ギソウ、ケッコン 6 「何、それ?」 思い切りお尻に疑問符を強調した口調で、彼女は言った。 休日の昼下がり。オープンカフェで友人とお茶をする。 「だって、あんた達って、偽装結婚だったんでしょ?」 開いた口がふさがらない、と言った感じで彼女はその言葉を口にした。 高校時代からの親友である彼女には、この結婚についての全てを話してあった。人間と言うものは、誰か一人でも、嘘の中の真実を知っていてくれる者が必要なのだと思う。親きょうだい、誰も知らない真実を、彼女だけが知っている。 「なのに、既成事実なんて作っちゃって、どうすんのよ?」 驚き半分、呆れ半分、といった眼差しを、さっきから自分に向けている友人の顔を見ながら、冷めつつあるコーヒーを一口飲んだ。 「そんな大したことじゃない」 「大したって、……ねえ」 彼女は少々体を乗り出した。 「ひょっとして、本当に好きになった、とか?」 「それはない」 即座に否定した言葉を聞いて、彼女は少しがっかりした顔をした。 「なら、なんでそんなことになったわけ?」 「別に。ただ、生理的欲求の処理についての意見が一致しただけだ」 「……あ、そう」 「スポーツの一種だとでも思えばいい」 「……スポーツ、って……」 げんなりした顔をしてから、彼女は次第に顰め面になった。以前、この結婚について、初めて打ち明けた時にも、彼女は同じ表情をしていた。 「あんた、ねえ……」 処置なし、とでもいうように、彼女は軽く溜息をついた。そして「あのさ、……ちゃんと、してるの?」と聞いた。 「してるって、何を?」 急に声をひそめるような表情になると、彼女はひとことずつ確認するように、『ヒ・ニ・ン』、と周りを気にしてか、ほとんど声にせずに発音した。 「してない」 「してないって、あんた――」 絶句したように友人は言い、続いて手の平を額に当てて、大仰な仕草をとった。 「やめときなさいよ」 まるで、半ば睨みつけるようにこちらを見ている。 「そんな状態で、子供なんて作んの、絶対にやめときなさいよ」 のどかな午後のカフェにそぐわない厳しい表情で、彼女は懇々と親友を諭し出す。 そんなの、絶対に後で後悔するから。それに、あんたにそんな子供が育てられると、思う――? そう言う親友の隣には、ベビーカーに乗せられた赤ん坊がすやすやと眠っている。 散々諭した後で、「とにかく、ちゃんとしなさいよね」とまた最後に念を押した。 そしてしばらくして、「ねえ、ひょっとして、あんたさあ――」と何かを考えるような面持ちになりながら、彼女はふいと口にした。 ――誰も好きになれないのは、まだ昔のこと、引きずってるからじゃないの? 答える代わりに、まだ残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。 肯定も否定も、しなかった。 キッチンのドアを開ける。 染みついた癖というものは、なかなか抜けないものだと思った。用もないのに、外から帰ると、まずキッチンのドアを開けている。 続きのリビングで、ソファに座って新聞を読んでいる彼が見えた。 ブラブラとハンドバッグを揺らしながら近付いた。 おもむろに、口にした。 「友達から、避妊をすすめられた」 顔も上げずに、「ああ」と言った彼はすぐ後に、「そう」と付け足した。 そしてややあってから、「了解」、とまた短く了承の意を付け加えた。 問題提議に同意を得たので、背中を向けて自分の部屋へと引き揚げようとすると、新聞を読んだままの彼が口を開いた。 「何ていうの」 「え?」 「その、友達の名前」 ――珍しい。 彼が私のことに、関心を示すなんて。 7 その日、初めて、『彼』に会った。 夜中にふと目覚めて咽の渇きを覚えたので、ベッドから抜け出して、キッチンへと向かう。 素肌に履いたスリッパが、ペタペタとフローリングの上で音をたてた。時計を見ていないので今が何時だかわからないが、辺りの闇はまだ深い。ペタペタという音以外には、何も聞こえない。辛うじて薄っすらと見える視界を頼りに、キッチンまで辿り着くと、手探りで、明かりのスイッチを点けた。 冷蔵庫のお茶を飲もうとそちらの方へ足を向けかけて、ふと止める。 リビングのソファに人影を見たような気がしたのだ。 気のせいかと思って、向こうの闇に目を凝らしてみる。 やはり、何かの気配がある。 泥棒……?ふと、そんな思いが頭を過ぎった。 「誰かいるのか?」 言いながら、そろそろとリビングの方へ近付いていって、明かりのスイッチを点ける。 瞬間、昼間のように明るくなったそこに照らし出されたのは、ソファに座っている彼の姿だった。 「何だ、お前か」 拍子抜けしたような声を出した。 「びっくりしたじゃないか」 そう言う私を、彼は黙って見た。 パジャマ姿で、黙って見た。 見上げる目が、死んだ魚のようだった。 ――おねえちゃん、誰? 聞こえた声に、ギョッとした。 ――そこで、何してるの? 体も声も確かに彼なのに、そこに居たのは、彼ではなかった。 ――おかあさんの代わりに、僕を迎えに来たの? 「迎えに、来た?」 ――うん、僕、雨が降ってるから、おかあさんのお迎えを待ってるの。でもおかあさん、まだ、来ないの 見上げる目に、光は無い。 ――だから、おねえちゃんが、代わりに迎えに来たのかと思ったの。違うの? ぼんやりと、ただ見ているだけの私に、彼は問い掛けた。 「……違うよ」 彼は少し悲しそうな顔をした。 ――じゃあ、おねえちゃんが代わりに、僕を連れて帰って 彼は手を差し出した。 私は言われるまま手を取り、彼の手を引いて、彼の部屋へと連れて行く。 電気の消えた部屋の、布団が捲られたままになっているベッドへと連れて行った。 そこへ寝かせると、黙って上から見下ろした。 死んだ魚のような目で、彼はまた私を見ている。 ――おねえちゃん、眠るまで、いてくれる? 「――うん」 そして、彼が寝息をたてるまで、私は彼の側に立っていた。 安らかな眠りにつくまで、立っていた。 見届けると、彼の部屋を出て、またリビングへと戻る。 そして、明かりを消すと、彼の座っていた場所に座り、頬杖をついた。 深い闇の、向こう側を見つめる。 しばらく眠ることも出来そうにないので、ただ、闇を見つめていた。 8 テレビの天気予報をぼんやりとながめながら、コーヒーとバターを分厚目に塗ったパンを口にする。 テレビの画面では、お天気お姉さんが『今日は全国的に晴れます。例年よりも暖かい一日になるでしょう』そう言いながら清々しい笑顔を振りまいている。 晴れマークの並んだ地図をぼんやりとながめながら、いつもと何ひとつ変わらない朝の訪れを奇妙に思った。 何があっても確実に朝は訪れる。夜の出来事を残らず帳消しにしてしまうが如く、必ずやってくる。 その白い光はあってはならないものをひた隠しにする目隠しのようだった。 目隠しが必要な人間はなんて多いのだろう。 自分を含めて、と珍しくまともな事を考えた時、物音がしてキッチンのドアが開いた。 寝起き顔そのままに、彼がのそりと入って来る。 夕べのグレーのパジャマのままだった。 冷蔵庫を開けるのかと思ったら、水道の蛇口をひねってコップに水を入れて飲んだ。――珍しい。 果たしてこれはどちらの彼なのかと思って様子を見ていたら、目が合った。 憔悴したような目が痛々しい。 「何?」 「あ――夕べ」 思わず、口にする。 「夕べ?」 「夕べ――のことなんだけど」 そう言っただけで、彼の動きが一瞬パリッと音をたてて止まる。 そして次第に顔色が蒼ざめていくのがわかった。 「――何か、見たのか?」 コクリ、と私は黙って頷いた。 「何を、見た?」 シンクを離れて私の座るテーブルにやって来ると、向かい側に座った。酷く神妙な顔をしていた。 「そこに、座ってた」 私はパンを手に持ったままで説明した。 その間、彼の表情は神妙から愕然へと変化して行く。 最後には、押し潰された蛙のような無残な姿になっていた。 「また、やったのか――」 そう低く呻くと、両手で顔を覆った。 「どうりで、酷く疲れてると思ったら……この頃は治まってると思ってたのに」 押し潰されている彼の後ろでは、芸能ニュースのコーナーが始まっていて、誰と誰が離婚しただのと局アナが捲くし立てている。リモコンを取ると、テレビを消した。そして手に残っているパンの欠片を口に放り込むと、立ち上がった。 コーヒーメーカーからまだ残っているコーヒーをカップに移し替えると、テーブルに持って行く。 「飲むか?」 微かに頷いたように思ったので、まだ両手で顔を覆っている彼の前にコトリと置いた。 「仕事に行って来る」 別に言う必要もない言葉だと思いながら、敢えてそう言うと、キッチンを後にした。 その日の夜。春の初めにしては生温かい夜だった。 眠る前に必ずコップ一杯の水を飲むのが習慣になっていたので、キッチンへ向かう。 ドアを開けると、リビングに明かりが点いていた。 そしてまた、昨日と同じ場所に彼が座っている。 私が入っていくと、こちらを見た。 それはあの死んだ魚の目ではなくて、今朝の憔悴した目を更に酷くした目だった。 「眠れないんだ」 その目を細くして、見上げている。 「眠れそうになくて」 しゃがれた声が懇願した。 「――頼む」 『連れて帰って』と言って差し出した、あの生温かい手を思い出した。 生温かい夜に、生温かい手はどんなにか生温かいだろう。 「わかった」 たったひとこと、私はそう返事をする。 思うに、私達の関係は、ひとことで言い表わすならば、『共棲』だった。 9 「気味が悪いだろう」 夜、リビングのソファで新聞を読んでいると、向かいに座った彼がおもむろに言った。 部屋に入って来て、珍しく向かいに座ったと思ったら、さっきからずっと黙りこくっていた。 私は読んでいた新聞を膝に乗せて、彼を見る。 「そうだな」 歯に衣着せぬ言い方で言った。 「もし私がカノジョだったら、多分引いてただろうな」 「――だよな」 自嘲気味に緩く笑って彼は視線を落とした。 しばらく黙ってから、ぽつぽつと言葉をまた繋げ始める。 ――今まで医者に掛かったり、カウンセリングを受けたりしてみたが、どこもみな首を捻った。原因がわからない。突発的に出る症状を抑えようがなく、また治療のしようもない。結局は自然に治まるのを待つしかないと言われた。ただわかっているのは、疲れた時に出やすいことと、症状があった朝には酷く体が疲れていること。けれども、それもここしばらくは症状がなかったので、治まったのだと思っていた、と彼は言った。 うなだれて、組んだ自分の指に目をやっている彼を見ていたが、しばらくして新聞をテーブルに置くと立ち上がった。 キッチンへ行くと、冷蔵庫のドアを開けて、下の段の私のスペースから缶を2本取り出した。よく冷えて手にヒヤリと気持ちいい。 またリビングへと戻ると、手にした缶ビールを彼に差し出した。 「飲まないか?」 ぼんやりとそれに目を向けてから、ゆっくりとした動作で、彼はそれを受け取った。 「いいのか?」 「ああ。どうせ余ってるんだ」 また元の場所に座って、自分の分の缶を開ける。 「そう言えば、一緒に飲んだことって、まだなかったな」 偽装結婚なんだから当たり前か、とも思ったが、彼は何も言わなかった。 その後適当につまみやなんかも持って来て、更に冷蔵庫にまだあった缶も何本か開けた。 ひたすら飲んだ後、意外に早く彼は潰れてしまい、ソファで寝入ってしまったので、私は缶を持って一人ベランダへ出た。 高台にあるマンションから見える夜景はなかなかのもので、それをつまみにまた飲み出した。 この光のひとつひとつに、それぞれの人生がある。なんて少し哲学めいた思いに囚われて、ふと笑った。この部屋ひとつ取ってみても、こんなにややこしい人生が少なからずあるのだから、この世には一体どれほどの人生が溢れていることか。 頭上の春の三日月に杯を上げて、中身を飲み干した。 今日は彼もあのまま眠るだろう。 それから二日後、また『彼』に会った。 今度はベランダに立って、夜の闇の向こうを見ていた。 開いたガラス戸から入る弱い風に、レースのカーテンが揺れていた。 「何してるの?」 部屋の中から声を掛けた。 振り向いた目は、やはりあの目だった。 ――この間のおねえちゃんだね 「うん、そうだよ。そこは寒いから、中に入りなさい」 ――おかあさんが 「お母さんは来れないから、またお姉ちゃんと帰ろう」 しばらく彼はじっとこちらを見ていた。 ――うん 返事がして、彼がベランダからリビングへと入って来た。裸足だった。 腕に手をやると、すっかり冷え切って、パジャマが冷たかった。 「寒かっただろう」 腕をさすると、こつんと肩にもたれてきた。 ――うん、さむかった 「そうか」 冷たい背中を撫でてやると、大人しくしていた。 「部屋に帰って、寝ような」 そう言うと、頷いた。 ――おねえちゃん 「うん?」 ――おねえちゃんと、寝てもいい? その問い掛けにはしばらく考えた。 「うん、――いいよ」 無心に握ってきた手を、振り払うことはできなかった。 二人で寝るのに十分な大きさのベッドに、彼を入れて寝かしつける。 ――おねえちゃん 「何?」 ――おかあさんみたいだね こんなに大きな息子がいてはたまらない。 「寝なさい」 そう言うと、彼は目を瞑った。 そしてその隣に体を横たえながら、思った。 明日の朝、彼が目覚めたら、どんな反応を示すだろうか。 何があっても、彼はまだこの部屋で眠ったことはない。 離そうとはしない握った手が、いつの間にか温度を取り戻している。 まだ遠い朝を迎えるために、それからしばらくして、私も目を瞑った。 10 翌朝。 私のベッドで頭を抱えている彼を、「着替えるから」と早々に部屋から追い出した。 それから朝食を摂って、仕事に向かうために家を出る。 その間、彼は自分の部屋から一歩も出てこなかった。 駅までの道を歩くと、所々に花の咲いているのに気付く。 いつの間にか、周囲はすっかり春めいていた。上を見上げると、白く霞んだ春特有の空がある。 一年前の今頃は、何を思って春の景色を眺めていただろうかと考えたけれども、よく思い出せなかった。 角の家の庭に木蓮が咲いている。 やがて桜も咲くだろう。 近所の川の堤防に、桜並木があると確か不動産屋が言っていた。 今度の休日に、一度行ってみようと思った。 こんな前向きに何かを考えたのは、久し振りだった。 ふと、料理でもしてみようか、と言う気になった。 差し迫った現実的な問題と、自分の健康管理の問題を鑑みれば、必要なことでもあると思った。 まず簡単なものから、ということで、仕事の帰りにスーパーに寄って、食材を購入する。種類がありすぎてよくわからないものは、適当に選んだ。こんなに食材の種類がいろいろとあるということが、とても新鮮だった。スーパーにいるだけで、いくらでも時間が潰せそうだ。 食材を買って、帰路に着く。春の夜風が頬を撫でるのが心地いい。 家に帰ると、彼は仕事に出ているようでいなかった。 着替えを済ますと、早速キッチンに行って、料理の用意をする。 一応ここに来た時に、調理道具は一式揃えてあったので、それらを棚や引き出しから取り出して並べてみる。まだ一度も使われたことのないものがほとんどだった。 インターネットからプリントアウトしたレシピを睨みながら、調理を始めてみたが、なかなか書いてあるように上手くは運ばない。それでもなんとかかんとかやっていると、玄関の開く音がして、彼が帰って来た。 そのまま部屋へ行くのかと思ったら、キッチンへやって来た。 ドアが開いたので、見るとコンビニの袋を提げて立っている。中身は弁当のようだった。いつもは外食なのに、珍しい。 そして彼の方も、珍しいものを見るような目付きでこちらを見ている。 「何?……料理?」 そう言うと、ゆっくり入って来た。 「どういう風の吹きまわし?」 本気で珍しがっている。 そんなに私と料理とは結び付かないのだろうか。 「差し迫った問題対策と、健康管理のためだ」 端的にそう言うと、「ふうん?」と納得したのかしないのか、よくわからないような返事が返って来た。 そしてコンビニの袋を提げたまま、じっと調理されたものに見入っている。 あまりにしげしげと見ているので、一応聞いてみた。 「食べるか?」 首を動かして私に目をやった後、また皿に目を戻して、考え込むように顎に指を掛けた。 「……食べられるのか?」 残念ながら、その言葉に反論できる自信は、全く無い。 (Stage1 : 終わり) →11話〜15話へ |