ギソウ、ケッコン (Stage2)



11

 桜は、ここしばらく続いた花冷えのせいで、まだ五分咲きだった。
 川の堤防の両側に続く桜の古木の並木は、その長い枝を広げてアーチを作っている。そのピンク色のアーチの下を行けば、枝にやって来たスズメやメジロといった小鳥達の姿を見る事が出来る。カラスやヒヨドリと言った大きい鳥たちもやって来る。蝶や蜂もこっそりと蜜を吸っている。ひとつの木にたくさんの生き物がその蜜や花を目当てにやって来る。
 そして人間は、何かを満たして欲しくてやって来る。
 それは私にとっての冷蔵庫のビールのようなものかも知れないし、『彼』にとっての「おかあさん」のようなものかも知れない。みんなそれぞれの、それぞれにとっての「何か」を求めて、人も動物も桜の木に集って来る。
 そんな春の一大イベントが、また今年も始まったのだ、と思った。
 桜の花を見上げながら、そう思った。
「あ」
 思わず漏れた、といった感じの声が後ろでして、振り向いた。
 そして私も
「あ」
 と言っていた。
 スーパーの袋を提げた彼が立っていた。
 今日はコンビニではなく、近所のスーパーのレジ袋だった。
 しばらく顔を合わせたまま互いに何となく黙ってしまったので、「どうも」と言うと、「ああ」と言った。
 こんなふうに外で顔を合わせたことが今まで無かったので、妙な具合だった。
 話すことが見当たらない。
「スーパー?」
 袋を示してそう言うと
「ああ」
 と袋を少し持ち上げて見せた。
「この間、ビールご馳走になったから」
 買ってきたのだと、彼は言った。
 変なところで律儀な奴だと思った。
「へえ。じゃあ何か作ろうかな」
 そう言うと、彼は少し黙って、「食えるものならな」と独り言のように呟いた。
 初めて私が料理をした時に、試食したことを酷く後悔したらしい。それからは私が何かを作っていても、キッチンに寄り付かなくなった。買ってきた弁当を食べているらしいことは、出されるゴミからわかる。
「少しは上手くなったと思うぞ」
 多分、と後に付け加えることは忘れなかった。
「五分咲きだな」
 桜を見上げて彼は言った。
「満開かと思ったのに」
「ここしばらく寒かったからな」
「ああ」
「でもまた来週も花を楽しめるんじゃないか?」
「そうだな」
 なんだ、と思った。結局同じことを考えていたのか。
 スーパーの帰りに、彼も桜の木に集って来たのだ。スズメや、カラスや、蝶や、そして私と同じように。
 二人肩を並べて、自然とマンションの方へと歩き出す。
「エコバッグ」
「あ?」
「今度、スーパーへ行く時は、言ってくれ。エコバッグ、渡すから」
「エコバッグ?」
「この間、買ったんだ」
 桜を指差した。
「地球に優しいんだ」
 しばらく私を見ていたが、「ふーん」と言って桜を見た。
 なら、俺も買おうかな。
 そう言ったので
「いいんだ、共用にするから」
 それは必要最小限の経費から出ている、と説明した。
「それから、スーパーの会員にもなったから、会員証も渡すな」
「でもそれ一枚しかないんじゃないのか?」
「別に家族カードも作ったから」
 そう言ってから、『家族』という響きに自分で急にびっくりした。
 なんだかとてもむずむずする言葉を使ったような気がした。
 改めて思うのは変だが、建前は彼と私は『家族』というひと括りなのだ。
 ふと口を噤んでしまう。
「へえ」
 何の差しさわりも無い声で、隣りで感嘆の声を漏らしている。
「家族カードか」
 その制度に感嘆なのか?とツッコミを入れたくもなったが、けれども、引っ掛かり無く彼はその言葉を受け入れたのだろうかと疑問に思って、目を向けた。
 アーチを見上げている。
 今彼の目に映っているのは、桜だった。
 その桜で一杯に、「何か」を満たそうとしている。



12

 続いた寒さがようやく緩んだ日だった。
 凍結していた時間が融け出したように、春の空気がどっとなだれ込んだ、そんな日の夜。
 風呂から上がって、パジャマ姿でキッチンへと向かう。冷たいお茶が飲みたかった。
 最近ではすっかりアルコールの摂取量が減り、その分お茶を飲むようになった。随分健康的になった気がする。健康的と言うと、週に何回か食べるものを自分で作るようになったし、そう思えば、ここに来てからいろいろと生活が変わったと思う。誰かと一緒に住むということは、少なからず影響を与え合うものなのだろう。それがどう作用してどのように結果に結び付いて行くのかは全く以って予想できない。化学反応のように顕著に表れるものではないから、まわりまわって何かに結び付いて行くのだろう。それが時には驚くような結果に辿り着く時もあれば、静かに進行して行く時もある。
 いやとにかく、人と関わる、と言うことは、そういうことなのだ。
 などと柄にも無く、珍しく真剣にものを考えて、――疲れた。
 キッチンに入っていくと、リビングに明かりが点いていた。
 ソファに彼が座っている。
 冷蔵庫へと向かいながら見ると、手に缶ビールを持っているのが見えた。珍しい光景だった。
 手に持った缶を太腿の上に乗せて、頭をソファの背凭れに深く凭せ掛けて、天井を仰いでいる。
 以前、私がよくやっていた格好だった。
 冷蔵庫を開けて、ペットボトルのお茶を取り出すと、その姿を見ながら一口含む。
 なんだかあべこべだなと思った。
 相変わらず天井を仰いだままで、酷く疲れたその様子に、仕事で何かあったのかなと思った。
「随分疲れてるようだな」
 セリフまであべこべだった。
 けれどもしばらく彼は何も答えようとせずに、ただ天井を見つめていたが、ぽつりと言った。
「今夜あたり、出そうだな」
 独り言のような口調だった。
 出る?――何が?
 そう考えて、思い当たった。
 『彼』――だ。
 つまり、彼は今それだけ疲れていると言うことだ。
 冷蔵庫の前に突っ立っていると、静かにこちらを見た。
「頼む」
 ――頼む?
 この場合は、……「何」を?
 弱々しく笑って彼はまた天井を向いてしまった。
 私はしばらく冷蔵庫の前にペットボトルを握ったまま立っていた。


 夜半過ぎ。
 部屋を出てリビングへと向かう。
 まるで深夜の逢い引きに向かうような心持ちだった。
 何となく足音を忍ばせて、薄暗闇の中を行く。
 何故そんなことをしているのかと自分でも思う。「頼む」と言うあの言葉のせいか、それとも違う理由によるものか。
 いずれにしても、確かめずにはいられない、何かがあった。
 『彼』は本当にそこにいるのだろうか?
 『彼』は、何なのか?
 リビングに入ると、やはり電気は消えていて、けれどもそこに、予告通り、『彼』がいた。
 私が近付いていくと、目を向ける。まるで迎えるように、目を向けた。
 ――おねえちゃん、待ってたんだよ
 にこりと笑った。
 初めて、笑った。
「待ってた?」
 死んだようだった目が、笑っている。
 ――うん、だって、僕、おねえちゃん大好きだから
 彼が聞いたら卒倒しそうだと思った。
 隣に座ると、嬉しそうに見ていた。
 邪気の無い、心からの素直な笑顔だった。
 有り得ない事に、その瞬間、かわいい、と思った。
 心にすいっと入ってきて、不思議な安らぎのようなものへと変わって行く。
 だから、聞いてみた。
「いくつだ?」
 ――10歳
「10歳、なのか」
 ――おねえちゃん
 そう呼ぶと、彼は少しはにかんで、そして手を背にまわしてきた。
 ――会いたかったんだよ

 ふと、こんな恋愛もありなのだろうかと、そう思った。



13

 朝。
 朝食を食べ終わった頃に、彼がキッチンへフラリと入って来た。
 起きぬけで、まだパジャマのままだった。頭はボサボサだし、顔は浮腫んで、まだ眠そうな顔のまま、まあ百年の恋も冷めようか、といった風体だった。それに追い討ちをかけるように、欠伸をして、それからコーヒーメーカーの中の私の飲み残しを見つけると、
「これ、もらっていい?」
 とまだ返事も聞かないうちから、カップに移し替えている。
「今日は早く行かないと。会議があるんだ」
 ふうん、と言ってみてから、何の会議だろう、と思った。
 私は彼の仕事をよく知らない。
「昨日、『彼』に会った」
 使った食器を洗って、水切りカゴに入れながら、言った。
 ダイニングの椅子に腰掛けて、コーヒーを飲んでいた彼が、手を止めてこちらを見た。
 そして考えるような面持ちになった。
「…の、割には、あんまり疲れてないな」
 不思議そうな顔をしている。
「初めて笑ったぞ」
「笑った?」
 少し、顔を顰めた。
「気持ち悪い奴だな」
 また、コーヒーを口に運ぶ。
「私のことが大好きだそうだ」
 口から、コーヒーを吹いた。
「会いたかったって、抱きついてきた」
 盛大に、大いに、咽ている。
 しばらく咽てから、片手で口を押さえて、テーブルに肘をついた。
 信じ難い、と言う呆然とした表情だった。
「それから――」
 咽るのが治まるのを待って、口を開いた。
「10歳だそうだ」
 まだ呆然としたままで、考え込んでいる彼の後ろにある時計を見て、続けて言った。
「それ、洗ったら、一緒に乾燥しといて」
 水切りカゴの中の食器を指差した。
 見ているのかいないのか、わからなかったが、言うことを言ってしまうと、キッチンを後にした。
 会議とやらには、ちゃんと出られるんだろうか、と思ったが、構わずに家を出た。
 こちらも電車の時間が迫っていた。
 駅まで行く途中、道を挟んだ向かいの公園に、桜が咲いているのを見た。
 満開に近かった。
 今度の休みには、ちょうど見頃になるだろう。
 川の堤防が、ピンク色に染まるだろう。
 その景色を想像すると、自然に顔が笑った。
 笑った事に、少なからず驚いた。
 今年は随分春を満喫している気がする。
 こういうのも実は嫌いじゃなかったんだ、何で気付かなかったんだろう、と新たに掘り当てた自分の一面に、感動すら覚えながら、晴れ渡った空を見た。
 空は、光っていた。



14

 雨の音に目が覚めた。
 外は酷い雨降りのようだった。ザーザーという音が、耳に大きく響いてくる。
 また目を閉じて眠りに入ろうとしたけれど、雨の音が耳について何となく寝付かれない。
 その音を聞いていて、何故だろう、不思議な予感のようなものがあった。
 しばらくベッドの中にいて、けれどもやっぱり何かが引っ掛かって、起き出した。
 部屋を出ると、向かう先はリビングだった。
 草木も眠る丑三つ時。何を探してそんな時間に家を彷徨っているのか、雨のザーザーと言う音に急き立てられながら、歩いた。ヒヤリとする床を足の裏に感じながら、歩いた。
 リビングのドアを開けた時、予感は確信に変わっていた。
 きっといる。
 きっと待ってる。
 私を待っている。
 明かりを点ける前に、じっと闇に目を凝らしてみた。
 雨音がまだ大きく鳴っている。
 その中に、微かに人の気配がした。
 ――おねえちゃん?
 確かに、その声がした。
 声の方へ、足は自然と向かっていく。
 吸寄せられるように、向かっていく。
「ごめん、遅くなって」
 何を口走っているのだろう、私は。
 ――いいんだ
 薄暗闇の中、きっと今、笑っている。
 ――雨だね
「うん、凄く降ってる」
 その姿の輪郭が微かに見える、ソファの隣に腰掛けた。
 ――この頃は、淋しくないよ。おかあさんが来なくても
「そう」
 ――おねえちゃんを待ってる間、楽しいから
 そんなこと。
 そんなことを言われたら、どうしたらいいのだろう。
 私が気付かずに眠っていたとしたら、知らなかったとしたら、『彼』はどうしているのだろうか。
 こうしてここで、ずっと待っているのだろうか。
 薄闇の中で、座っているのだろうか。
 そう思うと、とてもたまらない気持ちになった。
「寒くないか?」
 ――少し、寒い
 肩に羽織っていたカーディガンを脱いで、『彼』に掛けると、そのまま両手を背に回す。
「おいで」
 犬ころみたいだと思った。両手に抱き締めた体は、しっかり大人の男そのものなのに、『彼』はまだ10歳なのだ。
 何も知らない無垢さが、私のどこかを捉えていく。
 喜んで体を預けているその疑いの無さに、失くしてしまっていた何かの感情を思い出した気がした。
 私は、10歳の『彼』に、恋をする――。
 そんな有りそうもないことが、あってもいいのかも知れない。
 どうせこの世は多くの有り得ないことで成り立っている。
 これもそんなことのひとつではないか。
 『彼』の髪を撫でてやりながら、そんなことを考えていた。


 朝、洗面台の前で擦れ違った。
 タオルで顔を拭いている彼に向けて
「あんなことを言うから、酷い寝不足になりそうだ」
 そう言ったら、こっちを見たまま固まった。
「――今度は何を、言ったんだ?」
 おそるおそる、訊ねる。
 それには答えず、背を向ける。
「おい――」
 その声を後ろに聞きながら、少しだけ、笑った。



15

 キッチンのシンクまわりを掃除してみた。
 もともと掃除は嫌いなほうだったが、ふと、急にそんな気になった。料理をするようになってから、度々使われるキッチンの、いろんなところが急に気になり始めた。なんだか汚れが目に付いて、綺麗にしてみようか、と意外なことを考えた。
 スーパーでキッチン用のクリーナーやらたわしやらいろいろ買い込んでくる。考えれば、今までこういうものが無かったのが不思議だった。必要最小限のものしか揃えていなかった家の中に、どんどんいろんなものが増えていく。人が住んでいる家らしくなっていく。それは、生活臭が増えていくことを意味していた。
 掃除を始めると、意外とこれが大変だった。なかなか取れない油汚れがあって、それを取る事に次第に夢中になった。いろいろと考え事をしながらやっていた掃除が、そのうちにそのことだけに集中するようになった。ほかの事を考えるのを忘れた。
 何かに夢中になったのは、久し振りだった。余計なことを考えないことが、思いの外、気持ちよかった。
 すっかり綺麗になった頃、額に薄っすら汗を掻いていた。達成感に爽快な気分だった。
 ふと気付くと、戸口のところに彼が立っている。
 黙って見ていた。
 少し前に出掛けたようだったが、いつの間に戻って来たのだろう。手にはエコバッグを提げていた。
「買い出し?」
 声を掛けると、うん、と頷いた。それから中へ入って来た。
 私の側を通り過ぎて、冷蔵庫の前へ行くと、開けてエコバッグの中の物を上の段に移し替えている。
 冷蔵庫の上段が彼のスペースで、下段が私のだった。ちなみに、冷凍庫とチルドは適当に真中で分けて使っている。野菜室は彼は使わないので、私が独占していた。
 思えば、冷蔵庫は私と彼の間にある、国境みたいなものだった。互いの接点で、また共有している。いつも何かにつけて、冷蔵庫が私達の間にある。まるで傍観者のようだった。
「そう言えば」
 ふと思い出して、聞いた。
「いつだったか、貼紙をしていた時の、あのマグネットはどうした?」
「マグネット?」
「ほら、クマとウサギの」
 冷蔵庫に入れ終わって、扉を閉め、振り向いた。
「……ああ」
 思い出すのにやや時間をかけて、そして言った。
「部屋にあるけど。何で?欲しいの?」
「うん、いや。冷蔵庫にマグネットって、必需品だろ?買ってもいいんだけど、あるんなら、と思って。何かに使ってるとか?」
 レシピを貼っておくのに丁度欲しいと思っていたところだった。
「別に」
 そう言うと、「じゃあ、後で貼っておく」とエコバッグを手渡しながら、言った。
「記念にあの紙も貼っておこうか?」
 あの紙、と言われて、その意味するところの、あの文句を思い出した。
 今掃除なんてしている自分を生み出すキッカケのひとつになった、あのスーパーの裏紙に書かれた、文句。
「まだ、持ってるのか?」
 ふいをつかれたように、その一瞬素になった自分を悔いた。
「まさか」
 詐欺のような笑いを浮かべて、横を通り過ぎていく。
 一杯食わされた。なんて性悪な奴だろう、心で罵った。
「なんで、掃除なんかしてるの?」
 声に振り向くと、まだ戸口でこちらを見ていた。
 からかっている目ではなかった。
 少し考えてから、答えた。
「冷蔵庫に言われたからだ」
 3秒の沈黙の後、彼は黒目を上に上げた。
「そいつはスゴイ」
 そして戸口から、消えた。


 その日から、あの気の抜けた笑いを浮かべたクマとウサギが、正式に冷蔵庫の住人になった。


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