ギソウ、ケッコン



16

 それから何度か『彼』と会った。
 会う度に、自分の中で何かが変わっていく。はっきり言葉で言い表わせないものが、カタチを変えていく。
 それが何かは自分でもわからなかった。
 けれども、その時間だけは、優しさに満ちていた。
 長い間忘れていた、『優しい』という感情が、確かに私の中にあった。
 『彼』の背を撫でる時、体を抱いてやる時、額に手をやって眠りの中へ再び戻してやる時、昼間の自分には無い、とても愛情に満ちた自分があった。昼間の彼との関係を「共棲」とするならば、夜の『彼』との関係は「共存」と言えるかも知れない。昼間が利益を与え合う関係なら、夜は互いを分かち合う関係だった。
 奇妙としか言いようの無い、一人の人間に対する別々の関係で、今の生活が成り立っている。
 そしてそれは妙に均衡がとれているように思えた。
 少なくとも、私はそう思っていた。
 私にとって、彼らはプラスとマイナスだったから。
「最近、どうもよくわからない」
 自分の部屋で仕事をしていたらしく、黒縁の眼鏡を掛けてリビングに入って来た彼は、ソファにドサリと腰掛けた。
 キッチンで洗い物をしていた私は、水道のカランを押して水を止めたところだった。
 何のことだろうと彼を見ると、太腿の上に肘を乗せ、頬杖を付いて何か考え込んでいる。
 そう言えば、お互いに自分の部屋ではなくて、この場所にいることがここのところ多くなった。リビングダイニングが、まるで寮の休憩室だか談話室のようになっている。
「何が?」
 続きがないので、ようやく聞いてみる。
 考えていた彼がポソっと口を開いた。
「自覚症状が、ない」
 何の事かと思ったが、すぐに思い当たった。
 『彼』のことだった。
「最近、『奴』と会った?」
 何だか変な言い方だった。でも彼は『彼』を知らない。
「一昨日、会った」
 そしてその二日前にも会った、と答えた。ここのところ、二、三日に一度の割合で、会っている。
「頻繁すぎる」
 眼鏡を取って、テーブルに乗せた。手の平で目を擦ると、また頬杖を付いた。
「こんなに頻繁に出たことなんてなかったのに」
 彼にとっては深刻な問題なのだろう。知らないうちに、そんなに頻繁に別の人間になっていたら、それは堪らないだろうと思った。
 けれども私にとっては、今は『彼』は不可欠な要素だった。
 黙っていると、こちらを見た。
「いつもどんな話をしてるんだ?」
 詰問するような口調だった。
 以前、ちらりと『彼』との会話を話したことはあった。
「まだ『奴』は変なことを言ってるのか?好きだとかなんだとか」
 何だかその言葉が引っ掛かった。
「気持ちの悪いことを、言ってるのか?」
 今度は完全に引っ掛かった。
 何故そんなに引っ掛かるのか、わからずに、けれども、その時私は彼に向かって、敢然と、声を強くして言い放った。
「『彼』は変じゃないし、気持ち悪くもない、とてもいい子だ。それに、私も『彼』が大好きだ」
 人を『好き』だと言ったのは、随分長い間覚えがない。
 目を丸くして彼は見ている。そうだろう、当然の反応だ。自分でもこれは革命の一種だと思う。
 けれどもしばらくの後、彼は次に、意外な言葉を口にした。予想外の返事だった。
「なら、『奴』と結婚すればいい」
 笑うでもなく、呆れるでもなく、極めて不機嫌だった。
 他に言いようもなく、また言う気もなく、私は答える。
「もうしてる」
 
なんだろう、この馬鹿馬鹿しいまでの問答は。



17

 『彼』は彼であって、彼ではない。
 私にとってはひとつの入れ物を同じくする、別々の人間だった。
 けれどもその入れ物の、どこまでが彼で、『彼』なのか、などということはよくわからない。
 それでも『彼』は『彼』であり、彼は彼だった。
 背中合わせの彼らは互いを知らない。
 知っているのは、私だけだった。
 いつしか昼と夜の彼らを、私はどこかで線を引いた。
 私と彼が冷蔵庫を半分ずつにするように、線を引いていた。
 そしてそれは決して交わるものではないと、思っていた。

 夜。
 ふと目覚めると、時計を見る。
 電波時計のデジタルの数字は、3時に近かった。
 最近いつもこの時間に、目が覚める。
 そろそろとベッドを抜け出すと、足は自然とドアの外へと向かう。
 徘徊する人のように、夜な夜な自分の部屋を抜け出す自分は、他人から見るときっと異常者に映るだろう。
 それでも確認せずにはいられなかった。
 自分を待っている姿を見ると、堪らない気持ちになる。
 堪らなく、そして愛おしい。
 その気持ちが何かと問われると、形容しようがない。
 ただ愛おしい、それ以外に言いようのない、例えようのない、純粋無垢そのものだった。
 夜の帷の中に、その無垢さは如何にも相応しいように思えた。
 ヒタヒタと床を進むと、リビングのドアが開いている。
 目にした途端、その中の闇までが、愛おしいと思えた。
 足を踏み入れると、ソファに座る人影を求めて、そこへ近付いていく。
 いつも部屋の電気は消えていて、『彼』は闇の中で生息する生き物のようだった。
 辛うじて窓から部屋に入る何かしらの明かりで、『彼』の顔は朧気に見える。
 近付いていくと、それまで俯いていた顔を上げた。
 でもいつものように、笑ってはくれなかった。ただ、私の顔を、じっと見ていた。どこか虚ろな目で、じっと見ていた。
 気になって、「どうしたの?」とそっと聞いてみた。
 それでも、返事がない。
 益々気になって、そしてその目がそうさせたのもあって、いつものように、手を背に回し、その体を抱くと、ゆっくり背を撫でてやる。そうすると、『彼』はいつもとても喜んだ。
 しばらく撫で続けたが、いつものような反応がない。仔犬が甘えるような、無邪気に顔を擦り付けるような反応がない。
 ふと妙に思って、体を離そうとすると、パジャマの背を握る気配がして、瞬時に主導権を奪われた。
 体の間は先程以上に隙間がない。
 そんな力の強さは今までに、覚えのないことだった。
 まるで、大人の男そのものだった。
 そのものの力で抱き締める手の強さに、ようやくその時になって、気付いた。
 間違えたのだ、と。
「なんで」
 口にしながら、体を押し返した。
「なんで、そんな、振りなんか、したんだ」
 手は素直に解けた。
「なんで」
 純粋無垢な夜の帷がその力で壊されていく。
 押し返されたまま、またじっとこちらを見ていた瞳は、静かに言った。
「振りなんか、してない」
 考え事をしていたら、そっちが勝手に間違えたんだろう――、と彼、は言った。
 まだ片腕を掴んだままだった。
 唇を噛み締めたい気分だった。
 こっそり大事にしていた宝石箱を、無情にも開けられた気がした。
「いつも、こんなこと、してるのか?」
 追い討ちをかけるような、静かな言葉がやってきた。
 叱責される子供のように、私は黙った。
 腕を放して欲しかった。捕まった獲物のようで、嫌だった。
「そうだ」
 思い切ったように、私は告げた。
 私達の関係を、彼にはっきり告げておくべきだと思った。例え彼でさえ、それを阻む事は出来ない、そう思った。
 ただ静かに、じっと見ていた。腕を掴む手の指が、僅かにパジャマの上を動いた。
「離して」
 低く言うと、手は命令されたように、すぐスッと腕を離れた。
 無言で背を向けると、戸口へと向かう。
 またヒタヒタと床を歩いて、自分の部屋へと帰って来た。
 ドアを閉めると、しばらくそのまま佇んだ。
 何がどうなって、こうなったのだろう。
 この奇妙な気分は何だろう。
 誰にも秘密にしていた関係を、見つかってしまったような、この気持ちのやるせなさ。
 何より、その相手は本人だった。

 『彼』と彼の間に引かれた線が、その時初めて、不鮮明になった。



18

 仕事から帰ると、家中の電気が消えていた。
 彼はまだ帰っていないのだと思い、部屋で着替えてからキッチンへと向かう。
 今日の朝は顔を合わせなかった。
 一昨夜の出来事から、何となく家の中でも擦れ違っていた。活動する時間帯が違ったりで、結局顔を合わせてはいない。
 キッチンのドアを開けると、電気を点けて、買ってきた食材を台の上に置いた。最近は自炊する回数も随分増えた。比例して、料理のレパートリーもかなり増えた。ただし、腕の程はまだあまり自信があるとは言えない。
 冷蔵庫にマグネットで貼ってある、料理のレシピを見ようと、向きを変えた。そして、足を踏み出そうとした時に、思わず、それを止めた。
 レシピを隠すように、あのクマとウサギのマグネットで、冷蔵庫に白い紙が貼ってあった。それは、使用済みのカレンダーの裏紙だった。
 今度は青いマジックで、文字が書いてあった。
『出張する』
 短いひとことだった。
 上司が部下に連絡するような、極めて端的なひとことだった。
 まるで、それ以外の言葉を必要としない、とでも言うような、ぶった切った字面だった。
 そしてその字面を見ていると、その内にそれは、探さないで下さい、と言う字の意訳のようにも思えた。
 色々な意味合いを含んだような、『出張する』の青い文字を、私はしばらく見つめていた。
 それから料理を作って、食べて、風呂に入った。
 風呂から出ると、冷蔵庫からお茶を出そうとしてそれから急に気が変わって、久々に缶ビールを出して、テレビを見ながら飲んだ。しばらくそうしていたが、テレビを消すと、今度は新聞を読んだ。ゴロンとソファに寝転がると、手足を伸ばして伸びをした。
 なんて静かなんだろう、と思った。
 ひと一人いないだけで、こんなに静かなのだろうか、と思った。
 まるで世界に自分だけしかいないような錯覚をおぼえる、夜。
 一人きりは、そう言えば、久し振りだった。
 彼がいない。
 彼がいない、それは必然的に、『彼』もいない、ということだった。
 二人分の空間があいた家は、なんて広いのだろう。
 こんなに空間があったのだ、と改めて思う。
 彼と『彼』のいない生活が、こうも自分にとって考えられないものだったとは、思いもかけないことだった。
 ひとつのカタチが出来れば、人はいつしかそれに慣れていく。
 そしてそのカタチに安住しているのだと、改めて気付いた。
 見上げる天井がこんなに白い色だったかと思う。
 白い天井に、ふと、今頃『彼』が別の場所で、淋しい思いをしていないだろうか、と思った。
 しばらく、『彼』に会っていなかった。

 それから3日間、彼は帰ってこなかった。
 4日目に、仕事から帰ると、家に明かりが点いていて、風呂からシャワーの音がした。
 部屋で着替えてキッチンへ行くと、テーブルの上に包装された小箱が置いてある。
 見ると、どこぞの温泉饅頭だった。
 見ていると、パジャマ姿で首からタオルを提げた彼がキッチンへ入ってきた。風呂上りの石鹸の匂いがする。
 冷蔵庫へ近付くと、開けて中からペットボトルの水を取った。
 そのまま出て行こうとするのを、後ろから声を掛けた。
「おかえり」
 そんな言葉を使ったのは、思えば、初めてだった。
 少しこちらを見て、うん、と言った。
「これ」
 箱を指差した。
「お土産?」
 またちらりと見て、ああ、と言った。少しくぐもった声だった。
「ありがと」
 返事はせずに、持ったペットボトルを少しだけ、上げた。
 それからキッチンを出ていった。
 広かった家がまた元の大きさに戻った。
 元のカタチに戻った生活の安住に、考え込みながら目を向けた先には、赤い包装紙に包まれた、温泉饅頭の箱があった。



19

 酷く酔っていた。

 ある夜、自分の部屋にいると、玄関の鍵の開く音がして、彼が帰って来たのがわかった。いつもより随分遅い帰宅だった。あまりこんな時間になったことがないので、珍しいなと思った。
 玄関の開く音がしてからしばらくして、ドサリと重いものが落ちるような、妙な物音が廊下に響いた。
 ベッドで雑誌をめくっていた私は、不審に思って、立って行くと、部屋のドアを開いた。
 ひんやりとした暗い廊下の向こう側、数歩離れた彼の部屋の前で、黒い塊が見える。塊りは、壁に寄り掛かって廊下に座り込んでいるようだった。
 廊下の明かりを点けて、側へ歩み寄る。――歩み寄っただけで、すぐにわかった。
 アルコール臭がしていた。
 壁にもたれて座り込んでいる彼が、下から私を見上げた。
 酔ってもあまり顔に出ない体質なのか、顔色に大した変化はなかったが、目がすわっていた。
「酔ってる?」
 声に出して聞いてみた。後から考えれば、酔っている人間に、一番愚かな質問をしたのだと思った。
 返事がなかった。
 相変わらずすわった目で、じっと下から見上げている。
「立てないのか?」
 こんなところに座っていられても困るので、取りあえずまた聞いてみる。
 また返事がない。
 ひょっとして正体を失っているのかと思い、どうしたものかと思った時、ふと手がパジャマの裾を掴んだ。
「あのさあ」
 掴んだ裾をつんつんと引っ張っている。
 普段の淡々とした口調とは違った、何だか甘えた子供のような口調だった。
「前に言ったこと、覚えてる?」
 その口調に、一瞬『彼』かと思いそうになった。
「いくらでもシテくれるって、言ったよねえ」
 にこにこと、すわった目で言うその言葉に、はじめ何の事かと考えて、やっとわかった。
 パジャマを掴んでいた手が思い切りそれを引っ張ったので、思わず床に膝を付いた。
 まずいなと思った。酔っ払いほどタチの悪いものはない。
 あっと思う間にそのまま床に引き倒された。上に乗ってこようとするのを押し返そうとしたが、力で及ばなかった。
 冷たいフローリングの床が背中に痛かった。「痛い、痛い」と口にしながら、しばらく抗っていたが、それもそのうちに段々面倒になって、抗うのをやめた。なすがままにされるように任せた。
 確かにあの時、いくらでもしてやる、とは私が言ったことだった。関係するのはどうせ初めてでもない。でもこんなところでは嫌だな、と頭の片隅のどこかでチラリと思った。それから、今日何日目だったっけ?なんてとても冷静なことも考えた。
 大人しくそんなことを考えている間に、酔っているせいで、パジャマのボタンに手間取っていた彼が、
「『奴』に会いたいか」と急に聞いた。
 ここしばらく、『彼』に会ってはいなかった。
「会いたいんだろう」
 酔っている割には、まともな口調だった。
 黙っていると、じっと窺っているようだった。
 ボタンにもどかしくなったらしく、途中で諦めて、体重を預けて上に乗ってきた。そして耳元に近い場所で、
「後で会わせてやるから、だから――」
 後の方はよく聞こえなかった。
 パジャマの下から突っ込んだ手と、体をしばらく動かしていたと思ったら、しばらくして、急に動かなくなった。
 動きが止まった途端、上から掛かっていた体重が、急に倍くらいになった。
 その圧迫で、窒息しそうになって、肩の辺りにある彼の顔を見ようとすると、スースーという寝息が聞こえてくる。
 人の体の上で正気を失うなんて、なんてこと。
 事の最中に、とか言うことよりも、人の上で正気を失うなんて、サイアクだった。
 全体重を掛ける大の男の重さは尋常では無い。
 窒息しそうになりながら、下でジタバタやっていると、急にまたモソリと体が動いた。
 動いて、ムクリと起き上がった体は、ペタリと後ろに倒れこむように座り込んだ。
 やっと楽になって、仰向けのまま呼吸を繰り返す私の耳に、すすり泣きのような声が聞こえた。
 見ると、彼が泣いている。
 ――ごめんね、ごめんね
 そう繰り返しながら、すすり泣いている。
 ――ごめんね、おねえちゃん
 その声を聞いて、ようやくわかった。『彼』だった。
 いつの間に、こんな芸当を覚えたのだろう。
 床から体を起こすと、背中が痛かった。痛かったし、冷たかった。
 ――ごめんね
 『彼』はその間、ずっと謝り続け、そして泣き続けている。
 体を寄せると、そっと聞いた。
「何で、謝るの?」
 『彼』は顔を上げた。涙で頬が濡れていた。
 ――わからない
 その時、彼と『彼』のことが、少しだけわかった。
 全く別の人格だと思っていた彼らが、繋がっていく。どこかで、何かで、何かによって、繋がっていく。
 ――ごめんね
 ひたすらに謝り続ける『彼』の、両頬を、私の両手が挟んだ。
「お前は謝らなくて、いい」
 額を近づけると、それ同士をくっつけた。しばらく目を閉じてそうしていた。
 ようやく泣き止んだので、顔を離すと、『彼』が聞いた。
 ――なんで、そんなカッコウなの?
 見ると、パジャマのボタンが外れてはだけ、肌が露わになっている。
「お前がやったんだよ」とはさすがに言えず、苦笑いをすると、それを整えた。
「部屋に入ろうな」
 立ち上がって『彼』を起こし、目の前の部屋に誘導する。
 寝かせるためにベッドに入れようとして、服を着替えさせないといけないことに気付いた。そのままの服では寝苦しいだろう。
 パジャマはベッドの上に、キチンと畳んで置いてあった。
 いつも脱いだそのままの私とは大違いだと思った。
 シャツのボタンを外して、着替えを手伝ってやる。何だかさっきとは反対だなと思った。ふと、さっきの床の痛さを思い出した。
 すっかり着替え終えてから、ベッドに入れて、端に腰掛けた。
 額に掛かった髪を指で払いのけてやりながら、そっとそこを撫でた。
 『彼』はじっと見ていた。
「また会える?」
 そう聞くと、うん、と頷いて、目を閉じた。
 『彼』と彼は眠りに落ちた。
 電気を消すと、私は部屋を出て行った。



20

 翌朝、朝食を終えて、コーヒーを飲んでいると、キッチンのドアがゆっくり開いた。
 まだパジャマ姿のままで、昨日の泥酔の君が、戸口に立っている。
 酷く神妙な顔付きをしていた。
 しばらくこちらを見たままで、何も言わなかった。私も何も言わず、コーヒーカップを持ったまま、じっと見返した。
 そのうちに、彼の方が根負けしたように表情が崩れた。
「悪かった」
 酷くバツが悪そうに、そう言った。
「本当に、悪かった」
 呻くようにまた言うと、視線を床に落とした。
 昨日、自分が何をしたのか、途中までは薄っすら覚えている、口ごもるような声だった。
 私はコーヒーをゆっくり一口飲むと、手に持ったカップを机に置いた。
「酒乱なのか?」
 わざと冷めた口調で、ストレートに相手を抉る言葉を投げた。
「いや――」
 言いよどんで、彼の目は床の上をウロウロと、落ち着き無く行ったり来たりしている。
「襲われた挙句に勝手に頓挫されて、それから部屋まで連れて行って着替えさせて、本当に大変だった」
 顛末を大まかに端折って話した。
 『彼』が泣いたことは言わなかった。
「いや、本当に、――ごめん」
 俯いた彼の視線は、今にも床にめり込まんばかりになっているだろう。
 いたぶるのはこれくらいにして、と私は口を開いた。
「駅前の」
 手の指を組んで、その上に顎を乗せる。
「駅前のビルに最近入った、美味しいと評判の、お洒落なフレンチのディナーで手を打とう」
 うっ、と彼が顔を上げた。目と目が合う。
 しばらくの沈黙の後、掠れた声がした。
「――了解」
 苛められた子供のように表情を崩していく彼の顔を眺めた。
「で、いつ?」
 にこりと笑う。
「え」
「いつ?」
「あ――え、金曜、なら」
「金曜、ね」
 メモ用紙を取ってきて、『××日(金) フレンチ、ディナー』とペンで黒々と書くと、それを冷蔵庫に持っていって、クマとウサギのマグネットでペタリと貼り付けた。それから少し離れて、それを満足気に眺める。
 戸口の方を見ると、私の行動を、まだ同じ場所に立ったままで、彼がぼんやりと見ている。
 その方へ歩いていくと、擦れ違いざまに、ポン、と腕を叩いた。
「コーヒー、余ってるから」
 軽い声で言うと、自分の部屋へと向かう。
 
 風変わりな日常の、風変わりな生活。
 風変わりな関係と、風変わりな私達。


 けれども何故だろう。不思議と、それが今は少しだけ、楽しい。


(Stage2 : 終わり)

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