ギソウ、ケッコン (Stage3) 21 面と向かって座るのは、お見合いの席以来だった。 家でそういう位置に座ったことはあっても、まともに向かい合ったという気はしなかった。 机を挟んで真正面、真っ直ぐ視線を向けた先に、スーツ姿の彼が座っている。 金曜の夜、仕事帰りに駅で待ち合わせた私達は、例の約束の、フレンチのディナーにやって来た。 駅前のビルに最近入ったばかりの人気の店は、結構な客の入り具合だったが、「予約をしていた――ですが」と彼が言ったのを聞いて、へえ案外マメなんだな、と思った。おかげで、待たずに席にすんなりと座ることができた。それも、窓際の、通りが見下ろせる、眺めのいい席だった。 席に着いてから、メニューを広げて注文を始めた彼を見ていると、何だか手馴れているように見えた。私がメニューを見ても何だかよくわからない名前が羅列されていて、注文はまかせることにした。ワインなどと洒落たものを飲み慣れていないので、その銘柄となると、もっとわからない。せいぜい「ロマネ・コンティは高いらしい」というあまりにお粗末で乏しい知識しか持ち合わせてはいなかった。けれども彼は、店の人にいくつかの質問をして、メニューのリストを指差して決めている。 そんな様子を黙って観察するように見ていると、注文が終わったらしく、給仕が下がって行った。 「よく来るのか?こういうとこ」 慣れ具合にそんな質問を投げてみる。 「まあ、仕事の付き合いで時々」 高級レストランに付き合いで、とはどんな仕事なのだろうと思った。相変わらず彼の仕事関係についてはよく知らない。 『干渉しない』というのがこの同居生活についての契約事項だった。 最も、どこまでが干渉でどこまでがそうでないのか、今そのラインはあまりに不鮮明で、かなりのブレが生じている。 それが私達の関係を象徴していると言えた。 アペリティフの後に運ばれてきた白ワインを口にすると、仄かに甘くてクセの少ない、飲みやすい味だった。 「一番飲みやすいものを選んだ」と言いながら、彼は如何にもクセのありそうな、赤を飲んでいる。家では飲んでいるのを見たことがないので、少し意外だった。外での彼は、どうやら少し違うものらしい。少なくとも、朝パジャマのまま呆けている彼とは、確かに違うようだった。 料理が運ばれて来ると、その味の上品さと美味しさに、舌鼓を打った。こんなに美味しいものは、今までに食べたことがないと感動すら覚えた。芸術的とも言える料理の数々を、しみじみと味わって食べていると、ふと彼がおもむろに口を開いた。仕事以外で、こうやって誰かと向かい合って食事をしたことが、あまりないのだ、と。 思わず手を止めて、彼を見た。 「小さい頃、両親は共に仕事をしていて」 彼はテーブルに置かれた花を見ながら話した。 「一緒に食事をしたことも、少なかった」 何気ない口調だった。何気ない口調が、かえってしみじみとしていた。そのしみじみとした口調で、「だから、こんな時、何を話していいのか、いつもよくわからない」と言った。ワインのせいか、常よりも素直な言葉つきだった。 止めていた手をまた動かして、口に料理を運ぶ。 「私のウチは雑多だったな」と言った。 「雑多?」 「常に誰かがいて、何だか雑多に食事をしてた。親とか祖父母とかきょうだいとか。バタバタ忙しなく、食事してた記憶しかないな」 そう言うと、彼は「ああ」と言って、微笑した。 「そんな感じがする」 決して褒め言葉とは思えなかったが、別に嫌な感じもしなかった。家とは違った優雅な雰囲気が、ぎくしゃくとしたものを取り除いているせいかもしれなかった。人と話をする時は、その場のコンディションも重要で、それが心境を左右するものなのだと思った。 「別に、いいんじゃないか」 言いながら、目の前の皿を見て、これは何て言う料理だっけ、とさっき給仕係が言った舌のもつれそうな名前を思い出そうとしてみる。けれどもどうしても、思い出せなかった。 「無理に話そうとしなくても、必要があれば相手が話すだろう」 それから急に改まった顔付きになって、私は彼を見る。 「あのさ――」 突然の神妙な態度に、彼も一瞬動作を止めた。 真顔になった私を見つめている。 それを見ながら、私はゆっくりと、口を開いた。 「――この料理、何て名前だっけ?」 必要があって、会話が成立する。 必要が無ければ、そもそも、一緒にいる意味すら無い。 とりあえず、この料理の名前を知るために、今彼が必要なのだということは、違えようの無い事実として明確だった。 『必要』だなどと、大袈裟な言葉が、些細な事柄で立証されるのは、結構新鮮な発見として、その時私の心に残った。 22 翌日、思いついて、昨日御馳走になったお礼に、夕食を振舞うことにした。 元々は罪滅ぼしのためのディナーだったが、あまりの美味しさに感激して、そんな気になった。 もうひとつ、料理を始めて少したって、自分の作ったものを人に食べさせてみたい、という欲求に駆られるようになったことも、大きな要因だった。 以前、私が初めて料理を作った時のトラウマで、以来、彼は一度も私の作ったものを口にしていない。 今日のことを言ってみた時にも、一瞬不安そうな表情を浮かべて、しばらく迷っているようだったが、渋々といった感じで承諾をした。 よほど、あの時のが酷かったのだろう。――確かに、否定はしない。 けれどもあの時よりは、確実に上手くなっているはずで、それを知らしめるためにも、いい機会だと思った。 何より、差し迫った現実問題――義実家を訪ねるということ――を思うと、それは彼にとっても深刻な問題のはずで、彼の言うところの、「怪しまれない程度」に達したのかどうか、見極めるためにも、必要不可欠な行事だと思った。 とにもかくにも、そうしたワケで、我が家で初めて夕餉の会が催されることとなった。 「我が家」などという響きを思った時、それがひとつの固定観念としていつの間にか受け入れていることに気付く。 私と彼と『彼』の生活。そして、その受け皿である、家という場所。 何気ないその響きの中に、不可欠な日常が凝縮されていると思った。 「何気ない」がいつの間にか、そこかしこに染みついている。 生活の臭いと同じだと思った。 さりげない、気付かないほどの、ごく何気ない、日常という臭い。 それは慣れてしまえば、空気と同じだった。 無くなってしまうまで、そこにあることすら気付かないほどの、当たり前に思えるもの。 「大したものはできなかったけど」 何とか一汁三菜のカタチで食事を作り上げた。 昨日のディナーには遠く及ばないが、それでも今出来る力を全て以ってして、作った料理だった。 目の前に並べられたそれらを、彼はしげしげと眺めている。 昨日に引き続き、また机を挟んでの、差し向かいの夕食だった。 見た目が結構まともなそれらを眺めながら、「じゃあ……いただきます」と彼は箸を手にすると、ちょっと躊躇いがちに箸をつける。そして口に運ぶと、食べ始めた。 何か言うかと思って見ていたら、何も言わずに食べている。 美味しいとも不味いとも、言わない。 ただひたすら黙って、食べている。 あまりに何も言わないので、自分も食べ始めた。 特にいい出来と言うわけではなかったが、悪くもなかった。 可もなく不可もなく、と言ったところか。 彼が何も言わないのは、そのせいかと思った。 親が共働きだったから、とその時ふいに彼が口にした。 それは昨日も彼が言っていたことだった。 人の手料理というものをあまり食べた記憶がないのだ、と彼は言った。 「じゃあ、子供の頃は、誰が食事を作ってたんだ?」 「家政婦」 こともなげに、彼は言った。 家政婦が作った食事を、ひとりで食べる彼の姿が、ふと心に思い浮かんだ。 それは何故か、『彼』の姿と重なって行く。 10歳の彼が、ひとり食卓で、家政婦の作った見栄えばかりのいい食事を食べている。 その目はあの死んだ魚のように、空ろだった。 「へえ……」 その映像が心を占めて、言葉が出てこなかった。何かが、胸の奥でキリキリと音を立てた。 そのまま何となく互いに黙ってしまい、ひたすら黙々と箸を運ぶ。 昨日、「別に、いいんじゃないか」と言ったばかりなのに、何となくその雰囲気に耐えかねて、口を開く。 「でもさ、そういうの、作ってくれる人、いたんだろ?」 意味を解しかねたように、彼が私を見た。 「あ、だからさ、大人になってから、って意味だけど」 ちょっと怪訝な顔付きになった彼を見ながら、また「干渉はしないはずだ」とでも言われるのかと思った。 けれども、ふいと視線を逸らせた彼は、ぼそりと答えた。 「そういう付き合い方は、してなかったから」 また黙々と食べている。 そういう付き合い方って、……なら、一体彼は今までの女性と、どんな付き合い方をしていたのだろう。毎回、昨日のような高級レストランででも、食事をしていたというのだろうか。 そんなことを考えていると、「そっちは?」と声がした。 視線を上げると、目が合った。 「そっちは、じゃあ、どうだったんだ?」 いつもの淡々とした口調で、けれども顔は笑ってはいなかった。 「え」 「こういうの、いつも作ったりとか、してたワケ?」 「え」 思わぬ方向からタマが飛んできた。直球だった。 箸を止めて、うかっと彼の顔を見た。全く予想だにしなかった返球だった。 軽く5秒はうかっとしていたと思う。 それからついと視線を逸らすと、目の前の食事に視線を落とした。 「そういう付き合い方は、してなかったから」 ぼそりと答える。 思わぬ返り討ちに遭った気分だった。 答えようのない質問に、思わず口を噤む。 そんな私を、しばらく見ていた。 それから互いに妙に押し黙ったまま、ひたすら食事を続けた。 しばらくすると、彼は茶碗の上に箸を置いた。 見ると、汁の一滴も、ご飯の一粒も、残ってはいなかった。 どの皿も皆、綺麗にたいらげられていた。 ごちそうさま、とひとこと口にした。 それから席を立つと、キッチンを後にした。 去り際に、小さく、旨かった、と聞こえた時、きっと誰かにそんなことを、今まで言うことの無かった彼の、それが、多分きっと精一杯なのだろうと、閉じられたドアを見ながら、そう、思った。 23 提案をした。 これから週に2度ほど、夕餉の会を開いてはどうか、と。 平たく言えば、「一緒に晩ご飯どう?」ということなのだけれど。 実は、一食分だけ作るには、食材の分量が中途半端すぎて、いつも多めに出来てしまったり、残りの食材を保存しなければならなかったりで、不都合なことが多かった。だから、それが二食分となると、いろいろ都合のいいことも多いし、経済的でもある。食材によっては、量の多いもののほうが、割安になることがあるからだった。 材料費は、必要最低限の費用から出す、ということにして、家賃や新聞と同じ扱いにする。その為に、月々互いが支払っている必要経費の負担が、少しばかり増えることになるけれど、個人的な収支はあまり変わらないはずだった。 彼にとっても、出来のほどは別にして、出来合いのものを食べるよりは体に優しいはずだし、何より、自分にとっても、作ったものを「食べる人間がいる」ということは、張り合いが出るとあって、まさに、一石二鳥じゃないか、と思ったからだった。 それからもうひとつ。 この間ふと心に浮かび上がった映像が、ずっと頭から離れない、というひそやかなワケもあった。 10歳の『彼』が、ひとりで淋しげに食事をしている姿が、どうしても頭から離れない。 家政婦の作った、義務的な食事を、あの目で見つめながら食べている姿が、どうしても離れなかった。 それ故に、何故か彼に食事を施すことで、私は心のそれを埋めようとしていた。 例え自己満足であったとしても、何故か、そうせずにはいられない、何かがあった。 提案の話をした時、彼はしばらく目を瞬いて、 「別に、いいけど」と少し驚いたような顔をした。 もっと考えるのかと思っていたら、意外にあっさり返事をした。 この間の食事が、そう悪い印象ではなかったのかな、と思った。 「あ、嫌いなものって、ある?」 念の為に聞いておく。 ××、と彼はひとつだけ、食材の名前を口にした。 へえ、案外好き嫌いがあまり無いんだな、と思った。 「××は」 と彼は急に顔を顰めた。 「昔、家政婦に無理矢理口に押し込まれて以来、口にしたことがない」 私は次の言葉を失って、彼の顔を見た。 その日の夜、久々に、『彼』に会った。 会ったのは、あの泣いた夜以来だった。 春にしては暑い夜の寝苦しさに、お茶を飲もうとキッチンへ向かうと、リビングのドアが開いていた。 ああ、と思った。 久し振りに会うことに、じわりと咽るような、焦燥感を覚えた。それは懐かしさにも似た、妙な心のはやりだった。 いつもの場所に、いつものように『彼』は座っていた。 私を見ると、あどけなく笑った。 そのあどけなさというものが、ここしばらくは昼間の彼としてばかり接してきた姿と相まって、何故かとても切なく映った。 胸苦しい、悲しい何かが心に湧き起こった。 それでも笑みを湛えて側へ行くと、嬉しそうに話しかけた。 ――なんだか今日は気分がいいんだ 本当に嬉しそうだった。 「どうして?」 訊ねると、首を少し傾げてみせた。 ――なんでかな、わかんないや 子供っぽい口調でそう答えると、また笑った。 楽しそうな笑顔だった。 ――ねえ 言いながら腕を引っ張るので、またいつものように甘えたいのだと思い、体を寄せると、急に顔が近付いた。 何かが、頬に触れる気配がした。 ほんのわずかに、唇の先が頬に触れるだけの、それは軽いキスだった。 けれども、その瞬間に、体は石になったように、動かなくなってしまった。 唇を離してからも、まるで楽しそうに、嬉しそうに、『彼』は笑っている。 その笑顔が恨めしいくらい、どうしようもなく動転して、狼狽している自分が、まるで情けなくなった。 少女の昔に戻ったような気分だった。 ――なんでかな、そうしたいと、思ったんだ 目の前のあどけない笑顔を、そんな思いで見つめているなどとは知りもせず、また『彼』はそう言うと、甘えるように、無垢な瞳を向けた。 洗面所で顔を洗っている彼の後姿を、戸口にもたれて見ていた。 いつものグレーのパジャマだった。 それは昨夜、『彼』が着ていたものだった。 洗い終えて、顔を上げた彼と、鏡越しに目が合った。 タオルで顔を拭きながら、振り返った。 「何?」 まるで恨めしい顔付きで、じっと見ている私に、不思議そうな目を向けた。 「――何でもない」 全く何でもなくはない、という、余韻たっぷりの響きを残しながら、呆気にとられたような彼を残し、怒ったように身を翻して、その場を去った。 頬には、あの柔らかくも、むず痒いような感触が、消えずにまだ残っていた。 24 「あんた達ってさあ……」 話を聞いていた友人は、溜息まじりに口にした。 「それでもまだ、偽装、なワケ?」 休日の昼下がり。久々に友人と、いつものオープンカフェでお茶をする。 まだ初夏にも早い季節のはずなのに、陽射しは結構きつかった。日除けのパラソルの影に、ひっそり逃げ込むように、客達は身を寄せ合って、お茶を楽しんでいる。そこまでして外でお茶を飲む、というもの変なものだと思った。 「怒らないでよね」 そう言いながら、彼女はアイスティーのストローをグルグルとかきまわした。 人に何か言うときの、彼女の癖だった。この間の時は、コーヒーカップの中で、スプーンをグルグルやっていた。 「あたしから見たら、あんた達ってさ、結構な割合で、偽装じゃない夫婦に見えるんだけど」 他の客にやっていた目を彼女に戻した。 いつもの半ば呆れたような目が、こちらに向かって注がれている。 こんな親友を持った彼女に同情すると同時に、それでも見捨てもせず、呆れながらも付き合ってくれるその根気の良さと寛大さに、拍手を送りたい気分だった。本当に、いい友人を持ったものだ、と思った。 「あんたって素直じゃないから」 親友だけに、言葉にも遠慮が無い、と今もって再確認する。 「認められない気持ちもわかるんだけど」 手元をグルグルとやりながら、彼女は更に無遠慮な言葉を積み重ねた。 ひたすら黙ってそれを聞いている私の目の前のアイスコーヒーのグラスから、汗のような水滴が滴っているのを時々目に映す。 彼女に話したのは、彼のことだけで、『彼』については、何も触れていなかった。 それは彼に対する気遣いというよりも、ただ私だけの秘密にしておきたいと言う、ひそやかな欲望のためだった。 『彼』を誰にも触れさせず、独り占めしたいという、明からに子供じみた願望だった。 そんなことを知りもせず、目の前の親友は、心から案じるような目で、こちらの様子を窺っている。 今まで全てを打ち明けてきた彼女にも、ついに話すことのできない秘密が生まれてしまった、というワケだ。 「あのさあ」 黙っている私の反応をどう取ったのか、話の矛先を変えるように、彼女は声の調子を変えた。 「ところで前にあたしが言ったこと、ちゃんと実行してる?」 目を上げると、小首を傾げているその姿が、何だか子供を諭しているようだった。 一瞬、何だっけ、と考えて、ようやく思い出した。 ああ、あのことか。 「してない」 にわかに、顔が険しくなった。 「え、してないって、あんた――」 「違う、そうじゃない」 静かに、落ち着いた声で制した。 「そういうことを、しばらくずっとしてない」 「え!?してないって、してないの!?」 本当に目を丸くしている。 一体、どっちが、どうなんだ。 してもしてなくても、結局反応は同じじゃないか。 「なんで!?」 ――そう聞かれても。 「生理的欲求の比重が、食欲の方に移ったからじゃないのか」 仕方なく、そう答える。 気が抜けたような顔から次第に仏頂面になりながら、椅子の背凭れに深く沈んでいく友人の腕の中では、幼子がすやすやと気持ち良さげに眠りを貪っている。 「あんた達って……」 仏の顔も三度まで。まさに、そんな口調だった。 「――よくわかんない」 ついに投げられた匙に、私はアイスコーヒーのグラスを持ち上げると、ストローに口をつけて勢いよく吸った。 口の中一杯に、コーヒーの香りが広がって行く。 世の中全てが説明のつくことばかりだったらば。 どんなにかわかりやすい世界だったろう。 そんな言い訳にもならない言葉をコーヒーと一緒に飲み込みながら、影の移動した足元に目を落とす。 意外にもその次にふと考えたことは、「明日のご飯何にしようか?」なんて、まるで暢気で、その場の空気にそぐわない、所帯じみた、日常だった。 25 近頃冷蔵庫の中に、覚えのない食材が増えている。 それは生鮮食品であったり、加工食品であったり、その時によって様々だった。 野菜は野菜室に、それ以外の食材は、冷蔵庫の下段の私のスペースに、きちんと分類されて置かれている。 どうやら彼が、自分の食べたい食材を、買ってきているものらしい。暗黙のうちのリクエストというわけだ。 私はそれを目にする度に、その食材を使った料理を考え出さなければならない。 これを使って作れるものって、何だっけ。 冷蔵庫の前で、しばし考え込む。 何だか課題を与えられる生徒のような気になった。 定期的に行われる、これは検定試験なのではないか。 例え食事が自分から提案したことであっても、こんな課題を与えられることに、はじめのうちはいささか腹も立った。 好きに出来ると思っていたことが、思わぬ障害に遭遇して、ことの甘さを思い知った気分だった。 そうか、考えが安易で甘かったのか、私は。 彼という人間を、一時のセンチメンタリズムで、見誤ってしまった。 きっとこれは試されているのに違いない。どの程度のレベルに達しているのか、見定めようという腹積もりなのかもしれない。 そんな疑心暗鬼に駆られながらも、与えられた課題を黙々とこなしていく。 元来の負けず嫌いがそんな時に発揮されて、課題の作品は大抵結構まともなカタチになった。 それでも時々、味付けについて一言二言、向こうから意見があったりで、そんな時は補修として後日再び挑んでみた。大抵は、合格だった。 総合評価が悪くない時は、彼は何も言わなかった。ただ、黙々と食べた。 あまり芳しくない時も、残すことは決してしなかった。綺麗に全部平らげた。 それがまた次に挑戦することへの意欲へと繋がった。 そんなまるでコーチと生徒のような、ある種熱いスポーツマンガにも似たひそやかな闘いが続いた、ある日。 冷蔵庫の野菜室に、苦瓜が入っていた。 一瞬、う、となった。 苦手とするもののひとつだった。 あの苦味が、なんとも言えず好きになれなかった。 しばらくそれを眺めていた。 けれども、ここで引くわけにはいかなかった。何とかこの課題をクリアしなければ、そう思った。 考えた末に、一番一般的に知られた料理法に処すことにした。 苦味を抜くための方法を、インターネットで調べて、最も効果的と思えるものにしてみる。そうでないと、自分がまず食べられなかった。 試行錯誤の結果、何とかこれも程々に、まずまずのカタチにすることができた。試食の結果、苦味もあまり強くはなかった。様々な知恵があるものだと、酷く感心する。全く、料理は奥が深い。 彼はひとくち口にして、その後何も言わずに食べ始めた。 どうやら合格だったようだとホッとする。 それから私は口を開いた。今後のために、コーチに願い出ようと思うことがあったからだった。 「あのさ」 彼は食べながら、目を向ける。 「苦瓜は、ちょっと苦手だから、品目から外してもらってもいいか?」 『課題の品目から』と言うべきだったかと思う。 すると、彼は「あ」と言って、食べるのをやめた。 「嫌いだったのか。悪かった」 「いや別に、食べて食べられないこともないんだけど。苦味がちょっと」 「そうか」 そう言って彼は苦瓜を見た。 「いや、つい――」 ゆっくりと言葉を吐いた。 この頃スーパーへ行くと、目に付いたものを買ってしまうようになった、自分ではどうにもできないから、とりあえず冷蔵庫に入れておいた、と。 今度は私が「え」と言って食べるのをやめる番だった。 「迷惑なら、もうやめるけど」そう言う彼の顔を、たっぷり数秒は見ていただろう。 「あ、いや」 慌てて取り繕う。 「いいんだ、別に。練習にもなるし、結構楽しいし」 「そうか」 それから何となく空気が軽くなったように、食材についての話題が始まった。今は何が旬で何が安くて美味しいか。 意外に、彼も食材をよく見ているのだと思った。家で食べる機会が増えてから、スーパーでいろいろと見ているらしい。さすがは研究にたずさわる人間だと思った。 最も、何を研究しているのかいまだよくわからないけれど。 それにしても。 今度は一体何が冷蔵庫に入っているのだろう、と思うと、今までとはまた違う緊張感がわいてきた。 コーチと生徒の関係は崩れたけれど、彼の飽くなき探究心の前に、受けて立つ私の負けん気が、メラメラと燃えている。 『私達の関係は、偽装という名の目的のもとに、共闘する同士だ』 そんな言葉をかの親友にメールしてみようかと思う。 『――よくわかんない』 またげんなりした表情で、それを見ている友人の顔が容易に想像できた。 そんな半端な距離でいることが、私と彼とが、互いに何より平穏で安らかでいられることだと、とりあえず今は、そう、思っていた。 →26話〜30話へ |