ギソウ、ケッコン



26

「あれ、先輩」
 仕事帰りの電車の中で、後ろから声を掛けられた。
 振り向くと、隣の課の後輩が立っていた。
 彼は二歳年下で、入社した時分に私の所属する課に配属されたが、一年後に配置換えで別の課に移っていった。入って間もない頃、私が仕事の基本を手取り足取り教えたこともあって、いまだによく声を掛けてくる。妙に懐かれている、といったところだった。
 新入社員の頃はまだ右も左もわからないヒヨッコだったのに、この頃は、一人前の顔になりつつある。子供っぽさが抜けて、ようやく引き締まった顔になってきた、というところか。
「奇遇ですね、こんなところで」
 途端に、破顔した。
 引き締まったはずだった顔が、その瞬間に、元の子供っぽさを取り戻す。
 喋りながら、後方から隣の吊革へと移ってきた。
「今帰りですか?」
 そう言うので頷いた。
「久し振りですよね。先輩、結婚しちゃってから、あんまり電車でも会わなくなったし」
 少し口を尖らすようにそう言った。
 いろいろと生活のリズムが変わったので、その分私の行動する時間帯も変わったのだった。それは自分的には「結婚したから」、というよりは、むしろ「生活スタイルが変わったから」と言った方が良かったが、けれども、結果的に考えると、やはりそれは「結婚したから」、になるのかも知れない、と思った。
「仕事、どう?」
「うーん、まあ……」
 そんな話をつらつらといくらかした後、ふと彼が急に口を開いた。
「それにしても、先輩が急に結婚した時、俺、ショックだったなあ」
「なんで?」
 そう言うと、吊革に両手でつかまったまま、彼はこちらを見た。
「だって俺、先輩に憧れてたんですよ」
「嘘ばっかり」
「ほんとですって」
「いいよ別に」
「ほんとですってば」
 そんなじゃれ合いじみた遣り取りをしていると、電車は最寄り駅に着いた。私はこの駅で改札を出るけれど、彼はここで違う方面に乗り換える。一緒に電車を降りて、人波に紛れながらホームを歩いた。
「何で信じないかなあ」
 そんなことを、まだブツクサと言っている。折角、一人前になったと思っていたのに、そう言う表情はまだ子供っぽさがどこか消えていない。
「あ」
 急に私が言ったので、彼がこちらを見た。そして、私の視線の先を見て、足を止めた。少し前に、私も足を止めている。
 すぐ近くに、彼がいた。彼、即ち、私がいうところの、「夫」である、彼がいた。
 彼もこちらに気付いた様子で、すぐ近くに立ち止まっている。どうやら、同じ電車だったらしい。
 後輩はしばらく立ち止まって彼と私を見ていたが、すぐに察したらしく、彼に向かって軽く会釈をした。彼もそれを見て、会釈を返す。
「じゃ、先輩」
 そう言うと、軽く、ポン、と私の腕を叩いた。
「うん、じゃあ」
 私もそう返して軽く手を上げた。そして遠ざかっていく後輩の後姿を見ながら、いつにも増して、馴れ馴れしいような今の態度に、ふと違和感を覚えた。
 あんなこと、するヤツだったっけ?
 ――何で信じないかなあ
 さっきの、そんな言葉を思い出して、思わず考え込む。
 まさか、ね。
 それから思い出したように振り返ると、彼がまだそこに立っていた。
 何となく無言で見合った後、私から近付いた。既にホームの上は人の流れが去った後で、周りにいる人はまばらだった。
「同じ電車だったんだ」
 そう声を掛けると、「ああ」、と彼は頷く。
 促して、階段の方へと向かいながら、「後輩とたまたま一緒になってさ」と説明した。別に聞かれてもいないのに、何となく、説明していた。
 彼のほうも、「ああ、そう」と言ったきりだった。
 それから並んで階段を降りた。
 改札を抜けて外に出たところで、私は彼の方へ向き直った。
「あのさ」
 彼も立ち止まる。
 何を改まって、と言いたげな目付きだった。
「スーパーに寄ってくんだけど」
 どうかな。どう言うかな。
 そう思いつつ、聞いてみる。
「一緒に、行くか?」
 少し間があった。
「いいけど」
 取り立ててなんてことはない、というような、それはさり気ない返事だった。
 けれども、その内容は、決してなんてことはない、というようなことではなかった。
 自発的に、『どこかへ行こう』と誘ったことも初めてならば、それに対して『諾』と答えたことも初めてだった。
 たかがスーパーに寄ることが、そんな意味を持つのも、人から見れば滑稽かもしれない。
 それでも、まるで『はじめてのおつかい』に出る子供のように、私と彼の足取りは、ぎこちなく、夜の街へと向かっていく。
「今日は××が安いんだ」
 そんな会話が、いつしか、自然と口から零れていた。



27

 懸案事項だった『差し迫った現実問題』がついにリアルになった。
 引き伸ばす口実も底を尽き、「じゃあ今度の休みに待ってるわ」と有無を言わさぬ口調で母親が電話を切ったと彼が携帯を握り締めて重い表情で部屋を訪れたのは、つい先日のことだった。
 ついにきたか、と待機していた兵が戦闘態勢に入るように、身構えた。
 ついに、きたるべき時が、きたのだ。
 目下のところ、最大にして最強のイベントが発生。『姑と一緒にキッチンに立つ』、と言う、ステージ最大の難関が、目前に迫っていた。
 幸い、というか、何とか、というか、まだまだ未熟ながら、キッチンに立ってカタチになる程度にはレベルを上げている。「包丁の握り方もましてや切り方なんてサッパリわかりません」的な、目も当てられない危機的情況は脱した。「これ、××切りしてちょうだい」とか言われたら、まだ咄嗟にうろたえる事はあるだろうけれど、そこはまだまだ経験の浅さ、という『ご愛嬌』たる武器を振りかざして、逃げ切る算段だ。なんせ私と彼が、初めてパーティーを組んで闘うイベントだった。レベルの未熟さで言えば、敵が強すぎる。まともに闘うよりも、様子を見て逃亡を謀る、ということも考慮に入れなければならない。
 ――の、はず、だった。
 のに。


 前夜、あれだけ作戦を練ったにも関わらず、いざ敵地に赴いてみると、
「さ、座ってちょうだいね」
 何だか風向きが違う。
 テーブルの上には、すでに出来上がった料理の品々が、並べられてあった。
「この子の好きなものばっかりなのよ」
 義母はにこやかに、そして得意気に微笑んでいる。
 手元を離れた息子に、久々に自分が作った好物を振舞うことの、満足感に溢れた気持ちなどというものは、私にとってはまるで計算外であって、そこに予想していた対戦というべき雰囲気が、微塵も感じられないことに、拍子抜けしたような脱力感を感じた。
 なんだったんだ、いったい。
 それまで最高潮に達していた緊張感が一気に崩壊していくと同時に、極度の疲労感に襲われて、なんだか気分が悪くなった。途端に、胃のあたりがムカムカしてくる。
「たくさん食べてね」
 相変わらずにこやかな義母のすすめるままに、はじめは頑張って料理を口に運んでいたものの、すぐに胃が拒否をし始める。黙々と食べている彼の隣で、義両親が一方的に喋っているのを聞きながら、いつしか止まってしまった私の手を見て、
「あら、もっと食べてね」と、にこりと義母が微笑んだので
「あ、すみません、ちょっと最近胃の調子が……」
 適当に思わずそう言ってから、ふと、何だか急に空気が妙だなと感じて義両親を見ると、二人とも口をつぐんでじっとこちらを見ている。
 あれ、私、何か変なこと、言ったっけ?
 そう思ってから、ようやく、気付いた。
 とても誤解を招くようなことを、ひょっとして、口にしてしまったのではないか、ということを。
「あら、そうだったの」
 最上級のにこやかさで、義母は答える。その隣で、同じように義父もにこやかになっている。
 ――いや、あの――
 言葉にならない言葉を心で繰り返しながら、ふと隣を見ると、そんな二人を手を止めて彼が見ている。そして、次に、私を見た。
 ――いやだから、――
 目で訴えようとしたけれど、「じゃああとで、何かフルーツでも剥きましょうね」という義母の明るい声に遮られた。
 それから妙にテンションの高くなった義両親を相手に、
 ――いや、あの、違うんです、義父さん義母さん――
 と心で繰り返すものの、何故かそれ以上突っ込んで聞いてこないせいで、こちらから言い出すことも出来ない。
 結局、そんな大きな誤解を孕んで妙にテンションの上がりきったイベントは、わけのわからないうちに、終了となった。
 初の戦闘となるはずが、戦闘どころか、まったく予期しなかった展開に、予想外に窮地に陥った、という気分だった。
 どっと疲労が押し寄せて、更に胃が悲鳴を上げている。


 帰りの車の中で、それまで黙っていた彼が口を開いた。
 余談ながら、彼の車に乗ったのは、見合いの時と、引っ越してきた時と、数えてこれが三度目だった。
「ひとつ、聞くけど」
 酷く改まった口調だった。
「『奴』とは、その後、その、どういう――」
 どういう――、何?
「つまり、もしかして、それ以上の、関係に――」
 何を言おうとしているのか理解した。
 ああ、ブルータス、お前もか、とかの有名な古典劇の台詞を吐きそうになった。
 彼も私に大きな疑惑を抱くが故に、そのひとつの可能性として、『彼』に行き当たったのだ、と。
 そして、もし『彼』であるならば、それはひいては、自分だ、ということになる。
「なってない」
 ひとこと、そう返した。胃のムカムカも手伝って、何だか怒ったような口調になっていた。
「この間、一緒にいた後輩は?」
 は?
「付き合ってる、とか?」
 なんで、そうなるんだ。
「あれは、ただの、後輩」
 益々面白く無い口調で答える。
 そんなわけないだろう。
「ふうん」
 納得したのかしないのか、しばらくしてからそう言って、彼は黙った。
 『違うから』そうひとこと言えばいいのかも知れないが、何故言い訳めいたことをしなければならないのか、考えると胃と同じく、ムカムカしたものが底から上がってくる。
 何だか夫に浮気を咎められている妻のような気さえする。
 『違うから、妊娠なんて、してないから』
 今日何度も心の中で繰り返された言葉の馬鹿馬鹿しさに、げんなりする。
 だいたい、可能性があるとしたら、まずお前だろう、などということは絶対に、口にしない。
 
 最も、ちゃんと月のものは、毎月判で押したようにきているけれど。



28

 冷蔵庫に残っている野菜を片付けなければ、と思った。
 野菜室を開けると、ゴロンと横たわっている、キャベツが目に付いた。
 このキャベツというのは、ついいつもひと玉買ってから、長い間冷蔵庫に転がっていることが多い。そんなに大量に一度に食す機会でもなければ、調理の頻度が限られている我が家では、居残っている確率が高かった。新聞紙に包んで入れてはあっても、そう長い間放っておくわけにもいかないので、結局、一時にキャベツ大処分のメニューが食卓に上る事になる。キャベツの千切りが何よりこの世の好物、という人間でもいれば別だろうが、生憎、私もおそらく彼も、そうそう皿一杯の千切りばかりを食べたいとは思わない。
 キャベツを見ていたら、ふと、先日の義母の言葉を思い出した。
『この子の好きなものばっかりなのよ』
 そう言えば、あの食卓にはロールキャベツが乗っていた。
 ふうん、と考える。
 ロールキャベツはまだ、作った事がない。
 早速、レシピをネットで調べてみると、トマトのピューレで煮込んだものが美味しそうだった。
 先日義母の作ったものはコンソメ味だったので、トマト味のほうを作ってみることに決めた。トマト味のものは、まだ食したことがなかった。食べたことのないものを作るのは、何だか楽しい。どんな味になるのかと、想像しながら作るのも、また料理の楽しみ方のひとつだと思う。
 スーパーで、足りない食材を買ってきた。材料の選び方も、大分慣れた。そう言えば、前に、彼と一緒にスーパーへ行った時に、まじまじと産地の違う同じ野菜を見比べていたのを見て、可笑しくなったのを思い出した。一体、何を思ってそんなに真剣に見比べていたのか。もしかしたら、【産地に於ける野菜の特質とその違いについて】、とか言う論文でも書く気だったのか、などと思った。それほど、真剣に見ていた。客観的に彼と言う人間を観察してみると、案外、面白いかもしれない、ということに気付く。今までは、そんな観察可能な距離に、互いの姿がなかった。
 スーパーから帰って、料理を開始する。残っているキャベツを全部剥いて、茹でて冷ましているところへ、出掛けていた彼が外から帰ってきた。そして飲み物でも求めてキッチンへとやって来たのだろう彼は、広げて冷ましてあるキャベツを目撃する。
「あ、今日、ロールキャベツだから」
 そう伝達すると、一瞬こちらを見た。そして、もう一度キャベツに目をやった時、ある事に気付いたようだった。
「何で、トマトピューレ?」
 目敏い。
 隣に置いてあったトマトピューレを見つけていた。
「トマト味にすることにした」そう言うと、少し怪訝そうな表情をした。
 何で、そんなもの、という顔だった。
 彼もトマト味はまだ未体験らしい。
 その表情の物語るところを気付かない素振りで、調理を先へと進めて行く。相変わらずトマトピューレと睨めっこを続ける彼の、「お前は何のためにここにいるんだ」という、無言の問い掛けは、見て見ない振りを決め込んだ。
 やがて、ダイニングテーブルの上に、赤いトマト色に染まったロールキャベツが登場することになる。
 スープまで濃厚なトマト色だった。見事に、赤い、トマトの色。何だったっけ、リコピンとかルチンとかいう、今流行りのユルキャラみたいな名前の栄養素が多く含まれている、とか何とか、云々。
 そんな色をうっとりと見ていたら、向かい側では、「何でこんな変な色に染まってるんだ」と、まるで仇を見るような目付きで見ている人がいる。そんな絶望視するほど、この料理が好きだったのかと思った。
 私が食べ始めたのを見て、彼も箸を持った。
 持ったまま、まだ見慣れない色のそれを見ている。
 なんだこれ、結構いけるんじゃないか?スタンダードなのもいいけど、こっちもそれなりに、なかなかいい感じだぞ――そんな自画自賛に浸っている間、彼もやっと、恐々ひとくち口にした。
「あ」
 小さな声が漏れた。
「あれ、意外と」
 驚嘆の声は続く。
「悪くない」
 意表を衝かれた声の主は、それきり黙って、ひたすら赤い物体に夢中になった。租借して、飲み込むと、また次の切れ端を口に運んでもぐもぐやっている。
 しばらく自分が食べるのも忘れて、その様子を観察した。人が食べる様子というものは、見ていて面白い。そこに、いろんなものが凝縮されているように思う。
 おそらく、今まで見た中で、一番美味しそうに食べている。
 皿の中がカラになった時、用意してあった言葉を一応言ってみる。
「まだ、あるけど」
 無言で、皿は差し出された。
 その皿を受け取りながら、考える。
 トマト味のロールキャベツと、それを食べる彼と、おかわりの皿。
 見慣れたものが、違って見えるのは、トマト色のせいかもしれない。
 今までとほんの少し違う何かを受け入れて、少しずつ何かが変わって行く。
 コンソメがトマトになったことを受け入れるように、変わらないと思っていたものが、カタチを変えていく、そんな事象が、気付かないだけで、実は日常のそこかしこにある。
 観察するようになって、そんなことに気付いた。
 皿に再び盛った赤いロールキャベツを見ながら、そう、思った。



29

 目が覚めると、暗闇の中に、人影が見えた。
 それはベッドの端に腰掛けて、宙の闇を見つめている。
 はじめはその姿にギョッとしたが、それがすぐに『彼』であることがわかった。彼、は、こんな時間に、こんなことは、きっとしない。
 初めて自分からこの部屋に訪れて、寝ている私の側にひっそりと座っている。
 その姿に、何とも言いようのない思いが込み上げた。
 『彼』に会うのは、本当に久し振りだった。
 この頃ではその間隔が、段々と大きくなっていて、そしてその意味に、私は、少しずつ、何となく、気付き始めていた。
 『彼』のことが、少しだけ、次第にわかるようになっていた。
「いつからそこにいたの?」
 声を掛けて体を起こすと、こちらを見た。
 ――すこし、前から
 そう言って、微笑した。
 私は膝を立ててその上に頬杖を付くと、『彼』を見た。
「何を考えてた?」
 私の側で、闇を見ながら何を思っていたのだろう。そう思った。
 ――うん、いろいろ
 『彼』は少し首を傾げてみせる。
 ――最近眠っている時間が長いんだ
 それは、彼、が彼でいる時間のことを指すのだろう。その間、『彼』は眠っていることになる。
 ――でも前みたいに、淋しくはないんだよ、楽しいんだ
「眠ってる間も?」
 そんな質問を投げてみると、『彼』は、うん、と無邪気に首を縦に振った。
 その返事に、私は手を伸ばして、『彼』の頭をゆっくりと撫でてやる。
 嬉しそうに、笑った。
「食べ物は、何が好き?」
 また、そんな質問を投げてみる。
 ――ロールキャベツ
 すぐそう答えると、にこにこと笑った。
「へえ」
 ――この間、ロールキャベツを食べる夢を見たよ。トマト味だった
「そう」
 微笑を浮かべて聞いてみる。
「美味しかった?」
 ――うん、とっても
 嬉しそうなその笑顔に、もう一度、ゆっくりと頭を撫でた。以前していたように、もう抱き寄せたりはしなかったが、『彼』はその手に嬉しそうに身を委ねている。しばらく撫でた後で、とても自分が言うとは思えない言葉を、口にした。
「一緒に、ここで、寝るか?」
 『彼』の目が一瞬、瞬いた。
 ――いいの?
「うん」
 布団を捲ってやる。
 中身は10歳だとしても、体は大人の男そのものだ。その体を自分のベッドに引き入れるのは、何とも妙で、自分の行動を疑いたくなるばかりだったが、何故だか今は、そうしたい、と思った。
 喜んで体を隣に横たえてくる『彼』のためにスペースを空けてやりながら、幼子を寝かしつけるように、肘枕をして体を『彼』の方に傾けた。
 ――何かおはなしして
 天井を見ながら楽しそうに笑った。
「おはなし?えっと、どんな?」
 ――おねえちゃんのこと
 私のこと?
「なんで?」
 ――知りたいから
 知りたいから――そのひとことが、次の言葉を押し留めた。
 しばらく静かに『彼』の顔を見たあとで、ゆっくりと、口にする。
「何を、話せばいい?」
 ――なんでも
 緩やかに笑顔を返すと、考えたあとで、いくつか話をした。家族の話、学生時代の話、友人の話、他愛の無い話しばかりだった。
 そのうちに黙ってしばらく聞いていた彼の口から、やがて、眠そうな声がした。
 またしばらく眠るよ、多分、今度も長い――
 最後のほうは消え入りそうだった。
 そして、『彼』はまた眠りについた。
 その顔を見ていた私も、しばらくして、深い眠りについた。

 翌朝。
 目を覚ますと、私よりも僅かに早く目覚めたと思われる彼の、目を見開いたばかりの顔が、すぐ間近にあって、そう言えば、彼の顔をこんなに間近に見たのは初めてだなどと、暢気にそう思いながら、さて、この事態をどう説明したものか、と、まだ眠い頭の中で掻き回しながら、再び、眠りに落ちて行きそうだった。



30

 結局、それからしばらくして、もそもそと起き出した私達は、それぞれの部屋で着替えてから、とりあえず朝食を摂ることにした。
 情況が読み取れずにひたすら目を瞬いている彼には、「後で説明するから」とだけ告げて、ものを言う間も与えず部屋から退去させる。考えれば、自分からベッドに引き入れておいて、さっさと追い出しているわけだから、彼にとっては不条理この上ないことかも知れないが、来た時は『彼』で、帰る時は彼、なのだから、しょうがない、と自分勝手な理由をつけた。
 互いに休日だったので、いつもより随分遅めの朝食になった。
 今まで朝食は、平日休日に限らず、バラバラで、一緒に食べたことは無かった。それだから、夕食は何度も一緒に食べているクセに、また違った雰囲気が、何とも言えず、妙な感じだった。白々とした朝の光が、そこにまるで見慣れない景色を、生み出しているせいかも知れなかった。光というものは、生き物のようだと思う。
 一応、日本家庭の朝食らしく、味噌汁とか卵焼きなんぞを作ってみる。味噌汁は、今時便利な調味料があるので、驚くほど簡単に出来てしまうが、卵焼きはちょっと難関だった。シンプルなものほど、実は難しい。あまり綺麗とは言えないその巻物に苦心していると、着替えた彼がキッチンに入って来た。
「ちょっと待ってて」
 そう言うと、頷いて、ダイニングテーブルの椅子に座った。大人しい子供のように座っている彼は、やがて両手の肘をテーブルにつくと、その手の平を合わせて、鼻を擦るようにしたまま、黙って宙を見つめている。まだ夢から覚めやらぬ人のように、心ここにあらず、という感じだった。焼けた卵を懸命に巻きながら、一体何を思っているのだろう、と思った。
 ようやく朝食の用意が整うと、食卓にそれらを並べた。白い光の中のそれらは、まるでドラマのワンシーンのように、家庭的で素朴な風景だった。
 それを挟んで向かい合う私と彼まで、ドラマのセットのようだった。
「食べよう」
 ごく当たり前の台詞しか出てこない。いや別に、取り立てて気取った台詞を言う必要もないのだが。
 また黙って頷いた彼は、ゆっくりと箸を持つ。ようやく、どこかの世界から戻ってきて、覚醒を始めたようだった。
「昨日、『彼』が部屋へ来て――」
 三口ほど食べたところで、口を開く。彼は味噌汁を飲みながら、こちらを見た。
「でも部屋へ来たのは初めてだったんだけど」
 そう付け加えながら、卵焼きを箸で切る。包丁で切っておけば良かった、と思った。
「随分久し振りに会った。その間、『彼』はずっと眠ってたって、言ってた」
 かいつまんで説明しながら、卵焼きを一切れ口に放り込む。ちょっと甘さが足りなかったかな、と感じた。
 前を見ると、彼も卵焼きを切ったところで、手を止めてこちらを見ている。もう片方の手には、茶碗が握られていた。
「『楽しい』って」
 そう言いながら、左手で、食卓の上を指す。
「あ、醤油、いるならあるから、そこ。眠ってる間も、『楽しい』って、言ってた」
 話がゴチャゴチャになりながら、説明する。
「夢を見たって。トマト味のロールキャベツを食べる夢。あ、海苔、食べるんなら、出すけど」
「いい、別に」
「そうか?」
 今度は、海苔も出そう。早く食べないと、湿気るんだよな、あれ。
「『彼』は――」
 味噌汁の椀を持って、ちょっと中の汁を見つめた。
「――またしばらく、眠るって」
 その汁の表面に、昨夜の『彼』の姿が思い出された。おねえちゃんのこと、おはなしして、そう言った彼の顔が、思い浮かんだ。もうしばらくは、あの無垢な笑みに、会うこともないのだ。夜中に起き出すことも、暗闇の中を徘徊することも、ない。
 汁を見つめていた目を上げると、彼も同じような眼差しを向けていた。それがどういう意味なのかはわからなかったが、私達はその時、確かに何かを共有したのだった。
「――海苔、やっぱり食べようかな」
 やがて口にした彼のその言葉で、私達は、共有した時間を終えて、ようやくまた箸を動かし始めた。
 そして、海苔が新たに、食卓に上ったのだった。

 食器を流し台に運んでいたら、彼が自分の分の食器を持ってやって来た。
「洗うから」
 などと言うので、びっくりしたが、そうこうするうちに、シンクの前に立って洗い始めたので、ちょっと躊躇ってから
「じゃあ、風呂掃除してくる」
 とその場を離れた。
 休日の朝に、風呂掃除をすることに決めていたからだった。
 しばらく風呂掃除をした後、またキッチンへと戻ってくると、彼がリビングのソファに腰掛けて、ガラス越しにベランダの向こうに見える景色に目をやっている。私が入って来たのに気付くと、こちらに目を向けた。
「コーヒー、淹れたから」
 目の前のテーブルには、カップが二つ置かれていた。
 またちょっとびっくりしながら、そちらへと歩み寄る。何故かわからないが、その時に、『彼』に向かって歩いていった時のことを思い出していた。時間も光もあの時のものではなく、そして、彼は『彼』ではないにも関わらず。
 彼の向かい側に腰を下ろすと、「ありがとう」と言ってカップを手に取った。そして一口啜ると、それはとても美味しかった。濃すぎず薄すぎず、丁度いい加減だった。「美味しい」思わずそう口から漏らすと、コーヒーだけは自信があってね、と彼は答えた。なんだ、なら、もっと早くに言ってくれればいいのに、私の作った適当なあのコーヒーを、よく黙って飲んでいたものだ、と思う。
 考えてみれば、彼が何かを作った、そしてそれを私が口にした、というのは、初めてのことだった。
 彼のことは、まだ実は、何も知らないのかもしれない。
 ふと、さっき彼が見ていた方へと視線を移す。
 梅雨の晴れ間の青空が、目に沁みるほどの澄んだ色でそこにあった。いつの間にか季節は移り変わっていて、それだけ時が流れたことを示している。
「雨の後の空って、本当に青いんだ」
「うん」
 彼の同意が自然に聞こえた。今までで、一番自然な会話だった。こんなに短い、何の変哲も構えも飾り気もない、ただの会話。こんな会話をするのに、私達は一体どれだけの時間を費やしたのだろう。
 ただ二人して、それからしばらく、飽かず空ばかり眺めていた。
 呆けたように、どちらとも口を利かず、ただ見ている。
 けれども、ただ見ている、その時間が、苦でもなく何でもなく、当たり前のようにゆったりと過ぎ去っていくのが、今まで味わった事のない、不思議な感覚だった。
 幾ばくかの時が過ぎ去った頃、おもむろに、彼が口を開いた。
「あのさ」
 ゆっくりと、彼に視線を戻す。
「ところで、俺、何で、あそこに寝てたの?」
 途端に、ゆったりだった時間が、急激に早く流れ出す。
「あ」
 そう言ったまま、私の口は固まった。
「――れは、うん、まあ」
 別にやましい言い訳をする必要もないのに、口はそんな言葉を並べ立てる。
「また『奴』が『一緒に寝たい』とでも?」
「いや、あれは、何となく」
 何をそんな馬鹿正直に答えてるんだろう。
「何となく?」
「いや、何となく、てことはないんだけど、何となく」
 最早文章になっていない。
「何となく、で、あんなことに?」
 さっきの穏やかな空気はどこへ行ったんだ。
「へえ」
 彼はまた沁み入るような空へと視線を移す。
「じゃあまたいつか、『何となく』で、そんなことがあったりするわけ?」
 う、と次の言葉に詰まった私を、彼は再びゆっくりと見た。
 さも楽しそうに、見ている。
 ――楽しいんだ
 『彼』の言葉が胸に響いた。
「別に俺は構わないけど、いつでも」
 笑って言ったそんな彼の言葉が果たして本心だったのかどうか、悪戯な梅雨の晴れ間のように、定かではない。


(Stage3 : 終わり)

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