けをしたのです」 その言葉にアスランは一瞬口を閉ざして僅かに目を見開いたように見えた。その姿に、カガリは思わず唇に笑みを落とす。そして瞳の向け先をアスランから床へと映した。小さな日溜りがそこにあった。 「――本当は……自分の生きる場所を見付けようと思いました。貴方が言ったように、私が生きて行くべき場所を――自分らしく在る事の出来る場所を見付けようと思ったのです。そして一人で立って生きて行けるようになったら」 カガリはそこで言葉を止めた。またうねりを見せ始めた心が、その先の言葉を躊躇わせた。けれどもそれよりも早く、唇は言葉を声にして、伝えたいと言う欲求に身を任せた。 「……逢いに行くつもりでした」 その言葉を口にしてしまうと、カガリの心にまた大きなうねりが打ち寄せた。見詰めていた日溜りは小さく揺れている。自分の心の振幅が次第に大きくなって行くのを、カガリはその日溜りの揺れを見詰めることで押し留めようとしているかに見えた。 返されない言葉にふと気付いてカガリが緩やかに目を上げると、ただ真っ直ぐに向けられている眼差しがあった。静かに言葉に耳を傾けていたその表情にはそれと語らなくともわかる程の、明らかに心を奪われた者の微笑があった。 その微笑が光に融け出すような甘い匂いの錯覚に、カガリはじっと立っている事さえ苦しくなってくる。 「いつまでそこに立っている気だ」 微笑は見透かしたように訊ねた。 「呼ばれるまでは行けません」 光の中の微笑は微かに目を細めてより深い微笑へと移り変わって行く。 「お前はもう使用人でも無ければ俺も主人では無い。ここには何の取引も契約も存在はしない。全ては自分の意のままに選べる筈だ」 カガリは大きく揺れ動く瞳でアスランを捉えている。やがてその口からやっとのように思いが漏らされた。 「貴方は、狡い」 ぽつりと呟かれた言葉は床に落ちた。雨の一滴のように漏らされた言葉は、やがて強い雨のようにカガリの胸を濡らして行く。耐えられない程の大きなうねりが心に押し寄せた。 「私をここへ連れ戻したのは貴方ではありませんか。それでいて、まだ私に選べと言うのですか?」 まるで恨み言のような言葉が口から漏れて行く。心の中は郷愁の想いに駆られるような、淡い切ない色で一杯になった。 真摯な眼差しでその言葉を聞き、揺れ動くカガリの瞳を見ていたアスランは静かに目を閉じた。そして何かを深く思うような仕草の後に開かれた瞳には、澱みの無い慈しみの色があった。そしてゆっくりと手は伸べられ、言葉は告げられる。 「おいで、カガリ」 低く静かにその声は、殆ど口にされた事の無い名を呼んだ。思わず柔らかなその声は、カガリの心の隙を衝いて奥深くへと入り込む。そしてこれまでの全ての記憶を突き破ってそれは一番底の真実へと辿り着いた。 カガリの心に未だ知らなかった感情の彩が広がった。そこには愁いを含んだ切なさがある。解き放たれた自由がある。そして咽かえる花の香りのような耐え難い甘さがある。 体に広がって行く痺れは一瞬竦んだようにカガリをその場に留めようとしたが、意志に逆らえない体は小さく一歩を踏み出した。一歩、また一歩と近付いて行く。そこに近付く度に、背に得た翼が今漸く開き始める。自由を得て放たれた鳥は意志を持ってその手に舞い降りた。 差し出された手にカガリの腕が触れた時、互いの瞳はすぐそこにあった。疾うの昔から知っていたその瞳はけれども何もかもを取払って間近で交わった事は無い。初めて互いの瞳に有りのままの姿を映していた。何の枷も駆け引きもしがらみもそこには存在しない。ただ互いだけが映っている。 アスランの腕が動くよりも早くカガリはその翼をふわりと広げて包むように頭を胸に抱いた。子供を抱き寄せるようなその仕草に、行き先を失って宙に浮いたアスランの腕がやがてカガリの背に回される。それは聖母子像の絵のようだった。母に甘える子のようにカガリの抱擁に身を預けている。迷い子をやっと見つけたようにカガリはその体を抱いている。泣いている子をあやしているかのようなその抱擁は、やがてアスランが体を離した事によって終わりを告げた。自分の膝の上のカガリを見上げるアスランの目には深い微笑と長い時を経て待っていた真実だけが浮かび、それを見下ろすカガリの目も静かに受け止めている。やがてどちらからともなく重ねられた唇は余りに多くの語られずにいた思いの所為で暫くそのまま浅く長く戯れ続けた。互いの背や肩に触れている手から感じる温度は離れ難いものとして新しい記憶を植え付けて行く。アスランの手はカガリの背の温度を求めて回されていたが、ふと緩めると、手に抱いた体を入れ替えるように寝台の上にそっと横たえた。自分の体の下になったカガリを目に映して、何度こうして自分はカガリを見下ろしたのだろうと思った。初めは何の感慨も有りはしなかった。何の感情も灯らなかった。人の想いを知らなかった日々が甦る。人形のようだったカガリが次第に人の心を持った生身の体へと自分の手の中で変化して行く様を見て来た。生々しく、艶やかに変化を遂げるその様子はアスランの心に甚だしく焼き付いている。見下ろす先に今横たわるのはしなやかな肢体と薄く色付いた頬と熱を帯びた瞳を持った一人の女だった。胸を上下させて静かに呼吸を繰り返し、この先に待っている事の何もかもをもうその眼差しの中に受け入れている。果実は生った。さあ口にその甘さを含めよと自ずから主張している。 再び唇を寄せるとカガリは睫を震わせながら目を閉じ、それに応えた。その間にアスランの手は簡素なカガリの服を緩やかに解き始める。かつての荒んだ手が剥ぎ取った衣服を、丁寧に一つずつ外して行く。その動作の静けさが、カガリの心に安らぎを与えた。緩やかに波間に 白いばかりの光が部屋に満ちている。闇は一寸も無い。その光の中で初めて互いを知るように見遣った。知っている筈の、闇で繰り返されたあのただ無慈悲で無機質だった行いは、今光の下にその真の姿を現している。遮るものの何一つ無い真実が、隠す事を微塵も許さない眩い光の中で息衝いている。 絡めた片手がシーツの上に細やかな皺を刻み出す。それは白い世界に唯一僅かな陰影を作った。体にアスランの唇が触れられる度にカガリは小さく声を上げる。そしてまたそれが唇へと戻ってくると、背に手を回して無心にその感触の享楽に耽った。気怠い甘さを纏った光が天井から降りて来る。かつてよすがのように見上げていた天井の染みがどれであるのか見定められる程の正気はカガリの中に残っていなかった。ただ光に薄められた天井の模様が、熱の波に侵されて行く瞳の端に、漸く映っているばかりだった。 今生まれたばかりの赤子のようにカガリは初めて解き放たれた心を声にした。解放される事の悦びと快さが全てを占めた。有無を言わさぬ硬く冷たかった手が犯した罪を、贖うように感情を持った手が拭って行く。あらゆる部分に触れたそれは烙印を濯ぐ御手のようにまた新たな印を与えて行く。その度にカガリは幸福に目覚めて深く解き放たれた。 翼を完全に開き切った鳥は白い光の中に意識を混ぜ合わせる。光が与える恍惚とした明るさが何憚るものの無い自由な交わりに一層の未知なる聖地を拓いて行く。削り出される彫像の形が露わになって行くように、それは次第に一つの形となって光の下にあった。女は男の体の一部になる事を望み、男はそれを受け入れた女の体を自分の一部のように錯覚する。快楽よりももっとその向こうに、得ようとするものはあった。体に生ずる快楽はそこへ辿り着く為の過程にしか過ぎない。その高みへと上り詰めようとする動作は一つの規律的な空気の動きを作った。それに身を浸している男と女は互いの心と体の動きに何かを滾らせている。回されたカガリの手はアスランの背を齧った。爪の先にその肌の痕跡が失われないように深く強く掻いた。アスランの記憶にそれは深々と突き刺さる。傷よりも何よりもその行為そのものが痕を残した。 互いに新たな傷を体に与え合い、果てへと辿り着いたその先にはただ光の白さだけがあった。カガリの手は尾を引いてアスランのなだらかな曲線を描く背を滑り落ちて行く。その手が落とされた先には白いシーツに模られた深い皺が作った、一輪の薔薇の花があった。 柔らかな陽射しが部屋に降りる。 寝台の上では何もかもを一時忘れたように安らかな眠りを貪る二人の姿があった。 それは再び聖母子像のように見えた。子供の頭を抱くようにカガリはアスランの頭に手を添えて緩く体を曲げている。その腰に腕を回したアスランの寝顔はカガリの胸から腹部にかけての辺りに見えている。与えし者と与えられし者。それは未完成のままそこにひっそりと飾られた題名の無い絵のように見えた。 部屋に満ちる気怠い空気が密やかに時を刻んでいる。寝台の側に飾られた白い薔薇が、いつの間にか全ての花弁を開いていた。 蕭条とした館に訪れた満ち足りた眠りは深い。 ただひっそりと、闇を喰らい尽くした茫洋とした光だけが偽りようの無い真実として、――そこにある。 ザラ家の系譜にその後当主アスランが正式に妻を迎えたと言う記録は無い。 ――ただ、その後家督は彼の息子とされる人物が継いでいる。 <08/09/15> ←幕間へ |
―取るに足らないあとがき― 何気なく一幕を書いたのは3年前でした。その後放置状態だったのを、1年と3ヶ月後に漸く二幕目を書いてから、困難の日々が始まりました。初めは4話くらいで纏めようと思っていた話が、書いていくうちにどんどん世界が膨らみすぎて、その内に収拾がつかなくなり、書いても書いても終わらなくなって行きました。「4話で」なんて甘い事を考えていたものだと今になって思うのですが、話というものは生き物だと思います。作り手の思惑を離れて、どんどん勝手に成長していってしまいます。それを私は追いかけるのみだったのですが、余りに精神的消耗が酷くなって行き、正直投げ捨てたい時期もありました(笑)。それでも温かいお言葉を掛けて下さる方々のお気持ちに励まされ、何とか最後まで辿り着く事ができました。正直なところ、途中展開が早すぎたり都合が良すぎたりよくわからない部分も多いと反省点は有り余るほどなのですが、自分の今の力を以ってして、書けるものは精一杯書いたと思うので、悔いはありません(いやちょっと、……いやかなりあるにはあるのですが…)。今の自分に書けるのはここまでだと思います。 話の主題は何だと言われれば、結局のところ、最後のシーンに象徴されるのですが、それは読んで下さった方がそれぞれ感じて下さる事が主題かもしれません(主題とするものは幾つかあったので)。その後の彼らが何を選んだかについては、最後の2行に含めてみたのですが、恐らく賛否両論かと思います。それもまたそれぞれの方が感じ取ってくださればいいなあと思うのですが、彼らにとっての幸福の形とは何だろう、とそれが私がずっと考えていた事です。 最後に、途中からもう全くアスカガではなくオリジナルの小説と化してしまったようなこの話を、読んで下さった方々に心よりお礼申し上げます。本当に有難うございました。 (2008/09/15) |